12.猫はどこに?
今朝、健康な体になってからの高揚が、急速に萎んでいくのを感じた。
騙されているのでは?と思いたかった。
――いつ悪魔の体に変わってしまうか、不安を感じ続けた3年間だった。
まず、周りの人間が、自分を避けているように思えてきた。自分では分からないうちに、少しずつ少しずつ人間の容姿から離れて行っているのでは?それを自分では気づかずに普段通りに過ごしてしまって、周りに気を使わせているのではないか?そんな不安に苛まされてきた。気のせいだと思うようにはしていた。それでも、毎日過去の写真と鏡とを交互に見て、自分の顔に変化がないか、目を皿のようにして見続ける日々だった。
姉の、あの赤い腕は悪夢によく現れた。自分の体もそうなってしまうように思えて。
それが、ついに正夢と化したのは1年前。凍り付く思いでそれを見つめ、それを隠した竜胆だったが、悪夢はまだ終わらない。変化がそれで終わるはずはなかったからだ。
妄想に逃げ、自爆することに憧れを感じ始めたのは、体はともかく、心だけは人間のままだと誰かに思って欲しかった表れだったのかもしれない――今にして思えば。
しかし、今朝、目覚めると全身が人間に戻っていた。
呪縛から解き放たれた!と思った。もう、異質な化け物にならなくて済むんだ!だって、人間に戻ったんだから!
(なのに……オレの体が『悪魔』だって?)
「オ、オレの体が悪魔に近い、みたいな言い方だな」動揺を必死に隠して、竜胆はぺたりと頬に手を当てた。人間の肌の感触。「……ほら!どう見ても人間だろ?」
――そうだろうか?
じっとり背筋を、冷や汗が伝う。今朝、目覚めてから鏡を見ていない。
(……もしかして、顔、人間のものじゃなくなってるんじゃあないのか?だから、門番に止められたんじゃ……?)
暗い顔で固まった竜胆の悩みに気付かず、金銀蓮花は言葉をつづけた。
「妖物化病は、人間を悪魔に変えてしまうのは知っているわよね?」
「ああ、妖物化病がそうだ、というのは知ってる……」
「それを考えたら、悪魔猫のやったことは、悪魔のパーツの再調整、みたいなものかもしれないわ。なんというか……不完全にくっ付き合った状態を整理し直して機能的に組み直したというか、人間部分を切り離して作った悪魔のパーツをはめ直したというか」
「そんな……ジャンクからロボットを作り直すみたいな言い方を……ん?」うすら寒い思いで聞いていた竜胆だが、金銀蓮花の話に齟齬があるのに気づいた。「待てよ、こんなにオレは元気だぞ?悪魔だったなら、それこそさっき君が言った、魔力の欠如で動けなくなってしまうんじゃないか?」
「そう……そこなのよ……」金銀蓮花は組んだ指に顎を乗せた。「妖物化した体を改造し、見た目は全き人間として、低魔力環境の影響も受けず、あなたはあなたのままで、精神状態もいたって普通……悪魔は悪魔でも、私たちの知る存在とは別種と見るしかないわね……含有魔力も少ないから、暴れたところで取り押さえるのも容易そうだし」
「暴れる気はないけどね……」竜胆は複雑な思いで俯いた。女の子に、取り押さえるのは簡単、と言われるのはちょっと癪だ。だが、それって人間と実質変わらない、と言われているようで、嬉しくないわけでもない。なにより今、『見た目は全き人間』って言わなかったか?
不安は完全に消えたわけではないが、幾分か冷静に竜胆は、あらためて思考を巡らせた。
「……じゃあモエギちゃんは、オレを助けてくれたんだな。死から救ってくれたんだって、そう見ていいんだな?」
「……。結果から考えるなら、そうね」金銀蓮花の返答は歯切れが悪い。
「……あの激しい痛みと苦しみは、きっと死ぬまで消えないと諦めてた」
竜胆は、ふわりと虚空を仰ぎ見た。未来のない、昨日までの絶望が思い出される。「もしあれを消し去ってくれるのなら……あんな、ノコギリでじっくりと切られていくような終わらない鈍痛と、不意に襲いかかってくる刺すような激痛に怯え続けて、ちょっと状態がましになっても、じきにまた痛みが襲い掛かってくるんだろうなって、そしてそれが確実に悪化していくんだって知ってる、絶望としか言いようのない毎日から解き放ってくれるのなら、オレは、たぶん、何だってしたかもしれない」
「……」
「たとえ……そのせいで人間じゃあ、なくなってしまったとしても」
そのセリフは自分と折り合いをつけるものだったのかもしれない。彼の中では、今だ悪魔とは化け物の認識だが、痛みを取ってもらったことには感謝しかなかった。悪魔の体にされた、という実感はないが、もしそうだとしても、必要な処置だと受け入れられる気になってきたのだった――。
「……で」竜胆は、ぐいっと身を低くして金銀蓮花に顔を近づけた。「やっぱりオレって悪魔なの?」
「……往生際が悪いのね……そうだからこそ、悪魔と戦おうなんて思えたのだろうけれども」
間近の竜胆の顔を押しやって、少女はため息をつく。「かも知れないって言ったでしょ?詳しいことは本人に訊いてみないと断定はできないわ」
「そう……だよな」
直接本人に訊く。それ以外に全貌を明らかにする方法はないだろう。自分の身に起こったことはありえないことだと、それも歴史上を鑑みても極めて異常な事態だと薄々感じ始めている。現状把握に理解が追い付いていかない。自分が頭が悪いとは思ってはいないが、知識量が絶対的に不足していた。金銀蓮花の言葉も推測でしかない。
「モエギを探し出して話を聞く、それに異論は全くない」
あと、懸念はもう一つあった。「それと妹の無事も確かめたいんだ。昨夜別れてからどうなったか心配だし」
引き離されたからと言って、あいつが大人しく家に帰るのは奇妙だった。竜胆が誘拐されたものと思ったのなら、警察に駆けこむぐらいはするだろう。
「そうね……。エンジュちゃんには、電話番号をかけてみるわね」
そう言うと、金銀蓮花はスマホを取り出して番号を押し、耳に当てた。
(いつの間にエンジュの番号を?さすがのコミュ力だな。オレなんかとは違う……)
しばらく耳を傾けていたが、返事はないようだった。
金銀蓮花は肩をすくめてスマホを離し、なにやら操作をし始めた。「ショートメールを送っとく。今となっては、あなたの妹さんも興味深いし」
「ん?」エンジュも?
竜胆は、メールを打っている少女におずおずと声を掛けた。「そうだ、エンジュについて、モエギちゃん、変なことを言ってたんだ。なんか、『天使のなりかけ』とか言っていたんだが」
「……」金銀蓮花は無表情に竜胆を見返した。
「……何か知ってるのか?」
「まぁね」少女は物憂げに髪をかき上げてスマホに目を落とした。大したことない、といった風だが、気にされたくない風にも見て取れる。
だが、注視している竜胆に根負けするように、目を伏せたまま言葉を続けた。「妹さんと合流できたら教えてあげるわ」
「悪い話ではないのか?」
「ええ」
「そう、か……」気にはなるが、まずは顔を見て安心したい。家にいないということは、どこかでふらふらしているのか?最後に見たところは、病院を出て南、そして西――こっち方面に向かっていたはずだが。
「……そういや、病院はどうなった?」
自分は無断で抜け出したことになっているはずだ、と竜胆はようやく気付いた。彼を連れだした2人の看護師は明らかに操られていたからだ。今日でも行方不明事件として捜査の手が入ってもおかしくはない。
だが、金銀蓮花は困惑したように椅子に深くもたれた。「それがね……天草君には、担当Drから退院許可が出たみたいなの。水蓮から連絡を受けて先に確かめてみたんだけど」
「水蓮?」
「蘆立水蓮。門番の子よ」
「ああ、門番の……子ッ?」あの巨人を子と呼ぶのか。いや、あの巨人の子供なのか?多少は混乱した竜胆だが、もっと聞き捨てならない話があった。
「い、いや、オレに退院許可が出た?……でもオレ、余命1ヵ月とかだっただろ?……そりゃ、延命治療を諦めて末期は自宅でって話もあるけれど、オレの場合……」
「そう、昨日までのあなたは、その例には当てはまらない」金銀蓮花はぼそぼそと言った。「妖物化病にはモルヒネは効かない。痛みと苦しみと、そして飢えが上昇していくのみ。そして最期の瞬間、頂点に達した苦痛と絶望のはて、極限に達した負の感情を魔力に変えて、悪魔へと開花する」
「んんッ?ちょっと待ってッ?今凄いことをストレートに言ってた気がするんだけど!え?妖物化病って、最期……悪魔になっちゃうの?不完全に変化して死ぬ、とか聞いたことはあるけれども!」
「知ってたんじゃなかったの?」金銀蓮花は目を逸らした。「……じゃあこの話は忘れて」
「忘れられるわけないだろッ?」竜胆は少女へ詰め寄った。机に両手をついて、「だからか、だから途中で殺されちゃうのか!悪魔になって、人を襲うといけないから!」
「だいじょうぶ、今のあなたの体は、違うわ。もうすでに悪魔だし」
「いや、話をすり替えないで欲しいんだけど!」
「そして、誰かを喰って魔力を吸収する能力も感じない。元からそういう機能が無いみたいに」
間近の竜胆の顔を、平然と指で、ツッと撫でた。「なんでかしらね、体内に発電機があるのか、電池式か、外部電源方式なのか」
「人を機械みたいに」
「それぐらい不可解ってことよ」
金銀蓮花は面倒そうにイスに深くもたれた。「とにかく、今のあなたは、昨日のあなたとは違う。そこを分かってもらわないと困るわ」
「そう、だな。うん、全然違うのは分かってるけれども……」
それは大いに認めるところだ。「悪魔かどうかは別にして」
「……」頑固ね、みたいな顔で腕組みした金銀蓮花は、だるそうに頭を椅子に預けた。
「退院許可が出たとなると、病院もオレの体の……その、改造に一枚噛んでるのか?」
「なんでそう思うの?」
「だって……集中治療室から即退院させるなんてありえないだろ?」
「Drが許可さえ出せばなんでも通るものよ。どんなに体調が悪くても。……ただ、この場合、Drも操られていた、と考えられるわね。さっきは手術中だったから直接確認できなかったけど」
「猫が、力づくで看護師を操ってオレを外へと連れだした……のみならず、その上の指揮系統をも把握して操ったってことか?」
「退院許可が無ければ、あなたは脱走した形になるわ」金銀蓮花は、物わかりの悪い子に説明するような口調だった。「患者の脱走なんて珍しくもないけれど、さっきの理由で、妖物化病の患者は特別視される。通報され、警察のゼロ課や、果てはレルムガードにも通報が行く。話が大ごとになるのよ」
ゼロ課?また妙な単語が飛び出したぞ?だが、今はそれは忘れよう。「――猫がそこまで考えて行動したって?」
「だからとんでもない相手って言ったでしょ?」
竜胆は頭を整理した。あのタクシーの女の子は、モエギちゃんだ。それは直感的に確信していた。竜胆を攫ったのは――不治の病に侵された体を治すためだ。だから準備を整え、病院から無理やり攫い、治療を施した。悪魔の体に作り替えられたなどと金銀蓮花は言ったが、それは正直理解できない。ただ、どんな形にせよ、痛みと苦しみの日常から解放されたことには感謝しかない。
とはいえ、それが出来たのはモエギちゃんがただの猫じゃないからだ。悪魔と言われたら否定したくなるが、だったら何者かという答えは出てこない。ただ、体が治ったね、良かったね、で済む話ではなさそうなのは見当がついた。明らかに、人外の技術だからだ。それが悪魔の技術力と言われても、否定する材料はない。
懇切丁寧に説明を受けたところで、悪魔というものは、凶悪で人を害する存在だという認識が、しつこく彼の常識にはこびりついている。
だから、やはり目下の目標は、モエギちゃんを見つけて話をすることだった。
(オレなんかのために、手をかけてくれたことの真意を聞きたい。たとえ、本当にモエギちゃんが悪魔であってもいい。後ろ暗いたくらみがあったとしても、それを甘受しよう、そう言いたい……)
あと、エンジュの無事を確かめることも。今のところ、あいつの居場所の見当がつかない。連絡がつかず、連絡手段が金銀蓮花にしかないのならば、探しに出るのは悪手だろう。そしてまた、あの潰れた牛乳配達所がモエギちゃんの拠点のひとつなら、学校の近くだ。結局、学校近辺から離れられない。
「さて――敷島さん?」椅子から立ち上がりながら、金銀蓮花が言った。
だれだ?と周囲を見渡した竜胆は、ぎょっとなった。壁際に、あの門番がいた。銃こそ持っていないが――
「え?敷島さん?蘆立さん、ではなくて?」
よく見ると、この部屋にいつの間にか現れた敷島さんの首には、緑色のスカーフが巻かれていた。門番は、青色だったはずだ。それが規定の色だと思い込んでいたのだが。
金銀蓮花は平然と鋭い目を、門番その2?に向けた。
「天草君の目覚めた現場の調査をお願いしていいかしら?」
金銀蓮花がそう依頼すると、敷島と言われた大男は、
「……」ピッと二本指を立てた。
「だれ?いつの間に?」
最初に部屋に入った時は誰もいなかったのに。扉が開閉することも無かった。
「彼は用務員の敷島木蓮さん。いろんな仕事をやってくれてるの」
さらりと流すように金銀蓮花は言うと、入ってきた扉に足を向けた。
「それじゃ、天草君は担任教諭に会ってもらうわ。教室もどこか教えるし」
「担任?教室?」竜胆は訝しげだ。
「うちの学校に入ってもらうって言っただしょ?手続きも一昨夜のうちにもう済んでるし」
「え、いや、そんな急に……オレはもう一度牛乳屋に戻るよ。そこにモエギちゃんがいるかもしれない」
「その調査に敷島を行かせたのだけれど……もしモエギがそこにいたとしたら、あなたが出て行くのを放置したのはなぜ?」
「それは――」竜胆は言い淀んだ。そうだ、あの機械室の倉庫は、いつでも出られるようになっていた。やったことを考えたら、外から鍵をかけることぐらい容易だろうに。となると、竜胆の自由意思に任せたのか?なんのメッセージも残さずに。
「……オレが学校にいるって言うメッセージを、その敷島さんに頼んで残してもらえるだろうか」
所在確認さえできて、モエギちゃんがその気なら自分で会いに来るだろう。病院に現れたように。
「電話で伝えておくわね」金銀蓮花は請け負った。
「それと……エンジュから連絡が入れば、すぐにオレに教えてくれるだろうか」
もう一つの懸念、エンジュの所在が明らかになるまで学校に留まっていてもいいだろう。そんなに時間はかからないと思うし、牛乳屋にはあとで行くチャンスもあるはずだ。
「ええ、もちろん」金銀蓮花は頷いて、流れるように話を戻した。「じゃあ、天草君は更科君と同じ1年D組でいい?」
「クラス決めってそんなに簡単なものだったっけ……え、あいつ1年なの?2年じゃないのか?」
竜胆が出奔していた1年間、あいつは何をしていたんだ?高校浪人だったのか?
「更科君は出席日数が足りなかったの。この学校でドッペるなんて、まずないんだけど」
「……ドッペる?」聞き慣れない言葉だ。
「……留年したの」金銀蓮花は言い直した。
「あいつ……何してるんだ」
だが、重要なのはそこではない。「ああ、いや、学校に留まらせてくれるだけでいいんだよ。心の準備も何もないし、そのつもりも無かったし」
「だったら部外者ね」金銀蓮花の瞳から光が消えた。「部外者なら出て行ってもらうことになるわ」
「ええッ?」
なにこの何ともいえない理不尽。それを言うなら、竜胆自身の立場だってそうだけれども。
――結局、脅しともとれるような物言いに、竜胆は折れた。悪魔というキーワードが突き刺さっている現状、事態を仕切っている金銀蓮花と仲違いするデメリットは大きすぎる。
それに、実を言うと、全く興味がないでもなかったのだ。子供の頃は、ここに入学したいと思わないでもなかったんだし。
「分かってくれると思ってたわ」金銀蓮花の瞳に光が戻った。
なんとなく、周囲には怖い女性しかいないような気がする。
「以前にも言っておいたけど、本当の事は内緒よ」彼女は念押しした。「あなたは、昨年の内に受験をし、入学資格を得た。分かった?」
「りょ、了……」
「じゃ、まずは職員室に行くわね。ここの隣だから」
「え?今から?」
「今からって……じゃあ、いつが良いのかしら?」何をわけのわからぬことを、みたいに訊いてくる。
「うん……でも……その……」竜胆は、膝に手をついて立とうとしたが、胃が重くて腰が上がらない。
「ちょっと、心の準備がっていうか、その……」
「なにをこの期に及んで意気地の無いことを言うのかしら?悪魔と単騎で戦った勇気はどうしたのよ」
戻ってきた金銀蓮花が竜胆の手の平を握って引っ張り上げた。
その軟らかい感触に、竜胆は思わずデレて言うなりに立ち上がった。だが、嬉しい半面、困ったなあという気持ちも半々にある。過大評価されるのは本意ではない。自分がそんな凄いヤツみたいに思われては、あとでがっかりされるだけなのだ。出奔した直後がそうだった。割と気に入られて住み込みで働きだした途端、妖物化が進行し、ろくに動けなくなって白眼視された日々――。
「いや、あれは猫をさ……」
「そもそも見てみなさい、もう天草君はうちの生徒に登録されてるんだから」扉を開けて廊下に出ると、金銀蓮花はスマホを取り出して、画面を竜胆に見せつけてきた。
「ん?」と竜胆の目が寄る。「生徒名簿……って、オレの名前がある」
「でしょ?ちなみに、私と同じクラスだから」
そう言うと、金銀蓮花は珍しくもうっすらと微笑んでみせた。「これからよろしく」
「え、あ、その、どうも……」へどもどしながら、竜胆は頭を下げた。
――その真正面の廊下に、男子生徒が一人、さりげない風を装って立っていた。宇坪に命じられて二人を監視していた取り巻きの一人だ。
彼は、手を握って密室から出てきた二人の様子を目撃した。金銀蓮花が自分のスマホを見せて微笑むシーンもだ。
「……」
青い顔をした彼は、何かに急き立てられるように大慌てでその場を離れていった。
「……んッ?」
ビュオッと春の風が髪をなぶり、天草槐は目を覚ました。
「……?」
顔を上げると、随分と見晴らしの良い街並みがパノラマ状に展開している。
街並みが随分と下の方にあった。どうやら、ビルの上にいるらしい。
「……あれ?」
体が動かない。見下ろすと、腰から下が何かに引っ掛かっていた。なんというか、上半身が壁から生えているようだ。
「わ、え、なにこれッ?」
バタバタとバタつく足の感触は壁の向こうだ。いや、これは――
(ビルの上の看板?)
なぜか自分はそこに頭から突っ込み、腰だけ引っかかって寝ていたらしい。なんで高所で壁尻状態になっているのか見当もつかないが……。
「ん~~ッ!」
両手で看板を押さえ、腰から下を引き抜こうとしたが、抜けない。
(なんでよ!肩が通っているのだから腰ぐらい通っても!)
とはいえ、胸は育たないのに最近お尻と太ももがむっちりしてきたような気も……。
「お腹空いた……」
空腹と疲労と喉の渇きにへばったエンジュは、看板の穴に腰を掴まれたままデローンと力を抜いた。横から見ると、逆Uの字の姿勢だ。
(なんでわたしはここにいるんだっけ?)
変なことに巻き込まれた?しかし、どんな理由があれば、高所ビルの上の看板に体が横から、いや、若干斜め上から差し込まれなければならないのだ。とかいろいろ考えているうちに、徐々に記憶が蘇ってきた。
「――兄ちゃん!」
バッと腹筋で上半身を起こした途端、後頭部を看板で打って、「つ~!」と痛さに悶える。
(でも、こうしてはいられない……!)
涙目で後ろ頭を押さえながら、じっとりと眼下の町へ見るともなく目を凝らす。
病院で兄が攫われた。タクシーに、おそらくは、助手席に乗っていた妙な女に。だから必死になって追いかけて、でも引き離されそうになったから、ショートカットしようとジャンプしたら、高く飛び過ぎて看板に突っ込んじゃったんだっけ……。
(……ん?)
再び看板に手をついて上半身を起こしてみる。ジャンプで――高さがおよそ30メートルのビルの上の看板に突っ込めるものなのか?考えると奇妙に思えるが、
(でも、なんでか、ジャンプで飛び越えられる、と思ったんだよね……)
本当に何でだろう?しかし、このまま看板に刺さったままでいるのも埒が明かない。
腰が引っ掛かって抜けないのなら、後ろ向きに抜ければいい。エンジュは鉄棒をイメージして身を起こし、足先から斜め下に降りようとしたが、力が入りにくい。やむなくつま先で看板を蹴り抜き、足場を作って上半身を引っこ抜くと、開いた穴を掴みながら蹴り抜きで足場を作り続けてそろそろと降り、やっと屋上に足をつくことができた。
見上げると、エンジュが刺さっていたのは割と扇情的なトレーニングジムの看板だった。ミドルティーンの女の子の下半身が突き刺さっていたのだ、高所とはいえ人目について騒ぎになりそうなものだが、内容的にネタ的なオブジェに見えたのかもしれない。西向きの看板なので逆光で見えにくかった可能性もあるだろう。
とにかくここを下りねば、と屋上を見渡したが、空調室外機が置かれているだけの場所だ。錆びの浮いた扉は鍵がかかっている。隣のビルはもう少し高く、隙間も大きい。向こうの壁とこちらの壁に手をついて徐々に降りられるかもなどと思ったが、これでは無理だ。
救援を呼ぶしかないかも、とエンジュは委縮する気持ちでスマホを取り出した。猫が樹から降りれなくなっていたら消防署に通報するものらしい。今の自分も同じようなものだろう。
きっと理由をあれこれ聞かれるだろう、と躊躇う気持ちはあった。だが、ここで足踏みしている余裕なんてあるのだろうか?一刻も早く、兄の消息を確認しなければ!
とはいえ、今にして思うと、兄を殺……どうこうするためにタクシーに乗せて連れて行くのは妙だった。もしかすると、ただの転院とか、そんな感じだったのだろうか?でも、それなら病院にも車があるんだろうし、なぜタクシーを呼んだんだろう?災害直後だから、車も壊れちゃったんだろうか?でも先日の災害時、戦車みたいな分厚い救急車が、あの病院に入って行ったのを見た気がする。
う~む、と頭を悩ませながらスマホの画面を眺めると、
「ん?」
ショートメールが入っていた。短い文面だけだったが、何気なく開いたエンジュは、意識が一気に引き寄せられた。内容は実に分かりやすかった。
『あなたの兄の天草竜胆君は、今蛇の目町の城址学園にいます 金銀蓮花』
発信元は金銀蓮花……って、昨日の美人のお姉さんか。動揺を押さえつけ、記された日時を見た。先日の兄発見のメールと勘違いしているかもしれない。よく見間違って失敗しているのだ、きちんと確認しないと……。
だが、発信日時は今日の日付の4/22。時間も――『9:02』。スマホの時計を確認した――ついさっきだ。城址学園?昨日の朝に一度行っているので、場所も判る。あのお城跡。大きなドーナツ型要塞の隣だ。
「……兄ちゃん」
エンジュは、ハイライトの消えた瞳で、遠くコロッセオ要塞を仰ぎ見た。高い石垣の上に立っているので、街中でもよく見える。
「……」
なんだろう、頭痛がするぐらい視野が狭まっている感触がした。なのに、まるで世界の真実を解き明かしたかのように頭は澄みきっているのだ。
「――!」
恐怖も何もなく、エンジュはビルとビルの間を飛び降りた。斜めに壁を蹴り、跳ねてもう一方の壁を蹴り、鞠が高速で跳ね回るように30メートルの高さをなんなく着地し、平然と立ち上がると全力で駆け出した。
速い!それは昨夜を彷彿とさせる時速40キロを超えるダッシュ速度だった。道行く人々が驚きの視線で少女を見送る。だが、そんな驚嘆の視線など気にならない。この調子なら、目的地まであっという間だろう。
――と思われたが、途中で盛大に道に迷ってしまい、到着はかなり後のことになった。スマホにはマップアプリも入っていたが、分かっているという思い込みが正しいルートを見失わせたのだ。
彼女を知る誰もがおおよそ理解していることだが、天草槐は思い込みの激しい少女なのだった。
施設からコロナはなんとか押し退けられましたが(PCR検査を受けていないので病名は結局不明でしたが)、人手不足の折、介護職員兼施設ケアマネージャ兼防火管理者の身としては、なかなかに多忙な日々……。