第六話「悪夢砕く、鉄の螺旋」7/6
=どこかだれかのお話=
男は、路地裏の物陰で息を切らせていた。
その服こそ日常のものだが、靴下だけでの外歩きを見れば、誰もが違和感を持つだろう。
彼は自分の家から逃げてきたのだ。
玄関を塞ぐ、警察や福祉委員に気付かれないように。
「……ちくしょう! なんだって急に!」
毒づき、壁に拳を叩きつける。
その痛みは、自分に返り、ますます苛立ちの原因を増やしただけだったが。
男は無茶苦茶な感情の中で思考する。
以前は、周囲にも理解してもらった。
本人にそんなことはないと証言させた。
それで十分なはずだったのに、不意打ちのように再び連中がやってきたのだ。
他人の家庭を壊したいだけの、ゴシップ好きなお節介焼きども。
どうやったら今度はわかってもらえる?
これは家の問題でしかないんだと、他人が口出ししていい話じゃないと――。
「おじさん、どうしたの?」
急に声をかけられて、痛みがあるほどに男の心臓が鳴る。
振り向けば子供が路地裏に入ってきていた。
赤い野球帽が、幼さを強調していた。
こんな時に驚かさないでほしいものだ。
まあ、子供一人程度何とでもごまかせるだろう。
男はそう考えた。
「ケガしてるの?」
身を案じる幼い声に、男は取り繕った声で応える。
「いや、大丈夫だよ。ちょっとナイショで家から抜け出して来たんだ」
その回答では、子供はピンとこない様子だった。
あまり喋るとボロが出かねない。
不審がられて警察を呼ばれたら最悪だ。
「会いたくないお客さんが来てね。家族にまかせて裏から逃げて来たんだ」
これで、納得してもらいたい。
暴力なんて振るいたくもないし、振るったこともない。
それが、この男の認識だった。
「そうなんだ。……最近、町でおかしな赤いガラス撒いてる人かと思っちゃった」
確かに不審者がいるとは聞いていた。
間違えられては、まずい。
男は、素直に喋ることにした。
「いやいや、この町の住人だよ。この先に住んでる、枝山っていうんだ」
子供の様子が少し変わる。
どうやら名前に聞き覚えがあるようだった。
「枝山? あれ? もしかして真一くんのお父さん?」
息子の名前が出てきて助かった。
男はそう思った。
話がうまく繋がれば、やり過ごしに十分な余裕も生まれるだろう、とも。
「そうそう、息子を知ってるのかい?」
「ぼくは一つ上の学年だけどね。それと――」
子供は、薄く嗤ったように見えた。
それが意味するところは男には読み取れなかったが。
「それと?」
「――真一くんの体の傷は、お父さんがやったんだよね。」
何気なく言われた氷の塊のような言葉。
男は体を固くして、精神に受けた衝撃を隠す。
「何の、冗談だい……?」
そう、冗談であるべきだ。
男は必死で思考を巡らせる。
この子供は、何かで息子の傷を見たのか?
息子のために、他人に見咎められないように、目立たないような場所を選んだのに?
「大きな物音を立てたから、ご飯を食べるのが、宿題を始めるのが遅れたから、アイロンの先っぽで、小さな火傷を何か所も」
何故、どうして、手段まで、知っている?
目の前の子供の、存在するはずもない知識。
男の思考は破算し、混乱へ向かう。
「ふうん……そうか、おじさんのお父さんはタバコで同じ“躾け”をしたんだ? 今度は自分の子供に?」
男は、一瞬呼吸の仕方を忘れた。
脳の奥に押し込んで忘れようとしていた恐怖の記憶と、それを無関係の子供から指摘される恐怖。
巨大すぎる衝撃に、男は完全にパニックを起こしていた。
「……あ、あぐ。お、お前、なん、だ……?」
目の前に立つのは、体格で比較すれば大したこともない子供の姿。
けれど、男にとってはそれが人食いの怪物か何かにも感じた。
未知の何かを相手に、男の体は酷く震えだす。
「酷いな。怪物って……これでも11歳の子供なのにさ」
子供の口ぶりが冷淡なものに変わる。
怪物が取り繕うのをやめていた。
逃げなければ、警察より、行政より、恐ろしいものから。
男はそう思って駆けだそうとした。
しかし、その足が持ち上がらない、一歩すらも踏み出せない。
「足は動かないよ。それと両腕も……ぼくの、怪物の力でね?」
目の前の怪物が言う通り、いつの間にか両腕もこわばって動かなくなっていた。
そして――。
「ぼくのお父さんもね、僕がこんなだから、おかしなことをするたびに、殴る蹴るだったんだ」
身動きできない男に、野球帽の子供は語り掛ける。
男には、それに何の意味があるのか理解できなかったが。
「少しでも怒られないように、顔色をずっと見て……。それでもある時、刃物を持ち出されて」
自身を怪物と認めた子供は、男を見るでもなく、虚空を睨みつけていた。
誰かを憎むように――。
「怖かったんだ。お父さんは怪物――ぼくを殺す気だった。だから、無我夢中で、お父さんを“組み替えた”」
子供の、怪物のぎらつく目が、男に向く。
「それでおしまい。お父さんは二度とぼくを傷つけなかった」
男の腕が、男の意思とは無関係に動き出した。
まるで誰かが糸を引っ張るように、万歳の姿勢にさせられる。
誰がやっているのかなどわかりきっていた。
「でも一度、操り人形に組み替えちゃったお父さんは、二度と元に戻せなかった……」
子供は、いつの間にか涙を流していた。
男には、その涙の理由を考える余裕などなかったが。
「ゆ、ゆるし、け、くひゃ……」
男は自由にならない口を辛うじて動かし、許しを請う。
しかし――。
「真一くんもずっと許してって、いい子になりますって言ってたよ?」
子供は、赦しを与える気配すらなく、より鋭く、男を睨み付けた。
次の瞬間、男の脳裏に、先日町を襲った怪物の姿が流し込まれる。
「正気を失うほどに、こんな悪夢を作り出すほどに」
怪物に、鉄の巨人が立ち向かう姿が見える。
その巨人は怪物に体を切り刻まれながらも、戦いを続けた。
「そして、それが“ぼくの友達”を傷つけた」
誰が触れているわけでもない男は、自身の力だけで奇妙な姿勢に捩じり上げられ、更にその全身を覚えのある痛みが襲う。
焼けたものを押し付けられる、罰の痛み。
恐怖の形である父親の影と、タバコに点いたオレンジの火が彼の視界に映る。
それでも男は悲鳴を上げることすらできない。
口角から涎を溢すのみだった。
「彼は、すごいよ? ぼくは……、力を使うのが怖くなって、真一くんが苦しんでいても、何もかも見ないふりしていたのに――」
子供は涙を流しながら、笑みを浮かべる。
「――央介は、自分が原因だからって、苦しみを全部抱えて、もっと苦しくなるってわかってても、立ち上がったんだ」
急に、男の体から痛みが消えていく。
痛み? どうして痛みがあったのだ。
そうだ、父親が、罰としてくれた痛みが――
――父親? 父親はどんな人物だった?
男の頭の中から、何もなくなっていく。
育った家、住んでいる家、家から出ていった伴侶、幸せだった生活の記憶。
「だから、ぼくも戦うんだ。友達の、ヒーローのために。次の悪夢の王が生まれないように」
もう何も聞こえていない男の頭の中に最後に残ったのは、両親の笑顔、伴侶の笑顔、子供の笑顔。
その笑顔も、よくは思い出せない。
子供の笑顔は、何かに消されてしまったのだろうか?
――元々、見てもいなかったのだろうか?
そこで思考力が途切れた男は、地面に倒れた。
怪物の子供は彼に語り掛ける。
「大丈夫、人間として生きられる程度には残してあげたよ。真一くんの所に帰れるかは……わかんないけどね」
しばらくして、路地の前に車が停まり、一人の男性が降りてきた。
「あきら、人が倒れてるって、本当かい?」
どこか抑揚のない声の男性は、子供――あきらに呼びかける。
「うん。救急車より、お父さんに来てもらった方が早いかな、って。お父さん、助けてあげて」
父親は、倒れている男を見ても慌てる様子もなく、彼を簡単に介抱し、車の方へと運び寝かせる。
自分の子供の言ったことを、何の疑いもなく、ただ実行した。
そのまま父親は息子に声をかける。
「えらいぞ、あきら。人助けは尊いことだ」
それは子供への誉め言葉だが、どこか無機質に感じられた。
まるで用意された台本を読み上げているように。
「……そうかな?」
あきらは、少し寂し気な顔で応える。
「そうだとも。あきらは本当にいい子だ」
後部座席に男を寝かせた父親は、傍にいたあきらの頭を撫でる。
それが、あきら自身が“組み替えて作った”優しい父親の行動。
あきらの言いなりの、操り人形。
「……お父さん」
あきらは、父親に呼びかける。
「どうか、したかい?」
「……ごめんね」
父親は首を傾げる。
「あきらが謝ることなんて、何もないさ。さあ、この人を病院に連れて行こう」
安っぽいプログラムで動くロボットのように、表面だけ人間のふりの父親。
あきらに尽くすだけになって、もう何年経ったのだろうか?
あきらは悔み、思う。
やっぱり僕はヒーローにはなれないのだろう。
この力はどう考えても悪いようにしか使えない。
それでも、同じような悪い力を抑えるぐらいには、役立てたい。
凶暴な悪夢の王が暴れないように、その芽を摘み取っていきたい。
転校してきた新しい友達は、ヒーローの少年は立ち上がったのだから。
そうして、あきらは彼の道を歩き出す。