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17.世界を滅ぼす猫


「……お会いするのは2度目だったね、犬柘植中佐」

「覚えておいででしたか、ネルケ少佐」

 貴賓室とはいえ無骨な造りだ。モノらしきものはほとんどない。置かれたキッチンワゴン、ソファ、テーブルは一見高価そうではあったものの派手さはなく、質実剛健を求める犬柘植の趣味に合ったものだった。不必要なものに金を使えるほど余裕があるわけでもない。

「どうぞお座りください」

 対面ソファにネルケを案内すると、自分も正面に座った。秘書官に手で合図をする。

「コーヒーを頼む」

「ボクはワインを」

「……」犬柘植の手が止まった。まだ職務中だ。が、

「……ネルケ少佐にはワインを」

「は」

 規律を重視する犬柘植が、手の届くところにアルコールなど置くはずもない。ワゴンにコーヒーミルはあるが、ワインは酒保で購入するしかない。

「お時間はかかりますが」上司の厳格さを知っている秘書官は、いいのか、みたいな視線を向けたが、

「かまわない」くつろぐネルケ少佐の方が犬柘植よりも早く返事をした。

 犬柘植も目をぎょろぎょろさせながらも、不満気に後追いで頷く。

「……」秘書官は、若干ネルケに非難がましい目を向けたものの、何も言わずに部屋を出て行った。

「……ところで、昨日のお電話では、私にご用事があるとのことでしたが」

 一度咳払いすると、犬柘植は挨拶もそこそこに切り出した。できればこの会合は短く切り上げたい、と言わんばかりの切り口だ。

「そうだ」ネルケは、ソファをきしませて身を乗り出した。なんだか表情を笑みでテカらせている。犬柘植の不機嫌など気づいた様子もない。「大事な話だ。ここで話しても大丈夫か?」

「……この部屋は私とあなたの二人だけです。部下もしばらくは戻りません」

「そのようだね」

(……む?もしかして、長時間人払いをするためにワインを頼んだのか)

 だったら、この男への評価を改めねばなるまいか、と犬柘植は思った。

 ネルケの最初の来訪を思い出す。あの日、ネルケは1日早くアポの日取りを間違えてやってきたのだった。挙句、することがないからと超能力のデモンストレーションで施設の一部を壊し、慌てて夜に帰ってきた犬柘植が所用を尋ねると、『暇だったから顔見せに来ただけだ』と言い放ちやがった。あのあと、どれだけ奴の組織に怒鳴り込んでやろうと思ったことか。秘書官に必死に止められながらパスポートを用意して、メルカヴァ本部に出立直前だった。直後に悪魔の出現さえなければ、そのまま本部にねじ込んでいたはずだ。

 それから年月が経ち、犬柘植も冷静になった。あの時の騒動を忘れていたならば蒸し返してやろうと思ってはいたが、憶えていたのなら、何も言うまい。今度こそ、大事な用件でやってきたのだろう。それに、協力を表明してくれている世界的天使組織『天の戦車(メルカヴァ)』団とよしみを通じておくのは、犬柘植としても不本意ではない。軍上層部の意向に沿って、同じ日本の天使組織であっても、表立って『アマテラス機関』に助けを求めるわけにはいかないのだ。

「……」

 だが、ネルケは何も話してこなかった。笑顔で固まっている。

(……ん?)

 やがて、緩やかに笑顔をひっこめた彼は、ソファに深く座って目を泳がせ、こめかみに手を当てた。それからも眉間をもんだり、腕組して頭上を見上げてため息をついたり、足を踏み鳴らしたり、髪を掻いたりし、ついに目を押さえて動かなくなった。

 めきり、と犬柘植の額に血管が浮かぶ。

(……もしかしてこいつ……要件を忘れやがったのか?)

「……少佐?」穏やかに恫喝を込めて犬柘植は囁いた。

「待った!待ってくれ!」

 流れるような優雅な仕草で人差し指を立てるネルケ。「あともう少し、ここまで出かかって……」

「忘れたのですかなッ?」

「違う!ボクは!考えているんだ!」バッ!と両手を顔の左右に広げて苦悶の視線を天へと向ける美青年。「この衝撃の事実を……なんと言うべきかと!それは!」

「……それは?」

「……」

 その時、扉が外からノックされた。秘書官のこもった声が聞こえる。

「コーヒーとワインをお持ちしました」

「……後にしてくれ!」不機嫌に答えると、犬柘植はずいと身を乗り出す。「で?」

「……フ」口元だけ笑みを作って、ネルケは視線を逸らした。「……急ぐことはない。あとにしよう」

「急ぐことは、ない?あと……ですって?」犬柘植の眉間に2つめの血管が浮き上がる。この凄まじく多忙な状況!今もって巡回部隊が町中を飛び回って報告を上げてきているのだ。

「そうだ!ワインを飲めば思い出すかもしれない」

(やっぱり忘れていたんじゃないか!)

「入れ!」

 怒鳴られた秘書官は、解せない顔で犬柘植の前にコーヒーを、ネルケの前にワイングラスを置いてワインを注ぎ始めた。

「やあ、ありがとう」気取って腕組みしながらソファにもたれたネルケは、ん?みたいな顔で腕の当たった胸元に触れる。そして何度か叩いて、豪奢な装丁の小さな冊子を取り出した。あれ、メモ帳か?

 それをぱらぱらとめくり、貴公子は真顔で、パシッ!と額を手で打った。

 犬柘植は、大きくため息をついた。

「牡丹君」秘書官の名を呼ぶ。

「はい」

「出て行ってくれ。頼む」

「はい?」

 秘書官は首を傾げつつ、命令通りにそのまま出て行った。

 それを見送り、ずい、と犬柘植は責める目つきでネルケを睨んだ。「……で、ご用事とは!」

「その……今から話す内容は、『メルカヴァ』からの秘密の情報だ」取り繕う笑みだった。「だから、くれぐれも取り扱いには注意してもらいたい」

「……心得ました」

 犬柘植は大仰に居住まいを正した。ようやく価値のある話になってきたか。Y242号関連であればいいのだが。

 そこでハタと気付く。

(あ……そう言えば、ワシはなんで秘書官を追い出してしまったのか……?)

 アホってうつるんだな……。

「少し待ってください……牡丹君!」

 扉の外に声をかけた。まだいるだろうか。

「……」扉が軋む音がし、ややあって返事が返ってきた。「はい。控えております」

 あいつ、聞き耳を……。

「悪かった。入ってきて話を一緒に聞いてくれ」

「……さて、これから大事な話をしよう」

 ――司令と、戻ってきた秘書官の前で、ネルケはわくわくした顔つきをした。

「2人とも、驚かないで欲しいのだが……どうやら最近、強力な悪魔が地上に這い出てきたらしいんだ」

「おかげで、この街は大変なことになっていますな」犬柘植は頷き、

「はい、Y242号……あの悪魔は、全国の状況を鑑みても近年稀に見る被害を発生させてくれやがりました」眼鏡を煌めかせて秘書官が低く呻いた。

「そいつ、違う」ネルケは片言に言った。「そいつとはまったく別種の悪魔なんだ。しかも、そいつの危険さは、そのY何とかの比ではない」

「242号です少佐」言い差して、犬柘植は咳払いした。「……悪魔がもう一体?本当に?いつ?どこから?」

「それは大した問題ではない」やれやれ、と首を振る貴公子。「大事なのは、だ。少佐、そいつがここ、銀……」

「銀葉市です」秘書官がフォローした。

「この銀葉市の『(ネスト)』直下で目撃されたということだ。順当に考えれば、今頃この街に辿り着いている計算になる」

「なるほど……」ほんとかぁ?みたいな視線を、秘書官と交わらせた。「そいつの正体は何かわかりますか?どのような力を持っているのかも」

「ふむ、そいつはな……」ネルケはメモ帳に目を走らせ続けている。「そいつは……どうやら猫の姿をしているらしい」

「ほう、猫……」

「それって……」秘書官が低く呟いた。

「ん?何か?」

 怪訝そうな上司に、秘書官は慌てて首を振った。「いえ、なんでもありません。お邪魔いたしました」

「で、そいつはな!」もったいぶってネルケは言葉を切って厳かに告げた。「大きさも、形も、なんと地上の猫そのものらしいんだ」

「猫……大きさも、形も、普通の猫……」犬柘植は不快を押し殺して言った。もったいぶるところだったか、今の?「……申し訳ありませんが、この街には、野良猫が山ほどおりますが」

「毛色が少々違うという」

「ほう、どのような……」

「……」ネルケはじっとメモ帳に目を落としていた。その様は、まるで絵画にして飾りたいような、芸術的な美しさだった。ただし、こいつのことはもう十分に理解できた。こいつは見た目だけだ。

 やがて、ぱたんとメモ帳を閉じて、ネルケは優雅に眉間を揉みながら背もたれに背を預けた。「……フ、どうやら聞いたがメモをトるのを忘れたらしい」

(駄目過ぎる)

「待て!」バッと平手を向けて、貴公子はまた眉間に手を当てた。精神集中している。「……青」

「青色」

「黄……」

「黄色と」

「白」

「白、はい」

「グレー」

「多すぎやしませんか?」犬柘植は口を挟んだ。「猫ってのは、こう、もうちょっとシンプルな色合いなのでは?」

「だから妙な毛色の猫なのだ。見つけたら教えて欲しい」

「柄は?」

「え?」

「猫にはガラがあるでしょう?それほど色がついていたら、三毛猫風とか、斑点とか縞々とか。毛足も短いとか長いとか」

「フ……写真があればよかったんだけどな」

「分からないと。分かりました」

 眉を吊り上げた犬柘植は、黙ってメモを取っている秘書官に一度困惑の視線をやってから、ネルケに向き直った。「で、その危険な悪魔の能力とは?」

「え?」

「……危険なのでしょう?」犬柘植は片眉を上げて相手を見つめる。「どう危険なのです?どんな力を持っているんですか?」

「それは……」ネルケの目が泳ぐ。そんなこと、考えもしなかった、みたいな顔つきだ。「その……内緒だ」

 犬柘植の両眉がつり上がる。「内緒とは?そこが大事じゃないんですか?」

「実は……上からは明かされなかった。もしかすると……そう、まだ能力が判明していないのかも知れない!」

「じゃあ危険かどうかも分からないんですな?いたって無害な……悪魔相手にこう言うのも変ですが、大きさや見た目だけでなく、能力も普通の猫だったりする可能性もあるんですな?」

「いや、危険なんだよ!」そこだけ力説した。「そいつは危険らしいんだ」

「……」支離滅裂過ぎる。

 だが、ふとあるひとつの可能性に思い至った。噂話だと思っていたが、もしや……。

「……だが心してほしい」誤魔化すようにネルケは身を乗り出した。「そいつは……」言っていいものか、と迷っている風だったが、意を決して口を開いた。「そいつは……世界を滅ぼす力を持っているらしいのだ」

「そうですか」さらっと犬柘植は頷いた。

「え?いや、世界を滅ぼすんだぞ?いいのか?」ネルケが挙動不審に動揺した。

「いいのか、と言われても、良くはありませんがね……」

 相手の態度に少しは溜飲が下がりつつ、言われた内容を吟味した。世界を滅ぼす?流されて動揺した辺り、それだけは確実に言い含められたのかもしれない。

 だが、全体的にあやふやで、信頼しがたい話だった。ネルケの記憶力と信頼性と話術の問題もあるのだろうが、結果、眉唾な怪しい話以上のものじゃなくなっている。

 ワシの部下じゃなくてよかったな、みたいな恫喝じみた視線を相手に向けて、司令はコーヒーを一啜りした。

(噂話か……)

 先程思い浮かんだ可能性に思いを馳せる。それを聞いた時は一笑に付したが、確認する価値はあった。

 犬柘植は何気なく切り出した。「……ところで、その情報はどなたから?」

「情報源を明かすことはできない。フ、分るだろう?」

「メルカヴァの方からとお聞きしましたが」

「え?あ、うん、そうだ、そうだったよ」

 慌てた様子でネルケは何度も頷いた。分かり易すぎる。

(……ウソか)

 断定した。でも、だとしたら、本当の情報源は?

 犬柘植は、ゆっくりと言葉を選んで問いただした。「この銀葉市ネストの情報は我々銀葉市郷土警備隊(レルムガード)が全て担っております。なのにその直下の情報を他者から教えていただくなど、実に恥じ入るばかりと言わざるを得ません……。どこの誰から知りえたのか知りたくなるのも当然だとは思いませんか?」

「……そうかもしれないな」目が泳いでいた。

「……巷では、そう、巷では」何の変化も見逃すまい、とネルケの瞳をじっと睨む。「……悪魔が一部の天使に働きかけて、邪魔な悪魔を駆逐しているとか、そんな噂が流れたことがあります」

 あくまで噂だ。だが、知られるようになった地獄の情報、悪魔の実態。生きたまま地獄に到達できた人間がいない以上、情報源は悪魔自身からもたらされたと見る向きもある。

「な、ヌァンの話かナァ?知らないなぁ?」

 ネルケの手の中で、ワインが今にも中身が出そうなほど波を立てていた。「知らないものは知らない。そんな話は聞いたことがない。うん、ないな。ないんだよ。そう、我々は地上の正義の守護者として!」

「落ち着いてくださいネルケ少佐」こいつ、根は悪くないんだろうなぁ~と思いながら犬柘植は宥めた。

 ネルケははぁはぁと肩で息をしている。どんだけなんだ。

「とにかく何か分かったらボクに言ってくれたまへ」早口の最後、ちょっと噛んだ。

「分かりました」深く頷き、そして、ちら、と眉を上げた。「他にご用事は?」

「うん、全部済んだ。以上だ」

「では、お帰りに?」

「うん……まあ……」

 しかし、彼は席を立とうとはしなかった。

「……長旅で疲れたんだ。少々くつろいでも構わないだろうか?」

「……どうぞ。ワタシは多忙なものでして、ここで失礼いたします……牡丹君、行くぞ」

 そう言えば、前に来た時、口走っていたな。本部の上官が口うるさいとかなんとか。きっと居心地悪いのだろう。確かに、こんなのが部下に居れば、どんな聖人君子でも怒鳴りつけたくもなるだろうが。

 だが、もっと大きな心情的な理由があるとみるべきだ。

(本部を裏切って、悪魔の手先になっていることに、良心の呵責を感じているとか?)

 それが正しいかどうかは分からない。それが分かるのは、テレパシーの使い手ぐらいだ。

 貴賓室を出ると、秘書官は小声で訊いてきた。

「追い出さなくてよかったんですか?」

「……忙しい中悪いが」常になくへりくだって、犬柘植は頼んだ。「だれか、部屋につけてもらえるか。また前みたいに暴れられては困る」

「そうですね……おや」

 そこで秘書官は、並んで立っていたムグラと紫苑に目を止めた。

 ムグラ――は、駄目だ。昨夜からずっと働かせまくって、今夜も働いてもらう予定なのだ。

「天草軍曹にお願いしても?」

 秘書官も、紫苑の人柄は良く知っている。犬柘植の推薦で転属となった紫苑がヘリ操縦士の訓練課程へと進んだのは、紫苑の適性を見抜いた彼女の働きかけによるものだからだ。レルムガードの全国の年間戦死者は、少ない年でも数百人を下回ることなく、傷病含めた退役者は年間数千人を軽く超える。新人を一定数以上確保しつつ、才能ある者をどんどん引き上げねば、組織として壊死し、空洞化したうえで瓦解するのは事情を知る誰の目にも明らかだった。

「そうだな、別のヘリが用意できたから、町を一周回ってほしいと頼むつもりだったが……まあ、彼ならよかろう」

「では、依頼してきます」

 その後、作戦室に戻る道すがら、犬柘植は会合の内容を吟味した。

「牡丹君」

「はい」

「あの少佐の話、どう思うか?」

「どう、とは?」

「どれくらい信頼できるかと思うか?」

「全く信頼できませんね」あっさりと秘書官は否定から入った。「いったい何を信じたらいいものでしょうか?

『世界を滅ぼす猫』だなんて。それでいて、見た目が普通の猫とか、根拠も示されませんし、信頼のしようがありません」

「猫か……」犬柘植は記憶を探った。「そういえば昨夜、紅門町の北で巨大な虎が走って行ったみたいな目撃情報があったらしいが、どうなっていたかな?」

「警察に移管しておきました。ただ、確認を取ってみましたが、目撃者は居酒屋の帰りだったとか。しかも」

「大トラだったか」

「ええ」と秘書官は笑みを浮かべて見せたが、上司がむっつりしているので真顔に戻った。「同じ猫科以上の共通点は無さそうですね」

「そのようだな……」犬柘植はため息をついた。「もう猫の話はどうでもいい。ワシらに何ができるんだ?どんな対策を打てると?街中の野良猫を捕まえるのか?だが、猫取りに捕まるような猫が、世界を滅ぼせるはずもない。そして、どんな能力も分からないから、警戒のしようもない。街は現在全力復興中、加えて逃げ去ったY242号への警戒態勢は解かれない。別の強力らしい悪魔を討伐する余裕はない。被害が出れば別だが、それらしい被害の報告もない。そもそも、ネルケからもたらされた情報そのものが信用できない」

 一気に言った犬柘植だが、ここから先を言うのは躊躇われた。

(『この街のネストの直下で悪魔を見かけた』だと?それが地上で一番早く分かるのは我々だ。だが、ネストの奥から見る者には、絶対に敵わない。……そして、そいつは人間ではありえない……)

「天使の一部が、悪魔と結託している、という噂を聞いたことがあるか?」

「……まさか」しばらく考えて、秘書官はこう返した。「そんなことをして天使側に何の意味が?」

「倒せる弱い悪魔を融通してもらい、それを天使が華々しく倒して知名を得る、とかな」

「天使の存在は世間には公表されていませんが」

「世界の権力者どもは知っておるよ。軍関係者も、大企業の上の方もな。悪魔を倒した実績が増えれば寄付金も増え、天使達も潤う」

「悪魔側のメリットは?」

「魔力の収集を見逃す、とかな。ほら、人間を苦しめて魔力とやらを高めて、そこを喰っちまうんだろう?

 ……だが、まあ、あのアホ天使がそんな大それたことができるはずもないか……」

 あいつ、性根だけは悪くないような気もする。

「そんなこと、あるもんでしょうか……」秘書官はあまり信用した風ではない。

(だろうな……)

 可能性の話に過ぎないのだ。

 だから、犬柘植は1人葛藤する。軍隊で制しきれない悪魔が現れた時、メルカヴァは頼りにしていいものなのだろうか?特に、ネルケは元の祖国を裏切った奴なのだ。

 かと言って、アマテラス機関に借りを作れば、軍から睨まれる。結局、頼りになるのは自分たちの腕なのか。

 司令室に戻ると、滞っていた情報の海がわっと襲い掛かり、犬柘植は溺死する思いで処理を始めた。だが、悪魔につながる情報は含まれてはいなかった。

 代わりに、秘書官に描かせた、青と黄と白とグレーで適当に塗られた猫の絵が、掲示板の一角に張り出されることになった。

 イラストに、通りかかった隊士たちの影が落ちる。

「え?なに?これ、イノシシ?」

「カバだろ?」

「猫らしいぜ」

「まさッか!」

 ドッと笑う隊士たちの後ろで、秘書官が眼鏡を光らせた。

「「「「「……はッ!?」」」」




 ドン!と生徒指導室に、鈍い音が鳴り響く。机に拳が叩きつけられたのだ。

 畏まる竜胆の前には2人の教師――たった今机を叩いた立浪(タツナミ)学年主任と、担任の甘野老(アマドコロ)教諭が座っていた。担任は相変わらず何を考えているのか分からない表情でぼーっと報告書とペンを構えているが、学年主任は見るからに怒り心頭だ。

「天草!お前、何をやったのか分かってるんだろうなぁ!」

「ええ、まあ……」

 頷く少年。だが、どこか他人事みたいな、自分の所為じゃないみたいな顔をしているのが立浪主任の怒りを掻き立てた。もう一度全力で叩いた机の音に、めき、と軋む音が加わって、甘野老教師ははっと珍しく表情を変えると椅子を引き、報告書とペンを構え直し、元の表情に戻った。

「ちょおっと待ってください♪」

 そこへ、ガチャリと扉を開けて入ってきたのは謎の転入生――いや、聴講生の紫車萌黄である。ただし、それは彼女が勝手に名乗っているだけであって、学校側には一切伝わっていないはずだ、ということを察している竜胆にとって新たな不安の種だったが、構わず少女はストンと彼の横に腰を下ろした。

「なんだお前は!」萌黄の美貌に一瞬気を取られた学年主任だったが、竜胆への怒りの方が上回っていた。「てめえなんか呼んでねぇよ!出ていけ!」

「あの体育教師がセクハラしていたのはご存じですか?」

 手で、座ったままの竜胆に後ろへ下がるように示しながら、萌黄は教師を澄んだ目で見上げる。

「知らん!……が、問題はそこじゃねぇ!教師を殴ったのが問題……」

「いえ、セクハラしたのが問題なんです」

 至極冷静に萌黄は告げる。

 ――その少女の細い指に握られた油性ペンが、見えないテーブルの下で文字のようなものをひとつひとつ描き上げていっていることに、立浪主任は気づけない。

 だが、なぜか甘野老教師は椅子ごとテーブルから離れて壁際まで移動した。

「生徒の健やかな成長を手助けするのが教師の役目ではないのですか?しかるに、弱い生徒に目をつけて劣情のはけ口にするなど笑止千万です。恥を知るべきですよ」

「な~にが笑止千万だバカバカしい」立浪は歪んだ笑みを浮かべた。「この学校の生徒は借金のカタも同然なんだ!ちょっと触ったぐらいで教師を殴るなど、それこそ笑止千万!ここには独房だってあるんだ。お前もそこに入りたいか?」

 竜胆も甘野老も、そろって(ん?)みたいな顔をした。かなりの問題発言だ。転入初日の竜胆は知らないが、この立浪主任は、内心はともかく、上っ面だけは誠実に見せかけていた。こんな本心を吐露する隙などこれまでなかったはずだ。

 だが、萌黄は確かな感触を得ていた。すでに、魔法術式の影響が出始めているということに。

「私をそこにいれてどうするつもりですか?」にっこりと萌黄は訊いてみる。

「どうするって、そりゃあ……」

 好色そうな笑みを一瞬浮かべた教師だったが、その時、テーブル下の作業が完成した。

 そこには異様なタッチで描かれた数個の文字があるだけだ。だが、萌黄の指の触れた文字が一度謎の輝きを帯びて明滅し、やがて光が文字の間を目まぐるしく飛び交って、最後の一文字が輝いた途端!

「っヌおおおおおお~~~ッ?」

 ビビビビッと音が出そうな感電したリアクションをとって、ぐんにゃりと立浪主任は崩れ落ちた。

 その耳元に、さッと萌黄は口を寄せる。

「竜胆に非はありません……」抑揚のない声で、そう囁いた。「悪いのは、セクハラをしたあの体育教師……」

 底知れぬ深い声音に合わせるように、立浪もぼそぼそと「アマクサリンドウニヒハナイ……ワルイノハセクハラヲシタ、ウドノタイボク……」と呟く。

「これからのあなたは、天草竜胆と紫車萌黄の味方をして命令に従い、心から仕え尽くすこと」

「コレカラノワタシハ、アマクサリンドウト、シグルマモエギノミカタヲシテ、メイレイニシタガイ、ココロカラツカエツクシマス」

「よろしい♪」

 パチッ!と満足げに萌黄が指を鳴らすと、立浪主任は夢から目覚めたような顔で竜胆と萌黄の顔を見回した。

「……あ~……?」何か言おうとしたが、言葉にならないようだ。

「先生♪」萌黄はにこやかに言った。「これから先生は、セクハラを働いた体育教師ウドノタイボクの責任を問いに行くところですよね。生徒達のために、何より私たちのために」

「あ……ああ、そうだ……もちろんだ!」

 立浪は何度か瞬きすると、悠然と立ち上がった。「おい、甘野老!何をしている!さっさと来い!鵜殿を締め上げるぞ!」

 それを聞いて――

 相変わらず甘野老教諭は穏やかに頷くと、そっと席を立って立浪主任に続いて扉を出て行った。

「……こんなことを言うのは何だが、あの担任教師は何もしなくて良かったのか?」

 不思議に思って竜胆が訊いてみると、萌黄が珍しくも硬直している。そしておそるおそるといった感じで彼を見つめてきた。「あの静かな方の男の人……いつからこの部屋にいたんですか?」

「いつって……お前が入って来る前から居たが」

「見えなかった……」愕然ともいえる表情で、萌黄は顎に指を当ててうつむいた。「人間て大したことはないと思っていましたけど、なかには恐ろしい使い手もいるものですね……」

「あの教師が……?いや、考え過ぎだと思うけど」

 その時――がちゃり、と扉を開いた。

「……甘野老先生は心配ないわ。こっちの息がかかってるし」

 ――無表情に入ってきたのは、今となっては懐かしさすら感じる美貌のクラス委員長、金銀蓮花だった。

 腕組みをして、冷厳ともいえるまなざしで戸口にもたれ、2人を見下ろしている。「ここで見たことは他言無用と言っておいたわ……立浪学年主任は副校長派で対処に苦慮してたんだけど、上手くやってくれたわね」

「あんな程度はお茶の子サイサイですよ~」

 萌黄はにこやかに席を立った。「じゃ、竜胆、帰りましょうか♪」

「待って。話があるの。分るでしょう?」

 ピン、と鋭い声が2人を遮った。「席に戻ってもらっていいかしら?」

 そう言うと返事も待たずに生徒指導室のカギをガチャリと閉め、自分は教師たちの座っていた席に腰を下ろした。一度、テーブルをひょいと持ち上げ、そこに記された魔法術式をじろじろと見ると、テーブルごと壁際まで押してしまった。これで、遮るものなく膝を突き合わせている形になる。

 竜胆は居たたまれない思いで、肩を小さくしていた。つっけんどんな言い方に彼女の内心の怒りを感じる。

 割と衝撃の連続だったので忘れていたが、萌黄が現れたことを金銀蓮花に報告しないといけなかったのでは?

 全ては金銀蓮花の予想通りだった。モエギちゃんは、猫だったが、悪魔でもあった。そして彼女の探索は、互いの了解事項だったはずだ。とはいえ、竜胆には連絡手段はなかった。つまらない言い訳だが。

 言い逃れる手段を考えていた竜胆は、萌黄の正体はまだバレていない可能性があると思いいたった……だが、望み薄だろう。監視カメラは見当たらないが、彼女はこの室内の様子は完全に把握していたようだ。その上で踏み込んできたのだ。当然萌黄の正体も理解し、その上で相当な覚悟を決めてきた、と見た方がいい。なにしろ、金銀蓮花の目つきが違う。平静を装っているが、今にも斬りつけてきそうな切迫感を感じる。

「あら、なんでしょうか?」

 一方、萌黄は剣呑な雰囲気をものともせず、ふわりとした笑顔で椅子に戻った。

 すんなりと言いなりになったことが、竜胆には意外だった。まるで、初めからこうすると決めていたみたいだ。それともさっきの催眠術か洗脳術のようなもので何とかするつもりなのか?

「ちなみに、私にはさっきの術は効かないから」

 竜胆の心の声を読んだかのように、金銀蓮花が釘を刺してきた。やたら硬い声だ。

「分かってますよぉ。あなたに人間と同じ手が使えるとは思ってません♪」

「それは……」やっぱり悪魔だから?と訊きかけた竜胆は、慌てて口をつぐんだ。なんだか、悪魔に対する禁忌のハードルがすごく下がっていて、我ながら意外に感じる。

「あ、なんでだと思いますか?」萌黄が竜胆を振り向いて指を立てる。「じつはねぇ、この人はですねぇ……」

「私の事は今はいいでしょう?」金銀蓮花が鋭く割って入った。「聞きたいのはあなたのことよ」

「え、私のことですか?」わざとらしいぐらいの笑みを浮かべて自分を逆向きに指さす萌黄。

「そう、あなた!」

 カッと美しい柳眉を逆立てて、金銀蓮花は声を荒げた。「あなたの目的、あなたの能力、あなたの危険性、みんなよ!ここ地上は人間のものなの。悪魔が大手を振って闊歩できるような世界じゃない。あなただって十分な魔力の供給がない地上は苦しいでしょう?」

「えぇ……まぁ」萌黄は剣幕に眼を丸くした。現実を知らない名家の御曹司が、老練な現場上司に怒られているような趣きだ。それとも、そう見えるだけだろうか。なんとなく、萌黄は十分に状況を理解した上で楽しんでいるような気がしないでもない……。

「天草君?」不意に矛先がこちらを向いた。「どう?彼女について私の言った話、どこか間違っていたかしら?」

「うん……そうだな……」

 もごもごと竜胆は言ったが、内心警戒レベルを上げた。何気ない問いかけだったが、これは萌黄から竜胆を引き剥がそうとする手管に思える。金銀蓮花が竜胆に何を言ったかを萌黄は直接聞いていないし、彼が教えたにせよ全てを言い尽くしたと証明する手立てもない。だから、萌黄の疑心暗鬼を掻き立てる手段も兼ねている、と見ていいだろう。

 なので、竜胆は慎重に続けた。「だけどな……まずは、萌黄は悪い奴じゃないってことだけは先に言っておくぞ」

 萌黄は恩人だが、金銀蓮花も恩人だ。だからどちらの味方に付くか、というのは正直考えたくはない。とはいえ、アウェイの萌黄は弱い立場なのだから、そろって金銀蓮花に敵対しないのが最良の手段に思えるが――。

「あ、それより自己紹介してくれません?」萌黄は飄然と椅子にもたれると、片手に頬を乗せた。「ちなみに、私は紫車萌黄と言います。もちろん人間ネームです。悪魔としての名前は秘密ですし」そして小首を傾げる。「あなたは?」必要以上に首を曲げている気がする。なんか小馬鹿にしているみたいだ。

「よろしく紫車さん」冷静に金銀蓮花は応じた。「私はこの学校の校長の娘です」

「はいよろしく、シュゴテンシのガガブタさん♪」

 ニコっと微笑む萌黄と、ピシッと固まる金銀蓮花。

 シュゴテンシ?意味は分からなかったが、あちゃあ!みたいな台詞は今こそ相応しいだろう、と竜胆は思った。この二人に割って入るのは骨だろう。かと言って逃げるわけにはいかない。無事にみんなでこの部屋を出られますように、と内心祈った。――何に祈るべきだったのかは判然としないままに。


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