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21.悪魔のミ・カ・タ


「待たせたわね……」硬く青ざめた顔の金銀蓮花の再登場に、エンジュと水蓮は無言で顔を見合わせた。だが、この状況から解放されるのはありがたい。お互いに。

「じゃ、行きましょうか」と力なくエンジュにささやきかけた後、金銀蓮花は巨体に目を向けた。「……水蓮、ここは頼むわね」

《お任せを!》

 がちゃり、と金属音を立てて敬礼する大柄な姿の横を、エンジュは足音を殺すようにこそこそと通り過ぎた。無理やり押し通ろうとして失敗し続けたので、少々気恥ずかしいのだ。

 だから、無事金銀蓮花の横にまでたどり着くと、不平の一つも言いたくなった。

「もう!遅いよ!」

「ごめんね。いろいろと事情があって……」どこかやつれた顔で金銀蓮花が謝罪する。

「ん……」エンジュは門まで聞こえた大騒ぎを思い返した。「うん、いいよ。大変だったみたいだし」

「あのね、エンジュ。少し、言っておきたいことがあるんだけれど」

「なに?」

「……」

 なんて言おう、と金銀蓮花は珍しく途方に暮れた。萌黄の口車に乗らないよう釘を刺しておかねば。兄妹仲は悪くなさそうなので、エンジュの発言を竜胆は無碍にはできないだろうし、萌黄への牽制にはなるはずだ。

 そしてもし――エンジュが『天使』になるようなことがあれば、萌黄一党は侮れない勢力になりかねない。今のうちに頸木を打ち込んで、付け入る隙を作っておく必要がある。

 なのに精神的な疲労の所為か、いい言葉を思いつけない。金銀蓮花にしては滅多にない事だった。言いくるめの手管はごまんとあるし、普段ならこんな可愛らしい女の子相手、激しくヤル気も出ようものだが。

 仕方がない。いつも使っている手で行こう。

「あなた、可愛いわね。綺麗な目をしてる」金銀蓮花は少女の肩を抱くと、間近から優しく微笑んで見せた。「あなたが本当の妹だったら素敵だったのに」

「えッ?」エンジュは目を輝かせた。「それって兄ちゃんのお嫁さんになりたいってことッ?」

「え、いや、そうじゃ、なくって……!」失言だったか。天草君と付き合う?最初はちょっと考えたが、萌黄が首ったけの現状では危険なことこの上ない。ここはのちに下手なことにならないよう、言い繕っておかねば。

「そうじゃないの……なんというか、あなたがいい子だから、もっと仲良くしたいなぁって。お兄さんに関係なくね」

「……」じーッと見上げてくるエンジュ。本当に理解しているのか?第一印象から少々理解力に乏しい印象があった。だが、そこまで馬鹿ではないはずだ。なんといっても、あの天草芙蓉(アマクサ フヨウ)の妹なんだから。

「それとね……」平然を装いながら、素早く言葉を構築する。ああ、失言一つで無駄な努力をしなくては。そしてあわよくば、この女の子をモノにしたい。

「お兄さんから聞いたわ……あなたがこれまでずっと頑張ってきたこと、つらい思いをして来てきたことをね……大変だったのね」品のいいお姉さんという風格で、そっと華奢な肩を抱き寄せる。

 実際には、エンジュの話など竜胆とはほぼ無い。過去視で竜胆と翔摩の間で交わされた会話の内容を読み取ったり、竜胆が入院した後にエンジュからさりげなく聞き出した出来事を繋ぎ合わせただけだ。

「……これからは私を頼ってもいいのよ?」深く慈愛を込めたふりをして、こてッと頭をエンジュのそれに押しつけた。「つらいことがあれば言いなさい?私が、きっと頑張って何とかしてあげる。約束するわ」

 ――と言って、多少辛いことがあろうとも我慢してしまうような奥ゆかしいタイプの相手でなければ、こんなことは言わない。エンジュは少し違うような気もするが――しかし、この子はリスクをとってもいい程度には可愛らしい女の子だ。懐いたところで邪険に振舞ってやれば、どんな反応をするかと思うと今からでもゾクゾクする。

「なんでそんなにしてくれるの?」エンジュが目を瞠った。「やっぱり、兄ちゃんを狙って……」

「だからそうじゃないのよエンジュ?」精一杯に忍耐力を振り絞って、金銀蓮花は優しい微笑みを保ち続けた。「分かって?あなた自身が素敵だから言ってるの。本当の妹のように一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒にお布団に入って、夜通し語り明かしたいなぁって、そう思っちゃうの。うん、あなたのお兄さんとは全く関係無く、あなた自身に興味があるのよ?」

 と微に入り細を穿つように言い差した金銀蓮花の瞳に、不思議そうに聞き入るエンジュの向こうからヌッと覗き込む、守衛の巨漢の不透明なガスマスクが映り込んだ。

《リーダー様……》

 人工音声なのに、怒りが染み出る響きがある。

《わたしにも同じこと言いましたよね、言ってましたよね。そして同じことをしてますよね?》

 エンジュは目を丸くして水蓮を見上げた。「えッ?この大きな人と?」

「いえ、違うの!ううん、違わないけど!」水蓮め、余計なことを!だが、水蓮も手放したくない。「この子は私の本当の妹みたいな子でね……そのッ……エンジュとも仲良くなれたらいいなぁって!――ね♪」

《ね♪じゃありません、こっちを見てくださいリーダー様》またも謎の霧が湧き始めている。《うすうす思っていたんですが、他の女の子にも同じことを言ってるんじゃないんですか?同じことをやっちゃってるんじゃないですか?もしかして……リーダー様は誰よりも風紀を乱すようなことをしてるんじゃあないでしょうね?》

「ふふ、何を言うのかしら。あなたが誰よりも大事な存在だって分かっているでしょうに」髪を払って金銀蓮花は平然と答えると、哀しそうな振りをしてエンジュの肩を強く強く抱き締めた。「……この子は大変だったのよ。兄さんも姉さんも不治の病にかかって――ええ、これもお兄さんから聞いたのよエンジュ――そしてね、お兄さんが動けるようになってやっと日常を取り戻そうとしているの。何かしてあげたいと思わない?」

《……そのご意見には同意です》巨体はこっくりと頷いた。《でもリーダー様って、誤魔化したいことがあるときは、饒舌になりますよね、早口になりますよね。気づいておいででしたか?》

「……。さっきの魔力の爆発は、悪魔の気を引いたかも知れない」話の腰を折るどころかずっぱり切り裂いて、金銀蓮花はキリッと虚空を見つめた。さも天啓を受けたような忘我な瞳だ。「人外の勢力が、この学校に寄ってくるかもしれない。今こそ、校門の守りが重要な時ヨ」

《煙に巻こうとしてますよね?》

 煙霧がますます強くなってくる。

「そんなことあるわけないでしょう?私には、あなたの力が絶対に必要なのよ」

 ゼスチャーで宥めながら、金銀蓮花はじりじりと玄関へ向けて後ずさった。「事情はあとで説明するから。ね?」

 そして十分に玄関に近づいたと知るや、エンジュの腕を掴み、肩を抱いて素早く玄関へと逃げ込んだ。

《リーダー様!》

 金切声が追ってくるが、巨体がが建物の中にまで入ってくることはなかった。門を守ること、それこそが水蓮の使命なのだから。

(ふぅ)

 それでも追ってこないか、金銀蓮花は慎重に外の様子を窺い、大丈夫と知って一息ついた。そして、異変などこれっぽちもなかったような顔で優しくエンジュへ向かって微笑みかけ、宙に浮いたままだった彼女の足を床へと下ろしてやる。

「じゃ、行きましょうか。お兄さんに会いに」

「う、うん……」

 エンジュの瞳が動揺している。水蓮の乗り込んでいるあの巨体が怖かったのだろう。無理もない。『クリーガー』は、なんとか人間にみえるよう改良こそしているものの、元は軍隊の作った戦闘兵器だ。初見に近いと威圧感も半端ないだろう。水蓮も気を効かせればいいのに。

 足が止まりがちなエンジュの指をグッと握って力強く引っ張りながら、金銀蓮花はスマホを耳に押し当てた。通信先は甘野老教諭だ。竜胆だけを生徒指導室に呼んでもらおう。萌黄は何としてでも同道を阻止してもらって。かなりの困難が予想されるが、甘野老は見た目を裏切って意外とやり手だ。きっと上手い方法を思いついてくれるだろう……。

 と気を抜いていたせいか、はたまた萌黄が密かに施した欺瞞の魔術が功を奏したか、廊下の角を曲がった途端、金銀蓮花&エンジュは、駆けてきた竜胆&萌黄と鉢合わせになったのだった。




「……え?」

 いざとなれば決断の早い金銀蓮花だったが、ふたりはもう敵の認識ではなかったし、なにより竜胆に対して負い目もあったので一時的にフリーズした。代わって喜色満面で飛び出したのはエンジュだ。

「兄ちゃん!」

「おお!エンジュ!やっぱり無事だったんだな――」

 竜胆も歓迎の笑顔を浮かべて両手を広げようとしたが、具合が悪いと思っている萌黄を抱きかかえているのでそうはいかず、どこか似通った顔立ちにしんからの笑みを浮かべた。エンジュの無事は、目下最大の懸念ではあったのだ。

 だが、不意に足を止めた妹の様子に、彼は怪訝に首を傾げた。「……どうした?」

「……あんたは」

 エンジュの目がマジだ……と思いきや、激しく指を突きつけられた。「あんたは昨日の誘拐魔!」

「お前、何言って……」と言いかけた竜胆は、ハッと思い出した。昨夜、エンジュの目の前で竜胆を攫ったのはこの萌黄だ。忘れていた!

 ギラつく妹の指先を、おどおどとした視線で辿ってみると、やはり胸元に抱く萌黄の顔に向かっている。

「あ……見られてたんですか」萌黄の口調は場違いなほど明るかった。もはや具合が悪そうな風ではない。

「萌黄?」不審げに竜胆は声をかける。

「見られてないかも、とか、顔を憶えられてないかも、とかを期待したんですが、目がいいですねぇ、それが命取りってやつですけど。は~やれやれ」

 そう言うなり、萌黄は猫の優雅さでぴょんと竜胆の腕から飛び降りた。そして、明らかに用意していた赤いリモコンを胸に構え、おもむろにガチャコンとレバーを倒す。

「この悪人!兄ちゃんから離れろ~ッ!」

 瞳に獣の輝きをまとわせて、エンジュが真正面から突っ込んでくる。

 その小さな体へ竜胆が残像を残す勢いで掴みかかっていた。当然、彼の意志ではない。その証拠に、ぱちくりとまばたきした不思議そうな表情だ。

 一方、エンジュは容易く押し倒され、「きゃん!」と組み敷かれた。

「いたた……!」妹は身悶えしながら兄を見上げる。「もう!兄ちゃん!まだ陽が高いよ!」

「はッ?い、いや、夜だったらおっけーみたいな台詞は止めてくれよ!誤解を招くだろッ?」

「だって!」

「お前の言いたいことは分かる!」妹の両手首を掴んでねじり上げながら、竜胆は真上から真摯に弁解を始めた。「これは、その……誤解なんだ!これには深い訳があるんだ!なぜなら、今のオレはオレであってオレではない!」

「あっはっは」支離滅裂に言い訳を始める竜胆がおかしくて、いい笑顔で笑う萌黄の肩越しに、

「面白そうなもの持ってるわね」冷たい声が響いた。

「は?」萌黄は首だけ振り向いた。

 肩に顎を乗せるほどの距離で、金銀蓮花の鋭い瞳がリモコンをじっと見詰めている。続いて鼻同士が触れそうな距離で萌黄に顔を向けた。

 刹那――

「クラス委員長の権限でこれは没収します!」

「やーめーてーくーだーさーいー!」

 リモコンを引ったくろうとする金銀蓮花と取られまいとする萌黄がもみ合い始めた。

「天草君が暴力事件を起こすなんておかしいと思ったわ!あなたの仕業だったのねッ?」

「だったらどうだっていうんですかッ?」

「待てッ!待ってくれッ!コントローラーは動かすな!」

 ぎゅんッ!と竜胆の顔が突き出されて、危うくエンジュの唇を奪いかけた。代わって、ふにっとした頬を唇がかすめ、(やべェ!)と彼は青くなる。なのに、妹は目を閉じて唇を突き出してきやがった!

「やめろ!やめるんだ!オレを受け入れるんじゃアない!」

「ええッ?どういうことよ兄ちゃん!」ぱちっと目を見開いてエンジュが抗議する。

「ど、どういうことと問われれば、だな!」竜胆は叫んだ。「オレは――悪魔の手先のようなものなんだ!良いも悪いもリモコン次第なんだよッ!」

「ホントにどう言うことッ?」

「くッ!察しろ!」いや、それは無茶かッ!

「うおッ!」

 今度は体がぐるんぐるんと横に転がり始めた。両手でエンジュの腕を掴んでいるので、二人一緒にだ。

(壁にぶつかるッ!)しかし、エンジュを壁にぶつけるわけにはッ!

「うおおおおッ!」

 耳元で上がった兄の雄たけびにビクッとエンジュが驚愕したが、それどころではなく、彼はありったけの意志を使って回転を止めようとした。

 結局一切ままならなかったが、幸いにも壁には竜胆の背からぶつかった。ゴツッと後頭部が壁にぶち当たる重い音が鳴り響き、物理無効化能力(ディメンション・ディスターバー)の影響か、壁にビシシィ!とひびが入る。

「ふ、良かった」

「何がッ?兄ちゃん、今すごい音がしたけど!」

 だが今度は逆方向に回転し始めた。再び竜胆は雄たけびを上げて体のコントロールを取り戻そうとする。

「うおおおお~~ッ!」

「に、兄ちゃんッッッ?」

 一方、金銀蓮花と萌黄はくんずほぐれつリモコンを取り合い続けていた。ちょうど拮抗状態だ。金銀蓮花は腕力も戦闘技量も並外れて高い上、天使の力が物理攻撃無効化(ディメンション・ディスターバー)をかなり弱めてはいるが、萌黄の猫並みに高い反射神経がかろうじて追及を凌いでいる。何らかの魔法的な防御機能も働いているようだ。

「それをよこしなさい!」

「い~や~で~す!これは私のものなんです!」

「玩具は学校の持ち込み禁止です!」

「勝手なことを言わないでください!」

「勝手なものですか!あなたを三味線にするわよ」

「江戸時代の話をするなんて年寄りの証拠ですよッ!」

「ぐ……」金銀蓮花の動きが弱まる。

「私の尻尾の感触はいかがでしたかッ?」

「だから……」

「覗き見は楽しいですかッ?」

「……それはッ!」

「ヘンタイ♪」

「……」

 遂に、へたッ、と金銀蓮花が座り込んだ。うつむいて起き上がれない。途方もなく強靭な精神力を持つ彼女ではあったが、今日一日繰り返し晒された強いストレスに加え、欲望に忠実だったこれまでの自爆的な言動が無駄に痛撃を与えたのだ。後悔も反省も極力しないが、やはり限度と言うものはある。

「どうした委員長!キミの力はそんなものか!」

 危うく壁際で止まった竜胆は、金銀蓮花に一縷の望みを託して叫んだ。

「あ、余計なことは言わないでくださ~い♪」

 萌黄がレバーを指先でくるくる回し始めると、竜胆の首がぐるっと真後ろに回転して一周した。それどころか加速をつけて更に回転し始めた。

「すまんンンンン!オレが悪かったぁァァァァ!」微妙なドップラー効果を発生させながら回転謝罪を叫ぶ竜胆の頭部。

「ひやぁッ!兄ちゃんッ?いつの間にそんな荒業をッ!」

(いかんッ!オレの体が完全改造されたと知れたら怒りの矛先が萌黄にッ!)

「こ、これはッ!」回転するせいで視界に捉えること覚束ない真下の妹へ彼は叫んだ。「これは手品だーッ!」

「なぁんだ手品かぁ」ほっとエンジュが安心した。おい!言っておいてなんだがそれでいいのか妹よッ?

 金銀蓮花はぶつぶつと呟いていた。「同じ手が二度と通じると思わないでよ……」

「さて、それじゃ本題です」

 竜胆の異常行動を止め、にこにこと悪気ない笑みで兄妹に歩み寄った萌黄は、ごそごそと指先で小さな何かを取り出した。きらーん、と見えたのは馴染みのある形で――

「カプセル錠?」竜胆は怪訝に眉を寄せる。

「正解で~す。これをですねぇ……えい♪」萌黄は、錠剤を摘まんだ指先ごと、エンジュの口の中に突っ込んだ。

「ンぐッ!んンッ?」目を白黒させるエンジュは必死に首を振って指から口を自由にすると、無理やり入れられた何かを、ぷっ!と吐き出す。コツンとそれは真上に竜胆の額に当たった。「イテッ」

「なによッ!いきなりッ!」

 と怒り出したエンジュを萌黄は困った顔で見下ろした。「やっぱダメか~」

「何がしたいんだよ!」ギュッと口をつぐんだ妹に代わって竜胆が文句を入れる。

「手軽な方法から試しただけですよ。次は確実な方法で行きます。は~……気が重たいです~」

 やだなぁ、みたいな表情を浮かべた萌黄は、リモコンのどこかのボタンを押した。

 とたん、竜胆の口の感触が無くなった。すぐに気づいた。コントロール下に置かれたのだと。まさか声も制御可能だったとは!

「ええ、声も奪うことはできます。出来ればこれっきりにしたいところですが」

 ぎょろぎょろと目の動きで言いたいことを察したか、萌黄は申し訳なさげに謝った。

【何がしたいんだ!】慣れないテレパシーの声で叫ぶと、萌黄は床に落ちた粒を拾い上げて、丁寧に袖で拭った。

 それは確かに錠剤の形をしていた。澄んだ金色に覆われ、中には何か結晶のようなものが浮かんでいる。

(薬……か)萌黄との話の中で言及されていた気がする。しかし、その詳細を思い出す暇もないまま、

「何がしたいかって――こういうことですよ♪」

 そう言うなり錠剤を、今度は竜胆の唇に押し込んだのだ。

「あ、飲み込まないでくださいね。飲み込ませはしませんが。――で、これをこう」

 無造作な動きだった。萌黄の小さなレバーの動きだけで、竜胆は真下のエンジュにガバッと覆いかぶさると、その幼い小さな唇に激しく口づけしたのだった。驚く竜胆の唇に、ふにょ、と柔らかい少女の唇の感触が押し付けられる。

(え?)

(え?)

 兄妹の動揺をよそに、竜胆の舌が勝手に妹の唇を割って潜り込み、舌先の薬を相手の口腔内へと押し込んでいく。

【ちょッ!萌黄ぃッ!何でだッ!何をッ?】

 思考が灼けつき、ひどい惑乱で竜胆は取り留めない叫びを心中で叫んだ。もはや目だけしか動かすことができないのだ。

「あっと、水水」

 その横で、萌黄がポケットからポンッと大きなヤカンを取り出した。

(は?ポケットから?ヤカン?)

 萌黄を連れて行った給湯室の外の棚には、彼女の言う通り、クラス番号が墨々と記された金色のヤカンが無数に置かれていた。それの一つを手に取って、恥ずかしいから飲むところは見ないでください、と萌黄は背を向けていたのだが――

(――持ってきていたとは!ていうか、ポケットからヤカンッ?)

 そのことを考察したかったが、現在進行形で妹と熱烈にフレンチキスをしているショックで、思考がまとまらない。思い至るのは、以前にリモコンを取り出したのも同じポケットからだったっけというあやふやな記憶だけだ。

 そして萌黄はヤカンの注ぎ口を、二人のくっついた唇同士の間に突っ込ませ、真下のエンジュへ向けてヤカンを傾け始めていた。

「んん~~!んんんんンン~~ッッッ!」

 水は当然というか、下に組み敷かれているエンジュの口へと一方的にドポドポと流れて込んでいく。目を見開いて懸命に抵抗する彼女だが、いつの間にか竜胆が寝技じみた形でかっちりきっちりと抑え込んでいるので、今度は一切動けない。窒息を防ぐため少女は必死に注ぎ込まれるお茶を飲み込んでいるようだが、ヤカンはどんどん傾けられていく。

「何してるのよッ!窒息するでしょ!」

 ようやく再起動した金銀蓮花が飛び込んできて、萌黄からヤカンを奪い取った。

 だが萌黄は視線を逸らすことなく、エンジュの口元をじっと見つめ続けると、パッと顔を綻ばせた。

「よしっ♪」

「なにが、よしっ♪よ」

 ペチッと金銀蓮花が萌黄の頭をはたいた。

 と、同時に竜胆の体も口を含めて自由になる。

「うおおーッ!」

 華奢な妹の体を引きはがし、竜胆は口元をぬぐった。さすがに、キッと萌黄をにらんでしまう。

「何をするんだ!猫じゃあるまいし!」

「いや、猫は関係ないでしょ!……萌黄、これはどういうつもり?こんな可愛い子のキスを無理やり奪うなんて!しかも私の目の前で!」金銀蓮花は忙しくツッコミを入れると、萌黄に詰め寄った。

「は?どういうつもりって……」

 すばやく竜胆を盾にした萌黄は、不審げに問い返した。「大事な理由があったんですよ、きまってるじゃないですか」

「どんな!」

「ま、まぁまぁ……」

 いったんは萌黄への憤りを感じた竜胆だが、目の前で喧嘩をされると冷静になる原理が働いた。萌黄にも、なんだか事情があるかもしれない。その前提で、さっきの蛮行の理由を考えてみた。薬、そう、薬を飲ませる理由だ。

「あーっと、もしかしてさ……エンジュも悪い病気にかかっていたとか。ほら、オレみたいに。それを治す薬だったとか?」

「実はですね――♪」

 口を開きかけた萌黄を、エンジュの怒りの声が遮った。「わたし、風邪一つ引いたことないし!」

「そんなことないだろう?去年の正月、顔赤くして鼻水垂らしてたじゃないか。おでこも熱かったぞ」

「あれは――兄ちゃんの手が冷たかっただけだから!」

「……」そうだった、妹は健康が自慢だった。病気に罹ったと思われるのがイヤなのだろう。

(単に、病気に罹ったことに気づけなかっただけかもしれんけど……)

「わたしは健康だけが取り柄なんだから!」

「だけなのかよ!」つい平手を振ってツッコんでしまった。

「だいたいなに!なんでそいつが兄ちゃんとくっついてるのよ!人攫いでしょ!」

「違うんだ!」竜胆はまごころを込めて強く叫んだ。「この人は実は猫なんだ~ッ!」

「………………そうじゃないでしょ?」凍り付くような怒気を込めて、金銀蓮花が低く唸った。「説得する気、あるの?」

「え~と……」

 今のは冷静ではなかった!もっと効果的なセリフがあるはずだ!そう――

「……この人は!オレの病気を治してくれたんだよ!」

 最初からこう言っておけばよかった!

 視界の隅で萌黄が、やれやれ、みたいな顔をして肩を撫で下ろしたのが見える。

(ああ……)

 とたん、教室を出てからの萌黄の態度が意味として噛み合った。なんで萌黄の具合が悪かったのか。いや、具合が悪い振りをしていたのか。

 昨日までの竜胆は、走り回れるほどの体力など無かった。なのに人を担ぎ上げている姿はインパクトを与えただろう。まあ、エンジュがそれに気づけたかどうかは、疑問の余地があるが。

(そして、だ。オレの病気が治ったのは萌黄のお陰だと、オレ自身に言わせたかったんだろうな……)

(その上で……具合が悪い風にも見せかけて、感謝と気遣いの両方を得ようとしたのか……)

 それがプランAだったのだろう。だが、エンジュに顔を憶えられていたために、計画は破綻した。だから力づくのプランBに移行したのだ。

 しかし、その目的がはっきりしない。エンジュに何を飲ませたんだ?薬がどうとか言っていたが。

「ホント?……本当にこいつが兄ちゃんの病気を治してくれたの?」

 エンジュは疑わしそうにぎろぎろと萌黄を睨んでいる。

「ホントだって!兄ちゃんの病気が医者の手に負えるものじゃないって知ってただろ?」

「だったらなんでその人が治せたの?」

「そこに気づいたか~!」

「気付くよ!馬鹿にしないで!」妹は肩を怒らせた。「だいたい、なんで兄ちゃんを攫う必要があったのよッ?」

「オレを治すのに……」肉体を作り替えられたというのは、やっぱり妹の耳に入れるべきじゃない。「……儀式が必要だったんだよ!」

「はッ?」エンジュの目が寄る。

「それにはあの病院では駄目だったんだ!」

「儀式って……どんなっ?」どうやら戸惑っているようだ。

「一言では言えないけど……危険な……そう、危険で非合法で、人目に触れるべきではないっていうか……」

「保険特約上、先進治療を受ける権利を優先して天草君に回すためには、あの病院では駄目だったの」しどろもどろな竜胆に金銀蓮花が助け舟を出した。「しかも、ことは急を要していたわ。いわゆる極限微生物(エクストリーム・ファイル)において、好酸好熱性細菌(スルフオロバス)は特に高温を好むの。時間があまりにも無かったんでしょう。分かってあげて欲しいわ、エンジュ」

 竜胆はほっとした。良かった、この件に関してなら金銀蓮花はこちらの味方だ。話している内容は、無意味かつ支離滅裂にも程があったが、

「う、うん……そんな事情なら、仕方、ない、の、カナ……」

 小さな脳がオーバーフローしたエンジュは、ロボットのように頷いた。見るからに思考を放棄している。やはりエンジュの知性の低さには気付いていたか。気づくよな~やっぱり。

「ま、まあ……兄ちゃんの病気が治ったなら何でもいっかー……」

(軽いな~)

「で、さっき飲ませたのはなに?」

 エンジュは脾臓の辺りを押さえた。薬の感触を感じているのだろうか?「まさか……毒、とか?」

「そんなわけないだろう!」確証はないが、きっぱりと竜胆は否定した。「最初にオレに飲ましていただろう?毒のはずがないじゃないか!なぁ!」と振り返って、萌黄に続きを促した。こいつからは、さっきから面白がってるだけみたいな波動しか感じない。

「ふふ、もちろん、毒なんかじゃありません」ようやく萌黄は口を開いた。「ただ、毒だと不安に思う気持ちも分かります。どんな良薬も強すぎると毒、毒も適量に薄めると良薬になるもの。つまり全ての薬は元は毒、と言えるものですから」

「どういうことよ!やっぱり毒だったのっ?」エンジュは詰問するが、竜胆も当然それを聞きたい。でも惜しいな、もうちょっと難しい言葉を使えば、エンジュを煙に巻けたのに。あいつは昔から著しく煙に巻きやすく、巻かれやすい。

「知識に毒性を感じる未開人なら然り、知性ある者には否、といったところでしょうか?」

 おお、はっきりと分かる!一気に難度の増した萌黄の要領の得ない言い方に、エンジュの思考力がごっそり削られたのを。「え、え~と……つまり?」

 にこっと萌黄は微笑んだ。「良薬です」

「そっか~……」エンジュは曖昧な笑みを浮かべた。

 しかし、竜胆の方が気になった。「つまりバカに効く薬って言いたいのか?」

「ちょっと兄ちゃん?」

「いえ、バカを治す薬はありません」萌黄が慈愛に満ちて首を振った。「バカは自分で治すしかありません。知識と知性は別物ですから、その気が無ければバカはバカのままでいるバカでしかないのです」

 エンジュの頬が膨らんだ。「なんかバカにしてない?っていうか、最後のバカはいらなかったよね!ね!」

「さっきの薬は知識を与える薬だってことかしら?」金銀蓮花が尋ねた。

「そうなりますね」萌黄は金銀蓮花にウインクして人差し指を向けて見せる。「きちんと狙った通りなら」

「……なんだか不安を催す言い方だな?」きっちり確認しておく必要があるだろう。ただし、エンジュがいない場所でだ。あいつがいるとややこしくなる。たとえ当事者本人であろうとも。

「ま、それはそれとして……」萌黄が態度を一転、竜胆を鋭く睨んだ。「竜胆にひとつ、言っておくことがあります」

「な、なんだよ……」彼は射すくめられように固まる。

 だが、次に続いた言葉に、脳がフリーズした。

「次に私以外の誰かとキスをするのは許しませんからね」

「……………………は?」

 彼女の言葉が脳裏に浸透するまで、幾ばくかの時間がかかった。不意に、肩を怒らせて怒鳴る。

「はぁッ?誰のせいだよ!なんでオレが望んでやったみたいな流れになってるんだ!」

 そのセリフにエンジュが強く反応した。「え?兄ちゃん?どういうこと」

 だが、竜胆は気にしていられない。

「そして委員長!分かってるよな、リモコンの存在知ったよな、なんで非難がましい『うわぁ』みたいな目で、オレを見るんだよ!オレだってしたくてしたわけじゃないんだよ!」

「だからどういうことなの兄ちゃん!」ガシッと兄の服の袖をエンジュは掴んだ。「無理やりキスしておいて、そんな……わたし、初めてだったのに!」

「オレだって初めてだったよ!人間相手には」

「人間以外にはしたことある、みたいな口ぶりですね」と萌黄。

「いや、天草君なら決まり切ってるでしょ」そっけなく金銀蓮花が口を挟む。

「ああ愚問でした♪」

「そこ、仲良く頷き合うな!さっきまで取っ組み合ってただろう?なんで分かり合った顔をしてるんだ!確かに猫にキスをしたことは数限りなくあるが、この場には一切関係ないし、咎められる必要もないはずだろッ!?」

「兄ちゃん、答えてよ!」

「いや、答えてって言われてもなッ!」

 エンジュの中では、竜胆が望んで唇を奪った、ということになっているのだろう。誤解だ!……と言っても、そこから、なんて言ったらいいか。素直に答えれば萌黄にヘイトが向くだけだし――。

 萌黄がにっこりと告げた。「痴話喧嘩ならよそでやってください♪」

「発端を作ったの、だれなんだよ!」

「そんなことより、萌黄」金銀蓮花がキッと萌黄に首を向けた。「今一度聞いておきたいことがあるわ」

「そんなことよりッ?委員長!今のオレのこの苦境は――!」

「兄ちゃん!」

「あ~なんて言おっかな~……」

 竜胆はボリボリと頭を掻いた。なんて誤魔化そう?こんな不誠実な態度を他者にとる日が来ようとは夢にも思わなかったが、代わりに妹相手に面倒になった場合に多用した手段を思い出した。曰く全ての計略を上回る最後の手段。すなわち――

「あ、用事を思い出した!ちょっと兄ちゃん行くから!」

「え、待ってッ?」

 ダッシュで廊下の端へ向かって駆けだす竜胆を、エンジュは一拍子遅れて追いかけた。

「ま、待って!待って!――逃げるな~~~~~~ッッッ!」




「なんですか、訊きたい事って?」

「ええ……」兄妹がおのずと遠くまで離れて行くまで確認し、金銀蓮花は振り返って萌黄の顔をまっすぐ見つめた。

 この悪魔猫は真摯に話し合いの出来る相手だろうか、と改めて自問した。

 ――結果は諾だった。なぜなら、先程金銀蓮花の弱みを突こうとしたとき――

(私がしんから願う、水蓮と木蓮をまともに動けるようにするという約束を反故にするとか言い出さなかったあたり、すでに成立した契約は遵守するということか……)

 それは誠実さを表すものかもしれない。だがそれは、信頼もできる反面、こちらから反故にするのは許されないとも言える。スジを通す相手には、スジを通さなければならない。当然のことと言えるが――

 だから、互いに真摯に向け合った言葉は、真摯に返ってくることが期待できた。

 目下、大きく気になったことはひとつ。

「……あなたは、エンジュをどうするつもりなの?」

「どうする、と言いますと?」萌黄は平然としている。それへ、金銀蓮花は怒りを静かに滾らせた。

「……会ってみてわかったわ。エンジュは、確かに『天使』になる素質がある。あなたはとっくに気づいてたみたいけど」

「そうですね、しかも飛び切りの才覚を感じます。半覚醒であれほどのパワーを解放するなんて、私が入手した過去例と比べても例がないレベルですね」

「そう、半覚醒……」金銀蓮花は、眠そうな瞳をさらに細めた。「……天使へ完全に覚醒するには、何万人に一人ってぐらいの素質に加えて、3つの段階を経る必要があるわ。あなたはそれも知っていて?」

「もちろん」萌黄は挑戦的に目を見開いた。

 そこに野生の獰猛さを見た気がして、金銀蓮花は強く警戒した。彼女は猫だ。猫が、まっすぐ相手を見つめるのはどういう時なんだろうか?竜胆から、もう少し猫についての知識を仕入れておくべきだったかもしれない。

「エンジュが『天使』になってしまえば、あなたも助かるんじゃないですか?」疑問符を投げかけながらも、萌黄は口調は断定的だった。「人材不足なんでしょう?天使は一人でも増えてほしいのでは?」

「でも、人が天使になるには……」言いよどむ金銀蓮花に、萌黄が後を引き取った。

「ええ、偶然ですが、エンジュはすでに2ステップは踏みました。

 ひとつ、悪魔に直接触れること。次に激しい感情の揺らぎを引き起こすこと」萌黄は指を折って数えて見せた。「あとワンステップでエンジュはこちらの世界に入門ですね。そんなに難しいことじゃありません♪」

「それをさせるわけにはいかないって言ってるの。……この街の人間を守る守護天使として」

「……」

 じっと二人は睨み合った。金銀蓮花は冷静な表情で、萌黄は相変わらず微笑んではいるが、確かに視線がぶつかり合っていたのだ。

 金銀蓮花のポケットのスマホが鳴ったのは、そんな時だった。

「……」

 メロディーで分かった。水蓮からだ。

 チャッと手早くスマホを取り出し、金銀蓮花は耳に当てると、素早く言い放った。

「水蓮、今は取り込み中なの。後にしてくれる?」

 だが、素早く告げられた内容は、到底後回しにできるものではなかった。

《……悪魔が校門前に出現しました。交戦許可を》

(悪魔が――!)

 金銀蓮花は、通話中にもかかわらず、さっと萌黄の顔を見つめた。

 自分で水蓮に言い放った言葉が胸に去来した。

 ――魔力の爆発に惹かれて、悪魔がやってくるかもしれない――。

「……謀ったわね」

「何のことでしょう?」へらっと萌黄は微笑んだ。

「ッ!」無理に心を読もうとしたが、阻止された。

 だが、読むまでもない。こいつは、この事態を予見していた。こうなる風に目論んでいたからだ。

 思えば、教頭ひとりを倒すのにあれほどの魔力を垂れ流す必要はなかった。自分を付け狙う悪魔をおびき寄せるためと考えれば辻褄が合う。

「……分かった。水蓮、すぐ行くわ」

 スマホを切って、萌黄をじっと睨んだ。誹る言葉が喉元まで出かかっていた。学園を巻き込まないでとは言っておいたが、それを反故にされたのだ。だが、この悪魔猫は決してそれを認めまい。宇坪や教頭と戦った一件は『専守防衛』と主張していたし、それは決して曲げはしないだろう。少し前に実感したはずではないか。こいつはサイコパスだと。

「そんな不安そうな目で見ないでください。なぜなら、今こそ私と竜胆の出番だからです」

 明らかに金銀蓮花の心情を分かっているくせに、萌黄は涼し気に宣言した。手に持ったままのリモコンを優雅に構え直し、何やらスイッチを入れる。「校門前ですよね。あそこは塀が邪魔になって校舎から見えません。つまり、竜胆が派手に戦っても目立つことはないってことです。丸型要塞からも死角になってますし」

 金銀蓮花は冷厳な表情を浮かべた。「……手っ取り早く悪魔を倒してくれさえすれば、あなたの行動は不問にします」

「さて、何のことでしょうか♪」

 カコカコ、と萌黄は自信満々にレバーを動かした。

「……」

「……」

 しばらく経って、また同じように動かした。

「……。何してるの?」訝し気に金銀蓮花は尋ねた。

「その……」表情が変わらなかったので気づけなかったが、萌黄の声が上ずっている。なんだか焦っているみたいだった。

「竜胆が探知外にいるみたいで……あ、いえ、普通ならここに戻ってくるんですよ?自分でルートを探して自動的に。意志を奪うわけではないので『何で勝手に体が動くんだろう?』とか不思議に思うでしょうけれども、それは今さらの話ですし……。でも、手ごたえがないんですよね」

「探知外?……スペック的に探知範囲はどれくらいなの?」

「およそ500メートルほどでしょうか。素材が足りなかったので、それ以上は伸ばせなかったんです。あ、ちょうどいいので、竜胆の居場所を探ってください」振り仰いだ笑顔に、冷や汗が光っていた。「早急に!」

「……ええ」

 樹木の破片を封入した水晶のペンダントを翳して目に近づけた。本物の植物を見つめるより勝手が悪いが、近距離なら大した問題にはならない。

 ――見つけた。

「……中庭、にいるみたいね。体育館の方に走って行ってるわ。エンジュから逃げているのかしら」

「直線距離ではどれくらいでしょうッ?近づいてきてますかッ?」

「あの辺りは……だいたい600メートルほどかしら……方角からして……離れて行くわね」

「なるほど」自然な仕草で、萌黄はリモコンをポケットにしまった。「方針は決まりましたね」

「ん?方針?」

 訝しい表情で振り返った金銀蓮花へ向けて、萌黄は行儀よく背筋を伸ばしてニコッと微笑んだ。

「二手に分かれましょう。服をお願いします」

 そう言うや否や――

 しゃらん、と不可思議な粒子を散らばったかと思うと、萌黄の衣類が床へと折り重なるように落ちていった。その中で、もぞもぞと何かが蠢く。

「にゃ~ん♪」

 ――猫だった。しかも、可愛らしい。昨日見た通りに。

 彼女は頭から衣類の山から這い出すと、尻尾をぴんと真上に立たせ、身をくねらせて後ろの金銀蓮花を顧みた。

「にゃ~お?」

 鳴き声は、よろしく、みたいに言っているように思えた。

 そして、やにわにタッと身を翻して長い廊下を走りだす。

「あっ、ちょっと待って!待ちなさいッ!」

 制止の声にも留まることなく、猫の姿は不意に虚空に掻き消えた。もはや足音すら聞こえない。

(――逃げ、た?)

 その意味がじっくりと理解され、遅れて金銀蓮花の怒りゲージがグンッ!と上がった。

「あいつッ!」

 身勝手すぎる!

 衝動的に数歩萌黄を追いかけたが、思いとどまった。ステルス能力が高いのは理解している。ここは悪魔襲来に晒された校門に急ぎ、萌黄が竜胆を連れて戻ってくることに賭けてみよう。分の悪い賭けだが!

 と走り出しかけた金銀蓮花だが、萌黄の衣類が散らばったままだ。服の間から派手な下着も覗いている。

(なんてエッチっぽい……)

 デザインも派手だが、お尻が半ば見えそうなショーツだとすぐに気づいた。勝負下着っぽい。ブラジャーの造りも凝っていて、手触りも素敵だった。つけてみたいとは思わないが、脱がしてみたい。

(ということは、人間に戻った時は全裸になるのか……)

 あんな性根だが……萌黄は肌も白いし、美人だし、肌もきめ細やかで柔らかかったし、ふにふにだし、ぎゅっと握ったら気持ちいいだろうなぁ……。ああ、尻尾なんて触らずに、もっと太ももやお尻を撫でておけばよかったなぁ……。

 と無意識に一瞬捉われて我に返ると、指がショーツの内側を撫でていた。

 ――そして、傍の柱の陰に見覚えあるクラスメート、更科翔摩が立ち尽くしてじっと目を見開いて見つめていることにも気がついた。

 金銀蓮花は弁明に立ち上がった。

「ち、違うわ更科君。これは私のじゃないの!」

「え……?」彼は戸惑いを顕わにした。「余計、まずい気もするんだけれど……」

「……」金銀蓮花は考え込むように口元に手を当てると、思慮深い視線を遠く窓の外に向けた。たった今の顛末など、無かったような仕草だった。「じゃあ私、そろそろ用事があるから」

 表情こそ優雅――だが、手は急いで萌黄の服をかき集めると胸に抱いて持ち上げ、ぽろっと落ちた下着をさっと掴んできつく纏めて丸めると、金銀蓮花はダーッと廊下を走り去っていった。

「……」

 あっけにとられたようにクラス委員長を見送った翔摩は、しばらく経ち尽くした後、疲れたように壁にもたれた。深い憂いを含んだ表情で、窓の外に視線を遣る。

 建物に邪魔されてはいるが、それは校門の方向だった。

「お前の魔力を感じて来てみれば……」

 彼は、自分の右胸辺りにそっと手のひらを当てた――そこに、大切な何かが眠っているかのように。

「今度は悪魔のお出ましかよ……一体お前は何に巻き込まれてるんだ、リンドー……?」

 金銀蓮花と竜胆にとっては聞き捨てならないセリフだっただろう。しかし、誰にも聞かれることなく、その言葉は宙にたゆたい、消えて行った。

 ――数日ぶりの悪魔警報が鳴り響いたのは、直後だ。


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