1.過去:天草紫苑、49回目の災難
「早く死ねッ!」
天草紫苑は、誰もが認める物腰の柔らかな気の優しい青年であったし、誰かを罵倒した事だってただの一度もない。「早く死ね!死ね死ね死ね!死んでくれッ!」
だが、この時は祈るような気持ちで甲高い叫びをあげていた。両手の親指でトリガーを懸命に押し下げ続け、激しく震える銃身を全力で抑えながら、旋回軸で右に左に銃口を振り、必死に一匹の『敵』に徹甲弾を注ぎ込む。
耳元の通信機からは、逐一敵の位置がグリッド上に伝えられるが、全然頭が理解できない。配置を完全に覚えていたはずなのに、まるで別の世界の言語みたいだ。結果、トリガーから親指を離して銃座の上に伸び上がり、敵を確認しては射撃の再開を繰り返す。
まるで新兵みたいだ、と心のどこか冷静なところで彼はげんなりした。実際に着任1年未満なので紫苑は新兵には違いない。それでも、自分では慣れていると思い始めていたのだ――『悪魔』を殺すということに。
[ギャアアア!ギャアアアアアーーーッ!]
周囲から降り注ぐ砲撃と銃撃の嵐の轟音をついて、耳に刺さる『悪魔』のかすれたような高い唸り声を、紫苑は極力無視していた。
(椅子があればいいのに)
痺れる頭をほぐすように、紫苑はどうでもいいことを考えた。(座って撃ったら、もっと命中させられるじゃないか?)
どこに申請を出そうか。上司?司令官?それとも市長?
まるで機械のような手つきで、紫苑は機関銃を再装填した。蓋を開け、給弾ボルトを取り付けて蓋を閉め、願いを込めてレバーを引く。一々伸び上がって『悪魔』を探す手間の所為で、意図せずに銃腔の加熱が抑えられ、射撃は延々と続けることができた。
――この銃の壊された最後の瞬間まで。
〇 〇
――その場所は、形状からアリジゴクの巣を思わせた。
直円の砂地は中心に向けて緩やかなすり鉢状、ド真ん中に恐ろしい化け物が潜んでいることだって同じだ。
ただし規模は巨大で、半径200メートルにも及ぶ。
更に異なるのは、広大な砂地を上り切った外周全円をぐるりと覆い尽くす、殺意もあらわな武器武装の数々だった。輪になった強固な防御陣地には兵士たちが立て籠もり、無数の銃や大砲の類が砂地の中心へ切っ先を向けている。その砂地だって、4重の鉄条網に地雷を含んだ多種多様な罠の待ち受ける、執拗なまでのトラップゾーンと化していた。
ここは、中心に潜む化け物が獲物を待ち構える場所などではなかった。それとは全く逆――化け物を、地獄から這い出てくる『悪魔』を外周から集中して攻撃を加え、撃滅すべく作り上げられた、非捕食者たるか弱き人類の抵抗の砦であり、人間世界を守る盾なのだ。
――全世界には、合わせて数十万を超える悪魔の『出現孔』があるらしい。
悪魔との戦いは、間違いなく有史以前には既に始まっていて、その証拠に全世界あらゆる地域の壁画や彫像、粘土細工などに様々な痕跡が残されている。特徴的なのは、不気味な穴を這い出てくる化け物の姿、あるいは容赦なく人を喰らうそのおぞましい光景か。
時代が下るにつれ地底から這い出る魔物の形や対策、被害状況といった有益な情報が付加されつつ、より具体的に、より実践的にと情報文化が進化発展していった。悪魔への脅威に対抗こそが、人類へ文明進化を促した要因なのかもしれない。
傍若無人に人間を食い殺し、虐げ続けてきた悪魔が、世界中の神話や伝説に影響を与えたのは間違いない。悪魔を倒した英雄の存在が神に等しく崇められ、信仰を得、ある場所では反対に悪魔自身が偉大なる存在と奉じられている。とはいえ、全体を見ると迷走気味にも思える世界の神話の最後は、いずれも無数に湧き出てきた悪魔が全人類を蹂躙し、あと一歩で破滅するシーンに帰結する。途方もない大被害ののち、救いをもたらすのは神や天使、神の子に超人、人知を超えた偉大なる存在だ。逆に言えば、もし最後の瞬間に彼らが救いをもたらさなければ、人類の滅亡は避けられぬとの自覚の証左と見て取れる。人類の共通認識においてずっと、悪魔は時代を超えて、差し迫った危機であったのだろう。
悪魔が這い出てくるのは、地上に開いた漆黒の『亀裂』で、当然その下には悪魔の『巣』があると考えられていた。
ならば埋め立ててしまえと先人たちは当然思っただろうし、行動にも移してきただろう。
だが、悪魔は容易く埋めた岩を押し返し、あるいは嘲笑するかのように別の場所から躍り出た。抵抗を諦め、悪魔に鎮め祈りを捧げる者が出始めたのもむべなるかな。
近年になって、どうやら『出現孔』は独立したものではなく、地底の遥か深く深く――人の想像の埒外ほどに深い、超大深度にあるという凄絶なる異郷『地獄』にすべて直結しているらしいと言われるようになった。それが正しければ、『出現孔』の埋め立てにいくらか成功したところで、悪魔の総数には何の影響も与えやしない。
人類に出来ることは実に少ない。現代の軍事力を以てしても悪魔一匹の撃退すら困難だ。
だが、生き残りたければ、立ち向かわねばならない。地獄から這い出る悪魔にただひたすら抵抗し、退け、戦い続けるしか人という種に生存の道はないのだ――有史以前と同様に。
――とはいえ、人類は挫けたままだろうか。弱者の地位に甘んじ続けるべきだろうか。
科学の進展は、それに一石を投じた。遠い未来、悪魔を凌駕する力と技術を持ちえた時、地獄へと強大な武器と戦力を以て逆侵攻し、地球を真に人類の手のものに出来る日が、もしかすると来るかもしれない……。
「……いえ、遠い未来なんかじゃない」
まだ平穏そのものの防御陣地――監視哨の鉄格子の窓越しから、溶けていく煙草の煙を目で追いながら、鉄帽と野戦軍衣姿の青年はうっとりと澄んだ青空へと微笑んだ。「僕たちの時代でそれを成し遂げられれば、どんなに素敵でしょうか」
彼の名前は天草紫苑。序章に登場した天草竜胆の父の弟、すなわち叔父にあたる。両襟に記された階級は特技兵、齢23歳の夢多き青年であった。
「いや、うん、まあ、そう言われればそうなんだがなぁ……」
歯切れ悪く言葉を濁しす上司は、悩み深げな顔で空に紫煙を吐いて応じた。こちらは曹長の階級章である。苗字は葎、紫苑の属する分隊の隊長である。
彼らのいるのは、円形の砂地を見下ろす監視哨所だ。半径200メートルの砂地エリアを隙間なく鉄筋コンクリートの通路が取り囲み、内側に張り出した10の監視哨があり、2か所に重火砲が配置されている(時計盤で言うと6時と12時の位置だ)。人員は総数212名で3交代制。この時間は70名超が勤務に就いている計算になる。ただ、半数近くは支部やパトロールに出向いているので、陣地に詰めているのは40名ほどだろうか。
この『悪魔の出現孔』を遮蔽物でドーナツ状に取り囲んだこの様式は、悪魔撃退に特化したワールドスタンダードな『コロッセオ』式と呼ばれる。
日本での正式名称は『防魔円型堡塁』なのだが、呼びにくい為メジャーにはならず、単に『コロッセオ』の名称が定着している。
「……俺はせめて、もっと立派な装備が欲しいよ。何十年前の武器だってんだ。弾も不足がちだし、『籠』も壁にも穴が開いてるしさ……」
「はぁ……」
「人も足りないし」ムグラは止めどもなく愚痴った。あんまり褒められた態度ではない、とは自覚している。「要は金だな……資金がないんだ。国力と言ってしまえばそれまでなんだが」
「そうかもしれませんが」
「ただ、『悪魔』さえあそこから――」視線を空に固定したまま、煙草の先だけを遠く霞む『出現孔』に指し示した。「……一匹も出て来さえしなきゃ、こんな楽な商売は無いし、なにもかも万々歳なんだがなぁ……」
「そうですね……」
未来に思いを寄せる紫苑だが、現実を見るとげんなりせざるを得ない。むしろ、現実が分かるからこそ未来に夢を見たくなるのかもしれない。
『コロッセオ』の形状はスタンダードでも、質は異なる。日本でも大都市ならばもっと大きく、もっと重厚で、もっと武装が充実している。
だが、地方都市の銀葉市コロッセオに潤沢な資金など期待するべくもなかった。通路と12の武装エリアは鉄筋コンクリートではあるものの、空いた隙間はネットで囲った大きな段ボールみたいな箱に土を詰めたものと、土嚢が多量に積み上げられている。ムグラ分隊はさっきまで段ボール防壁に土を入れ続けていたのだ。モノがモノだけに、劣化が少々早く、半年もすれば防御力も落ちてしまう。長雨だともっと早い。数も多量なので、全部隊でかかっていても、毎日が補修に追われ続ける。
「この前交流会で東京に行ったらさ、自動制御の機関砲が多量にあったんだぜ」ムグラがぼやき続けている。「最新の徹甲弾も。砲の数も。なのに、悪魔の出現数はうちの方が遥かに多いって、やってらんねぇよな。……あ、上には言うなよ」
「上も同じ気持ちではないでしょうか……」紫苑は頷いた。「……でもなんで最近になって悪魔がこんなに多いんですかね」
「……。さあ、そこだ」ムグラは目を逸らしたままだった。「なんて言おうかなぁ……」
「はい?」
含みのある言い方に紫苑は次の言葉を待ったが、ムグラは次の煙草に火を点けただけだった。
遠くで学校のチャイムの音が響く。腕時計に目を遣ると、昼休みであろう時間になっていた。
「……」
紫苑はしばらく身内のことに思いを馳せた。
悪い事があった。中学2年生になる姪が、悪魔由来の不治の病に罹ったらしい。そのことも気がかりだが――
(竜胆君は知っているんだろうか……)。
彼女の弟にあたる甥の気持ちを考えると胸が締めつけられた。小学6年生に上がった竜胆君の顔を思い浮かべてみる。姉がもうすぐ死病で亡くなると知ったら、どれほどのショックだろうか。同じ銀葉市に住んでいるので、紫苑は休みになる週に1度は家を訪問していたが、足が遠のいてしまいそうな重圧を感じている。
だが――と、紫苑は気持ちを切り替えた。
良い事もあるのだ。
「……僕ね、実は付き合ってる彼女がいるんです」
紫苑は照れ隠しにひらひらと飛んできた蝶に手を差し伸べて、捕まえるふりをした。当然、蝶は触れられることなく、ふわりと宙へと逃げていく――。
「今日の勤務が終わったらプロポーズするつもりなんですよ、指輪も買ってあったりして。ほら、ここに」
胸をちょっと叩いて、また遠い目をした。「ああ、早く勤務が明けないかなぁ……」
「……なんかさ、聞いていい?」
なんらかの覚悟を決めたように、ムグラ曹長は声のトーンを変えた。「天草さ、ここの勤務に就いてちょうど一年だよな。……これまで何回悪魔の襲撃に遭遇した?」
「……。え~……。正確な数は分かりませんが、40回ぐらいですかね」
「……言い換えるぞ?お前はこの1年、あそこから――」と、顎で砂地に遠く見える黒い穴を示しつつ、「這い出てきた悪魔との戦いに常に参加してきた。その中でだ、襲来時にお前が休憩中や非番でさ、待機中でもいい、後から駆け付けたことはあったか?」
「ないですね」紫苑は即答した。考えるまでもない。「すべて、僕がコロッセオ勤務中に襲撃を受けています」
「ほら~!」
嘘つきを見つけたぜ、みたいな勢いで指を突き付けた上司は、気まずげに格子窓に戻ると咳払いした。「ンンっ、いや、ほらっていうのもなんだがな、えっと……怒らないでくれよ?仲間からさ、あくま~で遠慮しがちにだけれども、お前が夢を語りだすとさ、悪魔が襲撃して来るって噂されてるんだ。……聞いたことないか?」
「いえありません」ショックを受けた紫苑は、防音イヤープロテクターを外して上司を見つめた。「なにか僕に疑わしい点があるのでしょうか」
そういえば、同じ監視哨にいる分隊仲間の面々が、今日はどうも距離が遠い。
「いやいやいやとんでもない!」慌ててムグラは否定してタバコの火を消した。元から八の字眉毛なので困ると本当に困った顔になる。
「お前は優秀だし、熱意もあるし、誠実だし、悪い噂もほとんど……いや、ない、無いと言っていい。
……たださ、たまたまさ、そんなことが続いたからさ、48回もさ。次で49回目だからさ、ちょっと俺も不安になったわけよ。いや、悪魔と戦うのが嫌ってわけじゃない。俺だって悪魔の手から人類を守るのに命を懸けてるさ。でもさ、できれ~ば襲撃は無かった方がありがたいわけよ。平和が一番、平和が最高、このまま悪魔の襲撃もなく穏やか~に過ごせたらさ、それが一番いいと思うんだよな~。さっきも言ったと思うけど」
とたん、天井の放送機器から、高音と低音の入り混じった耳障りな警戒音が3回鳴った。
3回――悪魔の襲撃警報だ!
サイレンは、逆に悪魔を呼んでしまうので、通常は使われない。要塞を突破されそうになって初めて鳴動する。正確には、トラップゾーンである砂地を悪魔が突破し、コロッセオまで入り込まれた場合に、全市へ警戒警報が鳴り響く。外に出られてからサイレンを鳴らしても遅すぎるのだ。この場所こそが、人類にとっての水際なのだから。
「ほら~!な?」曹長はがっかりした風に呻いて俯いた。「なんかそうなると思ったんだよぉ~!はぁ……」
だが、のろのろと跳ね上げていたメットとガスマスクを装着すると、ぐっと姿勢を正した。
「葎分隊各員戦闘準備!」その口調は、さっきまでのだらだらが無かったかのように力強い。
イヤープロテクターの通信機越しに隊長の命令が分隊全員に流れ、全員が戦闘態勢に入った。
「は」紫苑も装備を付け直し、重機関銃に取り付いて安全装置を外す。上番の際には、すでに装弾も済ませ、試射も終えていた。狙う先は当然『キャザム』の黒い穴だ。
ムグラは双眼鏡で監視を始めた。
すり鉢状の砂地には4重の鉄条網に地雷原、大型ベアトラップ等の罠が多数仕掛けられ、重火器陣地2か所からは平射砲と機関砲が、監視哨からはワイヤーネットランチャーの他、機関銃に対物ライフル、携帯ロケット砲などなど針ネズミがごとき多量の武装で悪魔の出現を付け狙う。とはいえ、東京コロッセオの話を聞いた後ではいかにも心もとないものだった。なにしろ、悪魔への物理ダメージは、ほとんどが減衰してしまうのだ。
悪魔はどんな形をしているかまだ分からない。まずは『出現孔』を下りた『巣』内最深――と言っても、精々地下2階層までだが――に設置した監視機器で、意図的に物体が地上へ接近するのを察知し、他の監視機器が続報を入れてくる。より多くの機器を設置できればいいハズだが、『巣』内は電波が遮断されてしまう上、『地獄』由来でない物質は悉く劣化が早い。複雑な機器は短時間で腐食自壊してしまう。
「気合入っているか天草!」ムグラは強気な口調で尋ねた。
経歴の長い彼は、どんなに用心深く振舞っても、戦場で兵士はたやすく死ぬことと理解している。苛烈な戦場ともなれば、強いとか弱いなどまるで関係なく、クジ引きのように人は死ぬ。それでも感覚的に思うのだ。弱気になればそれだけ死ぬ確率が上がるのだと。
「知ってるよなぁ、ここ1年、うちのコロッセオの悪魔襲撃回数は、全国で1位になったらしいぜ。……そして戦死者はなし。すごくないか?」
「ええ、本当にそう思います」
「ネスト内パトロールもさ、記録がある限りここで死んだ奴もいないんだ」
ネスト内パトロール――その名の通り、『ネスト』内に立ち入り、内部調査と劣化激しい監視機器の交換を行う、各分隊が持ち回りで行う月に一度の任務だ。危険性で言えば断トツで、ネスト内部で悪魔と遭遇すれば戦死はほぼ確定する。実際、それで分隊が全滅した事例は他所には五万とある。
――そう考えれば、銀葉市コロッセオはラッキーなのだ。今はまだ。
紫苑は、まだ任官1年目なので参加はしたことがない。初参加は来月の予定だった。
≪――要塞各員に伝達≫天井のスピーカーから冷静な声が流れた。≪悪魔は1体。平均移動速度は毎時36km。地表到達時間はおよそ4分後。予想体重およそ600~800kg≫
「良かった。まだ軽量級だな」上司は冷や汗を拭いながら歯を見せた。
紫苑はじっと『キャザム』を見つめ続ける。巨大な砂地がすり鉢状に傾斜しているのは、全周囲攻撃を可能にするためだ。細かく言えば、水平射で内郭同士対面に被害を与えてしまわないためだ。念のため、銀葉市コロッセオでは対面に位置する監視哨には人員を配備しないことになっている。
とはいえ、十分な人材がいないのが最たる理由だ。今だって重火砲陣地2か所に計20名、監視哨2か所に計20名というところか。待機組もじきに基地から駆けつけては来るだろうが。
「ふー」
上司は一点注視しながらにやりと笑って見せた。「うまくいくさ、今回もな。天草もそう思うだろ?」
「ええ、もちろんです」紫苑は、トリガーを構える右手の袖に手をかけた。「このチェーンは訓練学校の時からのお守りなんです。これがある限り、死んだりはしません」
と袖をめくった途端、お守りチェーンがばらばらにちぎれて破片となって無数に跳ねて散らばっていった。
「……」信じられない、みたいな色を浮かべたムグラのどんぐりまなこが、紫苑を見つめた。
≪悪魔接近、約1分後――敵は人型≫
慌てて上司が双眼鏡に向き直る。陣地中に緊張がみなぎるのも空気で判った。
≪……30秒≫
≪……15秒≫
≪……5,4,3,2,1……≫
そして訪れる奇妙な沈黙。
瞬間――砂煙を噴き上げて金切り声が鳴り響き、赤黒い塊が宙に飛び出した!
あれが――『悪魔』だ!
その瞬間、3つのことが同時に起こった。
すかさずばらまくように放たれた飛翔体のいくつかがそいつに命中し、放送が緊張の声音を吐き出した。
≪対象の物理攻撃無効化率……65%!≫
最初の飛翔体は全て観測弾だ。命中して飛散した弾子のデータを解析し、悪魔の特殊な防御能力を数値にして割り出してくれる。
どういうわけか、悪魔には物理攻撃が通用しにくい。近世の研究者から、衝撃エネルギーが異次元にでも流れて行っているのらしいと言われ始め、今もって物理攻撃をある程度無効化してしまう現象は解明されていない。そして付いた名称が、『ディメンション・ディスターバー』。それが65%ということは、今出てきた悪魔はダメージを65%無効にしてしまえるということだ。ただし、悪魔自身の装甲強度は別らしい。その違いは戦闘員として理解しているとはいえないが、少なくとも攻撃の目安程度にはなるだろう。
そしてまた、『キャゼム』のすぐ下で爆発が起こり、塊となって穴を塞いだ。悪魔に『ネスト』内に逃げられてしまっては、別の穴を地表のどこかに掘ってしまうかもしれない。地上に出てきた以上、ここで滅ぼさなければならないのだ。
塊の材質は時限粘着性の急速硬化ポリマーで、着地の衝撃で割れた内包水が瞬時に塊を硬化させ、充填防御の要領で悪魔の退路を断ってしまう。ただ空いただけの穴なら周囲を破壊してしまいかねない膨張力だが、『アビス』の材質は人類の技術では変容させえない。塊は一定時間で乾燥して砕け始めるが、それまでに悪魔を滅ぼせなければ、コロッセオは既に突破されている換算だ。
そして最後に起こった3つ目で、天井から四角い鉄柵が火薬を使って勢いよく下ろされ、悪魔を鉄の籠に封じ込めた。
しかし、折れて隙間の空いた鉄柵から、悪魔はぬるりと抜け出していた。
(あ~あ、やっぱりな……)眉毛をがっかりさせたムグラは、次の瞬間、力強く声を上げた。
「分隊、撃てェッ!」その号令がムグラの、いや、内郭中の全ての場所で沸き起こり、猛烈な火線が『悪魔』に集中した。
先ほどまで静寂だっただけに、世界が終わるかのような轟音だった。爆音に破裂音、空薬莢の落ちる音。火閃が迸り、吹き上がる砂と黒煙が、駆ける悪魔の姿を覆い隠す。
≪対象方位3時、中心より120m≫
コロッセオの真上には、飛行型悪魔の突破阻止のために超硬ワイヤーネットが一面に張られ、各所にセンサーカメラが取り付けられている。状況はグリッド上で伝達され、部隊にとって悪魔の位置は手に取るように把握可能だ。
しかし、方位3時とは。まさに紫苑のいる方角だ。
≪方位変わらず。中心より110m≫
ここでいう中心とは傾斜中央、つまりは『キャザム』のど真ん中だ。中心に距離が近づいていると言う事は、悪魔を地獄へ押し返しつつあるというわけだ。もちろん、退路を断っているので、文字通りあの世に送ると言う意味でだが!
しかし、この悪魔は活発に動き続けていた。まるで機会を窺うかのように。
悪魔対策の大前提がある。素早い悪魔は、とにかくまずは動きを止めることだ。それなりに動く悪魔も、なんとか動きを止めるべきだ。のろのろした悪魔も、とりあえず動きを止めなければならない。
最上策は、鉄籠で封じ込め、機関砲で処刑同然に蜂の巣にすることだった。これで倒せた悪魔が、このコロッセオでは一番多い。
鉄籠を壊して出てくる悪魔には、鉄条網で動きを阻止しつつ、平射砲を含んだ集中射撃で敵を葬る。ここまでで合格だ。
鉄条網すら突破した場合、ワイヤーランチャーで動きを止めて集中射撃し、撃滅する。これで及第点となる。
あの悪魔は鉄籠(穴だらけ)を抜け、第1、第2鉄条網(元から破損個所多し)を既に突破した。
大砲の直撃を受け、真横に吹っ飛ぶのも見える。ただ、物理攻撃無効化能力とやらがあるためか、砲の威力を考えると、吹っ飛ぶ距離は短すぎる。とはいえ、ダメージはゼロには出来ないだろうし、これまでの48匹の悪魔は全て内郭に取り付かれるまでに撃滅を果たしてきた。
(今回もうまくいくに違いない)
ガスマスクの中で汗をにじませながら、紫苑はただひたすらに銃撃を続ける。だが――
(くそ、速い!)
射撃が当たらない。全て躱せているわけではない。攻撃を受け、肉体の破片が飛び散っているのが遠目でも分かる。だが、致命傷を与えられてはいない。
「死ね!」我知らず、紫苑は呻いていた。「悪魔め!早く死ね!死ね!滅べ!砕け散れ!」
そう言って必死に鼓舞しなければ、手が止まってしまいそうだった。どういうわけか、あの敵は、紫苑に目を付け、命を奪うべく隙を窺っているように思えて仕方がないのだ。
それからもただひたすらに叫び、呻き、銃撃を続け、そうして遂に爆炎の中に悪魔が掻き消えて行ったように思えたとき、紫苑はつい叫んでしまったのだった――。
「やったか!」
「黙ってくれ!頼むから!」懇願するような上司の制止の声の直後だった――。
≪対象高速移動開始!方位変わらず3時!中心より120m!150m!180m……!≫
四方八方から斜めに吹きすさぶ豪雨のような炎と光の奔流の中を、赤黒い獣が紫苑を目掛けるように突進してくる。粘着榴弾が直撃して、体がバラバラになったような気がしたが――
ドガンッ!
握っていた重機関銃が折れ曲がって宙を飛ぶのを、紫苑は目を見張って見つめていた――
たち込める噴煙を引き裂くように巨大な塊が監視哨の真下へと突っ込んでくるや否や、紫苑の立てこもる5メートルの高さを飛び上がって殴りつけたのだ!防楯ごと壊された機関銃が、破滅的に重い音を立てて床に跳ね、紫苑は真後ろに弾かれて背後の扉に背を打ち付けた。
「いてて……!」
顰め面でずれたマスクを戻そうとした紫苑は、次の瞬間、心臓を鷲掴みにされる恐怖で目を見開いた。
間近で直視してしまったのだ――笑うような甲高い叫びをあげる悪魔の姿を。
――そいつは、地肌がむき出しになった巨大な狒々を思わせた。胸に埋め込まれたような位置にある頭部は、巨大な人の骸骨に見え、眼球のあるべき場所は無残に砕け、黒い空洞のみがある。全身がぬめぬめと赤黒くテカっていて、腕と足のあるはずの部分に、プラナリアじみた巨大な触手が数本ずつ生えていた。触手の半分ほどはどこか欠損し、ぼとぼとと血液らしき黒い粘液を垂れ流していたが、それが攻撃の成果なのだろう。なのに痛がる様子はまるで見えず、残った触手を力強く大窓のへりに突き立てて、宙に浮いた体を支えていた。足が無いのに高速移動できたのは触手を足として使ったためか。それに銛の先程度の足ならば、大足で踏みつけるよりも地雷原を突破し易かろう。なにが人型だ!
攻撃は止んでいた。砲弾が3時監視哨の兵士を殺傷してしまうからだ。だから、今は規定通り可及的速やかに撤退する必要があるが――
濁った水音のような音を立てて、触手の数本がぬらりと紫苑の体に向いた。そのプルプル震える切っ先が、銛のように鋭く巻いて尖り始める――。
「あ、うあッ!」
意味もなく、紫苑の踵は床を掻いた。逃げねば、と感じたが、体が動かない。呼吸ができないのだ。肺に入った息が、どうあっても外に出せず、徐々に視界が黒くなっていくのを自覚する――。
「た、退避~ッ!」
ムグラが突っ込んた勢いで紫苑を抱えて横に飛び、直後、背後にあった扉に甲高く触手銛が突き刺さった!
「はッ!」
床に倒された彼は危うく意識をとりとめた。だが、危機的状況はまるで変わらない!
触手銛が引き抜かれ、駆け寄ったムグラは必死に後ろの扉を蹴りつけた。だが、扉は僅かに開いたままビクともしなかった。どうやら歪んでいるらしい。
「ヒィッ!」と言う喘ぎ声は、ムグラの恐怖の声だった。
周りには、僚友たちが慌てふためいて武器を構え始めているが、到底間に合いそうにない!
悪魔は触手を振り上げると、2人を危害すべく真横に振るった!
ゴンッ!と響いた音は、大窓に等間隔で埋め込まれた鉄格子だ。小型の悪魔が飛び込んでこないための防備だったが、狒々悪魔には気付けなかったらしい。目がやられた為だろうか。
しかし、格子は一撃で歪んでしまっていた。次の攻撃には耐えられまい。
そして悪魔は薙ぐ、のではなく、またも突きの姿勢で触手を後ろへとたわませた。切っ先は当然のようにユラリと紫苑を向いている。
「くッ!」無駄だ、と分かりつつも紫苑は両腕を連ねて顔を守ろうとした。
ドゴォッ!と炎と粉塵が飛び散り、高熱がぶわっと紫苑に押し寄せた。だが、衣類やマスクのお陰で火傷はない。
悪魔が格子を掴んだままずり落ちかけていた。屋上に展開していた携帯ロケット持ちが直撃させてくれたらしい。いや、近距離では爆発しないはずなので、向かいの分隊か距離を詰めてきた待機組の支援だろうか。一歩間違えば紫苑を焼き殺しかねない一撃だったが、危うく命を拾えたと感謝しかない。
直後、僚友の対物ライフルが真横から悪魔に着弾し、表皮からビチャビチャと粘液が飛び散った。
いかにライフルの威力が高くとも、機関砲の集中連射をこうも上回るものだろうか。だが、この状況ではありえるのだ。不思議なことに――悪魔には、攻撃者が近ければ近いほどダメージが通りやすいと知られている。もちろん、攻撃者自身の危険度はうなぎ上りに跳ね上がる。
衝撃で揺らめく悪魔だが、懲りずに触手を屋内にまで差し込んだ。そして体を固定した状態で射撃してきた僚友達へ触手の多くを差し向けると、散弾のように突き出した。
恐ろしく伸びる触手だ!だが、狙いは正確とは言えない。その切っ先は壁にぶつかり、天上にぶつかり、兵士の体にはかすりもしなかった。とはいえ、刺さった個所はコンクリートが破損し、破片を待撒き散らしている。呆れるほどに凶悪な威力だ!
屋根から降りてこようとした仲間が、慌てて足を引っ込めるのが見えた。その足音に、触手がピクリと上を向く。
「こうなったら!」
ムグラ軍曹が腰から拳銃を引き抜いた。無茶だ!
「待ってください!」
咄嗟に、紫苑はムグラの手に飛び掛かって拳銃をひったくると、背後の扉へと放り投げた。ガン!と固い音を立てて銃が表面を跳ね返る。
たちまち殺到した触手が、拳銃と扉をまとめてぶち抜き、ひしゃげた扉の下に大人が通れるほどの隙間が開いた。
「良くやったぁ!」
ムグラは一声叫ぶと紫苑の脇を掴んで廊下まで引っ張りだし、僚友達を仕草で呼び寄せると全力で廊下を走りだした。
脇を掴まれたまま廊下を走り出した紫苑だが、眼前の壁に、ズゴッ!とひびが入って腰を抜かしかけた。そんな体をムグラは必死に引き摺り、正面の扉を開けて逃げてきた部下を招き入れると、最後に入って扉を閉める。
「敵、3時監視哨に到達!交戦中!対岸からの狙撃を要請!……対象は、音に反応する傾向があるようです!」
ムグラが共通チャンネルで通信し、その間に全員が扉にバリケードを築き始めた。
監視哨同士の間には、補給所がある。予備の弾薬や整備品の他、悪魔がコロッセオ内にまで侵入した場合に備えて近距離武器も置かれている。火炎放射器、チェーンソーに手榴弾、散弾銃に突撃銃、そして悪魔に特に効果的と学者の述べる、刺突地雷に破甲爆雷――。
一同は武器を選び始めた。突撃銃で威力不足だ。みな対物ライフルを掴み上げたが、行き渡るには1挺足りない。
「僕はこれでいきます」
と紫苑が取り出した刺突地雷を、連絡を終えたムグラがすたすたとやってきて無言で叩き落とした。棒の長さは1.5メートル。安全栓を抜き先端の針を密着させると漏斗状の地雷が爆発して敵を破壊する。ただし、普通は使用者も只では済まない。
「こいつは悪魔に特効があるとか――」
「別のを使え!」
「じゃあこれかな?」
と持ち上げたチェーンソーを、またも分隊長は叩き落した。そして紫苑の首を絞め始めた。「わざとか!わざとやってんのかお前は!……そうだな、手榴弾だ。天草は投げるのは得意だろう?」
「は、はい!大得意です!」
「よし!全員これより反撃開始だ!ただし極力悪魔から距離を置け。遮蔽に身を隠し、撃った瞬間に伏せろ!近づいてきたら足音を殺して逃げろ!これから4時郭に向かう!今の悪魔の位置はッ……なに?」
「……あ、イヤープロテクターがずれてた」
紫苑は耳当てを付け直した。
――気が付くと、全員が紫苑を見詰めていた。
「え?なんだ?」
いや、違うか。みんなが見ているのは……後ろ?
「?」
そろ~っと振り向いた先には、補修中の壁があった。そうだ、先月の悪魔襲撃時に砲が直撃して大穴が空いたので、ブロックを積んで応急修理をしているのだ。鉄筋を入れ直したいらしいが予算がなく、応急のままで放置されている。以来、午後になるとブロックの隙間から太陽の光が差し込めた。それがなんとも幻想的だな~と紫苑はうっとり眺めていたものだったが――。
(あれ?光が……差し込んでこない?)
正午はとっくに越えていたはずだが……。
――ふと、思い出した。昨日、占い師に彼女との相性を見て貰ったら、突然紫苑の手のひらを凝視してわなわなと震えだしたのだ。
「……死相が出ておる!それも強烈な……!」
「は?」
――耳元から緊迫した通信が響いた。
≪悪魔は4時3時補給所の壁だ!≫
「ぜッ、全員退避~!」
次に起こった爆発音は、衝撃を伴って紫苑を真後ろへと吹っ飛ばしていた。
ズシャッと鉄帽を床にこすって倒れ伏し、
「お、お……?」
バラバラと様々な破片にまみれた頭を振り払って振り向くと、壁に巨大な穴が開いていた――白々とした陽光をバックに、ぬめりとした不気味なシルエットがぼやけて見える。
「早く来い!天草!」
ムグラが扉から乗り出した――そこへ、声に反応したか悪魔が猛烈な勢いで倉庫内へと飛び込んだ。その最中に悪魔は扉にぶつかって、隊長を廊下の先へと弾き飛ばす。悪魔自身の体も奥の壁に衝突して、荷物を散らかして破片に埋まったが、すぐにひゅんひゅんと触手が飛んで瓦礫を弾き飛ばし始める。
「――お、おお?」
驚愕に震えながら、紫苑は逃げ場を探して右に左にと視線を飛ばした。3時郭への扉は自らバリケードで塞いでしまっている。4時郭への扉は、歪に凹んでいた。あれでは開きそうにない。
(くそッ!なんだ?まるで僕を狙ってるみたいじゃないか!)
だが突っ立っていては殺されるのを待つばかりだ。尚もあきらめきれずキョロキョロした紫苑は、ある一点に目を止めた。
ただひとつ奇跡的に立ち残っているロッカーがある。そこ以外に隠れる場所なんてありはしない。
問題は、そこに悪魔が寄りかかって起き上がろうしている点だ。
躊躇した紫苑だが、棒立ちの恐怖に耐え切れず、ぎくしゃくと歩くとロッカーの扉を慎重に開け、不思議なくらい静かに閉めて中に隠れた。
ロッカーの外側を触手がねちょねちょと這いまわる気色悪い音がダイレクトに耳をくすぐる。
かなり無茶な隠れ場所だ、と改めて自覚した。一応ステンレスでできているはずだが、どこもかしこもたやすく貫通するだろう。とはいえ、この期に及んで出来ることなど何もない。腰に拳銃を吊ってはいるが、ダメージを与えられるとは思えない。今こそ刺突地雷の出番だ!と思い至ったが、いまさら取りにも戻れない。
悪魔がロッカーに寄り掛かったか、ぐぐーっと全体が横に傾き始め、次いで何を考えたかザリリッ、ザリリッと表面をひっかき始めた。
(くッ……!)紫苑の心臓が跳ね上がる。冷や汗が滝のように流れて思わず彼は目をきつくつむった。なぜかぽっかり口が開いてしまい、知らず知らず救いを求めて固くきつく両手を祈るように組んでいた。
(ああ神様……!)仏教しか知らないが、紫苑は我知らず神に祈った。
ロッカーがガンッガンッと揺れ動く。なんだかワザとしているみたいだ。
もはや生き残れる道理なし。ふいに覚悟が決まった紫苑は、汗のしぶく手でスマホを取り出した。フィアンセの名前を表示させ、メールの文面画面を開く。
何と……書こうか――人生最後のメールに。
(え~と……『灸な連絡で五面』……)指がわななくせいで、フリッカー操作を何度もミスった。くッ!
『はじめてみたときから、ぼくは、喜美のことをずっと』
(……いや、喜美って誰だよ、なんで入れたことのない名前が急に)
『君のことをずっと……愛衣して』
(……違う、違うんだ!愛して、だ『愛して』……)
ズガンッ!
唐突に触手がロッカー扉をぶち抜いた。
「うわおッ!」
触手は偶然体に触れることなく、ただスマホごとロッカーを横に貫いた。
寄り目になって眼前に蠢く触手を見つめる紫苑の脳裏に、樽に入った黒ひげ人形のオモチャの思い出が急に蘇った。子供の頃に遊んだことがあったのだ。たしか危機一髪という名前だったと思うが、それ以上的確に今の状況を言い表した言葉もないだろう。
それでも気付かれていないことを淡く期待して、紫苑は唇をかみしめると、そ~っとロッカーの扉を開けようとした――が、例によって歪んで開かなかった。
「……」
なすすべなく硬直して思考を白くしていると、不意にロッカーがふわりと浮き上がった。刺さった触手で持ち上げられたのだ。続いて、加速がついて宙を飛び、胃が持ち上がるような、不愉快な無重力の感覚が紫苑を襲った。
と思ったら激しい衝撃がロッカーをバウンドさせ、心臓を鷲掴む浮遊感ののち、ネットのようなものに受け止められた。バターンと横に倒れて扉がパタンと下へと開く。
――眼前に広がるのは、広い砂地だった。先に陣地対岸が見える。ごそごそと這い出て振り返ると、大穴が開いた見覚えある位置の壁があった。目算として40メートルは飛ばされたのだろうか。遠くまで投げられたものだが、怪我が無いのは、下が砂地である上、傾斜に横滑りし、最後には鉄条網に受け止められたお陰だろう。ラッキーだ。……いや、ラッキーか?
この辺りは地雷原だった。威力も対悪魔仕様なので、反応が鋭い上に威力が更にマシマシだ。人間が引っかかれば怪我どころか木っ端みじんに消し飛んでしまう。専用ゴーグルがあれば電波を発信して位置を把握できるが、使った後にきちんと所定の場所に返してきた。
助けを求めて監視哨に目を遣った紫苑だが、嫌なことに視線がぴたりと悪魔を見つけていた。
いる。補給所の奥で、4時監視哨への扉を開けようとしている。ここの扉は頑丈だが、悪魔の力には耐えられまい。
(でも、その先には隊長が倒れているのでは?)
「……!」
助けを求めて対岸の10時郭に泣きそうな視線を向けた。だが、そこは真っ黒で無人の様だ。別の監視哨からでは、角度的に倉庫の奥まで狙えない。対物ライフルを抱えた兵員達が監視哨の上を走っているが、間に合うかどうか!
咄嗟に――
「ここだ!」
紫苑は拳銃を抜き、真上に発砲した。この距離では悪魔に当てられまい。当たったとしても威力は期待できないし、跳弾で隊長に当ててしまうかもしれない。
「僕はここにいる!ここにいるぞ!」
(そういえば――)銃を撃ちながら、また甥の竜胆を思い出していた。さっき気になったからかもしれない。
(あいつを射撃場に連れて行ってみたら、僕を圧倒する成績を上げていたっけ……。まだ12歳なのに……)
ぶわっと涙がこぼれた。(あの子は将来、きっといい兵士になるな……)
悪魔が反応した。扉を開けるのをやめ、触手を壁の穴に張り付かせると、ぐいッと身を乗り出してきたのだ。じっと視線があった気がする。いや、そんなすぐに見つけなくても!
次の瞬間、悪魔は一旦引いて全身をたわませ、宙を紫苑目掛けて飛んできた――!
(そんな鋭く反応しなくてもッッッ!)
逃げようとしたが、地雷原なのを思い出して変な動きになった。つい足がもつれて尻餅をつく。
ズバァンッ!
と砂煙を上げて着地したのは紫苑から10メートルもあるかないかの位置だ。
そして着地の瞬間に悪魔は超大型地雷を踏み込んでいた。
チュドオッッッ!
「うおわッ!」
戦車すら宙に浮かせる激しい爆轟を引き起こす爆発エネルギーは膨大だ。悪魔の不思議装甲ディメンション・ディスターバーはあらゆる衝撃を減衰させるが、完全に打ち消すわけではない。推定1トン未満の物体なら天高くふっ飛ばす威力を受けた悪魔は、ふわりと、そして無制御にきりきりと宙を舞い、無様に傍の鉄条網に引っ掛かった。
[ギャアオアオアアアアアーッ!ギャオアーーッ!]
甲高い叫びをあげている。触手が絡まり動けないようだ!
それへ向かって斜めから豪雨のように攻撃が着弾した。
地雷轟爆の余波で大股を広げて飛ばされた紫苑はくるりと一回転してうずくまっていたが、折から起こった至近距離の集中砲火にひたすら鉄帽越しに頭を抱えた。
(ここにいたら……まずいッ!)と少し経って思い至った。だが、どうしたらいい?周りは地雷原なのに!
ブチンッ!
「ひゃッ!」
切断されて激しくしなった鉄条網が鉄帽表面を叩いた。恐る恐るズレ掛けた鉄帽を持ち上げて目を上げる。
悪魔は、まだ終わりではなかった。攻撃を受けながらも触手がしなり、絡まる鉄条網をあがく様に切り裂いていくのだ。
(……いや、待てよ?)確か鉄条網の至近距離には地雷はない。誤爆して鉄条網を毀損しないためだ。
「よしッ!」
紫苑は胸ポケットの婚約指輪を服の上から撫でると、鉄条網沿いに走り出した。
「柚子さんッ!」
恋人の名前を叫んだ。「僕は……僕は必ず無事に帰ってみせるからな……そして、君と――」
[ギャアアアア~~ッ!]
防音イヤープロテクター越しですら一段と高く響いた悪魔の声が耳を聾し、紫苑は走りながら怯えた目を背後に向けた。
躍起になって鉄条網を振り払った悪魔が、ついに自由になったのだ。そして即座に紫苑を追い駆け始めている。触手を地面に突き刺し突き刺しスキップするように跳ねてくる。
だが、運のなせる業なのか、悪魔は次々に地雷に引っ掛かって爆発の洗礼を浴びていた。ベアトラップにも引っ掛かった。だが、それでも触手を引きちぎって迫ってくる。
(そこまで目の仇にしなくてもッッッ!)
ぶわッともう何度目か分からない冷や汗をかきながら紫苑は逃げ続けた。
この距離なら、立ち止まって触手を伸ばされれば刺さる距離だっただろう!だが、体に着弾し続ける銃撃が冷静な判断を奪っているのかもしれない。
紫苑に出来ることは、できるだけ距離を空けて悪魔に向かう全方位からの攻撃を邪魔しないことだけだ。とはいえ足は悪魔の方が早い――。
だが、悪魔も累積するダメージと、妙に足の速い紫苑に業を煮やしたか、ひときわ強く跳躍した。
それを見極めた紫苑は鋭くターンする。
空中で触手に狙われることがあるだろうか?射撃の集中する箇所に飛び込んでしまう可能性だってある。しかし、それでも悪魔に押しつぶされるよりは助かる可能性は高いはずだ!
そして着地した悪魔は、再び対戦車地雷を踏んでまたも宙に飛んでいった。
紫苑は、ついぽかんと口を開けてフライパスしていく巨体を見送った。
あの悪魔、なんだか不思議なぐらいに運がない。対戦車地雷の設置基準は10平方メートルに1個程度だったはずだが、こんなに踏みまくるものなのか?
[ギエッ!]
悪魔の不運は続く。緩やかに舞い上がったその巨体が、ウェイトをかけて鉄条網の鉄杭に突き刺さったのだ。
徹甲弾すらはじき返す物理攻撃無効化能力だが、体のどこかに貫通創があったのだろう。そこにぴたりと鉄杭が突き刺さり、鉄条網にも再び絡まって、今度こそ悪魔は身動きが出来なくなっていたのだった。大質量の突進を受け止めるため、鉄条網杭は極めて頑丈だ。押したり引いたりしたところで簡単には揺らがない。
≪天草!退け!陣地に戻ってくるんだ!≫
耳元にムグラ分隊長の声が響いた。良かった!無事なようだ。しかし――
「戻れと言われましても……」
と戸惑う紫苑に向けて、砂を蹴立てて駆け寄ってくる姿があった。ムグラ隊長だ!こんなところまで!
紫苑は喘いだ。「周りに地雷が――」
「大丈夫だ、これがある」
と傍までやってきてムグラは笑顔でゴーグルを叩いた。なるほど、例の電波ゴーグルだ。これならすべてのトラップの位置を感知できる!
「よし、戻るぞ!俺の踏んだ場所を踏むんだ。いいな?」
醜い傷で頬を血で濡らしていたが、構わずムグラは背を向けると一歩ずつ監視哨へ向けて進み出した。紫苑も足跡を踏んでそれに続く。
背後で鳴り響く銃撃と爆音、悪魔の悲鳴は紫苑の心胆を凍えさせたが、無心になってムグラの跡を追い続ける。気を取られて道を誤れば終わりなのだ。
「……良かった。もう駄目だと思いました」
紫苑は安堵して呟いた。「僕達は勝ったんですね」
「お前は何でそういつも不安になりそうなセリフを……」
ムグラのセリフは、最後まで聞けなかった。
突如背中に衝撃を受けた紫苑が、身を投げ出すようにふっ飛ばされたのだ。
「ぐあっ」
ずしゃあッ!と砂地に顔をうずめて倒れ伏した紫苑の眼前に、ベアトラップが鈍い光を反射した。あと僅か前に飛んでいたら、頭を挟まれていたに違いない。ベアと言いながら、熊用ならぬ悪魔用だ。ならばデビルトラップというべきか。人間の頭ごとき、触れればずっぱり真っ二つにされていただろう。
何が当たったんだ?と身を起こした紫苑は、自分の立っていた場所にうごめく奇妙なものを発見した。
――どうやらちぎれ飛んだ触手に見えた。攻撃を受けて、ここまで飛ばされてきたのだろう。でも、ものすごく動き回るな。反射反応だけでは説明がつかない動きだ――。
その触手の切っ先に、『目』が開いた。
「!」
次の瞬間、触手は紫苑に向けて飛んだ。傍で銃を向けようとするムグラを一切気に留めず、まさに最上級の悪意を込めて紫苑の顔をめがけて飛び掛かったのだ!
――ほぼ無意識だった。
思わずバク転して躱した紫苑の真下を触手が通り抜けていく。
そんな触手の眼球と、間延びする時空の中で、紫苑は目が合ったような気がした――。
ガチンッ!
呪われたように、眼球触手がベアトラップに挟まれる。
ズサッ!と砂地に倒れ込んだ紫苑が、すばやく回転して拳銃を引き抜き、触手――その先端の眼球へとポイントした。
見開かれる触手の瞳。
パンッ!パンパンパンパンパンパンパンパンッッ!
紫苑の射撃の腕がひどくても、ほぼゼロ距離では外しようがない。密着させる距離で全弾を撃ち尽くし、その全てを命中させた。
弾かれるかと思った銃弾は、あっけなくも豆腐のように貫通しづけた。そうして嵐に揉まれるボロぎれのように攻撃を受け続けた触手は、しばし悔し気に身をくねらせると、遂に力尽きてぐったりと倒れ伏した。
直後、さらさらと黒き塵となって崩れ去っていく……。
(悪魔には弱点があると聞いたことがある……そこを突けば物理攻撃無効化をキャンセルできるのだと)
寝転がったまま、紫苑は銃をホルスターに戻した。(きっとあの目が、奴の弱点だったんだな……)
「動くな天草!」
起き上がろうとした紫苑を、ムグラが制止した。
何事か、と顔を見上げると、隊長の顔が青ざめている。
「……お前ッ!お前の胸の真下に、地雷が……」
「はッ?」
「待っていろ!すぐに整備班を呼んでくる!それまで絶対に動くなよ!」
「ええッ?」
慌てて走り去っていく隊長を見送りながら、紫苑も蒼い顔で動きを止めた。若干エビぞりぎみになってしまうのは仕方がない。
「くッ……!」
周囲では、悪魔を倒した喜びの声が響き渡っている。それをどこか異世界のように感じながら、紫苑は石のように硬直していた。
顎を汗がしたたり落ちる。何か考えては駄目だ、と自分に言い聞かせてみる。動揺して震えて地雷から離れてしまえば、ドカンなのだ。さぞやド派手な勝利の花火になるだろう。
まてよ?ここは砂地だ。紫苑の体重の重みで地雷が沈んで、体からどんどん離れていくのでは……。
「た、隊長~~……」
情けない声で紫苑は呻いた。他にどうしようもないからだ。
〇 〇
銀葉市コロッセオを取り仕切っているのは誰あろう、御年60になったばかりの司令官、犬柘植少佐である。小柄だが二の腕は太く、獅子のような顔を見るに、司令官というよりも傭兵を率いて戦場で戦っているのが性に合ってそうな男だった。
実のところ、コロッセオの勤務兵士は、名目上は軍隊ではない。名称は『郷土警備隊』。日本皇国陸軍・海軍・空軍と同じ装備を使おうとも、『レルムガード』は悪魔から国民を守る為の自衛組織という役回りであり、所属する者は軍人ではない――軍隊と同じ階級を使おうとも――とされている。これには政治的だったり予算的だったりな理由もあるのだが、年齢性別体格の条件をかなり緩くして門戸を広げる理由が一番大きい。
ただし、司令官レベルだと普通に軍からの天下りだ。
「ふふ……」
犬柘植司令は指令室から満足げに眼下を見下ろし、葉巻をくゆらせた。コロッセオのほとんど対岸と言える場所で、悪魔の残骸と言える黒い塵を更に焼却処分している作業が見える。
壁際には対物ライフルが立てかけられていた。悪魔も気づけなかったに違いない、ここから彼に狙撃されたのだと言う事を。最初の一発目は見事に外して壁を破壊してしまったが、二撃目は見事に直撃させたのだ。
「暫定的ですが結果報告です」秘書官が淡々と告げた。「コロッセオ内の防備が一部破損。死者なし、少数の負傷者が出ましたが、大事に至らない様子です」
「はっはっは」犬柘植は豪快に笑った。「いつもこうならいいのだがな」
「重火器台の基礎が発射の衝撃で巨大なヒビが入りました。至急業者に見てもらう必要があります」
「撃ちまくっているからなぁ」
「あと、平射砲全ての筒命数が今回で2倍を超えました。替砲身を買っていただけなければいけません。できれば余裕をもって」
「うむ……まぁそろそろ……」
「それと、司令が壊した壁の修理も」
「儂が壊したわけじゃない。初めから壊れてたんだ。……とどめは刺したかも知れんが。……分かった分かった!何とかする、何とかするから!……議員に折衝させてるんだが、しかしあの役立たず、金を取るだけ取りやがってろくに働きやせんなぁ……」
「堡塁外周域に取り付かれたことで、市全域に悪魔警戒警報を発令してしまいましたが」
「ああ、それはルールだ。仕方あるまいよ」そこはまったく気にしていない。「あれほどの悪魔を倒して死者なしとは素晴らしい!むしろ内外に喧伝したものだ……見たかイズモのアマテラスよ!お前らの力はなくても、儂らは十分にやれるのだ!とな」
「……」
宙を見据えて誰かを挑発するボスの顔を、秘書官は冷たい気持ちで眺めていた。
実に不敬だ、と秘書官は思ったが、口にはしなかった。我らが国を守る生ける神『アマテラス』。数千年も昔より悪魔から人々を守ってきた超越者にして守護者の長。
だが、軍にとっては目の上のコブではある。権力は二つもいらないのだ。それも、世界大戦で協力を拒絶してきた存在など。
「……まぁいい、時代の流れには奴も逆らえまい」
興奮を収めた犬柘植は、ゆったりと椅子に座り直した。
「この分なら我が日本の名も、皇国から帝国に戻る日も遠くあるまい。悪魔を倒す力がどちらにあるのかを明らかにすればな……!ところで、悪魔と一対一で張り合ったあの男、何者だ?」
「天草紫苑特技兵です。今は病院で検査を受けていますが、特に怪我はないようです」
「よくやったと誉めてやろう。これは昇格ものだな」
「ただ、彼の上司から意見がありまして」
「ん?」
「勇敢さを褒めたたえていましたが、彼には転属が相応しいと……」
〇 〇
「ああ班長、死ぬかと思いました!本当にラッキーでした。これで彼女にプロポーズできます。休暇?いえ、とんでもありません。もしプロポーズを受けてくれたとしても、結婚はまだまだ先の話ですしね。……はい、どこも痛いところはありません。全くの無傷です。……ええ、そう、ですかね?確かにおっしゃる通り、回数を重ねていくうちに少しずつ悪魔との距離が縮まってきているような気もします。今回遂にぶつかってしまいましたし……。でも、次はもっとうまくやれそうな気がします。なんでかって?それは……分かりませんが。そういえば、来週ネスト内パトロールですよね。僕は初めてなんですよ。入院なんてならないですよね。僕も参加できますよね……」
久しぶりの投稿になりました。次からは早めに続けていきます。