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4.巨大ナメクジと瀕死の猫


 前述のとおり、地球のはるか奥底には、『地獄(アビス)』が存在するらしい。

 比喩的な概念ではなく、膨大な魔力と熱量、なによりも生あるものへの悪意に満ちた、人類の脅威たる『悪魔』の住まう世界とされ、奴らが本来の領域を離れ、地表へと姿を現した時に惨劇は無惨に開幕となる。人とは隔絶した異形の魔物たる『悪魔』との戦いこそが、人類の歴史を彩ってきたと言われるゆえんだ。

 地獄と地表を結ぶ『出現孔(キャザム)』は膨大に余りあり、人類に知られているだけでも全世界で62万以上。内部は、地獄から延々と続くアリの巣のような立体複合――いわば迷宮構造をしており、地獄への逆侵攻をかける試みは単独、少数、軍団をもってしても失敗し続け、地獄まで到達して帰ってきた者は歴史上皆無であるらしい。

 『出現孔(キャザム)』を塞ぐ試みもされてきた。開いた穴を堅固に塗り固め、重量を置き、塞ぎきろうとした。

 だが、結果は大して変わらない。内壁は人類の現代科学力ですら、かすり傷ひとつつけるのに途方もないエネルギーを要する。だが、『悪魔』は穴を開けることが可能ではあるらしい。つまり、メインの穴があればそこから出入りする習性があるというだけで、そこを塞いでしまえば、別の場所に穴を開けて出てくるだけなのだ。

 現代日本では、およそ『出現孔(キャザム)』一つを中心に市が再統合され、市警軍と言うべき郷土警備隊レルムガードが、コロッセオと呼ぶドーナツ状要塞で穴をぐるりと覆って厳重に管理している。しかし先日、銀葉市を襲った『悪魔』は銀葉市のコロッセオを経由はしなかった。他所のコロッセオからやってきたとニュースは語るが、それがバレないわけがない。多くの人は気づいているのだ。きっと、警戒区域外から地面を割って出てきたのだろうと。

 今回のY242号悪魔災害の被害で、圧倒的に死者が多いのは、その『悪魔』が即死性の毒液を町中で吐きまくった所為らしい。

 そして、当の襲撃した『悪魔』は退治されることなく姿を消したという。そいつが空けたらしい穴は今もって発見されていない。元の穴を辿ってアビスに戻ったのではないかと避難所で噂されていたのを、竜胆は出かけ間際に聞いていた。

「みんな逃げろ~ッ!」

 ――誰かの掛け声で、町中が一斉に動いていた。粉塵がまるで脅威そのものであるかのように、商店街の人々はこけつまろびつ逃げ去っていく。

 あそこには未発見の『出現孔(キャザム)』が口を開けている。誰が開けたかって?分かり切ってる。『悪魔』だ。それも、軍隊が倒しきらぬ凶悪な『大悪魔』が再襲撃を掛けてきた可能性が大なのだ。

「逃げよう!」

 と翔摩は、竜胆に肩を貸して立ち上がらせた。

 だが、通りにはお年寄りが多く、中には荷物を持って這うように歩いている人もいた。いずれも助けを必要とする人たちだ。

「オレのことはいいから、みんなを助けてやれ。ボランティアで来たんじゃないのか?」

「何カッコつけてるんだよ。ガラにもないことは止めろ」翔摩は聞く耳を持たない。

「いや、オレは今まで一人で何とかしてきたし、ほら」

 割れた道路を、車椅子で立ち往生する人がいた。手助けする人は多いが、手助けを必要とする人もまた多い。

「行け、オレは一人で逃げられる」一人で立ち上がり、竜胆は両手を広げて見せた。

「……絶対に逃げろよ!はぐれたら教練学校の寮に来い」切羽詰まった顔で翔摩が睨んだ。

「ああ、分かった」

「猫を見かけても付いていくなよ!」

「……」

「返事しろよ!」

 だが、悠長に構えている余裕はない。翔摩は振り返りながらも走り出していた。

 もちろん、竜胆も逃げる気持ちに変わりはない。目標ができたのだ。家に、懐かしい我が家に帰らなくてはならないのだ。

(……死亡フラグ?)

 どうでもいい単語が胸を去来したが、彼は頭を振り払った。今はとにかく逃げるだけだ。空想では悪魔と戦ってきたが、本当に戦うのは現実的じゃない。第一、銃もなく――

(いや、爆弾はあるが……)リュックの中の重みを心地よく感じたが、それで戦う妄想は、今は内心焦りのためか明確に形になってはくれない。

 だが、人々の流れの向こう――粉塵の上がった場所に程近い、建物と建物との隙間の先に、ふと何か――『おぞましいもの』が動いているのが見えて、彼は凍り付いた。

(悪魔……?)

 誰も気づいていない。しかし――確かに見えたのだ。問答無用に実感させられる恐怖。一瞥しただけで心臓が鷲掴みにされるような、冒涜的な化け物の姿を!

 だが、恐怖の氷は寸時に砕け散っていた。なんとして――その『おぞましいもの』に追われて傍の建物に逃げ込んだのは――1匹の猫だったのだから!

「猫が!」


「――リンドー?」

 老婆を背負っていた翔摩は、親友の声が聞こえた気がして人々の流れを振り返った。知らない顔ばかりだ。

 流れの先を振り返る。親友の姿はない。

「竜胆!」

 見失っているだけか?もう先に行ったのか?もしかして、体調を悪くして動けなくなったんじゃないだろうな。

 くそ!だが、ここで引き返すわけにもいかない。


 翔摩の警告など欠片も残さず消し飛ばし、ほんのわずかの躊躇もなく廃墟街に入り込んだ竜胆は、汚れと緑のツタとで覆われた2階建てアパートの前で足を止めた。

(ここに猫が逃げ込んだよな……)

 築何十年と経っていそうな木造建築だ。様式もやはり随分と古い。印象で言うと、災害前から既に無人だったと勘繰ってしまう外見だ。実際、近づいてみると入り口は太いチェーンで施錠されていた。それ自体が古い看板には『立ち入り禁止』の文字が薄くなっている。無人になって、どれほどの年月が経つ物件なのか。

 なのに、建物のどこかから、暴れるような物音が聞こえる。

 噴き出ていた金と赤の探知煙はとっくに途絶えていたが、十メートルほど先の廃屋にびっしりと粉塵が付着していた。新たな『出現孔(キャザム)』はどうやらそこにあるらしい。

 粉塵の家屋からは、ぬめぬめとした粘液の痕跡が続いていた。じっと目で追うと、アパートを囲む柵を破壊し、壁すら破って建物の奥まで続いている。痕跡はナメクジのものを思わせたが、幅はずっと広い。およそ一メートル近くもあるだろうか。

「……」

 竜胆は病気の所為ばかりでなく、不安に軋む胸を撫で治めると、破砕された柵をまたぎ越してアパートの中に足を踏み入れた。

 不安を無意識に誤魔化したいためか、あれは悪魔では無かったかも知れない、と彼は思い始めた。襲撃を掛けた悪魔は、詳しい姿は聞くのを忘れたが、かなり巨大なものだったらしい。だが、竜胆が垣間見たものは、せいぜい大型の牛か、それくらいの大きさだ。なんとなく、オットセイが思い浮かんだ。そんな感じだ。オットセイに追われる猫、か。それなら、まだいくらか恐怖は薄れる。

 思えば、そこの『出現孔(キャザム)』が開いた時期は明らかではない。前回の粉塵探査がいつなのかは知らないが、もう何日も前に開いた穴だったかもしれない。Y242号もきっと地獄に帰ってしまっただろう。なにしろ、この辺りはずっと以前から無人区画だったし、人間を殺さないと、悪魔は存在できないとニュースでは――

 ガタンッ!と近いところで物音がし、竜胆は飛び上がった。すぐ目の前の部屋だ。びくびくしながら、扉が倒れた玄関から彼はそっと中をのぞく。

 息を呑んだ。

 ――巨大ナメクジ。そうとしか言えない全長3メートルもありそうなそれが、部屋の奥でぬたぬたと暴れている。

 体高は1メートル半ほどか。4つの触角――小さな一対と大きな一対――が頭部についているのも同じだ。だが、大きな触角の先端についている眼が、人間のように白目と黒目があって血走っている。――いや、これまで本物のナメクジと顔を突き合わせて子細に観察したことが無かったから、この化け物の目が異常かどうかの判断はつかない。だが、トータル的に見てまともな生き物ではないことは確かだ。この巨大な軟体を、形として維持できるはずがないのだ。

 そして、その眼前には――

「ああッ!」思わず声が出た。

 不思議な色の猫――白色とピンク、そして青系のブチを滲ませた、見たことの無いような色合いの猫が、巨大ナメクジに追い詰められているのだった。必死に前脚を振り上げ、牙を剥いて威嚇している。猫の機敏さでナメクジから逃げきれないのは奇妙に思えたが、猫の全身はすでに粘液に覆われ、体中が毛羽立っていた。両方の後ろ脚も血が滲んでいるようだ。あれでは敏捷性は期待できないだろう。

「……」

 竜胆は怯えが徐々に引いていくのを感じた。代わって、猛然とした怒りが湧いてくる。

 ――誰かのために死んで見せたい、できれば助かった人にずっと悼んで欲しいと願う彼だが、無条件に誰もを助けたいわけではなかった。一番助けたいと思うのは、不幸な人々だ。そして子供や老人と言った弱い立場の人間。

 逆に、助けたくないのは幸せそうな奴らだ。イチャラブしているリア充が危難に襲われていたら、うっかりと自爆に巻き込んでも恨むなよ、などと言い放つ妄想をしたことがある。

 そんな選別基準はあったが、猫は別だった。そう、猫は別だ。とにかく猫は別格なのだ!全力で命を懸けて助けるに値する生き物だ!

 病気とも不安とも違う衝動に心臓を震わせながら、彼はゴソゴソとカバンの中を探って望みの物を取り出した。袋に入れた円柱型の手榴弾。表面には格子状にへこみがあり、上と下に出っ張りがあって、一方に安全ピンと思われるものがついている。

 投げつけたらあのナメクジを倒せるだろうか?と彼は考えた。投擲には自信がある。

 しかし、順当に爆発すると猫を巻き込んでしまいそうだ。

(う~む)

 猫を巻き込むのはまずい。とはいえ、考えている時間はない。

 いや待て、相手はナメクジだ。だったらいい方法があるじゃないか。

 竜胆は自制心を総動員してそろそろと後ずさると、今の体力での限界速度で、無人になった商店街に取って返した。

 入ったのは食品関係の雑貨屋だ。そこでビニール袋詰め一キロの塩を二つ持ち出し、値札がなかったので財布からなけなしの千円札を二枚置いた。本当を言うともっと欲しかったが、三キロ以上のウェイトをかかえて移動するのは、今の竜胆にはもうキツい。

 ――ナメクジは塩に弱い。塩を浴びると溶けると言われるほどだ。実際には溶けるのではなく、浸透圧で体の水分が抜けるだけらしいのだが、おそらく致命的な効果を発揮するはずだ。

 気がかりはあった。猫の危難を目にして完全完璧に失念していたが、あのナメクジは『悪魔』の一種に違いない。そして『悪魔』は、たとえザコであろうとも異様な耐久能力がある。

(物理的なダメージをかなり無効にしてしまう、とも書いてたな……)

 一方、弱点を突くのは有効だということも知られている。ナメクジの悪魔ならば、少なくとも塩で死ぬほど悶え苦しんでくれるはずだ。せめてそう思おう!

 アパートのその部屋にそっと戻ると、猫とナメクジの姿がなく、彼はしばし手遅れ感に肝が冷えた。何か動きを感じて振り返ったが、ツタが揺らいでいるだけだった。硬直した心持ちで部屋に足を踏み入れると、奥の壁をぶち破って粘液の痕跡が続いている。

 壁は壊されたばかりのようだ。柱もがっしりしているのに、あっけなく粉砕されている。

 ――今更ながら恐怖が浮いた。

 叔父から聞いた悪魔の話を思い出す。触手でチーターよりも速く走り、銛のような腕はコンクリの壁を簡単にぶち抜く。銃を撃たれてもほとんど傷つかず、人間を殺すのにまるで容赦がない。

 ――なんで自分はここにいるんだろう、と竜胆は不意に我に返った。こんな死にかけた人間が一人で悪魔に立ち向かってみたところで、何の意味もない。きっと無駄死にするだけだ。せっかく、家に帰ろうと、家族の元に戻ろうと決意したのだ。大人しくここは逃げるのが懸命だろう……。

 その時、壁の向こうから、「みゃぁぁぁぁ~~~……」と、か細い猫の声が聞こえた。まるで、助けを呼んでいるような――

「今行くぞ!」

 瓦礫の山もなんのその、竜胆は両手を振った全力ダッシュで壁の大穴に飛び込んだ。

 穴は隣もその隣の壁をもぶち抜いていたが、そこで行き止まりだった。だが粘液痕を目で辿ると、天井に開いた穴へ壁伝いに続いている。なるほど、2階に上がったのか!

「待っていろ!猫ちゃん!オレが助けてやる!」

 かすれ声を振り絞って出来るだけの大声を上げると、竜胆は部屋の外に取って返し、階上に上がろうとした。そこで胸が押しつぶされたような猛烈な激痛に膝をついた。呼吸ができない……。

 「く、くじけて……」不動明王がごとく憤怒の表情を顔面に張り付かせ、彼は平手で自分の胸を全力で叩いた。

「くじけてたまるかああああッッッ!」ずきん、どころか、ズガンッ!みたいな激痛が全身を駆け巡るが、おかげで、くわッと目が覚めた。

「許せん、悪魔め……!」

 竜胆は膝をついてゆらゆらと立ち上がった。「……絶対に許すものか!」

 あの巨大ナメクジの野郎、竜胆に対して害意や悪意を持つどころか、存在にすらそもそも気付いていないだろうが、そんなことは関係ない。

(奴は、猫を傷つけた!)

 それだけで十分なのだ!

 彼は動かない足首なんぞ気にも留めず、素早い昆虫のような動きで階段を這い上ると、ここだと当たりをつけて扉を開けた。

 ビンゴだ!ちょうどそこには巨大ナメクジが――!

「うッ!」

 猫にのしかかって大きな口を開けていた!きわどい!

 興奮にアドレナリンをみなぎらせた竜胆は足音も高く室内に足を踏み入れると、塩袋を一つ裂き、躊躇なくナメクジに投げつけた。

 竜胆は投擲が得意だ。妹も、亡くなった姉もそうだったので遺伝的な素質かも知れない。今回もあやまたず、想定通りにまっすぐナメクジの頭部に向けて塩の塊が飛んで行った。

 誤算だったのは、塩の管理が悪かったらしく、散らばらずに塊のまま飛んでいったことだ。

 ただ、湿って固まった塩は実に鈍器だった。散らばらせたつもりの塩の塊が一直線にナメクジの顔面にぶち当たり、開いた口腔に飛び込んで砕け散る。

[~~~~~~~!]

 声にならぬ叫びを上げてナメクジは身をくねらせ始めた。よし!思った展開とはちょっと違うがチャンスだ!

 竜胆はもう一袋の封を切ると、ずんずんと怒りに溢れて前進し、「ふんぬッ!」と真正面から塩鈍器をナメクジの目玉と目玉の間に真上から叩きつけた。

 塩を砕きながら、ぶにょん、とV字にへこむナメクジの頭部。だがまだまだ!

 敵を倒すには、的確に弱点を責めねばならない。古今東西、狩りでも決闘でも城攻めでもそうだ。そしてお前の弱点は――ここだ~ッ!

 竜胆は落ちてくる塩を両手で受けると、「おりゃ~~~!」そのままびっくりしている目玉を両手で鷲掴んだ。

[ほぎゃ~~~~!]

 ビクンビクンと悶えるナメクジ。甲高い声を出したことにちょっとびっくりしたが、気にせず両指に力を込めてひねりあげる。動かないはずの右手がしっかりと動いたことを、奇妙にすら思わない!

 たまらずナメクジは横倒しになり、眼球を手放した竜胆は、ぐったりと倒れる猫をすくい上げるように抱えると、飛ぶように屋外へと走り出た。

[ぬオ~~~~ゥッッ!]

 バキバキと屋内のものを壊してナメクジが追いかけてくる。やっぱりそうなるよな!だが、様相が変わり始めていることに竜胆は振り向いて気が付いた。

(むうッ!なんだあの目はッ?)

 目の色が紫色に変わっている!いったいどのような呪われた力がそのような現象を引き起こすかと考えると、彼は慄然とした。

 だが、最も大きな変化は、ナメクジの体躯が徐々に大きくなり始めていることだった。なるほど、大きさを変えられる悪魔らしい!猫を追い詰める為に小さくなっていたのだろうか。

 今度こそ手榴弾の出番だ――と、竜胆は英雄的な気持ちでそれを取り出した。

 片手で抱えていた猫をそっと廊下に下ろす。薄目を開けて仰ぎ見る、傷ついた猫。

(良かった……。ぜひオレの雄姿を瞼に刻み付けてほしい……!)

 内心でそう独り言ちると、彼はナメクジに向き直った。

(……いくぞ!)

 ますます大きくなり、猛り狂ってあちこちを破砕しつつ頭を振るって近づいてくる悪魔ナメクジ。

 それを不思議と冷静な気持ちで待ち構えながら、目の前に抱えた手榴弾の安全ピンを引き抜こうとして――すでに抜けていることに気付いて目が寄った。

「ンンッ?」

 唖然と口を開けて、手榴弾とナメクジを交互に見やる。くそッ!

 何度もためらいながら、そのまま彼は手榴弾を投げつけた。作動して3秒くらいで爆発する、とどこかで読んだ覚えがあるが、カバンから取り出した時にピンが抜けたとすると――いや、間違いなく3秒以上は経っているだろう。だったら不発弾か?それとも……まさかおもちゃだったりッ?

 動揺しながらも、手榴弾はあやまたずナメクジへと一直線に飛んでいった。才能のなせる業だ。

 だが、それを――

[フんッ!]

 ナメクジは突き出た右眼球を気合を込めて真下に振るって、手榴弾を床へと弾き飛ばした。ガツッ!と跳ね返り、竜胆の足元へと転がってくる手榴弾。

「うお~~ッ!危ねェェェ~~ッ!」

 慌てて拾い上げた。いや、おもちゃだったら慌てることなんて全然――

 と思ったら、手榴弾のでっぱりの穴から火花が噴き出していて、彼はびっくりして取り落とした。慌てて拾い上げる。おもちゃじゃないッ?

 ――実は、これは擲弾筒と呼ばれる携帯式迫撃砲にも使える榴弾で、信管作動までほぼ7秒、その信管も射出の勢いか、でっぱり部分に強い打撃が無いと作動しない――などと言う事に、この時の竜胆には気づけない。

 ハッと見ると、ナメクジは右眼球を左眼球で押さえて、[オオオ~~]と呻いていた。どうやら爆弾をはじいて痛かったようだ。

 竜胆は手榴弾を持ち直した。今度こそ爆発するという直感がある。彼は震える手で握りしめ、呻くナメクジへ向かって慎重に放り投げた。

 そして爆発に備えて廊下に這い出ると、猫の上に覆いかぶさった。

 ぎょっと猫が目を見開くが、構やしない。

 ――どごオオオッッッ!

 大爆発を起こして建物が揺れ、粉塵が廊下や屋根を突き抜けて空へと噴き上がる。アパートが音を立ててきしみ始め、いろいろなものが落下する音が響き始める。

「げほッ!ぐッ!」

 粉塵で肺が詰まったが、それどころではない!足元で床が傾き始め、竜胆は猫を抱えたまま階段を駆け下りた。

 足元で、みしッ!ぎしッ!と破滅的な音がし、ガランゴロンと何かが崩れ落ちる音がこだまする。地獄が呻るような音が周囲一帯を覆うように響き、屋根瓦がざざざ~ッとなだれ落ちていく。

 心臓が破裂しそうなほど痛んだ。だが、立ち止まればたぶん死ぬ!逃げ続けるしかない!

 そうやって、最後は転げ落ちるようにして階段を必死に降り切った竜胆の真後ろで――

 ガザァァァ!と驟雨のような音を立ててアパートが崩れ落ちていた。まるで何かのセットだったかのように。

 もうもうと粉塵が立ち込め、肺を痛める恐怖に丸まり、そのお腹に猫を庇って、じっと竜胆は耐えた。

 もし誰かが隠れ住んでいたら――と不意に思い至ったが、施錠されていたし、それはないか……。

 やがて、鳴り響くような轟音が収まり、彼はほっと一息ついた。

 だが、瓦礫の中からミシミシと異音が響き、さっと血が凍った。

 あのナメクジは――まだ生きている!

 トドメを刺したい衝動に一瞬駆られたが、爆弾を使ってしまった今では決定力不足だ。

 誰かから、何が大事か考えろ!と言われた記憶が不意によみがえった。あれは誰の言葉だったが――そう、大事なのは、本当に大事なのは決まり切っている――傷ついたこの猫だ!悪魔と戦っているような余裕なんてない。

 竜胆は、口元を押さえながら這うように廃墟を離れた。

 バラバラバラ――とヘリの音が聞こえたのは、その直後だ。

 立ち止まって悪魔と戦ったことを誇示しようか、という衝動がよぎる。だが、やめたほうがいいだろう。この場にとどまると悪魔に追い付かれる危険があったし、もし悪魔が見つからなかったら、竜胆は拾った手榴弾で家屋を破壊した、はっちゃけたバカ者として全国に名を馳せてしまう。出奔した竜胆ののちを想って、涙に暮れているであろう妹と義母がそんなニュースを見たら、目が点になってしまうに違いない。


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