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フィラデルフィアの夜に、針金が春となりました。
夜勤明けの疲れた体を引きずり、万年筆を片手に机に向かいます。
机には原稿用紙。
彼は工員でありながら、詩人でもありました。
休みなく働くため、詩人となるのはいつも夜。
まだ寒いこの季節、あえて春の詩を。春について思いめぐらす。
春。
頭に過るのは、花。
“花”紙にそう走らせた時。
「赤白黄色青。私たちが咲こう。咲き誇ろう。先鞭をつけよう」
文字が、書いた覚えのない文字が存在していました。
よく見れば筆記体で一つながりのその文字は、盛り上がっています。
まるで針金が書かれたかのように。
万年筆の先で触れると、その文字たちは宙へ浮かび上がる。
そうして、花を形作る。彩色され赤白黄色青。机の上に、花。
“蝶”続いて思わず走らせる。
「宙に咲く花のごとく。ゆらゆら、色鮮やかに。花、その後を」
また、書いた覚えのない文字が。
同じく筆記体で一つながりのそれは、宙を舞う。
誰の手も触れることなく、針金と思しきそれは、羽を動かしながら形成される。
小さい白い蝶に、大きな黄色い蝶に。
不規則に揺らめいた。
“緑”ふと手が滑る。
「新しい世界。新しい風の中。満たしていこう。新しい世界に」
またしても、文字。
今度は、針金が机を這い伸び、色付ける。
新緑の草。原稿用紙を残し、一面を満たした。
草原を作り上げる。
“空”。
「ここに青。無限の色。私の元で、色よ。育て」
青が、空が、天を満たす。
“風”
「色のない色。吹き込め、吸い込め。冷たく暖かい、命を。この命を」
針金が、浮き上がり、消えた。
冷たく、暖かく。
風が、吹いた。
“春”
何気なく書いた文字でした。
窓が急に開き、冬の極寒が部屋を満たし、詩人の顔を痛烈に刺激します。
目を開くと、あの光景は消えていました。
原稿用紙に転がっていた筆記体が、針金が作ったあの春の美しさは、どこにもないのです。
原稿用紙には“春”の文字が虚しく佇んでいます。
窓を見ます。
白い六角の花が、咲いています。新しい小さい雪の結晶が、窓枠に積もっていたのです。
また、窓には熱帯のシダ植物のような紋様が刻まれています。
あんなに冷たい、霜の結晶なのに。
窓の向こう、白い花々がたくさん降り積もっています。
冬もどこか暖かく、奇麗でした。
春は、雪の毛布の下、あの下にいるのです。
窓を閉めるまでのわずかな時間、詩人は寒さを楽しみました。
春を思いながら、冬を喜びました。




