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20. エンジュ合流


「――天草槐(アマクサエンジュ)が到着しました」

 金銀蓮花への電話はそんな内容だった。「ご命令通り、リーダー様が来られるまで校門に留めておきますか?」

「ええ、そうして頂戴」そう小声で返した金銀蓮花は、竜胆についと視線を遣った。

 本当は知らせる約束にはなっていたはずだ。

 だが、あの時とは事情が変わっている。捜索していた懸念の悪魔猫は、今や名実ともに竜胆の真横に居座っている。協力者としてはともかく、仲間とまでは気を許せない以上、不用心に戦力を増やさせるわけにはいかない。 

 無論、黙っているわけにはいかないだろうが、萌黄の影響を受ける前に一つ釘を刺しておきたい。竜胆も、萌黄の出現をすぐには伝えてこなかったのだ。これでおあいこと言えるだろう。

「すぐに行くから」と答えて席を立った。

 直感的に気づいたのか、竜胆から「今の相手、誰だったんだ?」と訊かれたが、うやむやにして教室を出た。

 のち、正直に竜胆へ妹の到着を教え、一緒に行動しさえすれば無用な騒動など起きなかったのでは、などと後悔がよぎることになるのだが――たおやかな見た目に反し、金銀蓮花はいつだって自分の思うがままに生きている。反省も後悔も極力しないし、都合の悪い事は気にしない。彼女にとって、見るべきは過去より未来なのだ。




(長い道のりだった……)

 天草槐(アマクサ エンジュ)は両ひざを掴むように身を折って息を整えた。

 城址学園校門前――。

(北に行くつもりが、まさか東に向かっていたとは……)

 港に差し掛かったところでうっかり南の津巻町にまで来てしまったと知り、これはいかんと北に転進したつもりが、森に囲まれた不気味な寒村に入り込んでしまった。悪名高き陸の孤島たる黒子ノ魔(クロコノマ)町だ。平日の昼間にもかかわらず、不自然なほど村人が集団で闊歩し、いつも通りに怪しい衣装で奇祭にふけっている。ここに来るまではうららかだった春の陽光も、なぜか今は寒々しい異世界の輝きだ。

 この1年、兄を探してあちこちさ迷ったが、迷っている時間の方が多かった気がする。そして迷いすぎて日が暮れ、夜の暗闇の中を適当に進んでいるうちに帰宅できたことが何度あったことか。きっと本能というか、帰巣本能が優れているのだ。しかし、それでは家には帰れても目的地にはたどり着けない。下手に知恵や方向感覚やスマホのマップに頼るとまた迷ってしまうとの自覚があるので、今は指標として自宅付近にまで戻るべきだろう。この不気味な町の北隣が、自宅のある詩々魅(シジミ)町だ。自宅からならば、コロッセオは迷わずに行けるはずだ。その場所は市の一番の危険エリアなだけに案内板が充実し、元城址で高台にあるので遠くからでも目立つ。昨日だってすんなりと行けたのだ。

(よし!)

 気合を入れて、昔ながらの茅葺住宅や切妻造りの廃墟じみた建物の間を息を殺して通り抜け、あちらこちらでたむろっている酒臭いおっさんどもの声掛けを無視、あるいは全力で回避し、彼女は太陽の位置から察して北の樹海に潜り込んだ。そこから先も安穏とはいかない。枝から垂れ下がる大蛇を避け、沼地を躱し、まとわりついてきた一つ目の不気味なトカゲを蹴っ飛ばし、眼前の差し込める光に向かって飛び出したら、また黒子ノ魔町に戻ってしまったりもしたけれども、再度森に突入して今度は無事に詩々魅町にまで突き抜けると、激しい空腹と喉の渇きを思い出して自宅で食べ物飲み物を腹に詰め込み駆け出して、お腹が痛くなってうずくまり、そんなこんなでようやく辿り着いた目的の城址学園。

 ――なのに、目の前には、守衛らしい巨体がエンジュの侵入を阻んでいた。なんだか、守護神みたいだ。長い銃を横に構え、聳え立つように佇んでいる。

 こいつは昨日もここにいた、と思い出した。兄の所在を知った興奮のあまり断りもなく横を通り抜け、しかし特に声を掛けられることもなかった。気づいていたのか気付いていなかったのか。

「……?」

 だが、昨日と同じように横を通り抜けようとすると、そろりと平行移動して銃で通せんぼされた。右側を進んで妨害されたので左側を通ってみたが、同じように邪魔される。

「あの!」両こぶしを握ってエンジュは声を上げた。「中に用事があるので!通してください!」

 守衛はゆったりと首を振った。

「昨日は通してくれたんだよ!覚えてる?」勝手に通っただけだが、通った事実に変わりはない。

 だが、守衛は黙したままだった。表情の窺い知れない色付きのガスマスクを虚空に見据え、じっと少女の前に佇んでいる。

「もうッ!通るよッ!」

 と駆け足で横を通り抜けようとしたが、思わぬ素早さでエンジュの前に移動すると、横にした銃をぐいぐいと押しつけてきた。触れはしなかったものの、異様な圧迫感に迫られて後ずさりしたエンジュは、踵を引っ掛けて尻餅をつく。

「いたッ」

 とたん、守衛はわずかに猫背になった――まるで、倒れたエンジュを気遣うように。しかし、そう思えたのは一瞬で、エンジュが立ち上がるとすぐに守衛は後ろに下がり、同じように銃を横に構えた。

「んう~~~ッ!」

 目前の建物に兄がいる、攫われたはずの兄と再会できると思うと、それを邪魔する大男に対して激しい苛立ちが湧き上がる。それはもう、髪を掻き毟りたくなるほどに。

 まてよ、兄がいると連絡をよこしたのは、昨日に出会ったあの美人のおねーさんだ。

「わたしは呼ばれてここに来たのよ!」え~と、名前は何だったっけ?「あ、ちょっと待って、スマホに確か名前が……」

「待たせたわね」

 玄関から足早にやってきた美しい影を見て、エンジュはパあッと顔を綻ばせた。「あ、昨日の!え~と……」

「よろしくエンジュ。待ってたわ」美女は頼りになりそうな笑みを浮かべて艶やかな髪を掻き上げた。

「兄ちゃんは!兄ちゃんは本当にここにいるんですか!」

 駆け寄りながらエンジュは詰問した。知りたいのはそこだ。昨夜、謎の女に連れ去られた兄が、本当にここにいるのか。

「ええ、もちろん――」

 美女がそう言い差した瞬間だった――屋内のどこかで、ドォン!と鈍い音が響き渡り、エンジュはビクッと身を屈めた。なんだ?

 金銀蓮花は平然と突っ立ち、掲げた指の間からチェーンを垂らしていた。その先に回転するのはガラス細工か?中に、陽光でエメラルドに透ける何かが封じられているようだが――植物?

「ああ、もうッ!騒ぎは起こさないでって言ったのにッ!」

 一転、金銀蓮花は感情もあらわに、パシッとガラス細工を握りしめると、くるっと身をひるがえして校舎に戻ろうとした。が、すぐに思い出して振り返り、エンジュに弁解じみた笑みを浮かべる。

「ごめんね!ちょっと急用ができたの。すぐに戻るからっ!」

「えッ?」

 だが、美女は来た時と同様に、あっという間に校舎の中へと消えて行った。

 にぎにぎと指を蠢かせて見送ったエンジュは、すぐに我に返った。「え、待って!せめて兄ちゃんに会わせてッ!」

 そう言って駆けだそうとするエンジュの前に、再び守衛の巨体が回り込んだ。

「ちょっと!どうしてッ!怪しいもんじゃないって分かったでしょおッ?」

《すぐに戻ってきますから》

 初めて守衛が声を掛けた。人工音声だが、困っているような声音に聞こえる。そのせいか、さっきまでと違って、申し訳ない、みたいな雰囲気が漂う。

 この人にも立場はあるんだ、とエンジュは思い当った。さりとて納得できるわけでもないが。

「通して」

《ダメです》

「通して!」

《ダメなんです》

「どうしてダメなのよおッ!」エンジュは地団太を踏んだ。「昨日は通してくれたでしょおッ?なんで通してくれないのッ?」

《昨日のあなたと、今日のあなたとは違いますからっ!》

「違うわけあるかーッ!」

 エンジュは吠えた。妙なことを言って!やっぱり通す気ないんだ!

 その時、ドゴォォンッッッ!と先ほどよりも大きな破壊音と共に、多量のガラスが割れる音が轟いた。ガチャガチャァァン!とガラスが地面で砕ける音が響く。

 わずかの間、唖然としたエンジュだが、学校内でただ事でない事が起こっていることに、いてもたってもいられなくなった。兄が関係しているかもしれないではないか!

「通るッ!」

《ダメですって!》

 銃でブロックする守衛。しかし、その程度で止められるものか!

 エンジュは守衛から全力で真横に走った。引き離した途端、直角に玄関に向かうのだ――!

(わたし!速い!)指先をピンと立てて腕を振って走るエンジュは、一瞬自分の速度に酔いしれた。中学の同学年だと、足の速さは男子も含めて常に学年一位だった。運動会と言えば、エンジュの独壇場だった。バスケでもドリブルだけで全員を抜いた。鋭く回避するあまり、方向を見誤って自軍のゴールにシュートしたこともあったが、その際は敵も味方も振り切っていたのだ。

 しかも、今のエンジュのダッシュ速度は、なんと毎時58㎞にも及んでいる!人類の追いつける速度ではない!

 なのに、巨体は難なく追いついてきて、曲がるタイミングを逸したエンジュはそのまま塀際の植生に突っ込んだ。

《あ》と守衛はぎこちなく動きを止める。見守っているうち、

「ぶはッ!」枝葉の破片を散らばらせて頭を出したエンジュは、ぷるぷると髪についた葉っぱを払い落として悔し紛れの笑みを浮かべた。

「へッ、やるじゃねーか……」

 しかし、悔しさはたちどころに小さくなり、むくむくと膨らんできたのは、挑戦意欲だった。この壁を乗り越えてやると言う、体育会系のアレだ。

「じゃあ見せてあげるわ!わたしの全力の走りを!」

 くわッ!とエンジュは叫ぶと、今度は逆方向に走り始めた。守衛はまたもや難なく追いついてくる。

(やるわね!)ごうごうと風を切る音を心地よく感じながら、エンジュは正面を見据えた。再び壁が迫っている。

 しかし、今度は同じ轍を踏まない。

「はッ!」跳躍し、壁を蹴って見事な背面飛びで宙を舞う。高跳びの要領で巨体の頭上を飛び越えるのだ!

 飛んだ先にマットはない。だが、エンジュは華麗に空中で2回転を決めると危なげなく足から着地し、玄関へと突っ走ろうとした。

 ――しかし、眼前には守衛の巨体が待ち構えていた。

「んえッ?」

 素っ頓狂な叫びをあげて後ろを振り返るが、誰もいない。

 信じられない思いで、のろのろと巨体に顔を戻した。どうやら……エンジュのジャンプに合わせて高速で後方に下がったらしい。なんで今のトリッキーな動きを察知できたのか?

「え?ちょ!待っ!」そして横向きの銃でぐいぐい押されて元の位置まで戻された。

「うにゅう~~ッ!こんなはずではッ!」憤りのあまり、少女は地団太を踏んだ。

 とはいえ、あきらめが悪いのがエンジュのエンジュたるゆえんだ。今一度限界の、更に限界を超えてやると全身に気合を込める彼女の眼前が、ふと曇った気がした。

 白い煙のようなものが、もやもやと立ち込め始めている。

(ん?火事……じゃないか、焦げ臭くない……。誰か火を焚いて、でもないな……)

 きょろきょろと窺ううち、周囲は完全に霧に覆われて尽くしていた。

「え?なになに?」少し進んでみた。だが、霧の濃度は変わらない。

《申し訳ありませんが……》巨体すら霞む霧の向こうで、陰々と人工の音声が響き渡った。《あなたを傷つける気はありません……どうか留まっていただけませんか?》

「なんで……?」晴天の昼間に、突如深い霧に巻かれるという異常を目の当たりにして、彼女は不安に駆られた。

 だが、ぴかりと思い至るものがあった。(まてよ?この感じ、もしや……!)

 ――そう、あれはエンジュが中学生になるかならないかの頃。

 兄の使っていたアイマスクを付けて昼寝し、目が覚めて視界が塞がれていたことに動転した彼女は、暴れまわった挙句、ド派手に窓ガラスを割ってしまったのだ。

 だが悪いばかりではなかった。帰って来た竜胆があきれた目つきで、『お前、猫並みだな』と言ってくれたのだから。兄にとって猫は特別な存在で、すなわちエンジュも特別だと言ったことに他ならない。きっとそうに違いない。

「ふふ、なるほど、読めたわ。霧はわたしの顔の前だけってわけでしょ?」

 勝利を確信してエンジュは手を顔の前に翳してみた。普通に自分の手が見える。「あれ?」

 手を遠くまで差し伸べると、ぼんやりと霞んで見えた。ふ~む、かなり濃いが、普通に霧、のようだ。

 エンジュは両手を前に突き出しながら、ふらふらと前と思われる方向へと進み出した。これはチャンスかもしれない、と彼女は思い始めた。これだけ深い霧なら、あの邪魔な守衛も姿を見失っているはずだ。でも、なんだかさっきから同じところをくるくる回っているような……。

「駄目だ!辿り着かん!」

 エンジュは、再び両膝に手をついて身を折った。動いても動いても徒労に終わると、体力よりも気力がへこたれる。

(ん?霧と言えば水蒸気、水蒸気と言えば雲。雲は空に浮かんでいるもの。ならば霧も、足元の方では晴れているかも!さすがわたし!)

 霧と雲とでは発生原因が違えば、当然性質も違う。往々にして霧は重い湿気が冷やされて生じるため、下に行くほど濃くなるのだ、ということに気づけなかったエンジュは、ギュン!と四つん這いにしゃがみ込んだ勢いで額を石畳にぶつけた。「あたッ!なんで?」

 手で霧を払ってみた。ついでに、口で吹いてみた。晴れるどころか、余計に濃くなった気がする。

 だが、石畳に触れているうち、新たに思い至るものがあった。門から先には石畳が続いていたはずだ。これをまっすぐ辿ると玄関に着くのではッ?

「ふふ、地面があるということは進むことができるということ!」言わずもがなの事を呟いて、またも勝利を確信すると、エンジュは四つん這いのまま、トカゲのように全速前進した。石畳がどう展開していたか覚えてはいないが、いずれ建物に辿り着く!

 と進んでいるうちに、不意に霧が晴れ渡った。

「よおっし!やった!」

 叫んで勢い良く立ち上がると――門の外だった。

「はッ?」振り向くと、門の先の薄くなった霧の向こうで守衛の巨体がぽつねんと立っている。表情は伺えないが、気まずそうに目を逸らした。

「ああ!もう!謀ったな~!」ダッシュで突っ込むと、途端に霧に覆われた。しかし、構わず前進する。このまま走れば――

(突き抜けた!)

 だが、周囲を見渡すと再び門の外だった!

「ええ~ッ?」

 と喚いたが、諦めない。もう一回だ!

 ――と挑戦したが、やはり結果は変わらなかった。まっすぐ進んでいるはずなのに、なぜか門の外に出てしまうのだ。

「ふふ、しかしこの程度では、わたしは止まらない!」

 エンジュは額を押さえて霧を凝視した。立ちはだかる難題。突破するには力押しだけでは無理らしい。ならば、頭脳を働かせるのだ。珍しくも動き始めた大脳が、ちかちかと開明のスパークを発している気がする。

「よし!見えたぁッ!」

 バッとエンジュがポケットから取り出したのはハンカチだった。そしてウェストポーチからハンカチをもう一枚。すぐに物を落とすからと兄にプレゼントしてもらったウェストポーチがこの局面で役に立つとは!

「まず、門から一辺を玄関に向けて敷く!」

 鮮やかな色なのでぼんやりと見える。その先に、2枚目のハンカチをそろえて敷く。

「その1辺に合わせるように、ハンカチを敷き直す!」これで、門から垂直に進むことができる!すなわち、ハンカチの向かう先にある玄関へ着実にたどり着けるはずだ。よかった、ポケットに入れたことを忘れてさらにもう一枚持ってきて!

《……》

 せっせ、せっせとハンカチを交互に敷いていく少女を、守衛の巨体はじっと見つめていた。霧を発生させた当の本人である水蓮は、実は霧の中でも明確に視界が効く。

 エンジュという名の少女は実に必死だった。考えなしと思ったが、少しは頭を使おうとしている。それ以上に、地道な努力も重ねる根気もある。そして恥もてらいもなく、実行に移す意志力と行動力もある。かわいそうなのは、ちょっとおバカというところだ。

(物干しざおでも探してきたらいいのに……)ぼんやりと水蓮は思った。(先に石を括り付けたロープでもいいし、壁に手をついたまま移動してもいいし、霧の向こうから私に向かって石をたくさん投げつけるのも手だし)

(……なんでハンカチなんだろう?しかも、あんなドヤ顔で)

 脳が小さいのかな、と失礼なことを考え始めた水蓮は次の瞬間、えっ、と目を見張った。

 ハンカチを交互に敷く速度がどんどん上がってきている。どう考えたって無駄で愚かで不効率でかつ恥ずかしい作業のはずなのに、地面に目を凝らして一点集中、最適化して作業効率はますます上がり、残像を帯び始めた手元は既に視認しがたい。なんという!なんという虚仮の一念か!

 ――なので、水蓮は自分の傍までハンカチのレールがたどり着いたところで、霧を深くして素早くハンカチを1枚取り上げた。

「ああッ!見失った!え?どこッ?」慌てて床をぺたぺたと探す女の子。

「あ、ないッ!まあいいや!ここまでくればあとは一直線!」立ち上がったエンジュは自棄になって走り出した――足元を緩やかに滑らされ、方向を変えられているなど知る由もなく。

 そうやって背を向けて走り去っていくエンジュの後ろの世界で、守衛の大きな胴体の服の合わせ目から、奇妙なものがにょっきりと突き出た。

 小さな手だ。

 色素の欠けたような、白を通り越して蒼白いとも言えるほっそりした腕は、まるで幼い女の子のそれのようで、可愛らしいその指はハンカチを優しく撫で、霧の力で汚れを落とし、湿気も奪って乾燥させると、性格を窺わせるような丁寧なたたみ方で綺麗に折り、宙に捧げ持った。それを受け取る、巨体の腕。その頃には、巨体の腹部から突き出ていた幼い繊手は、既に服の中へと戻っている。

「やったーッ!って、また外~っ?なんでだ~ッ?」

 振り向くと、巨体の手の中に折り畳まれたハンカチがある。

「返せ~ッ!」ずかずか入ってきて、今だ霧が湧かないことに戸惑いつつも、エンジュはハンカチを奪い取った。しかし、えもいわれぬ素敵な匂いに鼻を近づけ、息を吸い込んでうっとりする。「なんだかきれいになってる~。それになんだかいい匂い」

《……》内心、水蓮はちょっと照れた。この程度で喜んでもらえるなんて。こんな一途な子の助けになってあげたいと思う気持ちが込み上げる。職務として、絶対に通せないけれども。

「あ、でもそれはそれとして!ここは何としても押し通る」

《ダメです》

「ぐ、ぐぬぬ……」また無策に突っ込んでも同じ目にあうとそろそろ学んだのだろう。悔し気に呻った挙句、少女は身構えた。「よし、それじゃあ、あんたを倒したらいいわけね」腰を落として身構える姿勢は、様になっている。どうやら武道の経験者だ。しかし、この体格差で挑んでくるとは。

 それへ、水蓮は片手をあげて制した。

《そうすると不法侵入罪に加えて暴行罪ですよ》

「それがどおしたぁッ!」

《警察が来てあなたを捕まえますよ。家族の方、悲しむと思います》

「ぐ、ぐぬぬぬぬ……」降りあげた手を前に呻っている。こう言っては失礼だが、なんだか小動物みたいだ。かわいい。見てて飽きない。

《今だけですから。ずっと通さないって言ってるわけではないですし。許可が出れば通してあげますよ》

「じゃあ今通して」

《ダメです》


                 



「なに、この大惨事……」

 エンジュを置いて教室に戻ってきた金銀蓮花は、思わず声が出た。

 壁や廊下にひびが入り、窓という窓が割れ、ガラスの散乱しているただ中に、教頭がぐったりと倒れ伏している。

 驚きはあった。毒空木教頭は悪魔を倒すために海外へ派遣された事もあるベテラン中のベテランだ。軍の空挺部隊出は伊達ではない。植物を通して、天草竜胆と教頭とが殴り合っていたのは見えていたが、よもや不覚は取るまいと高をくくっていた気持ちはあった。だが、結果はどうだ。

 金銀蓮花はぐったりしている教頭に駆け寄り、意識のないのを確かめると気道を確保して手短に容体をチェックした。人の体調を測るのに、金銀蓮花に機材など必要ない。彼女のESPは瞬時に教頭の体を隈なく走査し、大きな怪我などないことを見て取った。廊下中に走ったらしい衝撃波が解せない所ではあるが……とにかく教頭に関しては、救急車を呼ぶまでも無いだろう。保健室で寝ていれば目が覚める。事情を訊くのはそれからでいい。

(先に天草君と萌黄に事情を訊いておかねばね……)

 騒ぎを起こさないように言い差した直後のこの惨状に、金銀蓮花は苛立ちを隠せない。そして立ち上がった金銀蓮花の視線の先に、倒れた女の子のスカートの中を覗いていた竜胆を見かけたので、幻滅を味わいながら怒りに任せてぶっ飛ばしておいた。

 ぶっ飛ばしてから――「ン?」ぐるぐる目で床に倒れている少女が、あの脅威の悪魔猫、紫車萌黄だと気付いた。

「ンンッッッ?」

 なんであの上級悪魔が、無様に目を回して倒れているのか。しかも、なまめかしく太ももの半ばまでむき出しにして。

 冷静な顔のまま思わず生唾を呑み込んでしまい、聞かれなかったかと金銀蓮花はそろりと周囲を窺った。どうやら気付いた者はいなさそうだ。しかし、これは何かの罠だろうか?それとも高度な分身か?

 と全身を舐めるように見つめていると、奇妙なものが目に入った。

(尻尾?……猫の?)

 萌黄のお尻から、見覚えのある猫の尻尾が生えている。

 まずいな、他の人に見られるわけにはいかない。もしや、変身が解けかかっているのか?

 としゃがみこんで、スカートの中に尻尾を隠そうとすると、さっきの竜胆が今の自分と全く同じ姿勢であったことに思い至った。

「……」

(誤解……だったのね)

 そもそも、彼には猫の尻尾しか目に入らなかったのかもしれない。そんな気がする。

 短い付き合いだが、彼のネコキチっぷりを理解――はできなくても、把握はしていた。おおかた、スカートからのぞいた尻尾に我を忘れてしまったのだろう。となると、幾分か罪は軽くなる。無罪ではないが、セクハラの罪は保留にしておいてやろう。

 しかし――

「……」

 握っているこの尻尾の素敵な手触りはどうだろう。上質すぎる布、そう、羅紗の感触がする。いや、それ以上に温かく、滑らかで、いつまでも触っていたいと思ってしまう。結果的に、竜胆がしたかったことを殴り飛ばして阻止し、自分が代わりにやっちゃっている状況を自覚はしているが……。

 しかし、手が離せない。尻尾の感触もそうだが、たまたま手の甲に触れている太ももの柔らかいこと!触ったら気持ちよさそうな肌とは思ったが、想像以上の滑らかさと心地良さ、ついでに艶めかしさだった。高位の女悪魔とはこんな魅力的な肌をしているのか。

 弾力もそうだが、肌のきめ細やかさも良い。硬派な顔をしてたくさんの女の子を自室に連れ込んできた金銀蓮花ではあったが、その中でも萌黄の肌は最上級のものと言えるだろう。太ももがこれなら、お尻はもっと柔らかかったりするのかしら……。

 と、太ももに密着したままの手を、そろそろと上へと移動させていった金銀蓮花は、

「……」凝然とこちらを見上げる視線の萌黄と目が合った。

「ンッ……その……」金銀蓮花は咳払いするとすっくと立ちあがって身を離し、優雅に髪を払うと両肘を掴むような腕組みして目を背けた。「人に非ざるパーツを見てしまったからには、確認する必要があったもの。私の、そう、義務として。この学校を守り、生徒を守る義務が、私にはあるのだから」

「ふ~ん……」

 その視線の先にまで萌黄が移動すると、金銀蓮花は更に目を逸らした。

「そうなんだ~……」

 悩むそぶりを見せた萌黄は、やおらにっこり笑って一言告げた。

「ヘンタイ♪」

「……」ピシッと石のように固まる金銀蓮花。

「あ、竜胆いた!もう!離れないでって言ったのに!お~い……」

「……待って」

 ギギ、と軋むように金銀蓮花は手を差し伸べた。ここで弱気になってはいけない、と心のダメージコントロールが発動する。伊達に長生きしているわけではない。押されたら押し返す。頂点に立つ者は、引けば落ちていくしかないのだから!

「はい?」きょとんと振り向く萌黄。

「……あなたは、人に危害を加えないって言ったわよね。騒ぎを起こさないでとも言ったはずよ、なのになに?この騒ぎは」

「だって、竜胆が虐められたんですよ?専守防衛です。降りかかる火の粉を払えずして何のための力ですか?」

「だったら教頭は?」

「ゲーマー魂です」

「どういうことよ!」つい語調が荒くなる。「そもそも、なんで天草君にあんなパワーがあるのよ!ろくに魔力を所持してなかったはずよ!」

「本気を出すと……いえ、戦闘モードに移行するとパワーアップするんです」

 本当は、リモコンに蓄えられたエネルギーを、パワーボタンを押すことで転送しているのだ。いわば外部バッテリー方式だが、こうしたのは、体内に魔力が溢れていると、逆流して感情の制御が効かなくなる可能性があったからだった。純粋に竜胆のレベルというか格が高くなれば、保有魔力はどんどん高くできる。だが、この情報も金銀蓮花に教える必要はない。

「教頭も只者じゃあないんだけど!ああ見えて対悪魔の世界では結構な大物なのよ」

「ああ、だから戦闘中に、なんだか喜んでいたんですね」

「……く」そうかも知れない、と金銀蓮花は俯いて認めざるを得なかった。

 毒空木は実に大人げない大人だった。一応殴り掛かられるまで殴らないし、喧嘩の強いやつにしか手は出さない(ハズだ)が、いざ暴力を振るうとなるとためらいがない。生徒の質的にもっと荒れてもおかしくない学園が割と穏やかに収まっているのは、教頭が自在に遊泳する機雷みたいな働きをしているお陰ではあるのだろうが、社会的な観点だと自身も吹っ飛ばす爆弾だと言える。

(まぁ、教頭にはいいクスリにはなったらいいけど……)

(なったらいいなぁ……)

「大体の流れは把握できたわ」パタン、と想像上の日報を閉じた。「でも、校内暴力を起こすのは許容はできないわね……」

 と顔を上げて見えたのは、軽い足取りで教室に入っていく萌黄の後ろ姿だった。

(あ、ヤバいあいつ)と内心でマジ声が出た。萌黄は自己中心そのもの、自分しか見えないサイコパスと言えるかもしれない。約束は守ろうとするものの、同時に約束の穴を突こうとする。

 追いかけて捕まえようと少し思ったが、今は先にするべきことがあった。事態をとっとと収拾させなければ。怪我人の確認、設備の修理、周囲への説明。外には子猫ちゃん(エンジュ)も待たせていることだし。

 しかし、邪魔者の副校長が出張中で不在なのはラッキーではあったものの、こういった面倒ごとを全て任せてきた教頭がこの体たらくでは。とりあえずこいつを保健室へ運ばせよう。

 保健室の女医に連絡し、搬送を依頼した。なんでも、喧嘩をしたらしい男子生徒が4人ほど保健室で寝ているらしい。叩き起こして運ばせると約束してくれた。

 と――遠くから肩を怒らせた立浪学年主任が近づいてくるのを見て、金銀蓮花はげんなりした。こいつもなんとかしなければ。

「この件は私の扱う案件に関りがあります。私に任せてください」

 主任が口を開けて何か言おうとしたのを、金銀蓮花は機先を制した。とはいえ、声に疲労感は隠せない。

「そういうわけにはいかんだろう!」立浪は険しい顔で怒鳴った。「これは学校自身の問題だ!立場がどうであろうが、いつでも隠蔽など許されると思うなよ!」

(大きな声で……)

 金銀蓮花にますますイライラが募った。ESPで無理やり意識を奪うこともできるが、次やればもう11度目なのでそろそろ疑念を持たれそうだ。

「……。この件は天草竜胆君と、紫車萌黄さんの事情に関わっています。できれば大ごとにはしたくないのですが」

 ふと思いついて言ってみた。効果があるだろうか、と上目遣いに金銀蓮花は学年主任の顔を見る。前の時間、萌黄が洗脳っぽい術を掛けていたシーンを見ていたが……。

 息の詰まる一瞬後、学園主任はぼんやりとした顔で頷いた。「それならシカタないな。ショチはマカせる」

 そう言うと、彼はふらふらと立ち去って行った。

……ほんと、ヤバイ。萌黄はあらゆる意味で。

 とりあえず、この場の面倒な処理は甘野老を呼んで一任して、とっとと校門に向かってしまおう。




 萌黄にとって、アイカの人物評は、ヤバい奴だった。それは時を追うごとに確信を伴ってきている。

 彼女からは、街の守護天使という役割を全うしようとする意志を感じ取れるが、どうやら非情かつ冷酷な優先順位があるようだ。街を守りたいが、それ以上に学園を守る気持ちがあり、それ以上に仲間を尊重する情動がある。

 水蓮や木蓮といったいかにも子飼いの部下などは仲間で、最上位に位置するだろう。

 次に、守護天使である金銀蓮花の家名に従う家柄が存在するようだ。あのセクハラ体育教諭鵜殿にも、他の何人かの教師や生徒と同様に金銀蓮花との霊的な繋がりを感じ取った。だから鵜殿の悪行は敢えて見逃し、咎めなかったのだ。被害を受けた少女たちを自室に連れ込む理由もあったかもしれないが。

 生徒の価値は、その下と言える。とはいえ、守るべき大切な存在であるのは変わりはない。

 結論として――萌黄は断じた。仲間だあなたの側だと言い募っておけば、多少の事を仕出かしても何とかなりそうだと。

 今回の教頭の一件で問答無用に処断されない事も、その確証を強めたと言える。

 つまり、それなりに仲間らしい実績さえあれば言いくるめが割と効く。そうして保護下にいるうちに、こちらも足場を固め、いざという時に対抗できる手段を構築しておこう。この場にいない、アイカの父という体裁の校長や、裏にいるアマテラス機関の動きは未知数だ。まずは――そう、エンジュを確実にこちらに引き込んでおかなければ。彼女は様々な意味で、有用な盾となりうる。

(……ん?そういえば、さっきのアイカへの電話……)

 そして、直後の意味ありげな竜胆への視線……。

「お、おお!萌黄、気が付いたんだな」

 猫は良いものだぁ~!と教室の中心で愛を叫んでいた竜胆は、考え込みながらとことこと歩いてきた萌黄に複雑な笑みを浮かべた。この騒動を巻き起こした元凶へ苛立ちを持っていたにせよ、勝手に尻尾を触ろうとしたバツの悪さが上回っている。なにより、萌黄は猫だ。大体の猫好きならば、猫がやったことにはまず大抵のことを許せてしまえるし、竜胆とて全くもって例外ではなかった。

「あ、竜胆……もお、傍についててくださいよぉ♪」

 そして萌黄はといえば、全くバツの悪さを感じてはいなかった。これは性分と言えよう。

「ごめん……なんだか人生に理不尽を感じてしまって……でも立ち直った。ありがとう」

「ん、どういたしまして♪」

「オレだって傍にいてやりたかったんだけどさ」竜胆は声量を落として釈明した。「尻尾を触ろうとしたら……ンン!……尻尾をスカートの中に隠そうとしたら委員長にぶっ飛ばされちゃって。悪魔同士は、物理攻撃無効化(ディメンション・ディスターバー)が効かないって聞いたけど、やっぱり天使も同じなんだなぁ……」

「天使がそれをできるのは、精神感応(マインド・パス)の出力を上げているからですよ。超能力は、つぎ込むパワーが高ければ高いほど物理攻撃無効化(ディメンション・ディスターバー)エフェクトを減衰させることができます。戦闘型であろうが心霊型であろうが天使であれば原理は変わらないんです」

「でも、心霊型天使って……攻撃的な能力を持たないんだろ?」

「だから、パンチにMPを込めたんでしょう」

「込めなくていいのに……」

「そうですよね♪」

 愛想笑いで頷きながら、アイカは本当にヤバい奴だ、と萌黄は更に思い直した。

 本当に気絶していた萌黄には初耳だったが、竜胆が尻尾を触ろうとしたのは理解できる。しかしそれを阻止したうえ、自分は萌黄の尻尾を握った上に内太ももを触り、お尻にまで手を伸ばそうとしていたというのは度し難かった。アイカの人物評は、さらに修正だ。あいつは見た目を裏切って意外なほど本能に抗えない奴だった。

(でも、そこまで裏表があるとは……)

 多少引きこもりがちを自覚している萌黄は、人物評を理論的に鍛えている。悪魔の基準でも高いESPを駆使し、その正確さは信頼できる域にまで至ったと自負している。

 その自分の目から見て、金銀蓮花からは卓越した忍耐力を感じていた。その割に過去視(サイコメトリー)から窺い知れる性的奔放さは解せなかったが、萌黄は自分の眼力の方を信じた。だが、その信頼性は崩れつつある。

(ならば、私の感じた強大な忍耐力は、一体どこに使われているのだろう……?)

「そうだ、大丈夫なのか萌黄」竜胆は更に声量を落とした。「尻尾出てたぞ?人の姿でいるのに限界があったりするのか?」

「あ~それは心配いりません。魔界にいる時からそうなんですが、人間形態で眠ったり意識を失ってしまうと、尻尾だけ出ちゃうんですよ~。だって、ほら、眼とか耳とか、手とか足とか、本当の体から人に化ける時にはパーツを変換するんですけど、尻尾だけは人の体にはついていないので、気を抜けば持て余しちゃうんですよね~」

 尻尾の話に興奮されても困るので、さらっとだけ説明したが、竜胆は意外なところに食いついてきた。

「髭は?」

「エッ?」その返しは予想外だった。萌黄は少し考え込んだ。「えっと……眉毛……じゃ無いか、え~耳の前辺り……サイドになりますかね」

「じゃあ髭袋は?」

「ひげ袋ッ?」なんだろう、この女子に対してのヒゲ推しは?「ええっとぉ……意識したことがありませんが……耳の下あたりになるのかも?」

「おお!」

「いや、何が、おお!なんですか?」本気で分からなくて萌黄は尋ねた。

「決まってるだろう?猫という生き物は、体中のありとあらゆるパーツが可愛いんだよ!」竜胆は力説した。「全体でもちろん可愛いが、ごく一部だけでも可愛い……分かるかッ?」

「はぁ……ありがとうございます……」褒められてるんだろうけれども、ちょっぴり理解できなくて萌黄は曖昧に頷いた。

「例えば、口を開けた時の尖った歯が可愛い」

「そうですか、口を開けた時……」萌黄は口を開けて、指先で歯をなぞった。生憎と、人化の際に犬歯も切歯も丸めになっているが……。

「そして、閉じたときの口周りが逆Y字になっているのが可愛い」

「……?だいたい口は開けてるか閉じてるかのどっちかなんですけど……」

「だからどっちもなんだよ!」竜胆は力説した。「どこもかしこも可愛いんだ!」

「……?じゃあ今の例えにどんな意味が……?」

「――お前ら、こんなところにいていいのか?」翔摩が割って入ってきた。

 竜胆が振り向く。「ん?どういう意味だ?」

「逃げるか、謝りに行くか、どっちかした方がいいんじゃないか?ほら、今度は単なる校内暴力の範疇を越えているというか……」翔摩は教室や廊下の惨状を指さした。

「うむ、そういや委員長にぶっ飛ばされた」

「そんなもんじゃ済まんと思うぞ、教頭まで殴り倒しちまったんだし」

「その辺りの事はアイカには説明しておきましたが……」萌黄は廊下を眺め見た。先程までいた金銀蓮花の姿がどこにもない。妙だ。トラブルの現場からとっとと逃げ出してしまう性格ではないはずだ。他に、もっと重要な案件を抱えでもしていない限り。

 もっと重要な――

「竜胆……ちょっとお聞きしたいんですが……妹のエンジュ、今はどこにいるかご存じですか?」

「どこにいるかはまだ分からないが」竜胆は不安の色を浮かべた。「でも、金銀蓮花が連絡を入れてくれてるんだ。じきに昨日みたいに学園に飛んでくると思うよ」

「ッ!そうですか。なるほど……」

(なるほど、そう動くか……)

「……萌黄?」

「……」色々と脳内で策略を練っていた萌黄は、「……はぁ」と悩ましげな顔を装った。いかにも、困った、どうしよう、という表情。

「どうした?」

「実は、アイカに言い忘れたことがあって。早く言っておかないと……あッ」

 ふいに、よろッとよろめいた風の萌黄を、竜胆がとっさに抱き留めた。

「ど、どうしたんだよ?具合が悪いのか?」

「そう……かもしれません、あ、でも本当に大丈夫なんですっ!」気丈っぽく萌黄はやつれた笑みを浮かべて見せた。だが、不意に何かに急かされるように、ぼそぼそと呟いて見せる。「……早くアイカに会わないと……」

「オレが代わりに伝えておくよ。萌黄はここで休んでいてくれ」

「いえ、それには及びません。でも、そうですね、よろしければ……」口元にこぶしをあてて少し照れ顔。「……抱きかかえていただければ」

「分かった」

 それは自分にできることだ、と言う風に竜胆はほっとした笑顔を浮かべて、ひょいと萌黄を抱き上げた。彼女が具合の悪そうな演技をしているのだと疑う素振りもない。

 それへ後ろめたい気持ちも微塵もなく、上手くいった、と萌黄はこっそりほくそ笑む。

「じゃ、行くぞ」

「あ、おい!」と翔摩が止めるいとまもあらばこそ、竜胆は長いコンパスで教室を飛び出ていた。

「アイカはきっと玄関の方に行ったと思います。校門の方かも」

「分かった」

 真摯に答えて、少年は階段を一段飛ばしで降りていく。大した安定性だ。竜胆はなぜか自分の運動神経を疑っているようだが、実際にはかなり高い。なんらかの精神的トラウマが動きを阻害している風に思うのだが、急場となると気持ちのリミッターが外れるのか、抜群の動きを見せてくれる。

「あの……」頃合いを見て、ケホケホ、と萌黄は咳をして見せた。「喉が渇いて胸がちくちくするんです。何か飲み物をもらえませんか?」

「ん、そんなの自販機で……」

 と言いかけた竜胆は、口を閉ざした。たぶん、お金を持っていないのに気づいたのだろう。一昨日、有り金をはたいてキャットフードを買ってくれた為だ。これは仕方がない。

「確か……給湯室が1階にあったと思います……」

「給湯室?」

「4時間目に入ったら、昼食用に各クラスごとのお茶が入ったやかんが用意され始めるんです」

「詳しいな!」と驚きつつ、竜胆は言いなりに移動した。

 良かった、過去視で学校中の情報を集めておいて。

 体を揺すられながら、萌黄は次にとるべき一手をじっくりと吟味した。

 金銀蓮花は、エンジュの到着を知って会いに行った可能性が高い。騒動の直前、竜胆に向けた意味ありげな視線もそれで説明がつく。そうでなければ、教室の惨状も竜胆も放っておくものか。きっと金銀蓮花は、エンジュにあることないこと吹き込むつもりだろう。萌黄が竜胆と繋がっている以上、後でも言い逃れは効くだろうが、余計なロスが発生する場合がある。

 目下の目的は、エンジュに好印象を与えること。そして――

(『薬』を飲ませる……)

 魔法的な広大な空間を有するポケットの中で、萌黄は密かに小さな硬い錠剤に指を触れた。昨夜慎重に作り上げた『薬』だ。エンジュの為に苦労して作り上げたのだ。

 これの作成は本当に大変だった。竜胆の体は、錬金の大悪魔としての技術の集大成だと言っていいが、この『薬』だって相当な技術の産物と言える。

 あとは、これをどうやってエンジュに飲ませるか、だが――竜胆さえいれば臨機応変に何とかできるだろう。

 問題なのは、そのあと――最後のステップだ。

(最後に、どうやって……)萌黄は、竜胆の顔を盗み見た。向かう先に妹がいることにまだ気づいてはいまい。

 この兄妹に深い絆があることは、萌黄には十分に察知できていた。だから、事は慎重に進めねばならない。

(……どうやって、竜胆に気づかれることなく、エンジュを殺してしまえるか……)

 それが問題だ、と萌黄は内心独り言ちた。


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