15.紫車萌黄
「水蓮、ここは任せるわ……異変があればすぐに連絡を頂戴」
しばらく校門に佇んでいた金銀蓮花だったが、これ以上、ここに居ても進展は無さそうだ、と判断した。
「ただ、木蓮が間違ったとも考えにくいわ……油断は絶対にしないように」
「今となっては、気のせいだったかもしれん……」
木蓮が甲高い地声でぽつりとこぼす。普段の自信ありげな態度も、今はなりを潜めていた。
本来、正しき物理法則外の存在である悪魔は、地上に出れば自分のカタチを維持するために魔力を消費する。地上の生き物を模した、地上の理屈の中でも生きていける悪魔ならば、魔力は発散は最低限で済む。しかし、魔力を感じさせぬまま、姿を消すと言った超常現象を引き起こす悪魔など、木蓮の経験の埒外だった。
「……」
ままならぬ苛立ちを感じた金銀蓮花は、手に握る銀のヤドリギの蔓を鞭のように引き絞った。
悪魔猫は何を考えているのだろう?本来の役目としては、彼女が人を害する存在であるならば、撃滅する必要がある。しかし、悪魔に対抗する主力を欠いている今、できれば戦端は開きたくない。そして、本心ではこう思っていた――明らかに高邁な知識を持っている彼女とは、可能であるならば協力関係を築きたい、と。ただ、それを前面に押し出せば、足元がすくわれそうではある。
早急に彼女の性分、そして目的を明らかにしなければ。
「木蓮、あなたは内側から学校外周を見て回って。私は校内の監視に入る。些細なことでも連絡するように」
「分かった」
「了解しました」
唖然と闖入者たちを見詰める竜胆の視線の先で――
「チョウコウセイダ」
聞き取りにくい言葉で、新参の教師らしき男が、少女を紹介した。
それを受けて、彼女は品よく指を組み合わせて一歩前に出、にっこりと小首をかしげてみせる。
「このクラスの聴講生としてやってまいりました、わたし、紫車萌黄と申します。本日はよろしくお願いいたします」
いやいや、おかしいだろ、と竜胆は内心ツッコミを入れた。他の生徒は疑問に思わないのだろうか。なんで授業の終わりに乱入してくる?担任教師が案内しないのはなぜだ?それに案内してきた教師の顔、会話の最中でも、放置された操り人形みたいにぽかんと天井を睨んでるじゃないか。あんな感じの顔は、昨夜から何度か目にしてきた。病院から竜胆を攫った看護師しかり、タクシーの運転手しかり。ひょっとしたら、竜胆に退院許可を出した医師もこんな感じだったのかもしれない。それに――失礼な考えだが、こんな学校に聴講生?
「セキハ、アマクサクンノトナリダ」
視線が集中して、翔摩は焦った顔をした。窓際の竜胆の隣の席は、彼しかいない。
壇上の教師は、遂にやる気を失ったらしい。髪の毛をくしゃっとすると資料をまとめ、起立も礼もおざなりに教室を出て行った。
教室内がぎこちないざわめきに包まれる中、紫車萌黄、と名乗った少女は自分で竜胆の傍まで歩み寄ると、にっこりと微笑んだ。
「久しぶりです竜胆、昨夜ぶりでしょうか♪」愛嬌のこもった、聞き覚えのある澄んだ美声。
外見は昨夜の少女そのものだ。だが、髪の色はピンクではなく、ツヤツヤした栗色になっている。昨日はなかった眼鏡をかけている。もっとも、そんな外見の違い以上に、こんな人前で堂々と姿を現したのが最大の違和感だった。なにしろ、金銀蓮花に言わせれば、こいつは――
竜胆が絶句していると、
「誰だよリンドー!」翔摩が小声で訊いてきた。
「ん~……」ひとつ呻いたきり、竜胆は押し黙った。どう説明したものか。
「ふふ……」そんな少年の葛藤をよそに、少女は周囲から降り注ぐ視線に頓着する様子はない。やおら片足立ちで回転し、きゅっとバレリーナの様に足首を交差してスカートを広げて見せたのだ。
「どうですか?私の制服、似合ってますか?」
「……あ、ああ、もちろん。ばっちり似合ってる!」竜胆は慌ててカクカクと頷いた。女性に自身の何か問われたら、とにかく褒めろとは姉の言だ。でないと平手打ちが飛んできて、『ほげぇ!』とされた。姉が亡くなったのちも、恐怖が体にこびりついている。
嬉しそうに微笑んだ少女の反応から、竜胆は少し心の余裕を取り戻した。よし、彼女の正体を訊いてみるか。とはいえ、ストレートに訊くのはまずい。
――彼女は悪魔だと、金銀蓮花は言った。そして高位になればなるほど高度な知性を持つとも聞いた。しかし、悪魔が破壊衝動のまま暴れまわる強力な害獣という認識を竜胆はまだ捨てきれない。
だから、見るからに可愛らしいこんな女の子に、『悪魔か?』なんて訊くのは、竜胆にとっては失礼極まりないことだった。化け物か?と訊くのと同じ意味なのだ。
「ところでさ……」なんて言おう。「君……さっき教室に入ってきなかったか?」
「あ、酷いですよぅ、君だなんて」少女は――いや、紫車萌黄は、竜胆の質問をパリィした。「モエギと呼んでくださいね」
「モエギ……」一つの単語も、イントネーションで意味が異なる場合がある。名前だってそうだ。だが、今萌黄が述べた自分の名は、竜胆が猫に名付けたあの『モエギ』と全く同じイントネーションだった。
猫が人間になるなんてこと、あり得るのだろうか?モエギちゃんが女の子に変化した、と昨日は思ったのだが、こうして白日の下で出会ってみるとなんだか非現実的に思えてくる。一番常識的なセンで考えれば、この娘はモエギちゃんの元の飼い主で、お礼を言いに来た、と言ったところだろうか?さっきの透明人間を含め、説明のつかないことは多々あるものの。
困惑した竜胆は、ふと教壇に目を遣った。
「……そういえば、あの教師、ずっと立ったままだな」
「あ、忘れてた。開放しておきますね」
パチン、と彼女が指を鳴らした途端、立ち尽くした新参の教師は夢から醒めたような顔をして周りを見渡し、慌てふためいて出て行った。
ひとつはっきりした。昨夜から人間を操って様々な事象を引き起こしてきたのは、この『モエギ』だ。
「実はあなたを見つけて、ちょうど適当な人間がいないかなぁとウロウロしてたら、たまたま目に入ったので操ることにしたんです♪」
小声で自白までしてくれた。そこまで言わなくていい。せめて他人事にしておきたい。これでは共犯者みたいだ。
「……今日は眼鏡をかけたんだ」差しさわりの無いセリフで、竜胆は会話のジャブを放った。「髪の色も違うね」
「桃色の髪じゃあ目立ちすぎるかなぁって」さらりと髪をかき上げた。「竜胆はどう思います」
「うん、素敵だね」条件反射的に笑顔でサムアップした。
「んもう♪素敵だなんて♪」
夢見るように目を閉じた萌黄は、意外な力強さでハッシと竜胆の手を取ると真横にまで回り込み、戸惑う彼の頬に眉間をこすり付けてきたのだった。それももう、グリグリと。
「わ、ちょ!ちょっ?」
頬をぐりぐりぐりぐりされて顔を変形させながら仰け反る竜胆だったが、なんだか不思議と心地良かった。それも凄く慣れた気持ち良さだ。誰かにされたこと、あったのだろうか?記憶にはないが、もしかすると、物心つく前、母親にでもされたのかも……。
だが、我に返ったように思い出した。(いや、猫の行動だコレ)
何で忘れていたんだ?公園で、路上で、他人の家で、猫ちゃんたちにこんな歓待を受けてきたじゃアないか。だが、人間にされたのは間違いなく初めてだ。
隣で翔摩がげんなりした顔をしている。何をいちゃついているんだ、みたいな顔だ。周りの視線もなんだかとげとげしく感じる。
このままの姿勢でも全然よかったのだが、やむなく竜胆は少女の両肩を持って引き離した。
「やん♪」
とか言いながら、萌黄はなんだか嬉しそうだ。
くッ……思えば、猫がどうとかを差し置いても、女の子とこんな風に触れあったことはない。妹は……ちょっと違うしな。
「ごめん、眼鏡が当たってて……」言葉もつい言い訳がましくなる。
「あ、これですか?」顔同士がほんの数センチの距離のまま、萌黄は眼鏡の弦をくいッとした。「実は、眼鏡をかけた理由は3つほどありまして……♪あ、お嫌でしたら竜胆の前でだけ外しても良いですよ?」
「うん、ありがとう……いや、そうじゃなくて」いかん、ペースに乗せられる一方だ。仕方がない、もうちょっと確信に踏み込むか。
「あの、君……萌黄はさ……あのナメクジに襲われていた猫ちゃんの……その……なに?」
「んもう♪分かってるくせに♪いじわる言わないでください♪」
またもおでこで頬をぐりぐりされる。竜胆としては頬をゆがめたまま、「お・お・お・お・お」と呻くだけだ。だが、見る角度で見たら、竜胆が最上級の笑顔を浮かべていることに気付かれていただろう。
今度のグリグリは短時間で終わった。だが、攻めの前屈姿勢を解くことなく顔を上げた萌黄は、超近距離でにっこりと微笑んだ。「モ・エ・ギです。あなたが名付けてくださったでしょう?」
「……。そうか」
一瞬どぎまぎした竜胆だが、少女の応えに一転、暗い顔で頷いた。
なるほど、この紫車萌黄という女の子は、自分こそが猫のモエギちゃんと言っているのだ。しかし、現実に猫が人間に化けるなんて、あるだろうか。金銀蓮花が言ったとおりに。それなら、悪魔が人間に化ける方があり得る。
あるいは、この娘は、猫だったという妄想に囚われた、モエギちゃんのかたりだろうか。モエギの名を知っているのは、金銀蓮花と翔摩だ。2人と他人に言いふらすような性格ではない。いや、エンジュも知っているか。あいつなら口が軽めなので誰かに話したかもしれない。しかし、だからと言って自分は猫が化けたのだと言う妄言を、竜胆が信じると思ったのだろうか。それを信じる程に竜胆は、猫に関しては狂ってるなどと思われているのだろうか。それほどの狂人だと思われているのだろうか?
(……とはいえ)
竜胆は違う側面に目を向けた。世界には様々な種類の猫がいる。金銀蓮花に嬉々として話した通りに。あまり進化が無いと言われる猫だが、ここ百年で多様な変化をし、多くの品種が生まれた。その事も、ひとつの進化と見て良いかもしれない。ならばもしかすると……人間そっくりに変化できる猫が存在しない、とは言えないのではないか。
(……いや、待て、惑わされるな!)妄想に流され始めた自分を彼は叱咤した。常識を弁えろ!
(しかし……)と思い直す。(悪魔が人間に化けてクラスに転入してくることに比べたら、どっちがあり得るんだ……?)
……ふむん、人間に化けることができる猫。昔話にもあったな。助けてもらった猫が、恩返しで女の子に化けて、助けた青年と、け、け、結婚するような話が。猫を猫として愛さないのは邪道だと憤慨した幼い頃もあったが、大きくなるにつれ、それもアリだな!と思うようになってきたのも大人の汚れか……。
(なるほど、確かにこの娘は猫が化けた可能性が無きにしも非ず……!)
「あ~……机と椅子を持ってこようぜ、リンドー」
クラスの視線を逸らすかのように翔摩が言った。竜胆が気持ち悪い笑みを浮かべ始めていたせいかもしれない。
「ん、ああ、そうだな、椅子と机はもう余っていないし。次の授業までに萌黄の席を用意しないとな」
「あ、私も行きます」
立ち上がった竜胆に、萌黄も嬉しそうについてきた。
3人そろって教室を出る。
「この先に使っていない教室があるんだ。そこに余った机や椅子が置いてある。お前の机と椅子も寮母さんと俺が運んだんだぜ」
そうか。あの席は始めから空いていたのではなく、金銀蓮花が用意してくれたんだ。なんで寮母さんを使ったのかよく分からないが。
「けど……」先頭に立った翔摩が振り返った。「注意しろよ。空き教室には、授業をサボった生徒がたむろってる場合があるんだ。特に紫車さんは入らない方がいいかもね。ガラが悪いやつもいるだろうし」
「あ、私は大丈夫ですよ、人間なんてゴミみたいなものですから♪」
笑顔で返す萌黄に、「……そ、そうなんだ」翔摩は返答に窮して竜胆に視線を向けた。
「おい、リンドー!紫車さんとはいつ知り合ったんだ?」
「……ごく最近だな」
のっぺりとした違和感を振り払って、明るく竜胆は答えた。「タクシーで……その、一緒になって……」言葉尻がぐんにゃりした。正確ではない表現だ。本当は攫われたのだ。だが、それは竜胆の為だった。竜胆の体を治すために、悪魔の体に作り替えようと……悪魔……。
「ナメクジの悪魔に……」
「ん?」
「……悪いやつに襲われていたところを助けたのが本当の出会いだな。はは」
「あの時の竜胆は素敵でした♪」萌黄が笑顔で付け加える。
「へぇ、リンドーが猫以外を助けようとするとはなぁ」翔摩は本気で感心しているようだ。
(ショーマはオレのこと分かってるな……)
見透かされていることにげんなりと、そして同時に誇らしげな気持ちも抱きつつ、あの時までは、確かに自分の世界は普通だった、と懐かしく思い返した。あれから、どんな変化があったのだろう。もちろん、最たるものは健康を取り戻したことだ、が……。
(オレが悪魔の体に改造された?……でも、金銀蓮花がそう言ってるだけだ。頭から信じる謂れはない……よな?)
廊下を歩いていても、萌黄は通る者の視線を引き寄せていた。ここまでの美少女はそこらにはいるまい。金銀蓮花も美人だが、あっちはクール系で、好みのジャンルが違うだろうし。
竜胆は少し元気を取り戻した。萌黄が悪魔かどうかはともかく、猫でもある。それもすごい美猫だ。それが人間に化けたのだから、人の注目を浴びても仕方があるまい!よし、明るく行こう!
「その制服はどうしたんだ?」軽いノリで訊いてみた。
「授業をバックレていた女生徒を一人見つけたので、掻っ攫って剥ぎ取って魔法の力でコピーしたんです」
「……」竜胆の目の色が死んだ。「へぇ」
「あ、もちろん、きちんと返しましたよ♪」さも良いことをした、みたいな笑顔の萌黄。「また着せるのが面倒だったので、裸のままトイレに放り込んで鍵を掛けてあげました。大丈夫、誰にも目撃されていません。目覚めったらきっとびっくりですね♪」
「だろうね。オレも朝、目覚めるとそんな感じで……ちょっと状況が違うけど」
「そうでしたね♪」萌黄も平然としたものだった。
「あの……ところでその……魔法の力というのは?」
「魔法の力は魔法の力ですよぉ」何を言ってるんだ?みたいに萌黄が可愛らしく眉根を寄せる。
「いや、魔法の力とは何かを知りたいんだ。その……悪魔と関係ある?」段々余裕がなくなってきた。
「大アリですよ。魔法とは、魔力をエネルギーとして形を成す悪魔の持つ力の事です。複雑な技だと、使いやすいよう魔法術式を介在させたりもしますね」
「……」
「竜胆?」考え込んだ少年に、少女が顔を覗き込んでくる。
「ああ、うん、なんでもない……」
愛想笑いを浮かべた竜胆は、こう決めた。深く考えるのはよそう、と。萌黄は、あの猫のモエギちゃん。それでいいじゃないか。何か不都合があるか?
(どうせ、昨日まで半ば妄想の世界に生きてきたんだし……)傍から見るとやつれた目つきで、竜胆は自分に言い聞かせた。(そしてモエギちゃんはオレの命の恩人。それでいいじゃないか。そして……猫。最高だろ?)
(そして猫……?)
はっと真理の光がさして、竜胆はすがすがしく顔を上げた。
(そう……猫。猫なんだ……!紫車萌黄は猫の女の子!なんだ……いいじゃないか!それでいい、それでいいんだ!それ以外の事は!どうでもいい!悪魔とか言ってたのは気にするな!忘れろ!)
「そういえばさ、萌黄は分かるとして、紫車って姓はどこからきたんだ?」
「ああ、それは」グッ、と親指を立てる萌黄。「私の悪魔ネームが由来です♪」
「へぇ……悪魔ネームか……」少し笑顔を曇らせて竜胆は眼を逸らした。
いや、負けるな!
「これは内緒にしていてくださいね。竜胆だから言うんですよ?」萌黄が口を寄せてきた。「私、地獄でのリアルネームは『シグルーン』と言うんです。それをちょっと変えてみたんですが、いい名前でしょ~?」
「うん、いい名前だ」笑顔に戻って、ふと竜胆は前を歩く翔摩に目を向けた。こんなきわどい会話、いや、アウトな会話を拾ってこないとは。
「あ、彼には私たちの会話は聴こえていません」萌黄は請け負った。「魔法の吸音壁を展開していますから」
「すごいな……でも、その、魔力とかを感知するシステムが、どこかにあったりしないのか?」
金銀蓮花は昨日、萌黄の魔力を察知したらしい。なにかしら、感知する機械があるのではないか?
だが、萌黄は意外なことを言った。「いいえ?魔力は人間には感知できません。感知する方法すらありません。魔力を感じるのも、魔法を使うのも、悪魔だけが可能なんです」そして付け加えた。「地獄の眷属も、ですかね」
「え?……しかし……君の魔力を感じ取れたという人がいたんだが……」
言葉を濁す。金銀蓮花の事を言ってもいいのだろうか?
「ああ、あのガガブタとかいうオンナのことですよね?」萌黄の目がきらりと光った。気づいていたようだ。
「……ん~……まぁな」今更ながら、金銀蓮花に対して罪悪感が湧いた。萌黄は恩人だが、彼女も恩人だ。今の竜胆の行動は、明確な裏切りとなるのではないだろうか?
「アイツなら魔力を感知するのは可能です。だって……」
そこで悪戯っぽく萌黄は微笑んだ。「なんでだと思います?」
「なんでって言えば……」
竜胆は固まった。萌黄が何を言いたいのかは明らかだ。金銀蓮花は妙に悪魔に詳しく、魔力を感知し、不思議と多くを知り過ぎていた。しかし、彼女は人間社会の一員だ。校長の娘で……そしてなぜか教師に対して権限があり、人間社会に対して影響力が強い。そんな彼女が、彼女自身も、まさか――。
「……ついたぜ」立ち止まった翔摩が振り返る。「どうした?さっきから静かだな?」
「ん、いや、なんでもない」竜胆は首を振った。
誰が悪魔か、だなんてどうでもいい。さっき、そう決めたじゃないか。
(オレは正義の味方なんかじゃない)自分に念じるようだった。(だけど悪魔の味方でもない……)
「だってオレは猫の味方だから!」
はぁ?みたいな顔で翔摩が振り返った。
いつのまにか、吸音の魔法は効果が解けていたようだった。
3人は、1-Hと記された教室に入った。
どうやらこの部屋は、仮の荷物置き場として使われているようだった。定数以上に机と椅子があり、掃除用具やロッカー、卓球台などが置かれている。
そして、ガラの悪そうな制服姿の男子生徒が4人ばかり車座になって座り込んでいて、入ってきた一行へ一斉に胡乱な目を向けてきた。翔摩の話の通りだ。
「すみません、机と椅子を持ってくるように教師に頼まれたので」
如才ない笑顔で先住者に挨拶しつつ、翔摩は机を手に取った。竜胆も椅子を持ち上げる。
「それでは失礼し……」
「可愛い女の子じゃねーか」
4人の中で一番体格のいい、というか、大柄な固太りの青年が身を起こして近づいた。「ねーちゃん、何組だ?」
「1-D、でしたっけ」物怖じせず萌黄が応える。全然笑顔がぶれてない。
「へぇ」固太り青年が、気持ち悪い笑顔を浮かべて少女に顔を近づけてきた。そいつの身長は竜胆より少々高いぐらいだが、横幅がはるかに広く、太い。前に立たれると壁のように感じる男だ。
翔摩はしばし固まったが、竜胆は椅子を置くと足音高く萌黄と男の間に割り込んだ。
とたんに険悪な顔をする大男。「なんだてめぇ……」
「この娘はオレの……大事な人だ」足が震えるのをこらえて、竜胆は相手を睨んだ。「ちょっと用事があっただけなんだ。すぐに出て行くから……」
「何言ってんだこいつ?」男はせせら笑うと、竜胆の頬に鞭のような裏ビンタを叩きつけてきた。本気ではない一撃だが、体格が違い過ぎた。一発でぶっ倒されるパワーを秘めてそうだ――。
バチッ!
「?」痛くない。確かに頬に衝撃を感じたが、それだけだ。ダメージ、なんてものは僅かも感じない。
「お?なんだこいつ?やせ我慢か?」
大男は異変に気づかないようだった。仲間の3人にへらへらと笑いかけている。と思いきや、突如身をひるがえすと、こぶしを固めて竜胆の腹に強烈なパンチを喰らわせた。
防ぐなど思いもよらない速さだった。腹パンで持ち上がった竜胆の体はそのまま後ろに吹っ飛び――。いや、持ちこたえた!体は少し押されたが、スポンジボールが優しく臍に当たった程度の衝撃だった。むしろ不思議なのは、この程度の衝撃なのに、体が押された、ということだ。実感として、奇妙な感覚だった。例えるならば、とんでもなく分厚いマットレス越しに殴られたようなものか。音は派手だし、押されはするが、衝撃が伝わってこないみたいな。
大男の顔に焦りが浮かんだ。今の一撃で殴り倒したと確信していたのだろう。
「ふふ、竜胆の強さを思い知らせる時が来たようですね♪」
ひじょ~に嬉しそうな萌黄の声が響いた。
「いや、そうは言ったって……」
と振り返った竜胆は、持っていくはずだった椅子に足を組んで座る萌黄の膝に、何か奇妙なものが置かれていることに気付いた。
どこから取り出したものか、紅色の光沢を放つ機械だ。機械の左側にレバーが、右側にボタンがいくつも並んでいる。萌黄の右手はボタンの群れ全体を抑え、左手は中指と人差し指がレバーを下からすくうように掴んでいる。見るからにゲームのコントローラーだ。しかし、それはいったい――。
疑問に思う暇はなかった。萌黄の指が機械側面のスイッチを押し、カカッとボタンとレバーを操作したのを視界に捉えるや否や、竜胆の体が、ぐりん!と大男に向き直ったのだ。
「さあ、次はこちらからですよ♪」
舌なめずりしているような萌黄の声が聞こえた途端、竜胆の右手が大男の左側頭部に当てられていた。同時に竜胆の左足が大男の右踵に添えられる。なんだ?と思っている間に、一気に力が入って、ぐるッ!と大男が臍の位置を中心にして風車のように横回転した。
普通はこんな風にならないハズだ。横に倒れるだけだろう。だがどんな手練手管なのか、横一回転して元の位置に直立した大男は、「おッ、オッ?」と呻くや、後ろによろけて尻もちをついた。脳が揺らされたために違いない。
ヤンキー仲間の一人がいきり立って駆け寄ってきた。「てめぇ!日光さんをッ!」
ブン!と振るわれる右こぶし。それを竜胆は危なげなく取り、合気道を思わせる動きで捻りあげると後ろから左足をヤンキーの左足にかけ、首に手をかけて引き絞った。
「こ、これは……!」技をかけた竜胆が驚く。「この技は!」
「ここでコブラツイストだ~!」
唐突に翔摩が大声で宣言した。こぶしを口に当ててるのはマイクのつもりか?
ヤンキーは自由な左手で竜胆の腕を引き剥がそうとするが、びくともしない。決められた首と右腕をさらにひねられて、ヤンキーは悲鳴を上げる。
一方、後に続いて加勢しようとした残り2名のヤンキーたちは、見事なコブラツイストを見て思わず「おお~!」と感嘆の声を上げていた。ここまで素早く芸術的に決まるなど、ヤラれる方も協力したように見えてしまうのだ。
だが、竜胆の攻めはこれで終わりではなかった。素早く右足と左足をスイッチすると、ヤンキーの上半身を押し下げ、首ごと左足で決めたのだ。卍固め――オクトパスホールドの完成である。
「いだッ!いだッ!イデデデデ~~~~ッ!」一瞬で泣き顔になったヤンキーは、必死に左手でタップした。
「ギブ!ギブアップだ!やめろ!やめてくれぇ~ッ!」
その声を聞いて、竜胆はヤンキーを解放した。
戒めを解かれたヤンキーはゴロンと床に転がり、右腕を押さえて竜胆を半泣きで睨んだ。戦意は完全に消失しているようだ。しかし――
「え?なんだ?どうなってるんだ?」
竜胆は戸惑うばかりだった。なんといって――「オレ、何もしてないぞ?なんで体が勝手に……!」
「おもしれ―じゃねーか」
残った2人が揃って立ち塞がる。うち一人が鼻の下をキュキュッとこすると、半身になって身構え、細かいリズムを取り始めた。どうやらこいつは腕に覚えがあるらしい。
「次はあなたですか?」楽しそうな萌黄の声が背後から響く。それを聞いて、別の一人が照れくさそうに後ろに下がった。
いや、喧嘩なんだから同時にかかってもいいのに。なんで1対1の正々堂々なんだ?とはいえ、どこか邪魔だてしにくい雰囲気が醸し出されているのも確かだ。ただ、相手は竜胆と戦うつもりだろうが、竜胆としては――
「しャッ!」
ヤンキーが素早い裏拳を放つ。かなり速い!放たれたと思えば戻り、翻弄するように拳が飛ぶ。
「もしや、それは詠春拳というやつではっ?」
萌黄の嬉しそうな声が飛ぶ。
それをヤンキーはニヤッと返した。「違うな、これは――アチョーッ!」
気合一閃、怪鳥の叫びをあげて跳ね上がった鋭い前蹴り!それを――
がしっ!と竜胆は両手で抱え込んでいた。そしてそのまま全身を捻って倒れ込む。
「おおっとぉッ!これはッ!」翔摩が叫ぶ。「ドラゴンスクリューだァァ!」
「ぐわっ!」ビタン!と床に倒れたヤンキーはじたばたした。しかし素早さが信条らしいこの男も、床の上で組みつかれては俎上の鯉だ。
その隙をついて、竜胆は素早く体の向きを入れ替えると、ヤンキーの右足を掴んで自分の足を絡みつかせた。そしてグッと身を仰け反らせる。
「竜胆!ここでドラゴンスクリューからの4の字固め!」翔摩が興奮している。「足の長い竜胆が使うには若干不利な技に見えますが、相手の長い足とうまく作用してガッチリ決まっています!これは抜け出せない!」
なんか翔摩が実況を始めていた。
「くそおッ!こんなッ!」と叫ぶヤンキーだが、ばたんと仰向けになると、悔し気に大きく床を2度3度タップした。さっと足を外す竜胆。
残った一人だが、こちらは腕に自信はなかったらしい。立ち上がったばかりの竜胆へ向かって、椅子を掴んで投げつける。
「うわッ!」
と驚いて目を瞑ってしまう竜胆だったが、腕は的確に椅子の足を掴み、続いて投げられた椅子も手に持った椅子で打ち落とすと、更に椅子を投げようと屈んでいたヤンキーの胸に水平チョップを喰らわせた。
「ぐえッ!」
そして痛がる相手の首をおもむろに抱え込む。
「竜胆の水平チョップ!か~ら~の~!」期待に満ちた翔摩の声。あいつ……。
伸びあがるようにジャンプした竜胆の腰が落ちた――相手の頭を抱え込んだまま。
「DDTだ~ッ!」
ゴツン!と鈍い音がし、頭頂が床に直撃したヤンキーは、ゴロンゴロンと転がりながら悶え苦しんだ。竜胆は、もちろん勝利を宣言するかのように立ち上がっている。
「……やたら好き勝手やってくれるじゃねーか……」
最初に倒された大男が、よろよろと立ち上がってきた。確か、日光と呼ばれた奴だ。
「立ち上がった日光貴介!だが、まだ足に来ている!」翔摩の声が飛んだ。どうやら知り合いらしい。「しかし、ウェイトは十分な武器になります!そして柔道家の彼の本領は寝技にあります。ここは組技に長けた竜胆としても慎重になるところ!いかがですか紫車さん」
「竜胆は素早い上に見かけ以上に頑丈ですから」おっとりした萌黄の声が調子よく応じた。「きっと相手の猛攻に耐えながら、鋭い技を決めてくれるでしょう!楽しみです♪」
「……」
そろそろからくりが見えてきた。
視界がぶれて萌黄の方向があまり見えていなかったが、萌黄が日光の後ろに居る位置だとよく分かる。
要は、萌黄の持っているコントローラーだ。リモコンと呼ぶべきか。どうやら、竜胆はそれで動かされているらしい。自分で体を動かそうとしても、全く意志に添ってくれない。自律できるのは、目と口だけだ。
そして、萌黄のゲーマーとしてのレベルは相当なものだ。レバーとボタン捌きは、視界に入った時のみしか見えなかったが、実に見事なものだった。操作全体が実に堂に入っている。そして悪ぶれた表情は全くない。心の底からこの状況を楽しんでいるようだ。
「ではいくぞ、竜胆とやら」両こぶしを腹の横に構えた日光は、
「かぁッ!」と大声で吠えた。グッ!と体が一回り大きくなったような気合を感じる。
「……」竜胆も油断ない目つきで日光を睨んだ。なんて言ったって、睨む以外に出来ることはない。
先に仕掛けたのは竜胆の方だった。両こぶしを顔の前に構えた、オンガードポジションからの素早い左ジャブと右ストレート!まるで同時に放たれたかのような両こぶしのパンチスピードは、3番手で挑んだジークンドー使いに匹敵するか、超越している。
それを判ってか、床の上から見上げる拳速ヤンキーの目に感嘆の色が浮かんだ。
腕を取ろうとした日光だが、捉えきれずに腹を打たれた。だが、痛がるそぶりを見せず、じりじりと距離を詰める。
「まずは竜胆の先制攻撃。素早いジャブで牽制を仕掛けていきます」
翔摩は茶々を入れてきた。そういえばあいつ、中学の頃プロレス興行をに見に行ってたな。「貴介、忍の一文字。慎重にチャンスを窺っています」
萌黄は攻めあぐねているのだろうか?今は日光の馬鹿デカイ体に遮られて向こうが見えない。
不意に、日光が身を丸めると素早いタックルを仕掛けてきた。柔道家がタックルとは!素早い竜胆の意表を突いたつもりなのだろうか?しかし、日光の後ろに位置していた萌黄の顔が見えた。すごくいい笑顔だ。この動き、もしや読んでいたのかッ?
伸ばされた竜胆の両の手の平が、ガッと日光の両顎を抱え込み、人差し指が耳の下に位置する顎骨の裏を激しく突くと同時に、頭部全体を真上に引き上げた。身長の加減で、普通に向かい合っている位置ならばできない動きだっただろう。日光が体を沈めた状態だったからこそ通用したのだ。
そして、掴んだ日光の頭を鋭く後方へと押し倒す。
「これは――……」と言いかけた翔摩の声が尻つぼみになった。見たことのない技だったのだろう。喧嘩となれば一方的にやられることの多かった竜胆ならなおさらだ。中国武術には珍しい関節技だったなんて知りようがない。しかしこれは、首へのダメージが心配だった。
案の定、日光は眼を回してぐらついた。
その上体をさらに抑えて太い腰をがっしりと両手で抱え込むと、竜胆の体は逆向きに日光の巨体を抱えあげていた。
「おおお~~ッ!」翔摩を含め、ヤンキーたちが驚きの声を上げる。見るからに軽量級な竜胆が、重量級の日光を逆向きに持ち上げるなど、ちょっとしたカタストロフだろう。大男の両足が天井をこするようにバタつくが、この姿勢になってしまうと――
「竜胆、日光の巨体を持ち上げた~!これは脳天砕き、ブレーンバスターの体勢だ~!」翔摩の弾んだ声は、懸念も伴っていた。「しかし、日光の頭部へのダメージは蓄積している!このまま頭を叩きつけられれば命の危険があります!」
なんだと!と竜胆はぎくりとした。萌黄の笑顔は変わらない。
ぐらり、と竜胆の体が後ろへとぐらつく。
人間はゴミみたいなもの、と言っていた彼女のセリフが思い出された。待て!人間はゴミなんかじゃない!なにより――
(この状況でこいつが死んじゃったら、オレの所為に~~ッ!)
ドゴオッ!と日光が床に叩きつけられた音が、教室中に響き渡った。
ごくり、と息を呑む一同。竜胆なんか特にそうだ。しっかり抱え込みながらも、怯えた横目を向けてしまう。
一瞬の沈黙。どうなった?
「背面叩きつけ式のブレーンバスターだぁ!」翔摩の声が弾んだ。「頭部は無事です!しかし、日光、動かない!
竜胆の!勝利です!」
「ウオオーッ!」
ヤンキーどもも、なんだか感涙にむせている。
技を解かれた日光は、床に胡坐をかいた姿勢で竜胆を見上げた。なんだか清々しい笑みを浮かべている。
彼は、立ち上がらせようとした竜胆の手を断った。
「やるな、貴様……すまん、しばらく立てそうにない」日光の体がぐらついた。すぐにでも横になりたそうだ。しかし堪えて顔を上げた。「名前はなんて言うんだ?」
「……天草竜胆だ。1-D組」
「俺は日光貴介だ。2-F。……お前、強いな……」
「いや、それほどでもない」即答した竜胆は怪訝そうに見返され、慌てて訂正した。「世の中には強いやつがいっぱいいる。オレなんて……まだまだだ」
「……そうか、なるほど、その気持ちこそが大事なんだな……」
竜胆の適当な一言が、なにやら彼の心の琴線にヒットしたようだ。
ヤンキーの仲間たちも同様な雰囲気だった。椅子を投げつけた奴が、肘で小突かれている。
(お……)
ふっと体のコントロールが戻った。さてはと見ると、萌黄がリモコンをポケットにしまい込んだところだった。って、あんな大きいもの、ポケットに入るものか。それだけでもバカにされている気がして、竜胆は少し苛立ちを増した。もちろん、もっと怒っていることがある。それはもちろん、
(オレの体を勝手に操るなんて!)
「萌黄――」
甲高い声で不満をぶつけようとした途端、授業開始のタイムが鳴り響いた。
「リンドー!早く教室に戻らないと」翔摩が急かし、竜胆達は挨拶もそこそこに日光たちに手を振って1-F教室を出た。もちろん、机と椅子は翔摩と竜胆が抱えている。
「ところで萌黄――」
「凄いんだな!竜胆は!」翔摩は息せき切って竜胆に肩を寄せた。「あんなに強かったのか!なんだ?どこかで修行してきたのかッ?」
「エッ?いや、違う、違うよ、オレじゃないんだ。すごいのはオレじゃないんだ」
「お前が凄くなくて誰が凄かったんだよ?なあ!紫車さんもそう思うだろ?」
「当然です。竜胆の凄さは普通じゃないですね」翔摩の後ろでジト目で睨む竜胆の視線を知ってか知らずか、萌黄はニコニコ顔で応じてみせる。
「おい」
「あ~でもな~」
続く翔摩の言葉になにやら不穏を感じて、竜胆はぴたりと止まった。
「これから竜胆は忙しくなりそ~だな。日光を倒したとなっちゃあ、学園内の猛者どもが黙っていないだろ~しな~」
「学園内の猛者ども?……え?あんなのが他にもいっぱいいるの?」
「大丈夫、竜胆なら勝てるさ」
人の気も知らずに、翔摩は請け負った。「だが、そうだな……まずは、宇坪克羅かな……」
「ウツボカヅラ?なんだそりゃ、人名か?」
「俺達のクラスにいる奴だぞ、ほら、廊下側の一番後ろの、眼鏡をかけたイカつい奴」
「ああ……」あいつか。
「あいつはマジで強いぞ」顔を近づけて、翔摩は忠告した。「宇坪は、学生銃剣道の期待の星なんだ。親父の鬼襟も県代表に出てたみたいだが、素質は親父を超えると言われているな。今年入学したので、インターハイが楽しみだと学内でも評判なんだ」
「なんだ、スポーツマンか」竜胆は安堵した。「だったら喧嘩は吹っ掛けてこないな」
「いや、あいつは喧嘩っ早い」翔摩はあっさりと否定した。「銃剣道だけではなく、喧嘩自体が強いんだ。そしてまわりにも喧嘩を売って回る。狂犬みたいなものと思っておいた方がいい」
「そんなので失格にならないのか?」
「喧嘩っ早い方が軍人の受けがいいんだ……なんたって、ここは軍人養成所みたいなところだからな」
「そ、そうか……」
「で、あいつはどうやらガ……クラス委員長に惚れてる」うんうんと自分に頷く翔摩。「気を付けろよ竜胆、お前、委員長によく接触してるからな。気に入られてると勘違いされたら、即喧嘩の売り手市場の商品になるぞ……ま、お前ならそんなに心配はいらないか」
「は……はは……」
とりあえず、笑うしかなかった。