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フィラデルフィアの夜に、針金が走ります。
誰もいない、来ることもない下水道。
漆黒という言葉さえも生半可な、闇。
何かが動く。動き出す。
小さな音を伴って。
何年も動いていない淀んだ下水が、音を立て始める。
水を下から掻き揚げる何かが進んでいる。
勢いよく、速度を増す。
勢いを増すごとに明らかにそれは大きくなっていく。
水を裂く音も大きくなる。
マンホールの蓋から、街明りが差し込み始めてくる。
悪臭放つ水を、まき散らしながら。
速く、速く。
力強さを増していく。
腐った水を、死骸や廃棄物の香りをその身に纏いながら。
檻からから解き放たれた獣のように。嵌められた枷から抜け出した少年のように。
街の明かりが降り注ぐ。
光が金網より、地の底へ。
スポットライトとして輝く。
光あふれるそこに、その姿を現した。
下水より駆け上がる。
荒馬の様に足を速め、全てを跳ね飛ばして突き進む。
結婚式。
静謐な会場に、その男は駆け付けた。
骨と皮だけの痩せた体に半裸の姿。
ただすっくと立ち、見えなくなっている眼窩を正面に向け、歩いた。
ゆっくり、ゆっくり。
男の背後には膨大な粘液。
それに操られている様に、それに浮かんでいるかの様に男は、歩く。
手には花。十字架。
叫び声が、混乱が、教会を満たします。
新郎は椅子を手に殴りかかろうとした時です。
「父さん」
との声が花嫁から漏れました。
おめでとう ありがとう さようなら
男は虚空に指でなぞります。
なぞった跡に、汚水が宙に留まり、三つの言葉を残しました。
そして、一輪の花と十字架を花嫁と花婿の足元に置いたのです。
「父さん」
さようなら
そう言いたげな一瞬の間を置き、男はいなくなります。
立ち上がっていた体は、積み木の様に急に儚く崩れて。
宙にとどまっていた文字も地面に落ち、染みとなり、消えて。
しゃあああああああああああああ
水の様な音。
続いて波の様な音。
崩れ、四散した男の体が、何かに引きずられていきます。
よく見れば男の体は針金で繋がり、その背後で蠢いていたのは細かい針金が汚水を筆の様に吸い上げていたと知ります。
なおも汚水を纏う針金は、地面にその痕跡を残しながら、波打ち、教会から出ていきました。
汚水の跡は教会の敷地までしか残っておらず、その先はわからなかったと言います。
花嫁は花と十字架を手に取りました。
細い細い針金が「幸せに」という文字の形を取っていました。




