5.城址学園の包囲網 その1
竜胆は廃墟に身を隠しながら、よろよろと町中へと戻った。人の集う場所まで辿り着いて、ようやく一息つく。
だが、ふと見たショーケースに映った自分の姿は、顔と言わず服と言わず粉塵で全身真っ黒だった。のみならず、金と紅の怪しい粉までトッピングされている。周囲の人が目をそらすのも、さもありなん。
だがいい。自分ごとき二の次三の次、猫の容体こそが最優先だ。この子には大きな怪我はなく重篤には見えないが、悪魔の攻撃を受けている以上、予断は許されない。一刻も早く動物病院へ担ぎ込まなければ。幸い、紅門町には馴染みの獣医さんがいる。助けを求めてきた猫の里親探しに、協力してもらったこともある。
しかし、道行く人に獣医の所在を尋ねると、なんと先日の悪魔災害で被災し、行方知れずになっているという。
一瞬途方に暮れた竜胆だが、カバンには消毒液と傷薬が入っていることを思い出した。出奔時に家から持ち出し、ほとんど減っていない。今こそ出番だろう。猫も哺乳類なので、人間に効く傷薬は、だいたい効果が出るはずだ。どうせ今の竜胆の体には効果なんてほとんどない。使い切るぐらい使ってやろう。
河川敷に寄って、川の水でハンカチを浸し、猫の体をきれいに拭いてやる。なかなか粘液が取れないが、それでも時間をかけてゆっくり優しく撫でるようにだ。直接川の水に漬ければ手っ取り早いに違いないが、体温の低下は問題だし、水が苦手な猫は多い。ついでに、竜胆自身の粉塵にまみれた服や髪も、できるだけ洗っておいた。
(あれ……傷がない?)
足が出血していた風に見えたのだが……見間違いだったのか?
(しかし――)
見れば見るほど、奇妙な猫だった。
白毛が多い。顔の下側から胸、足先辺りが特に。もっとも、ここが白い猫はよく見かける。
だが、その上――顔の上側から背中、尻尾の多くの部分が淡いピンク色なのだ。そして縞というか、キジがない。こんな薄めの色合いなら、割と色ムラめいたキジができてもおかしくはないんだが……。そして頭から背中、尻尾にかけて、コバルトブルーから紺色に至る青系のブチ。
ますますおかしい。竜胆はこれまで無数の猫と出会ってきたが、体毛は白と茶と黒の3色、それの濃度違いのバリエーションの猫ばかりだった。それが本来の猫の体毛色のはずだ。今まで見てきた数多の写真集の中でもそうだった。ロシアンブルーだって、ブルーとは付いているが灰色なのだ。
だから、ピンク色も、青色も、通常の猫にはあるまじき色と言える。初見では白猫に色を塗ったのかと勘ぐったが、毛の構造を見た際、どうやらピンク色も青系色も生来の色らしいと分かった。おかげで、なおのこと謎が深まる。
体つきは、シュッと細めだが筋肉もきちんとついていた。顔つきは顎が細めで形も良く、いかにも気品ありげに見える。だからと言って、血統書付きと見る向きはない。そんな人間の決めた基準なんぞに意味はない。全ての猫は可愛いが、その個性に対する評価は人ぞれぞれだ。美醜や気品のあるなしだって同様だが、この猫の容貌は竜胆にとって、畏怖の念を感じるほどに美しいものと感じる。
尻尾は割と長めの方だ。動いている姿を思い出すと、かなり複雑な動きをしていた気がする。
根元まで見た体毛の特徴は短毛種だった。だが、肩や首の後ろなど数か所に、キラキラした異様な長毛が伸びている。普通に歩くと地面についてしまいそうな長さだが、元気な状態なら髭のようにピンと逆立って地面にはつかないような気が、なんとなくした。
更に謎なのは、背中にあった傷痕だった。肩甲骨の辺りから尾の方向へ、ちょうど背骨を挟んで平行に細長い傷がある。まるで――そう、まるで、そこに羽根が生えていたみたいな。
(純粋な猫種じゃあ、ないのかも知れないな……)
猫については大体知っているつもりの竜胆だったが、猫科全般となると心許なくなる。とはいえ、見た目が猫なので、猫と扱わない方はない。猫に見えるのだから猫と扱っても、きっと問題は起こるまい。トラだって豹だって小さいうちは大体猫と同じだ。
年齢は成猫の手前ぐらいか。眼の色も青色ではない。
あと、メスであることも確認しておいた。
「ふぅむ……」
長い時間をかけて洗ってやると、猫は少し元気を取り戻したのか、自分でもぺろぺろと全身を舐め始めた。だが、疲れやすいのか、すぐにぐったりと横になる。
くッ!可愛い!……だが待て、落ち着け。この子は傷ついているんだ!
体調を測ろうと後ろ脚の付け根に手を差し込むと、顔を持ち上げて、「ミャーオ!」と大口を開けて抗議の声を上げてきたので、すぐに止めた。だが、触れた感じ、問題はないように思える。
(即刻、動物病院に連れて行かなくてもいい感じか……)
それでも、できれば検査だけでも受けさせたい。しかし、存在しない所へ連れていくなど不可能だ。
とはいえ、どこかでゆっくり休ませてあげるべきだ。できれば屋根のある、外気から遮断された、暖かな場所に。
避難所は動物禁止だった。そこに確保しておいた寝床は捨てよう。
ならば、少し前に覚悟を決めた、我が家なら?
それにも問題がある。家はここからでは遠すぎる。竜胆が今いる紅門町は市の西側だが、自宅の詩々魅町は東の端だ。バスに乗ろうにも、道の状況がこれでは無事に走っているか。更に言うと、自宅は市営住宅でペット禁止でもある。もっとも、この点は、緊急避難的にこれっぽちも気にしてはいない。
(だったら――翔摩のところに転がり込むか)
教練学校。あそこはたとえ家が近かろうが全寮制だ。場所は、銀葉市コロッセオのすぐ隣。幼いころから繰り返し通った場所なので、迷うことなどありはしない。また、自宅よりも遥かに近い。というか、この河川敷の向こう、川を渡った先に見える旧城址こそがコロッセオだ。橋がないので、かなり遠回りをする必要はあるものの。
(だが、オレの足でたどり着けるだろうか。今のオレの、足で……)
動かない両足首を恨めし気に見やった。
――しかし、腕の中には、すうすうと寝息を上げ始めた猫がいた。
「ふ……何を弱気になっているんだオレは……」
ふわっと天使のような羽根が広がったような気がして、気力を取り戻した彼は口元を小さくゆがめると、大地を踏みしめて立ち上がり、夜明けを旅に出るように悠然と歩き始めていた。
実際には――大病に加え、既に体力を限界まで使い切った彼にとって、数キロにも及ぶ距離を歩くのは著しい苦行ではあった。その証拠に、時折彼は息を荒げて壁にもたれては気を失い、靴紐を確かめると自分に言い聞かせて座り込んでは意識を喪失し、場合によっては立ったまま人事不覚に陥った。だが、その僅かの休息ののち、手の中を覗き込み、あるいは手の中の温もりを感じるうちにふつふつとエネルギーを取り戻し、炎のように立ち上がった。傍から見ると、その様はさながら幽鬼のようではあったが、おそらく幸せでもあったのだろう。
過去から逃れ、未来を断ち切られた1人の少年にとって、たった今の手の中の温もりこそが、唯一無二の希望だったのだから。
そうして――休み休み、まるで無間地獄のような道程を超え、あるいは手の中の天国を感じながら歩き続けた竜胆は、足場の悪い市街地を抜け、紅門町と蛇ノ目町を繋ぐ狗尾大橋を夕日を浴びながら渡り切り、北上して、日の沈む頃合い――ようやく城址の石垣を間近にしていた。
音切城址――江戸時代、ここは藩主が居城として住まわった城らしい。明治の御代ののち、佐幕派だった最終藩主が維新軍と激しい戦いを繰り広げて遂に討ち死にし、一族諸共皆殺しにされて、その城は破壊と破滅の憂き目にあったという。
藩主の血族は、残忍性と荒淫を好む、悪魔と見紛う性根の異常者ぞろいであったらしい――というのは、負けた側について回る悪評に過ぎないのかも知れないが、伝説上では不思議な力を併せ持ち、街の守り神であった神職と、光と闇との丁々発止の戦いを繰り広げた、というのはやり過ぎの感が否めない。とはいえ、滅んでしまえば証拠はないし、味付けが派手であればあるほど昔話に花がある、町興しにも使える、みたいな見方もありといえばありだろう。
ただ、今だに街の古いところでは、『迂闊に音切の名を侮辱すると、祟りがある』みたいな風評も少なからずあって、あまり有効活用はできていない様子だった。城跡に基地を作る以上の侮辱もないような気もするが。
あの最終藩主『音切ゲンマ』の呪われた幻想から街が自由になるためには、もうしばらくの時間がかかるのかもしれない。
とはいえ、伝説もやはり話半分で、先程の大橋についた狗尾の名は、最終藩主が直接率いていた鉄砲隊の長の名前らしい。今の市長の苗字は同じ狗尾なので、子孫の可能性がある。藩主が真に凶悪だったのなら、忠実な部下の名が持て囃されたりしないだろう。
城の建物は戊辰戦争でかなりが破壊されたのち、在城処分で陸軍基地となり、地域の備蓄基地と変わり、世界大戦の後は自然公園となって、今の姿へと至る。江戸の面影を残しているのは、立派な水堀付きの石垣だけだ。
アビスへ通じる穴は、ちょうど藩主の屋敷の場所に開いたらしい。そのことは、どことなく戦死した藩主の怨念がなせる業のような気がした。とはいえ、大元が城跡だっただけにコロッセオも建造しやすかった側面もある。考えようによっては、ありがたい話だったのかもしれない。
「……」
水堀を渡る橋――ただし、基地に作り替えられたころに橋の真下だけを埋め立て、実質道になっている――を前にして、竜胆は少し気後れした。他に渡る者は誰もいない。橋のたもとには、左右に無骨なトーチカが並んでいて、夕闇に落ちたこの時刻では、トーチカの奥に化け物が伏せているような、あるいはトーチカ自身が化け物であるかのような感があった。
――子供の頃はこの辺りでよく遊んでいたが、こんなに怖い雰囲気の場所だっただろうか?
仰ぎ見ると、橋を越えた先、右側には無骨な基地が照明に照らされ、正面の高台にはコロッセオが夜闇のような黒い影に落ちている。教練学校は、橋を渡って左側にあり、そちらは普通の学校然としているようだ。基地に比べて照明は少ないが、学校を覆う石垣上のフェンスが、光に照らされ緑色に輝いていた。
バリバリバリ、と風圧を感じて見上げると、なんとかいう丸っこいヘリが基地に着陸するところだった。昼間に飛んでいたのは、粉塵を監視し、新しい『出現孔』に急行するためだったのだろう。竜胆の知っている限り、索敵粉塵は回覧板を回して時刻を警告されるものだったが、被災地に連絡が行き渡らないのは仕方がない。実施前にサイレンを鳴らせばいいのではと竜胆は思っていたが、それを聞いた悪魔が穴を隠してしまうという意見で禁止されているらしい。そんな馬鹿なとは以前には思ったことがあるものの、声を発する巨大ナメクジを見たあとでは、あながち間違いとも言い切れなかった。
もう一度竜胆は橋を眺め見た。厳密に言えば、この橋は立ち入り禁止ではない。橋を渡った大手門跡を超えたぐらいまでは自由なのだ。その先は関係者以外は入り込めないが――
ん?誰か走ってくるぞ?
「リンドー!」
橋を渡って誰かが手を振って駆け寄ってきた。翔摩だ。橋の向こうで待っててくれたのか?
「遅かったな!きっとここに来るって待ってたんだぜ……」
と笑顔を見せた親友が、徐々に真顔になった。指先を竜胆の手の中に向ける。
「……どうしたんだ?その猫?生きてるのか?」
「生きてるよ!……うん、まあ、ちょっと拾って……」
「……。そうか」
最初の沈黙には、『学校の寮なんてペット禁止に決まってるじゃないか!』みたいな思いが渦巻いていたが、あっさり黙って頷いてくれた。それを言えば、猫を連れてどこかに行ってしまうと分っているのだろう。
ブランクがあるとはいえ、付き合いは長いからな。
「ま、隠せばいいか。鳴かない?」
「分からん。抱いて温めてたら、安心して朝まで寝てくれるような気もするけど」
二人で橋を渡って大手門跡を過ぎ、広い緩やかな傾斜を上り始めた。
「ちょっと待ってくれ。もっとゆっくり歩いていいか?」
「すまん、……顔色かなり悪いじゃねーか。猫を代わりに抱いてやるから」
「いや、離さない」
とかやり取りしているうちに、なんとか坂を上り切り、二の丸にたどり着いた。石垣の下からでは見えなかったが、右の金網の先は軍用車両の駐車場になっており、基地の建物は更に先にある。軍事基地としては無防備な気がするが、場合によっては街にも展開する部隊基地なら、これで正しいのだろうか。
真正面を横に伸びる石垣の先には、コロッセオの巨大な黒い形がくろぐろと聳えていた。
左側には、照明に照らされた教練学校の門がある。こんな時間だが、門扉は開いているようだ。
「また失踪するんじゃないかって気がかりだったんだ」
笑顔で肩を支えてくれるのを、竜胆はわざとらしく笑って見せた。「そんなことはもうしないよ、家に帰るんだからな」
「そうだな……ただ」翔摩の顔が曇る。「何度か、リンドーんちに電話をかけたんだが留守なんだ。詩々魅町の辺りは被害はないんだが……」
「ああ」安心させるように竜胆は笑いかけた。「昨夜、町に帰った時に妹も母も無事なのを確認した。今日は、きっと仕事で遅いんだと思う」
「今日は土曜だろ?そっか……お前んとこの母親、看護師だったっけ」
昨今のこの状況では、通常以上にシフトに入らないといけないだろう。妹は――母親と同じくボランティアをしてそうだし、あるいは翔摩の話にあったとおり、竜胆を探しに出かけているのかもしれない。
「今日は寮で休んだらいいさ。俺は4人部屋だが、今一人なんだ。同室者が2人いたんだがさっそく辞めてな」
「まだ1学期始まったばかりなのに?……っていうか、オレ部外者だろ?寮に入ったらまずいよな」
「いけるいける、寮母さんに分からないように入り込むルートがあるんだ。入っちまったらこっちのものさ」
「おいおい……」とか言いながら、ありがたいと感じていた。家の敷地は、やっぱり高かったのだ。
「おい……あれって門番か?」
思わず竜胆は傍らを歩く翔摩に問いかけていた。彼は胸に抱く猫を誰にも見咎められないよう、親友の背に寄りそうに歩いている。
「門番って……普通、守衛と言わねーか?」
竜胆の顎で指し示す先には、正門の照明の下で、巨大な人影が逆光気味に佇んでいた。
見るからに威圧感のある、大きな姿だった。身長は2メートル以上はあるだろう。身長ばかりか肩幅も広く、腕や足も含め全体的にがっしりしすぎている。
だが威圧感の理由は、その格好にあった。巨大な手袋に巨大な長靴、襟にファーのついたポケットの覆い作業着を見る限り、いうなれば北方陸軍の戦車兵の装いだ。頭の頭巾も防寒戦車帽っぽい。そして、顔面には蠅の頭部を思わせる、直結式のガスマスク。顔中をきっちりとマスクで覆い、目の場所に2か所の丸いレンズが嵌め込まれていて、視線の動きがまるで見えない。そもそも全身、肌の露出が一切ない。
手に握っているのは銃剣付きの長銃だった。体の大きさに比してミニチュアみたいに思えてしまうが、20センチにも及ぶ切っ先の牛蒡剣が、照明に照り映えてぬらぬらと輝いているように見えている。あれは絶対誰かを刺したことがあるだろうと思えてくるのは、妄想だろうか?
そんな姿なので、門の端に居るのに、立ち塞がっているような圧迫感があった。微動だにしないのも更に不気味だ。
「あの人は蘆立さん、って言うんだ」首を傾げて翔摩は小声で応えてくれた。
「そんな普通の人間っぽい名前が似つかわしくないんだけど……」
「失礼なことを言うなよ」翔摩がたしなめる。「ああ見えて親切だし、丁寧だし、穏やかでいい人なんだぜ。具合の悪い人を見つけて、そこの――門の横の事務所に寝かせて、保健の先生を呼んでくれたりしたんだ。抗議団体に石をぶつけられても、まるきり気にも留めてなかったし」
「へぇ」
「でも、うっかり生徒に石を当ててしまった暴徒の足首を掴んで、地面に叩きつけてたな」
「そいつ死んだんじゃね?」
兵士を掻き集める教練学校の制度は批判も多いと聞いている。一部は過激な組織もあるらしいが、よくぞこれほどのジャイアントに石を投げようという気になったものだ。
「で、いきり立って襲ってきた残りの暴徒どもをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「ほう……」竜胆は真顔で返事した。そんな人の守る門に、部外者が侵入しようとしているとバレたら……。とはいえ、暗がりだし、ガスマスクのレンズは見えにくそうだ。正体が早々バレるとは考えにくい。
「それに、観察眼も鋭いんだぜ。武器とか隠し持ってたら速攻でバレる」
「無茶苦茶鋭いじゃないか!そんな人を騙して黙って通っていいのかっ?」
「だ~いじょうぶだって~!」
「それはお前が学生だからだろ?」
だが、元々体力が限界にあった竜胆は、せいぜい顔を伏せて疲れたふりをするしかなかった。猫ももちろん気になるが、今は何というか、一刻も早く横になりたい。そこの守衛ボックスみたいなところでもいい。
「あ、遅くなってすみませ~ん」翔摩は平然と声をかけた。「ボランティアに熱中しちゃって。早く帰らなくちゃと思ってたんですが。こいつも疲れ切っちゃって……」
翔摩がぺこぺこ頭を下げると、蘆立さんとやらは、しばしの沈黙の後、ゆったりと頭を下げて声をかけてくれた。
『お疲れさまでした』
人工音声だった。ボイスチェンジャーだろうか。そろっと上目づかいに顔を見上げると、ガスマスクのレンズには色がついていた。照明があるにせよ、暗がりを見通せそうにない。すごくロボットめいている奴だ。
『……』
なんだか、竜胆をじっと見降ろしているような気がして、生きた心地がしなかった。何とも言えぬ圧迫感。すぐに洗いざらいぶちまけてしまいたい異様な迫力……。
だが実際は――足を止めることもなく、数秒で門番の前を通り過ぎていた。翔摩が十分支えてくれていたおかげで、足を引きずることもなく、見た目はそう変ではなかったはずだ。翔摩も私服だったので、区別もつくまい。守衛なら、生徒の名前だって把握してはいないだろう。
ただ、竜胆は気づかなかったが、一瞬だけ――手の中の猫が小さく目を開き、警戒するように巨体を見つめ、通り過ぎてしまうと再び目を閉じた。
通り過ぎてから――
『……2人は寮に?』
人工音声だけが、さざ波のように追ってきた。
「あ、はい。部屋で一休みしてから夕食に出ようかなって思います」
明るく装って翔摩は振り返ったが、『蘆立さん』は門の外を向いたままだった。
だが、なぜか竜胆はまとわりつくような視線を感じた。
結局、それ以上声を掛けられることはなく、翔摩はおためごかしに会釈すると、竜胆を連れて寮へと向かった。
かなり離れてもう一度振り返っても、『蘆立さん』は微動だにせず、照明の下でくろぐろと影を落として立ち尽くしたままだった。一見、こちらに無関心な様子に思われた。
――だから、最初に2人が揃って校門へ姿を現した時、その巨体の胸の辺りで、こんな声が囁かれていたことなど知る由もなかったのだ――。
「アイカ様……ご連絡にあった、悪魔と戦った少年と特徴の合致する人物を発見いたしました。……いえ、噂話ではなく、本人が直接……はい、1-Dクラスの更科翔摩さまに連れられて校門に向かってきております。年恰好も衣類もお聞きしていた通り……小動物を抱いているとのお話でしたが、猫のようです。顔色が悪く、かなり具合が悪い風に見えます。……第一次結界における感染症センサー、魔力センサーにも反応はありません。留置小屋に誘導致しましょうか?
……判りました。では、そのままお通しします……紫露様へ、ご一報を。通り過ぎましたら、改めてご報告いたします」
――不思議なことに、巨体の胸の奥の奥で小さく囁かれたその声は、人工音声などではなく、可愛らしい、幼い女の子の声なのだった。
長年、介護業界で仕事を続けていると、お年寄りからお聞きした膨大なまでの個人情報が蓄積していきます。その中でも、いつしか大きく心を捉えられるようになってきたのは、重い重い従軍体験でした。
これまで戦争経験を話してくれた方々は、100人、とはいかないまでも何十人とおられます。
例えば、南京攻略戦に参加された方や、南方帰りの方々、一式戦隼パイロット(ラノベ主人公か!と見紛うぐらい、物凄い超絶スペックの方でしたが、惜しいことに昨年亡くなられました。その方の名前をググると、偉業に感嘆する声がたくさん出てきます)や、世にも珍しい生き残った潜水艦乗り(存命。艦は五島列島沖に)、他、軽爆撃機を作っていた方、海軍、陸軍、空襲を逃げまとい、油脂焼夷弾に肌を焼かれて砂嚢の砂で消した痕のある女性、キラキラと美しくもおぞましいB29をなすすべもなく眺めていた当時の学生だった方、機銃掃射で逃げまとった方(うっかり白い服を着ていた友人を狙った攻撃に巻き込まれた)などなど、……中には、エッ、ホントッ?みたいな話もあれば、亡国主義の方々が喜びそうな蛮行も耳にしたりしましたが、『せっかくだし、聞いた話を使ってみようかな』と思ったのが、この話の骨子のひとつでもあります。
今日も、北支で従軍していた〇(漢字1文字)部隊、〇〇〇〇(数字4文字)部隊の方から、機関銃や擲弾筒の話をお聞きしました。
1.のほうに、『人間の運命ははクジ引きだ』と考えるキャラクターがでてきましたが、それはニューギニア(だったか、インドネシアだったか?)に従軍して帰ってきた元兵士の方の口癖でした。マラリアで体重が20㎏台まで減り、生きて帰ってこれたのが自分でも不思議なぐらいともおっしゃっていました。その方からは、『どんなに強くても頭が良くても偉くてもそうでなくても、関係なしに人は死ぬ。人間はクジ引きなんやで』という話を、たぶん100回以上は聞いたと思います。
ただ……その方、小柄な方でもありますし、弱い自分が生き残ったのはたまたまだ、と言いたかったのかもしれませんが……100歳になっても健康で、自分のことは何でもでき、認知症も一切なかったことから鑑みると、実はスーパースペックだから生き残れたのでは?と勘ぐってしまいます。もっとも、この世の地獄に投げ落とされ、人としての限界を乗り越えざるを得なかったが故のこのスペックと考えられない事もないですが……。
夜中に突然飛び起き、『ババババババ!』と甲高い声で叫び出す方もおりました。同じく南方で、米軍の鉄の暴風に晒され続け、銃痕も体に残していた方でした。とんでもないトラウマになっていたのだと思います。