19.そして序章へ
揃って部屋を出た時、金銀蓮花はふと疑問を思い出した。
「そういえば今朝、天草君を牛乳配達店から勝手に出ていかせたのはなぜかしら?どんなふうに動くか予想できたってこと?」
懸念があった。この天草竜胆という少年は、改造された際、すでに自分の意志を奪われているのではないか。感情なんて見せかけで、ロボットで言う、プログラムで動いているのではないか、と。まあ彼の態度を見るにその心配はなさそうだが、欺瞞されている可能性も無くはない。
「いえ、寝てたんですよ」萌黄はあっさりとそう答えた。「すっごく忙しかったのですから。不眠不休の徹夜だったんですよ~?理論は完璧のはずでしたが、些細な調整も必要だったし、機材の不備にも目を光らせないといけなかったですし、私へのメッセージを仕込まないといけなかったし、あと大事な薬も作らなくちゃいけなかったしで」
「薬?」
竜胆と金銀蓮花が同時に訊く。
竜胆はさらに気がかりそうに「どこか体が悪いのか?無理してるんだろ?」
「あ、大丈夫です、気にしないでください。私用じゃないんです」
「じゃあ誰用なの?」金銀蓮花は疑念を深めた。
「お約束を破るものじゃありません。心配しないでください」
「……そう」少し迷ったが、契約外の話なら問い詰める理由にはならない。一応、別の懸念として心に留め置くとして金銀蓮花は静かに頷くと、生徒指導室のカギをガチャリと落とした。
「じゃあ2人とも教室に戻ってくれるかしら?私は教頭に顛末を話す用事があるから」
「あ、すみません、私からもひとつお聞きしたいことがあるんです」
離れて行こうとする金銀蓮花を、萌黄は引き留めていた。怪訝そうに振り向く彼女を、大したことがない風に首を振る。「いえ、今までのお話は全くの別件です。アイカが守護天使であることを見込んで♪」
「なに?」守護天使を見込んで、というワードに警戒心が湧いたが、萌黄の語る内容は奇妙なものだった。
「『魔天サマ』というお名前を聞いたことがありませんか?」
「……『魔天サマ』?」金銀蓮花は首を捻る。記憶の底を探っても、憶えはない。だが、ぼんやりと興味を抱いた。その名前になにかしらの強い言霊を感じる。「……聞いたことがないけれど……。なに?とりわけ強力な悪魔の名前だったりするのかしら」
「悪魔ですら斃せない封印されし古代の魔王、みたいなものかもしれないじゃないか」厨ニ病的な妄想を竜胆が呟く。
萌黄は首を振った。「いえ、どっちも違います……どうです?知りませんか?」
窺うような萌黄の視線にも、金銀蓮花は本音を告げるしかない。「いえ、残念ながら聞いたことが無いわね……あなたの口ぶりだと、並みの悪魔じゃないみたいだけど」
「並み、ですか。ええ、確かに並みなんてものじゃありません」萌黄はキラキラとした笑顔だった。「そして、悪魔ですらありません。逆なんです」
「逆?」
「ええ。もし噂話が真実なら」萌黄は意味ありげに一拍置くと、なぜだか誇らしそうに言葉を続けた。「『魔天サマ』は超強力な天使……『魔王級天使』の略称なんですから!」
「魔王級の?……天使?」金銀蓮花は面食らった。「待って、天使なんでしょ?なのに……魔王なの?」
「もちろん、魔王とは悪魔の最強格の通称です。ただ、それくらい強いってことなんですよ!」
「悪魔が様付けで呼ぶ天使って、なんか相当だな」竜胆が怪訝に訊いた。「でも天使って、悪魔よりも弱いんじゃないの?」
「平均的には、ですよ?人間の方だって、平均寿命を飛び抜けて長寿の方もいれば、そうでない方もおられますよね」萌黄は反論した。「……戦闘型の天使だって、弱い方は本当に弱いらしいですが、トンデモなく強力な化け物級の天使だっていると聞きます。例えば……アイカならご存じですよね?ほら、大戦中に生まれたとかいう、あの『メギドの丘の3騎士』とか?」
「メギドの……丘の……3騎士……」竜胆の輝く瞳が、金銀蓮花を捉えた。厨二病が更に触発されたらしい。「そんな天使が実在……するのか?」
「ええ、まあ……面識はないけれど。顔写真も公開されてないし」金銀蓮花は面倒そうに返した。しかし、このまま黙っても竜胆の好奇心は納得しないだろう。仕方がない。「……世界大戦中、ナイツ・ドイツに迫害されたユダヤ人の間から現れた3人の天使の通称よ……いえ、迫害された、なんて表現は生ぬるいわね。彼らは、同胞たちが虐殺され続けた絶滅収容所の中で相次いで覚醒したの。そして己の力を理解し、同胞たちを解放すべく戦いをはじめたのよ。最初は戦線を転々として仲間を救うべくナチスと小競り合いをしていたのだけれど、やがて差し向けられた強力な討伐軍と渡り合い、遂にはSSの生み出した人工天使軍団と真っ向からぶつかり合ってこれを撃滅し、戦争終結の大きな要因の一つになったと言われているわね。もちろん最大の理由は、1944年から始まった悪魔の大侵攻だけど。
……戦後は中東に自分達の国を作り、そこを守って戦い続けているというわ」
「今のイスラエルの話か……」竜胆はいたく感動しているようだ。「まさにヒーローだな……そんな奴らの事、全然知らなかっただなんて……」
「自身を大っぴらにしないから」竜胆の笑顔を誹謗するような目で金銀蓮花は言った。「なにしろたったの3人だけだし、今どこに配置されているかが明らかになるだけで防衛上の不利になるし、すでに実力は折り紙付きで喧伝の必要は無いしで、名より実を取るやり方で国を守っているのよ。だから、彼らの顔を知る者はほとんどいない。私だって知らないし」
「会ってみたいな……そんな伝説のヒーローに」
金銀蓮花は呆れた顔を見せた。「天草君、自分がなんだか分かってるの?悪魔だってバレれば、相手は天使だからどんな目に遭わせられるか分かったものじゃないのよ?私の対応が特別なの」
「そっか……」竜胆はしんから残念そうだ。
「容姿は分からないけれど、一応、正体につながる情報はあって、ナチス・ドイツから侮蔑的に使われた六芒星を体のどこか目立つところに自ら刻みつけていると言われているわね。本当か嘘から知らないけれど」
「いわゆるスティグマか……」竜胆は自分に頷いている。「すごいな……ビンビンくる英雄だ……」
「……まあ、いいけれど」不謹慎な反応だ。
かつて行われた民族に対する果てしなき悪意と傲慢、挙句に為された壮絶な迫害と虐殺。それらは人の歴史に永遠に刻まれるべき傷だ。とはいえ、あれから70年。民族も異なれば国も異なり、しかも地球の裏側の出来事となると、現代の我が国の若者には昔話なのだろう。身に沁みて判れと言うのは無理な相談なのかも知れない。
「そう!だけど、そんな彼らに輪をかけて強力な天使が『魔天サマ』と言われているんですよ?」萌黄がわくわくした顔で口を挟んだ。
「さっきから疑問に思ってるんだが、なんで悪魔のお前が嬉しそうに天使の話なんてするんだよ。おかしくないか?」
「おかしくなんかありません!」萌黄は口を尖らせた。「竜胆は興味ないんですか?なんていうか、『ムー』的なあれこれを!」
「『ムー』的?」
「例えば、UFOとか!」ビシッと指を突きつける。「人間を攫ってインプラントしてしまうエイリアンなんかにロマンを感じたりしませんか?」
「エイリアンにロマンか……」竜胆は熟考して頷いた。「あるな」
萌黄は勝ち誇る。「でしょうッ?冷静に考えてみれば、人間をキャトルミューティレーションしてしまう異星人なんて恐怖以外の何物でもないはずなのに、なぜそこにロマンを感じてしまうのかッ?」
「うむ、なぜだろう」
「そろそろ教室に戻ってくれないかしら」金銀蓮花は腕時計を示した。「3時間目が終わっちゃうでしょ?私も用事があるって言ったよね」
「そうそう!さっき話に出てきた校長先生なんかどうですか?」萌黄は食い下がった。「5日前の襲撃が、あの程度の被害で済んだのは不思議なんです!もしや……校長先生って、無茶苦茶強い力を持っているとか……もしや、校長こそが『魔天サマ』なのではッ?」
「いや、彼は強いけど、そこまでは手ごわくはないわ」萌黄の疑問を、金銀蓮花は否定した。校長の実力を探ろうと言うのだろうか?それにしてはやり方がまだるっこすぎるが。
「ふむ、そうですか……」萌黄は考え込んだ。
「でも、強いって言えば、委員長ってすごく威厳があるよな。初めて会った時から只者には見えなかったし」竜胆は、彼女の手に戻った銀の枝の束を見た。「実はすっごく強いんじゃね?」
「……期待してもらったのに悪いんだけど」金銀蓮花は否定した。ここは念を押しておかなければ。「……私は心霊型天使であって、戦闘タイプじゃないのよ」
「ええ……それで記事を書いたことがありましたが、『天魔サマ』は念動力だけで近魔王級の悪魔を雑巾みたいに引きちぎった形跡があります。ミストルティンの仕業じゃありません。そもそも、この武器は所詮、悪魔の物理攻撃無効化の影響を受けないだけの鞭に過ぎません。当たったら痛いでしょうけれども」
萌黄は思い出していた。学校に侵入する際、金銀蓮花がやたらと警戒心を顕わにしていた。強者の振舞いには到底見えなかったのだ。そして、ESPの使い手である心霊型天使は、PKを使えない。それが悪魔と異なる、人間の特質だ。一応、興味津々の振りをして銀の枝を分析してみたが、凄まじい伸縮性と耐久性に見るべきものはあったものの、そこまで圧倒的な武器ではない。『メギドの丘の3騎士』のとある1人が使う神具は、噂だとそれはそれは途方もない破壊力を秘めているという。しかし、それですら、貴族級上位の悪魔1体と張り合うのがせいぜいだろう。
「……ン?悪魔を雑巾みたいに引きちぎった?」
一方、金銀蓮花には記憶に引っかかるものがあった。しかし、思い直す。
(……いや、まさかね。……あの伝説の3騎士よりも強いだなんて……)
「はぁ、由緒あるキヨガネノハの守護天使なら『天魔サマ』の噂ぐらい聞いているかと思ったのですが、残念です」萌黄はがっかりしているようだった。「確かに実在に確証がない存在ではあるのですけども」
「具体的にはなにをやったんだよ。その『魔天サマ』は?」
竜胆の質問に、萌黄は声を潜めて答えた。「えっとですね、私の属する魔界とは別の魔界の奴らの話なんですけれども、昔、地上のとある場所へ魔王候補だった最強格の悪魔達が9人ばかり出てきたんですよね。それがある日、1人残らず、助けを呼ぶ間もなく皆殺しにされちゃったんです。魔王と言えば、実力主義の悪魔の中でも別格に飛び抜けた称号ですし、本物の魔王でなくても、それに近しい実力はあったはずなんですけれども、あっさりとぐちゃぐちゃのばらばらに……」
「凄いヤツがいるもんだなぁ……でも、地上にいたんなら、かなり弱体化していたんじゃないの?」
「それが、全員フルパワーだったはずなんですよ。事件の起こった1944年という時代に起因する理由なんですが」
「だったら、同士討ちの可能性だってあるじゃん」竜胆の指摘に、
「その可能性はあります」あっさりと萌黄は認めた。「魔界でも社交界となると、ゴシップとか、噂を膨らせたがる連中が多いんですよね。最初は、そこから出てきた話みたいで。もしかすると、『魔天サマ』の名前だって、地上からではなくそこ由来かもしれません」
「暇を持て余すと、人間も悪魔も変わらないんだなぁ」竜胆が感嘆したように呟いた。
「ただ、完全には作り話とは言い切れなくて、ですね」萌黄はやはり嬉しそうな顔だった。「過去視を妨害した痕跡が悪魔のものじゃなかったらしくて、でも犯行現場に天使の旅団の出撃記録はまったく無い……となると、未登録の戦闘天使にやられたんじゃないか、と。痕跡を消せるのはESP能力なので、心霊型天使が一味に加わっていたかもしれませんが」
「……単に同士討ちしたのが体裁悪すぎて、天使が関わったように見せかけてるようにしか聞こえないんだが」
「それを言い出すと、とたんにロマンが無くなっちゃいますよね」萌黄はため息をついた。「でもまあ、根強い人気のコンテンツではあります。私もそれをネタに記事を投稿したことがあるくらいですし……ん?アイカ、どうしましたか?」
「いえ、別に……」そして腕時計を見ると、金銀蓮花はいそいそとその場を離れた。「じゃ、私、用事があるから」
「はい♪」
「きちんと教室に戻りなさいよ」
そう言い置くと、金銀蓮花はすたすたとその場を離れて行った。
「?」彼女の様子にちょっぴりと違和感を覚えた萌黄だったが、その理由には思い至らなかった。結局のところ、金銀蓮花の持つ権力はともかく、彼女の実力に対しては大した評価をしてはいないのだ。天使間でも、戦闘級が上位に位置すると見る向きが強いが、悪魔だってそうだ。探知に優れた心霊型天使なんて、いざ戦闘となれば脅威にはならない。
この段階では、まだそう思っていた。
「じゃ、オレ達も教室に戻るか」
無人になった廊下で、竜胆はリノリウムの床の先をずっと眺めた。教室、こっちの方向でいいんだっけ?
その腕に、萌黄が自分の腕を絡ませてきた。
「お、おい、人に見られたらまずくないか?」
「いいんですよ、私がこうしたいんですから♪」にっこりと見上げてくる萌黄に、竜胆も目じりがやに下がった。なんとして、女の子にこうして触れるのは初めてなのだ。エンジュは別だが、あいつは妹であって女の範疇には入らない。
「教室で会った時から、言おう言おうと思っていたんですが……」
歩き出してほどなく、萌黄は小さく呟いた。「私、竜胆に謝らなくてはならないことがあったんです……」
「なんだよ」初めから、何でも許す気になっていた。「もしかしてオレに自爆装置がついているとか?」
「そんな物騒なもの、つけるわけないじゃないですか!」萌黄はちょっと怒り顔だ。だが、一転シュンとして、「一昨夜の事です」
「一昨夜?」竜胆は思い返す。「ああ、初めてこの学校に来た日の事か?」
あの日に、翔摩と再会し、萌黄と出会い、ナメクジと戦い、この学園にやってきて、寮の部屋で眠ったのだ。なんだか、随分遠い昔のようだった。
「実は……実はですね」ぼそぼそと、「どうやら私、眠っているうちに竜胆のエナジーを吸っちゃったみたいなんです。飢えてたせいで、無意識に……」気持ちしたように視線を落とす。「一歩間違えば竜胆の命を奪ってしまうところでした」
「なんだ、そんなことか」竜胆は朗らかに返した。「あれは死にそうだったな」
「本当にごめんなさいッ!」頭を下げる、というか、萌黄はぎゅっと額を竜胆の袖に押し付けた。
それへ、竜胆は優しく髪を撫でてやりながら正直に言ってやった。「気にするなよ。オレなら猫に命を奪われても本望だ」
「……いや、自分の命は大切にしましょうよ」ジト目で萌黄が顔を見上げる。
「ま、結果オーライだし。終わり良ければ総て良しっていうよな」
「まだまだ終わりじゃありませんよ?」微笑んで萌黄は再び額を袖に押し付けた。「だって……大変なのは、これからなんですから♪」
「なんでそんな嬉しそうに……」あきれた竜胆だが、ふと首をかしげた。「あれ?エナジーって、触れただけで奪われるものだったっけ?」
「あ、そこはそれ、私は接触吸収を備えているので♪」
「何をしれっと。委員長にも言わなかっただろ、それ」
「全てをお教えする必要はないと思いまして」
「いいのかなぁ……」ちょっと傲慢さが透けて見える気がした。痛い目に遭わなければいいのだが。
「はぁ……じゃ、とっとと教室に戻ろうか。今なら休み時間に着けそうだし」
「はい♪」
竜胆は萌黄とともに廊下を歩きだした。一応、まだ授業時間中だ。足音は自然と静かになる。
「ところで萌黄……魔王の娘というのも言わなくてよかったのか?」
「はい、それでいいんです」さも当然、とばかりに少女は竜胆の顔を覗き込んだ。
「?それって重要なことだよな?保険なんかでは虚偽申請は契約無効になるもんだが」
「あなたに釘を刺すのを忘れていましたが、言わなくて正解なんです。彼女との約束に、私の地位については含まれていませんから。……向こうの得るものも多いんですよ?なんて言ったって、魔界のプリンセスにして偉大なる天才の私が手を貸してあげるって言うんですからね~」
「ナメクジにやられかけたじゃないか」
「あ、あれはッ!油断してたからですよ!何言ってるんですか!」
「じゃあ萌黄は強いのか?」
「……」両こぶしをにぎにぎして何か言いたそうだったが、ふと目を逸らした。「私は箱入りだったので」
「じゃあ、ナメクジにもう一度襲われても、一人で身を守ることは?」
「……」萌黄はこぶしを口元に当てて考え込んでいる。なんだかすごく、言おうか言うまいか迷っているようだ。
それを竜胆は根気よく待った。促そうともしない。ただ見守るだけだ。
――かつて、姉の芙蓉に罵声を浴びせかけられたシーンを思い出した。
何かを言い難い様子だったので、話題を変えたら姉が突然頬を張ったのだ。
「――あんたは!将棋やオセロをやってて、相手が長考したら自分の手番だと思う無礼者なの?ルールも分からないの?今は!私が!話す番だったの!空気も読めないの?世の中は自分を中心に回ってるんじゃないわよ?分かってる?人の話は!まず!聞く!」バチン!
それ以降、姉の言葉を遮るような言動をとるたびに頬を張られ続けた。。姉はもう亡くなってしまったが、萌黄の言葉を待つ間、姉のぎろぎろした目つきに睨まれている気がして竜胆は落ち着けなかった。
萌黄は、ようやく覚悟を決めたらしい。
「あの……はっきり言っちゃいますと、私に戦う力はありません」
「え、ないの?」
「ないんです」顔を上げて、きっぱりと萌黄は答えた。「だから竜胆、精一杯私を守ってくださいね♪」
「分かった……。あれ?でも、リモコンを持っているのは萌黄だよな?」
「やばいときは逃げてくださいね。私も逃げますから!」
「うん、だから」
「安心してください。逃げ足は速い方ですから♪」
守る、か。戦え、と言われれば抵抗があった。今の萌黄の言葉ではないが、竜胆は誰かと喧嘩をした経験はほとんどない。些細な行き違いでエンジュと喧嘩になることがあったが、実力は伯仲していた。いや、思えばエンジュはかなり手加減してくれていた気がする。年下の女子なのに。
だから竜胆が戦うなら、萌黄のリモコンに頼らざるを得ないだろう。その萌黄が逃走を選択するのなら、竜胆も追従するまでだ。
(まあ、隣に軍隊もいるし)
学校横のコロッセオを窓越しに見上げる。
いざとなれば軍隊に任せて逃げよう。いや、いざでなくても逃げたい。悪魔と戦うのはまっぴらごめんだ。
(でも、今のオレは、以前までのオレじゃない……)真の脅威を知ったのだ。(必要ならば、オレは戦うだろう……大切な誰かの為に。それと猫のためにも)
チャイムが鳴り、3時限目の終了が全校に告げられた。
見上げるような巨漢が廊下を歩いていた。壮年でありながら引き締まった逆三角形の体つき。彼こそ、この城址学園の鉄拳教頭、毒空木元帥である。街の守護天使たる金銀蓮花に呼び出されて、職員室に向かうところだったが――
彼は廊下の角を曲がりしな、離れて行く2人組の男女生徒が遠くにちらりと見えた。何の変哲もないカップルのように思えたが、
(なんだ?)
教頭の足が、止まった。
只者ではない気配を感じる。
「あ、教頭先生、お呼び立てしてすみません」
立浪学年主任が駆け寄ってきた。「先程ご報告した件です。体育教師の鵜殿が女生徒にセクハラして、生徒に殴られた件ですが、処分についてご相談があります」
「その、教師をぶっ飛ばした生徒と言うのは」
教頭は、太い指を、遠くなっていく男子生徒の背に向けた。
「あ、ああ、彼ですね」うつろな目をして、立浪は答えた。
「名前を教えてもらえるか?」
「あれは……1-Dクラスのアマクサリンドウ君です……」
立浪主任の声が一瞬片言になったが、教頭は生徒を見定めるのに集中し過ぎて、気づかなかった。
「ほう……」
面白そうだ、みたいな笑みを、教頭は浮かべた。
そっと生徒指導室から離れた木蓮は、水蓮の守る校門前にやってきていた。
ともに2メートルを超えるガタイの凄すぎる巨漢が相対すると、遠近感が狂うほどの迫力がある。とはいえ、これは本当の体ではない。彼ら、彼女ら自身は、その中にいるのだ。
木蓮が胸のジッパーを開けると、水蓮もさりげなく同じようにした。やはり人工音声は聞き取りずらいし、面倒だった。
「どうなりましたか、木蓮?」門番巨人の胸元から、幼い少女の声がくぐもって響く。「悪魔猫を見つけて話をする、とリーダー様から一報がありましたが!」
「そこまでは伝えたのか……やれやれ、自分で説明すればいいのに……」ため息をついた木蓮だが、しぶしぶ口を開いた。「お嬢から状況報告を頼まれたんだが……色々と思惑があるようだな、あの悪魔猫は。どうやらお嬢のクラスに収まるようだ。今、教師が入学の手続きをとっているらしい」
「そんな……!」ショックを受けたらしい水蓮は、ジッパーを開けたまま歩兵銃を装填した。「木蓮、ここは任せます。リーダー様に一言言ってきますので!」
「よせ!」木蓮は止めた。「あの悪魔にも事情があるらしい。どうやら別の悪魔に付け狙われているそうだ」
「私たちに関係ありませんよね。そもそも、悪魔なんてどこまで信用できるか!」
「助けてもらう代わりに、俺たちの体を動けるようにしてくれるらしいぞ。この『巨体兵』に乗ってではなく、本当の体で外を歩けるように、な」
「無理です」水蓮は幼い声で吐き捨てた。「私たちは死者です。生ける者のようにはなれません。それとも、そんな戯言を信じたんですか?木蓮ともあろうものが!」
「そうだな……」木蓮は静かに言った。「……可能性があるのなら、なんだって……」
「そんな程度でリーダー様が折れるのなら、この命なんて、いりません!」
決意を込めて動き出した水色スカーフの水蓮の巨体だったが、緑スカーフの木蓮の巨体に阻まれた。
「だからよせと言うに!」
「怖気づきましたか木蓮!どうせ無い命だったんです。こうやって動けているだけで奇跡のようなものだったんです」
「もう少し様子を見ないか?」開いたジッパー越しに触れ合えそうな距離で、木蓮は諭した。「悪魔と敵対しているのなら、こちらにとっても利用価値があると言えないか?」
「……」
「そういうのは嫌いか?」
「嫌いですね」水蓮は苦くつぶやいた。「間違っているのです。私も、あなたも。なにより、あの『魔界樹』が……」
「……?何か近づいてきてないか?」
「え?」水蓮は一瞬身構えたが、警戒を解いた。誰かが城外から坂を駆けのぼり、大手門跡を曲がって校門へ向けて走ってきている。人間――それも女の子のようだ。
「……ん?」
水蓮は改めて近づいてくる人影に目を凝らした。見覚えがある気がする。「もしかして、あれは……」
4限目に間に合うように教室に戻ると、萌黄は妙な行動をとった。自分の後ろの翔摩に、机一つ分のスペースを開けるように頼み込んだのだ。
「なんでそんなことするんだ?」内緒話なら、魔法で声を抑えることができるはずだ、と思ったが、
【聴こえますか?竜胆?】
突然、脳裏に声が響いて竜胆は慌てた。
(頭の中で声がッ!?)
【それがテレパシーです。さっき、説明したでしょう?】
「おお!」と声を上げてしまい、竜胆は慌てて口を閉ざすと、にこやかな萌黄の笑顔を見つめた。
(これがテレパシーか)
なるほど、超能力……ESPと言う奴だな。凄い技だ。何が凄いって、言葉ではなく、脳が一瞬で相手の意志を理解してしまえているのだ。これに比べると、声に出しての会話はなんて無駄の多い事か。しかし、
【あ、凄く聞きずらいです。もっと私の方へ向けて、鋭く意志を伝えてください】
ダメ出しを喰らった。
(鋭く?意志を?)
【まだ不十分です。なんというか……】萌黄は説明に窮していた。【言葉を一句一句伝えるんじゃないんです。意志をまるごと、相手に伝える感じで……】
(まるごと?)分からん。
【最初から、長文を伝えようとしなくていいんです】根気よく萌黄が教えてくれる。【伝えたい内容を……そうですね、紙に書いて、ぎゅっと丸めて、ポン、と投げつけるみたいな】
【これでいいのか?】
【!そ、そうです!凄いですね!こんなに早くに習得するなんて】萌黄が本気で喜んでいるのを脳が理解した。【本職の心霊型天使でも、割と時間がかかったりするらしいんですよ?竜胆はやっぱり素質があります!】
おべっかではなく、どうやら本気のようだ。うぅむ、これはなんて素敵な能力だろう。伝えたい内容が、感情も含めて丸ごと伝わるのだ。そして、おそらく言語の壁も超えるハズだ。言葉ではなく、意志と感情とイメージがまとめてダイレクトに伝わるのだ。
【うむ、オレは何かを投げたりするのが得意だからな】
【そんな単純なものではないはずですけど……】萌黄が困惑している。【私の設計が良かったからかもしれませんね】
【自慢はいい】一つ問題が見つかった。言いたいことがストレートに伝わり過ぎるのだ。歯に衣着せることができない。口を使ってないので、当然かもしれないが。
「それよりも……」思わず、口会話に戻った。テレパシーは便利は便利だが、内容をじっくりと精査して伝えるには不向きに思える。それとも、慣れればできるようになるのだろうか。「それよりもだ、なんで後ろの席を空けたんだ?」
【監視してもいい、とアイカに伝えておいたでしょう?】圧縮されたような思考が、閃きのように脳裏に瞬いた。【……だから、場所を空けておいたんです】
「……」これは受け手の未熟さか。萌黄が投げてくれた思考を脳は理解したみたいだが、うまく形として言語化できない。すばやく大容量のやり取りができるには、熟練が必要なのだろうか。
もしかしたら、これは萌黄からの課題なのかも知れない。クリアすれば、テレパシーの能力上昇に寄与するような。
ならば……やりがいがある。数学の難解問題のように。ただ、公式なんてものは知らないので、自身で一から原理を組み立てていかなければならないが……。
(たぶん……言語化しようとするから混乱するんだ。ここは言葉ではなく……うぅむ、どうしたらいいだろう?)
と竜胆が頭の中の課題をこねくり回していると、
「……」
ガラリ、と金銀蓮花が扉を開けて教室に入ってきた。そして、萌黄と竜胆の姿を見つけて一度頷きかけ、自分の席に着こうとする――。
【あ、アイカ。私の後ろ空けておきましたよ?】
萌黄のテレパシーが空間を伝って、金銀蓮花はピク、と動きを止めた。こちらを見て、どうしようか、みたいな顔をしている。
(ふむ……)
竜胆は、課題攻略を休憩して顔を上げた。今のは萌黄から金銀蓮花に向けたテレパシーの筈だが、竜胆にもしっかりと聴きとれた。この能力、便利だが秘密保持性という点では難があるかもしれない。とはいえ、クラスを眺め渡しても特に反応はなかったのを見ると、テレパシーの送受信は、心霊型天使……くそ、言いにくい、つまりESPを扱うテレパシスト同士にしかできないということだろうか。
そこで、竜胆は別の問題点に気づいた。もしエスパーであることを隠している者が傍にいれば、テレパシーの内容は筒抜けになってしまうのではないか。声ほどに距離で減衰しないようだし、その点を金銀蓮花達はどのように対処しているのだろう?
気になって再度教室を見渡すと、ふと1人の生徒に目が留まった。一番後ろの列の、真ん中あたりにいる少年だ。背は少々小柄で、額にバンダナを巻いている。そして、妙に彫が深い。黒髪だったので今の今まで気づかなかったが、どうやら日本人ではなさそうだ。じっとスマホに目を落としているが、指を動かしていないので画像でも見ているのだろう。と思ったが、瞳に跳ね返った光が全く変調していなかった。つまり、画像の移り変わりがないのだ。
今朝にこの体になってからだろうが、竜胆は光の強弱にひどく敏感になっていた。なにかしらの特殊な機能が働いているのか?あるいは、バグ的なものだろうか。一度、萌黄に訊いてみる必要があるな……。
おっと、随分長いことあの外国人を見つめ続けてしまった。きっといい気はするまい。竜胆は人としては強力な力を手に入れたが、これを誇示する気持ちは全くない。トラブルはできるだけ回避しておくべきだろう。
「……」だが、視線を戻してふと思った。あのバンダナ外国人、竜胆が長い間見つめていても、視線を向けようとはしなかった。角度的に、見られていることに気づいていたはずだ。注目を浴びることに慣れっこになっているのだろうか?
それとも――
(それとも……なんだろう?)いっしゅん、何かもやもやした考えが固まりかけたが、金銀蓮花が手招きしてきたので、竜胆の思考は中断した。
「なんだ?」
のこのこと近づいた彼に待っていたのは、柳眉を逆立てた金銀蓮花の高圧的な態度だった。
「教室に戻ってきたようね天草君」
「えっ?」竜胆は戸惑った。「教室に帰れって言ったじゃないか」さっき、こっちへ頷きかけたし。
【黙って話を合わせなさい!】
「ぬふッ!」金銀蓮花から矢のように鋭いテレパシーが眉間に突き刺さって、竜胆は痛みによろめいた。
「先生は放免したみたいだけど、だからと言って、暴力事件を起こしたクラスメートをすんなり受け入れてあげるわけにはいかないわ。あなたは――」とすッ、と竜胆の胸に指を突き立てる。「私が傍で監視することにします。いいわね」
「オレを?」萌黄じゃなくて?……と口走りかけて口をつぐんだ。そう、監視だ。萌黄は自分を監視してもいいと言ったが、それは一種の方便だった。
熱湯に氷を入れたように、さっきまで難解だった情報結晶が解きほぐれた。そうだ、単にそう言うことだ。萌黄は、協力者の金銀蓮花に近くの席へ移って来て欲しいのだ。
(オレは課題をクリアできたのだろうか?失敗したんだろうか?)内容の是非ではなく、そのことが竜胆は気になった。また新しい課題を投げてもらおう。
金銀蓮花は、どうやら萌黄の考えを受け入れたとみてよさそうだ。その為に、竜胆をダシに使ったのだ。
【――そういうことだな?】と取りまとめて思考転写すると、金銀蓮花の眠そうな目が少し見開かれた。
【あら?テレパシーを使いこなせるの?】
【さっき、クラスに戻ってから萌黄にレクチャーされた】
【そんな短時間で?】同じような感想が返ってきた。【だったらごめんなさいね、さっきのテレパシー、強かったでしょ。無理やり思考を突き刺したから】
【い、いや、いい勉強になったよ】
ここまでで思考の会話は実時間で2秒ほど。実に便利だ。しかも、テレパシーだと金銀蓮花は饒舌気味になる気がする。口で会話しているときより話しやすいようだ。
「私の机を運んでもらえるかしら?天草君」
外見的には蔑むような態度で金銀蓮花が命令してきた。テレパシーで会話していなければ、本当に憎まれていると勘違いしてしまいそうだ。思えば、初めて寮で会った時は親しみやすそうな態度だった。彼女はどうやら意外と演技派であるらしい。『守護天使』には必要なスキルなのだろうか?
「分かった」不貞腐れたような態度を取った方がいいのだろうか、と思いつつも、演技をしようとすると口元が綻びかけたので、竜胆は唇を噛んで顰め面をした。
(いかん、どうやらオレには演技力が徹底的に不足しているようだぞ?)
【でも、監視なら傍に来なくてもできるんじゃないのか?】
机を運びながら竜胆が思考を投げると、椅子と鞄だけ持った金銀蓮花が返してきた。
【理由はあなたのペットに言って。私は席を移動する気なんてなかったんだから】
【じゃあ断ればよかったじゃん】
【断れないわ。挑戦されたようなものだから】
【そんなもんか……?】
天使のプライド的な問題かもしれない。
だが、萌黄の後ろの席に金銀蓮花が移動したとたん、
「……納得できねえなぁ!」
教室の端から反論の声が上がった。
(……え?)
竜胆が視線を向けると、仁王立ちになって睨む、いかつい表情の男子生徒と目が合った。
「ああ、あいつは……誰だっけ?」
「宇坪克羅だよ。銃剣道の使い手の」翔摩がぼそぼそと教えてくれる。
「ああ……」
「委員長がそんな好き勝手していいのか?おかしいだろ?」
「……」それに対し、金銀蓮花は面倒くさそうな表情を浮かべただけだった。宇坪の迫力にまるで動じていない。
「委員長がそいつの傍にいくのなら、俺もそこに行くぜ。そいつは危険なヤツだからな」そう宣言すると、宇坪は許可を取ることなく自分の机を掴んでガタガタと迫ってきた。進路上の生徒たちは、迫力に思わず席を動かして道を空ける。
それらへ一瞥もせず、宇坪は竜胆の後ろの生徒へ「下がれ!」と追い払うと、その場所に自分の机を置いた。
「俺もこいつを監視しておく」
そう一方的に宣言すると、どっかりと椅子に座り、竜胆を間近から睨み始めた。
「……あ、ああ」
物理無効化能力がある今、ただの人間の暴力など物の数ではないだろう。だが、それはそれとして怖いものは怖い。とはいえ、宇坪の行動に微笑ましさを感じないでもなかった。
(こいつ……おそらく、委員長の横に座りたかっただけなんだ)
その証拠に、正面を向きながらも視線でちらちら横の金銀蓮花の動きをうかがっているのだ。
【おい、どうするんだよ萌黄、こいつも来ちまったじゃねーか】
【これは予想外でした♪】萌黄も困った笑みを浮かべている。
【ま、気にしないで】金銀蓮花は素知らぬ顔で教科書を机に並べていた。【私が傍にいれば、悪さはしないと思うから】
【いなければ?】
【……さあ】金銀蓮花は目も向けない。【問題があれば言ってくれる?】
【……分かった】竜胆は渋々席に着いた。【何かあったら助けてくれよな】
【ええ。一応、クラス委員長だから】
休み時間終了のチャイムが鳴り始めた。次の授業は……なんだったか。
【ところで萌黄に訊いておきたいんだが】
【はい、次の授業は世界史ですよ?】
【そんなんじゃない】竜胆は、一呼吸置いた。長文の質問は、苛立っているような印象を与えてしまう気がする。【……テレパシーの事だよ。こんな便利なのがあるんだったら、内緒話できる魔法とかいらなかったじゃないか】
【いきなりだと難しいものですし、誤解を招きそうでしたから】
【誤解?】だが、萌黄の不安のイメージが流れ込んできた。今度はすんなり理解できた。どうやら、心を読めると思われたくはなかったようだ。まあ、分かる。本人は否定しても、脳裏に声を響かせることができれば、脳の中身を覗いていると勘違いしかねない。
【でも、第三者のアイカもテレパスフレンドに加わってくれたから、そんな横暴な能力じゃないって分かってくれたと思います。竜胆がこんなにも早くテレパシーに慣れることが出来たのは、アイカに超能力を説明してもらったためかもしれませんよ?】
【そうだな……】それでも、金銀蓮花と口裏を合わせているだけで、萌黄は今現在も竜胆の本音を読み取っている、のではないという証明はできない。
訊いてみるか。【テレパシーって、人の心は読めないの?】
【読めない事も無いです】素直に萌黄が返してきた。【でも、読んでしまうと、相手がESPを持っていなくても、脳みそに強い違和感を与えてしまいます。エスパー相手なら、一発で気づかれるでしょう】
【そこまで便利じゃないんだな、テレパシーって】竜胆はちょっと幻滅した。【会話のツールとして使えるだけじゃないか。スマホのメールとかと同じだ。手間は省けるが】
【ものは使いようです。機能は他にもあります。例えば、殺気とかを感じ取れたりもできますよ?】
【殺気か……なるほど】攻撃しようと思えば、殺気なしでは難しい。必然的に、不意打ちを防ぐことができるはずだ。逆に、姿を隠していても、殺気を持った相手を察知できることができる。【確かに便利そうだな……悪魔の襲撃を防ぐのに役立ちそうだ】
【ただし、過信は禁物です。具体的に言うと、中級以上の悪魔だいたいESPを遮蔽してしまえるのでまず役には立ちません】
【意味ね~!】じゃあ対人用か。【まあいいや、どういう風に使えるんだ?コツかなにかあるのか?】
【ちょうどいい練習台があるので、いろいろ試したらどうでしょうか?】
【練習台って?】
【竜胆の後ろの男ですよ】萌黄がにこっとした。【ものすごい殺気と殺意を、今絶賛竜胆に向けていますので♪】
【マジか……】全然気づかん。
「……」そっと後ろを振り向いてみると――
「……!」むちゃくちゃ凄い目で睨んでいて、同じくそっと姿勢を戻した。
【萌黄】
【はい?】
【こいつをさ、ほら、教師たちにやって来たように洗脳とかできる?】
【情けないこと言わないでください♪】辛辣に素直な意見が返ってきた。【むかついたらぶっ飛ばしちゃえばいいんですよ♪】
【人間社会はそんなことやっちゃ駄目なんだ】竜胆はたしなめた。
【洗脳はいいんですか?】
【うむ……良いか悪いかで言うと、どちらかといえば悪い方に属するような気がしないでもないが、その……なんていうかなぁ……時と場合によっては許されるような気も……】
【聴こえてるわよ】金銀蓮花が教科書に目を落としたままテレパシーで呟いた。【何もしてない相手に精神攻撃を仕掛けたら討伐するからね】
【すみませんでした】竜胆は即座に謝った。そして萌黄に思考を向ける。【萌黄、なんで委員長を傍に呼んだんだよ?なんか色々やりにくくないか?】
とたん、ジロッと金銀蓮花からめんどくさそうな視線を向けられて、竜胆は自分の机に額がつくほど頭を下げた。
【申し訳ありませんでした。心にもない事を……】
【器用ね】冷たさを増した金銀蓮花の言葉が突き刺さった。【心にもないことを考えられるのね】
「……」いかん。テレパシーは本当に推敲の余地が無い。なんとかきちんと制御する方法を習得しなければ。
【あ、一つお教えいたしますとですね】萌黄のあったかなテレパシーがまた伝わってきた。【体が触れ合っていたり、電導性の高いものを互いに持っていたら、テレパシーは外には漏れませんよ。きちっと思考を相手に流し込みことさえできれば】
【オレは素人なんだよ】
【ところで、気づいてますか?竜胆の視覚、かなり広がっているみたいですね】
【ん?】
【前を向いたまま、斜め後ろのアイカが見えたんじゃないですか?ESPがざらッと後ろを撫でていましたよ?】
【ESPが……撫でる?】言われてみると、見えない位置にいるはずの金銀蓮花の様子が理解できていた。あまりにも自然過ぎて、目を向けていないことにすら気づかなかったぐらいだ。
【ホントだ……!これもテレパシーか?】
【いえ、アイカの言った『超感覚的知覚』の『第1種』のひとつ、超視覚ですね。見えない位置、見えない距離、場合によっては見えるべきでないものすら『観る』超能力です。今の竜胆は、後方視界がちょこっと広がってみるみたいですよ】
【おお……!】見えるべきでないもの、というワードに引っかかりは感じたが、勇躍と正面に顔を向けたまま、萌黄を見ようとした――。
【ん?ぼんやりとしかお前が見えないんだが】
【ESPを使ってないじゃないですか。集中が足りないです。もっとしっかり私を見てください♪】
【そ、そう言われたってだな……!】さっきはなんで観れたのだろう。金銀蓮花への恐怖感みたいなものが、一時的に集中を促したのか?
【あ、超視覚をマスターしても視姦とかしちゃ駄目ですよ?】
【誰がするか!】
【あと、ESPを持った相手に使うと、テレパシー同様に察知されますので注意してください。闇夜の探照灯みたいに目立ってしまいますから】
【意外と使いづらいんだな……】
試しに、真後ろの宇坪の顔を、その超視界とやらで観ようとした。
だが、全然うまくいかない。うまくいく気がしない。集中が足りないのか?
【なんだか、必死に真後ろから視界を背けようとしてません?絶対観ないように、ぐらいの意志力を感じます】
【いや、観ようとしてるんだよ!】
……でも、言う通りかもしれない。できれば宇坪の睨んでくる顔なんて見たくない。
そうか、見たくないと心が目を背けているものは観れないのか。例え見るべきだと思っても。集中力の問題でもあるが、心の制御が出来ていないのは、やはり最大の問題だ。テレパシーの使用も含め、じっくりと鍛える必要があるな……。
と思ったら、突然手を伸ばした萌黄に頭を抱えられた。ぐぎぎ、と首がねじ曲がって萌黄の胸にこめかみ辺りが押し付けられる。
「な、何を……!」頬を赤らめた竜胆に、
【あ、ほら校庭に!】耳元で萌黄の無邪気なテレパシーが炸裂した。【かわいい子猫達がいっぱい遊びに来てますよ!】
【なにィ!】
ギン!と校庭を走査した!右から左!左から右!長いトラックにゴールポスト、教師から訓示を受けている体育の授業の生徒たちの姿に、鉄棒、国旗台、遠くにまだ使われていないプール、更にその奥の巨大に連なる学園フェンス――【どこだよっ!】
こめかみに、中指を持ち上げたゲンコツを押し付けられてグリグリされた。
「いたたたた!」
【視姦しちゃ駄目って言いましたよね♪】
【猫を観ることのどこが視姦だ!】
【私がそう決めたからそうなんです!】
【無体な!】
頭を解放されて、改めて竜胆は校庭を眺めた。教室からは、校庭の様子が一望できる。
だが、さっき感じた光景に比べると、どこか色褪せているように感じた。
(今のが、超視覚か……)
なるほど、目で見るより詳細な視界であるうえ、校庭を俯瞰していたような気もする。
【本能に直結していたら、集中できるようですね】揶揄じみた萌黄のテレパシーが飛んできた。
【みんな、そんなものじゃないか?】しかし納得だ。やはり集中力が欠けている。勉強や読書の際の集中は自分でも大したものだと自賛していたが、それでもまだまだ不十分らしい。勉強中でも、ふと顔を上げて猫の写ったカレンダーに目が留まると、一時間ぐらいイメージの世界に飛んでしまうしな。
気合を込めて、今一度宇坪を超視界で観ようとした。だが、ダメだった。代わりに、じりじりとした熱気のようなものを感じ始めた。これは殺気だろうか、殺意だろうか。それとも怒れる意志が体温を上昇させてもいるのか。そこまで恨みを買った覚えは全くないが、竜胆を監視する名目で席を移ってきた以上、睨んでおく必要があるとでも思っているのかもしれない。そう思うと、意外と律儀なヤツだ。
しかし、気分がいいものでもない。金銀蓮花は宇坪の状態に気づいているのか、と身をよじって目を向けると――
「……」金銀蓮花はスマホを耳に当てていた。
「……ええ、そうして頂戴」
彼女は、そう電話口にささやくと、何やら意味ありげな一瞥を竜胆によこした。そして、「すぐに行くから」と答えてスマホを切ると席を立つ。
「今の相手、誰?」なにやら自分に関りがあるような気がして竜胆は訊いたが、
「ん、まぁね……」常になく金銀蓮花は適当に濁すと、まだおしゃべりで姦しい教室を静かに出て行った。教師が来ていないとはいえ、授業時間中など気にもした様子が無い。まあ、学生の身分は飾りなんだろうが、体裁が悪くないか?一応、クラス委員長、なんだから。
――そうして、金銀蓮花がクラスから姿を消した途端だった。
ドガッ!と竜胆は背中に衝撃を感じて軽くのけ反った。エッ?と思った。まさか、こんなにすぐに?
半ば振り返ると、面白がるような表情の宇坪が二度目に椅子を蹴りつけるところだった。
ガコッ!と椅子がつんのめる勢いで蹴られて慌てて机にしがみついたが、竜胆自身には微塵もダメージはない。
肉体構造が人間と違うって理由もあるだろう。だが、それ以上に衝撃に対する感覚が違う。なんというか、体を取り巻く水のような壁が渦を巻いて受けたエネルギーだけを巻き込み、どこかへ押し流してしまっているようだ。それこそ異次元かどこかに放り捨ててしまうような。もし高所から飛び降りたとしても、地面との衝突エネルギーすら大半が別次元へと漏れ出していくだろうと直感が教えてくれる。実に奇妙だ。
ドガッ!
思索にふけっている場合ではない。しかし、どうしたものだろう?
萌黄に案を聞こうと真横を見た竜胆は、しかし慌てて目をそらした。見てしまったのだ。にま~、と笑みを浮かべる彼女の顔を。それこそ宇坪と同等か、それ以上に面白がるような笑みを。
これはまずい。萌黄の『勧善懲悪』が発動する危険性がある。そして、竜胆の戦闘力について実証実験をしたがってもいる。あのリモコンを持ち出される前に、とっとと離れてしまうべきだろう。
ドガッ!
翔摩が立ち上がる気配を感じ、竜胆はすっと振り向いて小さく首を振った。余計な手出しは無用だと。
だが、翔摩の表情も想像とは違っていた。憤りは感じるが、なんで早くやっつけてしまわないのか、という疑念を含んだ憤りだ。
まずい。味方がいない。
「ここを出よう」
と竜胆は席を立ちあがった。最後の救いを求めて教卓に目を凝らす。くそッ、教師はまだか。チャイムはとっくに鳴ったんだぞ。
と視線を外したのが悪かったのか、それとも何をしようが結果は変わらなかったのか、萌黄の机にはいつのまにかリモコンが置かれ、制止の声を上げるいとまもなくパワーボタンが押されていた。
――そこから先の騒動は言うまでもない。
竜胆はまず宇坪克羅をぶっ飛ばした。ついでに取り巻きをもぶっ飛ばした。おまけにやって来た教頭までぶっ飛ばす羽目になったのだった。