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序章 オレを操るリモートコントローラー


 突然の話で申し訳ないが、オレこと天草竜胆(あまくさりんどう)は猫が大好きだ。愛していると言ってもいい。とにかく猫という完全なる生き物の、あらゆる面が悶えんばかりに愛おしく、飾るカレンダーはもちろん猫ざんまいで、生徒手帳には猫の写真を当然忍ばせ、疑似肉球のキーホルダーは決して手放せない。貧乏なのでスマホは買えないが、待ち受けを猫にする為だけに購入を検討したことがあり、購入した猫の写真集は優に30冊を超える。ルールの厳しい市営住宅住みなので猫を飼うことができないが、ペット可のアパートに移るためにどれだけ収入があれば良いのかを考え始めると、どんな部屋にしようか、どんなものを買い与えようかなどと夢想がシフトし、うっかり1日が過ぎてしまうこともある。

 とか話していると、友が言った。「お前は顔はいいのに、猫を語りだすと、早口だし興奮して実にキモいな」と。

 だが、その後に付け加えた言葉も忘れられない。「竜胆は猫で身を滅ぼすだろう」と。

 くッ!なんて素晴らしい誉め言葉だ!

 ――そんな竜胆にとって、猫が何かに襲われている現場を目撃してしまったのなら、たとえ自分が危篤寸前で死にかけていようとも、襲っているのが人知を超える化け物であろうとも、矢も楯もたまらず飛び込んでいくのは当然自然の摂理であり、宇宙の法則と言い切っても別段間違っているとは言い切れない。

 彼の助けた猫が、実はけっこうヤバめの『悪魔』だったとしても、彼に後悔の二文字は決して訪れやしないのだ。


          ○                 ○

 

 ガンッ!

 視界がぶれるほどの勢いで、天草竜胆は椅子越しに背中を蹴りつけられた。

 クラス委員長が教室を離れた途端にだ。転入初日から大した歓迎されっぷりだった。

「おぅ天草、こっち向けや」

 ただ、奴――宇坪克羅(うつぼかづら)が嫌がらせをしてくるだろうということは、十分に予想がついていた。目つきを見ればわかる。こいつは、全校一の美少女と誉れ高き我らがクラス委員長が、竜胆を特別扱いするのが許せないのだ。宇坪自身が好意を持っているらしいだけに尚更だろう。直接殴ってこないだけ、想像よりもまだ優しいぐらいだった。

「なにシカトぶッコいてンだよ!ああ?さっきの気概はどうしたよ?」

 だが2度3度と蹴りつけてこられると、段々と黒い感情が渦巻いてくる。

 正直言って竜胆自身は強くはない。むしろ弱い方かもしれない。喧嘩の場数だって踏んでもいない。

 対して宇坪は見るからに強そうだった。顔も怖いが雰囲気も怖い。そして武人的な評判も聞いている。初見なのでどれほど手強いかは知らないが、同じように脳みそが筋肉でできていそうな取り巻きを5名も従えていることから、強さが窺い知れようというものだ。

 しかし、もし――まともにやり合う羽目になってしまえば、結果は見えていると言わざるを得ない。

 すなわち、宇坪は容易にぶっ飛ばされ、そして竜胆は学校を放り出される羽目になる。今度こそ猶予は与えられまい、先ほど教師を一人病院送りにしたばかりだ。それは竜胆がやったことではなかったが、竜胆がやったことになっているのだ。

「場所を変えよう紫車」

 何でもない風を装って席を立った竜胆は、隣の少女を手招きした。

 宇坪の眉間の皴がますます深くなるのが気配で分かった。竜胆と仲が良いように見えるこの紫車萌黄(しぐるまもえぎ)という少女、まさにクラス委員長を追い落としかねないほどの美貌を持ち合わせているのだ。端正美麗な容貌にふわりと流れる長い髪。眼鏡の向こうで悪戯っぽく輝く瞳は、目を合わせた者を魅了してしまわんばかり。肌は陶器のように白く透き通り、華奢な手足はすらりと長く、なめらかに細い柳腰、なのに胸は目を引くほどにふくよかで、何気なく街を歩くだけで注目の的になってしまいそうな女の子なのだ。

 そんな彼女だが、竜胆の椅子が蹴りまくられている様子を見ていたにも関わらず、瞳は変わらない楽し気な輝きをたたえ続けていた。そして、微笑んでもいる。悪い兆候だ。彼女の瞳が常に悪戯っぽい輝きを宿しているのには理由がある。常に悪戯する機会を探しているからだ。

「……ほう、やる気なのか天草……」

 重くドスの効いた宇坪の言葉を耳にして、竜胆は眼を瞬き、そして自分の指が奴に向けて中指を立てているのに初めて気が付いた。

 横目で見やると、萌黄は満面の笑みを浮かべ――いつの間に机の上に取り出したものか、不思議な光沢を放つ『リモートコントローラー』を握っている。ゲームセンターで見るような、左にレバー、右にボタン列が配されている、一目瞭然なそれそのものの代物だ。どういうわけかリモコンは人間の目には見えないが、完璧に機能するのは身をもって実感し、体感してもいた。

 こうなってしまえば、もはや彼が動かせる部分は眼と口だけだ。そう、他の全ては萌黄のアイハブコントロールなのだ。

「離し合おう、宇坪」そう言いながら竜胆はネクタイを緩め、

「オレには争うつもりなんて」腕まくりをし、

「ないんだ」ムキッと右腕をL字に持ち上げ、力こぶを誇示した。

「……」おお~、と内心驚いた。自分の腕にこんな力こぶができるなんて、と。でも、これって現実逃避だよね。

「フ……覚悟はできてるんだろうな……だが、俺はあのブタ教師とは違う」

 宇坪の言葉を、竜胆はぼんやりと受け止めた。さっき萌黄が衝動に駆られて、竜胆を使って薙ぎ倒した教師のことを言ってるんだろうな。残念ながら、萌黄はこれっぽちも気に留めていないと思うぞ。記憶に残っているかどうかすら確証がない。萌黄はまさしく悪戯と好奇心の権化の悪魔、若気しかない猫のようなものだ。

 宇坪も不敵な笑みを浮かべてネクタイを緩ませると、上着を脱ぎ棄ててタンクトップ一枚となった。筋肉だるまとまではいかないが、付くべきところにしなやかな筋肉がつき、細マッチョの体つきだ。さもありなん、彼はどうやら学生銃剣道の県有数の達人らしい。本来、竜胆のようなインドア人間には到底立ち向かえる相手ではないのだ。

 素手の素人相手に武器を持つ気も起きないのだろう、ギュウッと両こぶしを握り、腰を落として宇坪は構えた。

「さあ、どこからでもかかってこい」

「あ~……」それに対して、力こぶを作ったまま立ち尽くす竜胆。表情は怯えるでもなく、戸惑ったままだ。

「余裕の顔つきだな……」

 静かに瞑目した宇坪は、次の瞬間、爆発するように狼の眼光を放って竜胆を睨みつけた。「ならばこちらからやってやるぜッッ!」

 まさに獣の勢いだった――机を蹴立ててこぶしを振りかぶり、ダッと突進を仕掛ける宇坪克羅!怒り狂った顔が巨大に見えるほどの迫力の背後には、極限まで力を漲らせた拳が虚空を握り、インパクトを狙って全力で振り抜かれようとする――!

 ――だが、遅い。遅いのだ。『悪魔』に対抗するには、あまりにも!

 次の瞬間、力こぶを作った姿勢で突っ立っていた竜胆の体が、その姿勢のまま、ついでに表情も戸惑ったままに残像を残して超速スライド突進したのだった。宇坪には全く動きが捉えられなかっただろう。攻撃中途で、宙にこぶしを握った無防備な彼の胸に、竜胆の曲げただけの肘がアックスボンバーとなって炸裂したのだ。

 バゴおッッッッ!

「ゴあッ!」と驚愕の目つきで宙を吹っ飛び、手足を無意味にバタつかせながら遠近法に従って小さくなっていく宇坪はド派手な音を立てて黒板にぶつかり、それを真っ二つに割って尻から床に叩きつけられた。

「ガあッ!」尻が痛かったかのように宇坪は眼を見開いて仰け反り、口をパクパクさせて呟いた。「ば……ばか……な……」そして足を投げ出すようにして崩れ落ちた。気絶したらしい。

「天草ァっ!」

 ガタガタと椅子を立ち上がる取り巻きの男子生徒達5名。いずれも剣呑な雰囲気がバリバリだ。

「オレじゃない!オレがやったんじゃない!」

 ガッと力強く両腕を胸の前で交差しながら、竜胆は懸命に叫んだ。

「何をいけしゃあしゃあと!」

 こぶしを握ってバタバタと駆け寄ってくる取り巻き達。くそッ!こいつらも竜胆がやったものと信じて疑わない!だが、まあ、当然だよな。

 困惑から諦めへと表情を変えていく竜胆の体は、喜悦を深めた萌黄のコントロールのもと、本人の意思を無視して次のムーブに移っていた。交差していた両腕を力強く左右に広げると、爪先立ちになって体全体をゆっくりと独楽のように回転させ始めたのだ。「むうッ!いったい何事だッ!」思わず彼は叫んだが、迫ってきている5人に分かろうはずもない。

 ビュゴオッッッ!

 不意に回転が竜巻のごとく猛速度に高まって人型の独楽となり、あまつさえ5人に向かって傾くようにゆっくりと前進し始めた。

 慌てて急ブレーキをかける5人、そのままバックステップで距離を取ろうとするが、ゆっくりだった竜巻の前進が突如加速して彼らに分け入り、巻き込まれた2人は背中から吹っ飛ぶと、後ろの黒板へと轟音を立てて大の字に叩きつけられた。竜巻の奥で竜胆が驚愕の表情を浮かべていることなど知る由もない。

「な、なんなんだよコイツはッ!予想がつかねぇッ!」

 3人が巻き込まれなかったのは、左右に避けたからだ。そんな彼らの注視する前で、竜巻独楽の回転速度が徐々に収まっていき、両手を広げた不安げな表情の竜胆の姿に戻っていた。

「て、てめぇ……ふざけやがってェ……!」

 3人は居丈高に近づいた。喧嘩の趨勢は迫力で決まる、と彼らは思っていた。不安を浮かべた方が、すなわち負けなのだと。

 だが、竜胆が再びゆっくりと、今度は逆回転に回り始めたかと思うと、先刻よりも早いスパンで人型独楽と化して、残った3人に襲い掛かったのだ。

「うおッ!」

 泡を喰って背を向けて逃げる3人。その後ろを執拗に追い駆け始める人型竜巻独楽。


 カツ、カツ、カツ、カツ……

「ん?」

 姿勢よく後ろ手に廊下を歩んでいた毒空木(どくうつぎ)教頭は、眼鏡をきらめかせて顔を上げた。

 前方の教室から何やら騒ぎの音がする。

 ドカン、バタン、ガチャン、「キャー!」

「……」

 また若者が暴走しているのか、と彼はまず思った。だが、それは良い。なにしろここは高等学校の振りをした軍人養成所なのだ。元気過ぎるくらいがちょうどいい。

 しかし――

 なんだろう、と教頭は心の震えを感じた。

(好敵手の……気配を感じる……)

 55歳独身。スラリと長身で筋肉質、肩幅が広く、一見高級スーツが似合う穏やかな壮年紳士に見える。しかし、見事なロマンスグレーのその本質の内奥では、外観にそぐわぬ熱い闘魂を漲らせる闘士の心を彼は持っていたのだ。年齢を感じさせぬ、そのきびきびした動きは熟練の戦士のそれであり、見る者が見れば決してタダモノではないと窺い知れよう。

 そんな彼が震えていた。熱き戦いの予感に。

 行く先の教室の扉が、唐突に一人の男子生徒とともに、ドムッ!と廊下を横切るように吹っ飛んで壁に叩きつけられた。

 続いて2人の生徒が必死の形相で廊下にまろび出ると、教頭の方向へと駆け出してくる。

 その後ろから、ごく当たり前の自然現象であるかのように、ヌッと人型の竜巻独楽が傾きながら後ろをついて出てくると、教頭は「ム」と一言唸った。

「ヒぃッ!」「た、助けてくれ!」

 必死の形相で逃げる男子生徒たち。

 だが容赦ない竜巻は逃げる2人へとたちまち追いつくと、同時にベーゴマのように弾き飛ばした。

「あべしッ!」「たわばッ!」

 示し合わせたかのように飛んできた2人だが、僅かに身を引いた教頭の眼前――それこそ今の今まで教頭の立っていた位置で衝突すると弾け合い、まるで教頭を避けるように彼の後方へと飛んでいくと、2人とも床をゴロゴロと転がって動かなくなった。

「……ふ」

それへ一顧だにせず、教頭は眼鏡のフレームを一度クイと持ち上げた。そして歯を剥き出すかのようににやりと笑うと、挑発的に拳を握って腰を落とす。

 ハァァァ……と気を練る気合が、歯列から漏れ出した。

 竜巻は2人を吹っ飛ばして一旦不自然に止まったものの、再び増速して教頭へと向かう。

 その後方では、何人かの生徒が教室から出てきたのを、教頭は無意識の視界で捉えていた。驚きの表情の者が多い。大方、教頭にぶつかる、と怯えているのだろう。だが、一人の女生徒が満面の笑みを浮かべているのは気にはなった。

 竜巻はなおも前進してくる。教頭は構えたまま動かない。

 そして触れ合った瞬間!

(フン)ッ!」

 ドギャアァァァンンン

 金属じみた甲高い轟音が廊下の端まで響き渡った。突き出された竜胆の腕と、身構えた教頭の腕が交差し、激しくせめぎ合ったのだ!

 ギシギシビリビリと震え、軋み合う交差する少年と壮年男の力と力。

「くく……なるほど、貴様が……」にやりと口を歪める教頭。「紫雲英(ゲンゲ)の娘の言っていた、天草竜胆か……」

「オレの名を知って……?」

「ヌあッ!」

 拮抗を破ったのは教頭の長い脚だった。竜胆の腹を蹴って吹っ飛ばしたのだ。

 数メートルも飛ばされながら、くるりと回転して危なげなく着地する少年。

「やりますねぇ……♪」

 竜胆は真後ろから鈴の鳴るような声を聞いた。「相手にとって不足はありませんね♪」

「あの……萌黄……もえぎさん?」

 恐る恐る竜胆は制止の声を上げた。「あれは、教頭みたいだし、矛を収めるって手はないもの、かな?」

「ふふ、でも、今の竜胆はフルパワーじゃアありません」喜色を隠しようもない萌黄は、中指と人差し指とですくい上げるように握ったレバーをグリグリと動かした。もはや誰の言葉も聞こえていないようだ。

「あの~……ちょっと?」

「いざ、尋常に!勝負!」

「なんてしねーよ!……って、うおおおお~!」

 突如、竜胆の体が謎の黄金色の光を帯び始めた。

 びりびりと震え、突き出された両腕が両手首で交差され、ついでにふわりと竜胆の体が浮き上がると全身が一直線に伸びた。さらにはドリルのように回転し始めた。最初は緩やかだったが、瞬く間に一本の槍と化すほどに猛回転を始める。バチッ!バチッ!と体から吹き出るスパークは、いったいどういった原理なのか……。

 一方、教頭は深く右こぶしを引いて待ち構えていた。異様な状況にも関わらず、迎え撃つつもりのようだ。

 逃げてほしい……と涙目になりながら竜胆は思った。しかし、そうはなりそうにない。宇坪はヤバいやつだったが、教頭はもっとヤバいやつだった。萌黄ほどではないにせよ。

「GO!」

 無責任な萌黄の掛け声とともに、竜胆は射ち放たれた矢のように教頭へと超速でカッ飛んで行った。

 それを――

「ヌオアアア~~ッ!」

 同じく風を切って打ち放たれた教頭の拳がぶつかり合い、拮抗する!

 バチバチバチバチィィィッ!

 衝突の一点から暴風が吹き荒れ、学舎の窓を激しく揺らし、整った教頭の髪が乱れ始める。

「うおッ!」「わあッ!」と風圧にかき乱されるのは野次馬の生徒達だ。その中にあって、萌黄は眼光鋭く唇を笑みに歪めていた。風の流れで周りに声は聞こえなかったが、コントローラーを介して、こうつぶやくのが竜胆には聴こえた――。

「良かった……!地獄(アビス)を出てきて本当に良かった……こんなに楽しいことに出会えるなんて」と。

 そして少女は決意を込めてレバーを二回転、すかさず複雑なボタン操作。

「回転速度2倍!」

 そんな声が脳裏に届いて竜胆は慌てた。

「2倍ッ?いや、もう十分なのではッわああああ~~ッ!」

 ますます謎の光と風が吹き荒れ、教頭の拳が徐々に押されていく。

「ぬぅウゥっ!」

 遂に見せた毒空木教頭の苦悶の表情。眼鏡が後方に吹き飛ばされ、意外とつぶらな瞳があらわになったが、しかし獣のように剥き出した歯を強く強く噛み締め、眼光鋭く超回転のドリルを見据え続ける。

 すごい――と竜胆は荒れ狂う風と光の中、むしろ静寂さを思わせる張り詰めた空間の先で、教頭を見つめた。

(すごい……なんてすごい人なんだ……『悪魔』に改造されたオレを――全力を出した『人類の仇敵』に……素手で対抗しうる人間がいようとは――)

(やめよう……)と竜胆は脳裏で萌黄に囁いた。(これだけの力を得るのに、この人がどれだけの修練をこなしてきたか……)

 だが、返ってきたのは萌黄の無慈悲の宣告だった。「回転速度3倍ですッ!」

(えッ?)

 一段と轟音が鳴り響き、遂には衝撃波が人を薙ぎ倒し、リノリウムの床がめくれ上がっていく。

 放たれるスパークが周り一帯を無軌道に打ち据え、金色の謎の光が赤く危険な輝きに染まっていき、遂には白一色に塗りつぶされた極限の一瞬――教頭の顔に、そしてもちろん竜胆の顔にも驚きが走る!

 ピカァッ!  ちゅごッ!

 無音の輝き、そして大爆発!

 学舎の全ての窓は、軍事教練学校らしく硬化ガラスになっている。授業で榴弾を撃つことすらあるからだ。だが、この威力に耐えられない。

 廊下も教室も含めて周囲全ての窓が一瞬で白く濁り、爆発するように吹き飛んだ。


「……はッ!」

 気が付くと、竜胆は床に手を突いて座り込んでいた。もしや、僅かの間気絶していたのだろうか。

 廊下は煙たく灰色の空気が流れ、窓の上に残った強化ガラスが、ぱりんぱりんと落ちている。

 不意を突くように天井の蛍光灯が床に派手な音を立てて砕け散り、その向こうで教頭が倒れ伏しているのが視界に入った。

「教頭先生!」

 保身も何もなく、ただ気遣う一心で竜胆は駆け寄った。

「……く」

 毒空木教頭は、生きていた。

「くくくくく……見事……だ」苦しい息で顔を上げる教頭は、確かに笑っていた。

「しゃべらないで!今救急車を呼びます!」

「一つ言っておく……!」

 離れようとした竜胆の袖をがっしり掴み、口から血を吐き、痙攣しながら教頭は眼を見開いて言った。「校長は……私ごときでは足元にも及ばぬほどに……強い……!

 ぐはっ」

「教頭先生~~ッ!」

 抱きしめようとしたが、頭を動かすのはまずいだろう。ひとまずそっと床に行かせ、救急車を呼ぶべく誰かにスマホを借りようと教室に足を向けた。

「ふ……ふふふ……分かりましたか……?」

 紫車萌黄が、よろッと壁にもたれかかりながら、眼鏡をずり上げた。よく見ると、眼鏡レンズにひびが入っている。おそらく最後の衝撃の余波に巻き込まれたのだろう。自業自得以外の何物でもないが。

「だいじょうぶか、萌黄?」ちょっと気のない声音で竜胆は尋ねた。

「……一つ、言っておきます」教頭みたいなことを言い出した。きっと聞こえていたのだろう。猫は耳が良いからな。

「ん?何を?」

「あなたが世の中をヒガんでいる限り……この惨劇は……終わりませんッ……」

 そう言うなり、少女はずるずると体を横に滑らせながら、ぱったりと床に倒れ伏した。

「って、お前の仕業だろうがッ!萌黄ッ!おいッ!」ゆさゆさと華奢な肩を揺さぶるが、俯いたまま反応がない。

「くそッ!どうしたものか……」

 彼女とは既に一蓮托生、置いて逃げるという選択肢はない。しかし、本当にどうしよう。

(いや、待てよ、リモコンを取り返すチャンスじゃね?)

 今、萌黄の手にそれはない。周りにも落ちていないようだ。となると?

(う~む……)

 女の子の懐を探る行為に躊躇した。だが気絶しているのならば、バレはすまい。

 よく見ると、スカートの下の方に何やら膨らみがある。

 躊躇いはしたものの、竜胆は心持ち目を背けながら少女のスカートをめくった。

(ん?猫のしっぽ?)

 そこにあったのはリモコンではなく――サイズが大きめな猫の尻尾だった。色は並の猫としては見たことのない、紺地にピンクの縞っぽい柄。『萌黄の尻尾』に間違いない。

(もしや、気絶して『変身』が解けかけているんじゃ……?)

 状況を危惧したが、それはともかくとして竜胆は尻尾に目を奪われていた。

 いい、どんな時でも猫はいい、と彼はにんまりと顔がほころぶのを感じていた。猫は素晴らしい。たとえその一部分だけでもだ。ピコピコ動く猫耳、縦横無尽なしっぽ、しなやかな筋肉を覆う柔らかい体毛、愛くるしくも気高い瞳、傲然として繊細な仕草、顎の下から見た上顎と鼻のカタチ、庇護欲を掻き立てられるあの前足……。ああ、死病に罹って諦めた猫カフェ設立の夢を、再び見てもいいんじゃないか?

 でもまあ、今はこのしっぽだ。ちょっとぐらい触ってもいいかな?いいよね?

「……あ~ま~く~さ~?」

 素晴らしい笑顔のままで振り向いて、声の主を見上げた竜胆は、

「ひッ!」と、喉から情けない悲鳴を漏らした。

「……」

 風もないのに長い髪をたなびかせる、仁王立ちの美少女がそこにいた。帰ってきたクラス委員長だ。うつむき加減の前髪に隠れて表情ははっきりとは見えないが、獰猛に紅く輝く双眸が際立つ怒りを語っている。そのドスの効いた口調と同様に。

「あんたが……そ~ゆ~男だったとはねぇ~……!」

 顔の前で握りしめるこぶしの後ろ、食いしばる歯の隙間から怒りの瘴気が漏れ出てくるのが見えた気がした。

 彼女――金銀蓮花は、なぜか初めて会った日から、瀕死だった竜胆をものすごく気にかけてくれ、命をも助けてくれた大恩人だ。なのに今、この雰囲気はどうしたことだ?まるで敵を見るような……ああ、まさか女の敵だと思っているのか?違う!決してやましい気持ちでスカートをめくったわけでは……!

「天!誅!」

 まるで突風のように振り下ろされたチョッピングライトが、竜胆の頬を打ち抜いた。

 運動神経にかけては人並み程度か、もしくはちょっと劣る竜胆に為すすべはない。紫車萌黄が操作していたのなら超反応で躱した上で、カウンターすら決められたかもしれないが、

「ぐはぁッ!」

 今はただキリモミしながらリノリウムの床をバウンドして元の教室に帰還したあげく、ぶつかった教卓をばらばらにしてその瓦礫に埋まった。

「くそッ!」即座に瓦礫から這い出た。昨日までの彼なら、死んでいたようなダメージだった。

だが、今の竜胆には見かけほどのダメージはない。人間だった頃ならいざ知らず、『悪魔』に改造された今の彼は、悪魔と同等の属性を得た。すなわち物理ダメージは、ほとんど無効……とはいえ、心はダメージ素通しだ。

 転入初日で退学待ったなし。最悪だ、と竜胆は泣きそうな気分になった。教師を二人もぶっ飛ばし、一人は教頭だ。クラス委員長を怒らせたが、彼女は校長の娘でもある。望んで来た場所ではなかったが、命を助けてくれた恩を、どれほどのあだで返してしまったものか。

(なんでこんなことにッ?)

 幾分か這ったところで、彼は遂に気力を失い、涙に暮れて崩れ落ちた。

(オレか?オレが悪いのか?オレが何をした?オレはずっと苦しんできたんだぞ?死病に苛まされ、憂鬱と苦渋の毎日を懸命に乗り越えてきたんだぞ!猫を語って嫌がられたことはあったけれども、決して人に迷惑をかけたことのないオレが、どうしてこんな目に――)

 それというのも、あの猫に関わってから。

 そう、あの猫――

(……)

 竜胆は床の上で、正気を取り戻したかのように瞬きした。

 猫、というキーワードを脳裏に繰り返しているうち、打ちひしがれたはずの精神力が、あっという間に熱く萌え上がったのだ。

(……フッ、何を弱気になっているんだオレは……)

 良く寝た、みたいな感じで竜胆は立ち上がった。

(そうだ!今、俺の人生には猫がいる……!)

 女の子に化けているし、そもそも正体は『悪魔』のなかでも特別危険な部類らしいが、そんなのは実に些細なことだ。

「今!俺の人生には猫がいる!」

 ざわッ!と周囲が引いていく雰囲気を心地よく感じながら、弱気になった自分を彼は恥じた。

 ああ、天上からベールのような輝きが彼を照らし出し、猫の顔をした天使たちがラッパを吹きながら周囲を飛び回って祝福してくれているのを感じる。

 そもそも、だ。萌黄は竜胆の命を救ってくれたのだ。心身ともに!再び立ち上がる力をくれたのだ!

 悪いのは――そう、悪魔だ。悪魔が悪いのだ。

 思えば3年前。

 運命に呪われているとしか思えない竜胆の人生への暗い影は、あの頃に始まったと言える。

 萌黄はああ言ったは言ったものの、あの時から本当に世の中をヒガまずにはおれない、苦痛の人生を彼は歩んできたのだった。

 叔父が49回目に悪魔と戦い、姉が家を出て行ったあの頃に。

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