10.改造人間
ゴボッッッ……!
目を覚ました竜胆は、水中で驚愕に目を見開いた。
「ぶはぁッッッ!」
ざばッ!と水しぶきを上げて彼は水槽の淵を掴んで身を起こすと、激しく咳き込んで肺に入り込んだ水を吐き出した。一瞬、体の弱い自分がこんな咳き込むのはまずいと感じたが、肺の中に水が残る方がヤバい。健常な人間なら多少水が残ったって心配ないが、竜胆の身体は病弱に振り切れている。今夜あたり、肺炎を起こして高熱で苦しむ羽目になるだろう……。
「ん?」
胸を押さえて深呼吸すると、たちまち動悸が治まった。普段と全然違う。
その上、
(右手が――!)
珊瑚の加工品みたいになっていた右腕が、完全に人の腕に戻っている!
しばし呆然としていた竜胆だが、このままでいても何も分からない。頭に疑問符を抱えたまま、彼は水槽から出て暗い室内を見渡した。
(病院からタクシーで拉致られて――オレはどうなったんだ?)
(エンジュは?――おっぱいの大きいあの猫目の女の子は?)
全く見覚えのない場所だった。光源と言えるのは、チェレンコフ光を思わせるガラス水槽の青く輝く水量のみ。だが、それだけでも室内の奇妙な様相が見て取れる。
およそ教室ぐらいの大きさの室内に、名状しがたい形状の機械類が所狭しと立ち並んでいた。大体どれも鍾乳石を思わせて不定形に丸く、波打ち、不規則に傾いてもおり、無数のボタンの位置は脈絡のない位置に取り付けられている。不快感を感じる見覚えのない文字が、所狭しとそこら中に描き記され、内容はもちろん理解できない。配管も途中で太くなれば細くなり、別の配管群と蜘蛛の巣状につながっているかと思えば、絡まり合ってもいる。正直、異質過ぎて眩暈を起こしそうだ。少なくとも、正気と常識を兼ね備えた人類文化のテリトリーにあるとは思えない。機械が何のためのものかすら、全然全く見当もつかない。
見ているだけで湧き起こる嫌悪感から、一刻も早く逃げねば、という思いに駆られた。だが、まずは衣類を探さねば。
コンクリートの床に水滴を垂らしながら、林立するおぞましい機械の墓標群の間を幽鬼のように徘徊していると、竜胆の入っていたものとよく似た別の水槽を見つけた。その横に、見覚えのある浴衣めいた病衣が放置されている。
竜胆はためらいがちにそれを身に着けた。何者かに全裸にさせられたという事実は不安だった。だがそれ以上に、おそらくは最初に沈められた水槽とは別の水槽で目覚めたことに、言い知れぬ恐れを抱いた。発見した水槽に手を入れると、電解質めいてドロリとしている。この水槽からは透明なパイプが伸びており、背伸びして接続先を辿ってみると、彼が目が覚めた水槽に繋がっているようだった。
(いや、まさかな……)
不吉な妄想が浮かんだ。この水槽に沈められた自分がドロドロに溶けて、別の水槽で再構成されたかのような……しかし、
(ずいぶんと体の調子がいいな……)
その事が何より気になった。指を開いたり握ったりしてみる。おかしい。これまでなら3度目で指が痺れて動かなくなったのに。なにより、息を吸い込めば肺に空気が入っていく。途中で詰まってむせ始める普段の兆候が、今では全く見られないのだ。
そんな検証はあとにすべきだろう。竜胆はとりあえず山ほど置かれた機械の間をすり抜けて、閉まっている大きなシャッターに近づいた。
機械の横を通りながら、気が付いたことがあった。この緻密さを感じさせる機械類、よく見ると廃材が多量に使われている。冷蔵庫の内部構造や自動車のバッテリー、様々な機械のコード、給湯器や業務用エアコンのパイプやまるまる形が残った炊飯器、他にも正体不明だが廃材置き場から持ち出されたかのようなパーツが無数に積み上げられ、つながり合っている。機械類のボタンは、ペットボトルの蓋だった。ふと見た蓋側面の消費期限日は、来年の春。商品にもよるが、少なくともこれら機械類が最終的に手を加えられたのは、つい最近らしい。
とはいえ、詰まれただけの機械もまた多かった。古い冷蔵庫やエアコンにテレビ、スピーカー、何かのメーターや用途不明の機械、マイクロバスの前半分もある。そして多くのものが解体され、分解されていた。パーツ取りをされたかのように。
シャッターは開かないようだ。きっちりと鍵を締められている。だが、別の壁に見つけた扉はすんなりと開いた。
開けると、倉庫のような大きめの部屋に出た。だが、人の気配はない。全体的に古く、床に大きなものが置かれていたような跡があちこちに見える。
(使われなかった倉庫か?)
だが、シャッターの方向の扉を開けて外に出てみると、見知った場所だと気付いた。
正面に見栄え良く白いペンキで塗られた3メートルほどの壁が続き、開き切った大きな観音開きの扉の向こうには、雑多なスクラップがごろごろしている。子供の頃によく横を通った覚えがある。コロッセオにほど近い露天スクラップ場だ。向こうに城址学園の校舎の一部が見えた。
振り向くと、彼の立っている建物は廃業した牛乳配達所だった。スクラップ工場が隣にできたか何かで別の場所に移転したらしいが、物騒な場所なので買い手がつかないまま放置された建物のひとつだ。竜胆のいた部屋の機械類は、隣のスクラップ場から持ち出され、ここに設置されたと見ていいだろう。わざわざ機械類を運ぶのは骨だったろうが、あの秘密実験室みたいな部屋は、密閉された場所であることが条件だったに違いない。スクラップ場にある建物は、事務所になっているプレハブしかないからだ。
しかし、あの冒涜的な部屋はいつから存在したのだろうか?あれほどの量のスクラップを運び、あれほどの規模のものを造り上げられるにはかなりの日数が必要だろう。
――だが、竜胆の想像だと、あれは1日以内に組み上げられられなければならない。
(そうだ、モエギちゃんがオレから離れ、人間に化けてスクラップ場から機械を運び、あんなふうに組み上げ、オレを病院から連れ出し、あの機械の中に入れた、なんて――)
「ん~……」
相当無茶な設定に思えてきた。ていうか、準拠が妄想の産物も混じっているので、信頼性などあったものではない。とはいえ、機械が最近のものだと考えると、完全には間違っていないような気もするし……。
「う~む……」
しばらく突っ立ったまま考えていたが、考えがまとまらない。情報量が不足している。そもそも、竜胆を連れてきたあの少女は、どこに行ったのだ?廃店に取って返し、2階まで上がってみたが、誰かの潜んでいる気配はなかった。荷物らしきものもなく、がらんと広いだけだ。
エンジュの無事も確かめたい。昨夜の車を超えるあの猛ダッシュは何だったのか。もしかして――夢でも見ていたのだろうか?
家に電話をかけてみよう、と彼は決意した。妹が帰っているか、母がいるか。いい機会かもしれない。
(……電話?)
竜胆は周囲を見渡した。そうだ、近くには公園があって、公衆電話もあったはずだ。
だが、そもそも財布がなかった。身に着けているのは病衣だけだ。でも、キャットフードを買い過ぎて、10円も残っていなかったような気もする。
「……」
彼は立ち止まったまま、今後のことに考えを巡らせた。
どういうわけか、竜胆の体はすこぶる調子が良い。ほぼ駄目になっていた右手と両足が健常に戻り、体力も子供の頃を彷彿とさせて、活力を感じる。しかしその理由は不明だし、病院を意図的ではないとはいえ、勝手に抜け出してきた形になってはしないだろうか。昨夜何があったかの究明も大事だが、目下の懸念を先に取り払っておかなければ、のちのち面倒を引き摺ってしまいそうだ。しかし、単独でそれを行うのは骨だろう。
そこで具体的な行動を行うにあたって思い浮かんだのは、金銀蓮花の顔だった。見るからに行動力があり、頭が良く、コミュ能力も高くてコネもある。相談し、頼りにするにはうってつけの存在だ。学校もすぐ傍にある。ただ、問題は、どう説明をしたらいいのか――まあいい、あるがままを話すしかない。彼の妄想が混じっていたとしても、十分と醜態を晒した気がする。いまさら恥も外聞もあったものじゃない。
門に辿り着くと、あのロボットっぽい門番が相変わらず長銃を手に立っていた。
その後ろでは、見覚えのある制服を着た男女の生徒達が、寮から校舎へと向かっている。登校時間らしい。
ちょうどいい、授業時間でないのなら金銀蓮花を捕まえ易いだろう。
思えば、全校生徒が寮生なので、門番は生徒を見張るためではなく、不審者の侵入を防ぐためにいるに違いない。とはいえ、一度は平然と通った身として、門番は特に眼中には無かった。校長の娘と知り合いにもなったのだ。無視するのも失礼だが、軽く目礼だけして横を通り過ぎようとした。
「……エ?」
いつの間にか、喉に触れんばかりの位置にぴたりときらめく刃が置かれている。
ひやりとしながら横目で見ると、門番が姿勢を変えぬまま、銃剣の切っ先を突きつけていた。その偏光ガラスの見えざる双眸が、ゆっくりと威圧感たっぷりに竜胆を見下ろす。
「あ、あのっ!」
戸惑いながら後ずさりした竜胆は、足を絡ませて尻もちをついた。
その眼前には、既にちゃきッと銃剣が位置している。
「あ、怪しいものじゃありません。オレは……!」
『怪しい人は、みんなそう言うんです……』
竜胆の言葉におっかぶせるように、門番は言った。
ボイスチェンジャーそのものの声だったが、なんだか昨日と声音が違って、妙に甲高い。機械変換されているとはいえ、こちらが地声の音程で、普段は低く装っているのかもしれない。
とはいえ、体格は大人というか巨人だし、動きも手慣れている。長銃の切っ先の牛蒡剣の刃も、ギンギンに研がれて剣呑な光を帯びていた。見るからに切れ味が良さそうだ。
『何者ですか?』
声には恫喝する響きがあった。でも、どうして急にこんな攻撃的に?
呆然と見上げているだけの竜胆に抵抗の意志を感じたのか、門番は腰の袋から取り出した5本並んだ細長い銃弾を、まとめて親指で銃に押し込めると、チャカカッと操作したコッキングレバーを右に倒した。その間、竜胆に突き付けられていた銃口はほとんどブレもしない。優雅ともとれる動きだったが……これ、たぶん射撃準備が完了したよね。
「あ、タンマです!オレは天草竜胆と言います。昨日もここにお伺いして……」
両手を上げて無抵抗をアピールしつつ、懸命に説得を開始した。平然と通り抜けようとしてこの体たらく、恥ずかしいったらありゃしない。後ろを通る生徒たちも物珍し気にじろじろと眺めて通り過ぎて行く。しかし、門番のこの気迫には逆らえない。
「ガガ……校長の娘さんにお世話になったので、その……」
『あなたが来たのは一昨日です。昨日ではありません』
ガスマスクの顔が少し俯いた。『ボロを出しましたね?』
「あ、ちょっと……間違えました……」そういえばそうか。しかし、こいつ、きちんと覚えているじゃないか。
『でも、リーダー様の名前を知っているのに校長の娘と言い直すあたり、個人的な知り合いだと認めないわけでもないです』
そう言うと門番は数歩退いて長銃を小脇に抱えて動かなくなった。
ぼそぼそとどこかから声が聞こえる。
「?」竜胆は耳を澄ませてみた。
「……はい、一昨日の例の天草竜胆氏が、アイカ様にご用事があると正門を訪れていますが」
大男の胸元から声が聞こえる気がする。しかし、頭は全く動いていない。なんだ?どこでしゃべってるんだ?
『ええッ!』と驚く声が、かすかに聞こえた。金銀蓮花の声の気がする。そこからは声のトーンが落ちたのか、続く言葉は聴き取れなかった。
「いえ、いたって健康そうに見えます。ただ、気配が……その、人外のものと言いますか……怪人といいますか」
「ひどい言い草だな」歯に衣着せぬ言い方に、竜胆はぼそっと困惑した。
「ええ、じかに見てご判断を願います。では」
それで通話らしきものは終わったのか、門番は竜胆に頷きかけた。『すぐにリーダー様が到着しますので、待っておいてください。あ、逃げないでくださいね』
「逃げないが……」
と言いつつ、門番の後ろを登校していく生徒たちの視線が気になった。門で制止を受けている人物がいるのだから当然かもしれない。逆の立場でも意識してしまうだろう。だが、一部は門番にも視線を向けていた。一昨日の態度が普段通りのものとすれば、能動的に動く門番が珍しいのだろう。
「……え?リンドーか?」
聞き覚えのある声に目を遣ると、これから登校するつもりらしい翔摩が慌てた様子で駆け寄ってきた。
生徒が竜胆に近づくのに、門番はどんな態度を示すだろうか、攻撃的にならないだろうか、と不安を感じたが、多少迷うような動きを見せたものの、大男は特に何のアクションも起こさなかった。どう動いていいのか判断がつかなかった様だ。それを見ると猶更、竜胆に断固たる態度をとった理由が気になる。
「お前大丈夫なのかッ?」
バタバタと駆け寄ってきた翔摩は慌ただしく問い詰めてきた。
「入院したばっかだろ?何でここにいる?脱走か?まさか脱走したのか?ええ?」
病衣を着ているので、確かにそう思われても不思議ではない。
「あ~……実は自分でもよく分からないんだ」もっと実のある事を言えたらいいのだが、本当にそうなので仕方がない。「ただ、体調については――ほら」右手を顔の前に翳してみせる。
親友の目が点になった。
「……治ったのか?妖物化病が……」
だが、すぐに疑わし気に竜胆の右手を掴んで、ためつすがめつし始めた。そしてじろりと睨んでくる。「もしかして、この前のはトリックか何かだったんじゃあ」
「なんでだよ」
「1日であの腕がこんなに見事に治るとは思えん」気持ちを落ち着けるためか、自分の胸元を撫でながら翔摩は言い募った。
「きちんと動かしただろ?厚着もしてなかったし、元の手はどこに隠してたんだよ」
「背中とか」ぺたぺたと背中に触ってきたが、もしあれがトリックだったとしても、今はその必要はないので異常なんてあるわけない。くすぐったいだけだ。
「……ふぅむ」しぶしぶ翔摩は納得した様だった。「……ついに治療法が見つかったってか。すごいな現代医学」
「それについては……ちょっと頷けない所なんだが……」歯切れ悪く竜胆は眼を逸らした。さて、どんな説明をするべきか。
そこへ金銀蓮花がやってきた。寮ではなく校舎の側からだ。竜胆の顔を認め、手に持ったスマホに何やら言い置いてから仕舞うと、すたすたと傍まで近寄ってきた。
「どういうことかしら?病院に問い合わせたら、退院した、なんて言うし……」
しかし、詰問口調で問いかけた金銀蓮花は、不意にぎょっとした風に足を止めた。傍に立っていた門番と頷き合う。なんだか変な反応だ。大丈夫だろうか。協力を取り付ける必要があるのだが。
「あ~」竜胆は無害そうな愛想笑いを浮かべて、後ろ頭を掻くように手をやった。「おはよう……昨日は、その、色々とお世話になっちゃって」
「その体」金銀蓮花は聞いた風ではなかった。竜胆を頭の先から足の先まで見て、睨むように顔を上げる。「どうなってるの?」
「え?なにって……え?ちょっとおッ!」
――竜胆が慌てたのも無理はなかった。突如、金銀蓮花は一気に距離を詰めると竜胆の病衣を掴み、一気に上に引き上げたのだ。露わになる痩せた上体。それを少女は間近まで眼を近づけるとじっと見つめ、匂いを嗅ぎ、指でつつき始める。ついでに指であちこちをこすり始めた。
「……うわッひゃッ!」くすぐったくて変な声が出る。赤面しながら離れようとしたが、金銀蓮花は一切の頓着もなく手を差し出した。
「右手も見せて」
「あ~……。うん」冗談の欠片もない真摯な顔つきに、表情をかしこまらせて右手を差し出した。それを金銀蓮花は両手で握って裏に表にひっくり返し、真面目な表情で観察し始める。
やがて、彼女は厳しい目つきで顔を上げた。「何があったか教えて」
「……わ、分かった。話すよ!」
気圧されて両の手の平を彼女に向けつつ、竜胆は許諾の意を示した。他にどんな選択肢があっただろう?
「だけど、そうね、ここではなんだから――着いてきて。学舎で話をしましょう」
そう言うと、金銀蓮花は門番の腰のあたりをねぎらう様にポンと叩いて――あるいは後は任せてということかも知れない――気忙しげに校舎へと戻っていく。その背中を竜胆は慌てて追いかけた。彼がついてくるのを確信しているらしく、少女は振り向きもしない。翔摩は戸惑った表情を浮かべながらも、2人を追い駆けた。
そんなやり取りを、校庭の隅で腕組みして見つめる一人の青年の姿があった。
「チッ!」
と苛立たし気に舌を鳴らす彼の表情はひどく険しい。眉間にひどい皴が寄り、ただでさえいかつい顔を更に厳つく見せている。眼鏡の奥の瞳は、殺意すら籠っているかのようだ。
「お待たせしました宇坪サン」
走って来るや、そう言ってカバンを差し出したのは、見るからに手下というか、子分というか、そんな部下っぽいオーラを醸し出す青年だった。その後ろに4人も続いているが、みな愛想笑いを浮かべているものの、どこか不安げ――なのは、宇坪と呼ばれた青年の機嫌がいかにも悪そうな様子を察知しての事だろう。そのうちの1人は、見るからに嫌そうな顔をしていた。この集団から離れたいが、怖くて離れられない、そんな顔だ。
へいこらする5人の取り巻きへ僅かも視線も向けず、宇坪青年は差し出されたカバンをひったくるように掴むと、相変わらずムづかしい顔のまま、肩で風を切って自分の教室へと向かった。取り巻き達は、慌てて追従し始めた。