第八章 本当はぜんぶウソ
廊下の端にある窓際のベンチに座って、あたしは庭を見下ろしていた。
花壇にお花がいっぱい咲いてる。ということは、今は春かな。でも冬に咲くお花もいっぱいあるし。よく分かんないや。そう言えば魔法学院の中はいつでも、暑くも寒くもない温度になっている。たぶん、魔法でそうしてるんじゃないかな。
あたしは先生の言ったことを、もう一度心の中で繰り返してみた。
「のぞみちゃんの心はね、」
先生は言った。
「のぞみちゃんを騙す事があるんですよ。びっくりするだろうけど」
――心があたしを騙す? だって心って……、すごいって、うーたん言ってた。いろんなこと、あたしが知らないことも知ってるって。あたしの味方だって。その心が、あたしを騙す……?
あたしにはとても信じられない気がした。
「のぞみちゃんを騙して、本当は無いものをあるように見せたり、聞こえない事を聞こえたように思わせる事があるんです」
それって夢みたいなものですか、とあたしは先生に聞いた。夢ってそうだよね。本当はないものを、夢の中で見たり聞いたりするもん。だから……。
「そうですね、夢と似ていますね。でも夢は寝ている時だけ見るでしょう。――そもそもどうして『魔法』の事を考え始めたのかな? 思い出して。最初はどうだった?」
――最初? 最初は、そう……。
「うーたんが……」
先生は手にしていた書類をチラッとを見た。
「うーたん。いつも持っている、うさぎのぬいぐるみですよね。お気に入りなんでしょう」
「えっと、別にそういうわけじゃ。ただ、うーたんは魔法少女のマスコットだから、いつも一緒にいるんです」
「マスコット?」
「そうです。テレビでやってる魔法少女にも、そういうのが必ずいて……。魔法少女にいろいろ教えてくれたり、助けてくれたりするんです」
「教える……。うーたんはどういう風に教えてくれるのかな? だってぬいぐるみはお話できないよね」
「あ、違うんです。うーたんは魔法少女クルクルの……、あたしのマスコットだから、あたしにしか声が聞こえないんです」
あたしは先生の返事を待った。だけど先生は穏やかに微笑み、ずいぶん長いこと黙っていた。そして言った。
「分かりました。じゃあまた来週この時間にお話しましょう。……ところでそれまでの間に、少しだけ考えてみて欲しい事があるんですが」
先生から、宿題だ! あたしは思わず背筋を伸ばした。
「はいっ! 何ですか!?」
「もしかすると、うーたんは……、ただのぬいぐるみかもしれませんよ」
うーたんは、ただのぬいぐるみ。
先生は何を言ってるんだろう。この宿題に、あたしはすっかり困ってしまった。
もしかして、言葉通りの意味じゃないのかも。ほら、例えっていうか。それとも、なぞなぞみたいなものとか……。
だけど先生は言ってた。「本当は無いものがあるように見えたり、聞こえない事が聞こえたように思う」って。
うーたんが?
本当は、いない?
ぜんぶ、うそ?
あたしは勢いよくベンチから立ち上がった。
本当は全部ウソ。……でも本当は全部ウソなら、その、「本当は」っていうのもウソだよね?
それじゃ、クルクル回っちゃう。あたしは混乱して頭を振った。
そんなはずない。だってうーたん、いるもん。ちゃんと。さっきおふとんの中からあたしに手を振ったじゃない。
いるよね? うーたん?
あたしは思わず駈け出して自分の部屋に向かった。
部屋に飛びこむなりベッドに駆け寄り、眠っているうーたんの身体を掴んだ。
「うーたん! ねえ、うーたんってば! 起きてよ! 起きて! ねえ、聞きたいことがあるの!」
何度も揺さぶると、ようやくうーたんは目をこすりながらベッドの上に起き上がった。
「のぞみ、なに」
「……うーたん、いるよね?」
あたしは恐るおそる、聞いた。
「うーたん、いる」
うーたんが真剣な顔でそう答えてくれたから、あたしはホッとした。
「ねえ、うーたん。あたし……。あたしって……、もしかして、頭がおかしくなっちゃったのかな?」
あたしがそう聞くと、うーたんは厳しい顔をした。
「のぞみ、そのいいかたよくない。ぽりてぃかる・これくとねす!」
「だって! あたし、分かんなくなっちゃったんだもん! どれが夢でどれが現実なの? あたしおかしいの?」
「……のぞみ」
うーたんは優しい声であたしの名前を呼んだ。
「のぞみ、まほうしんじる。おこさまむけアニメしんじる。ほかのひとしんじる。なのになぜ、じぶん、しんじない」
「だって! あたしが信じたって、それもウソかもしれないじゃない……」
言っている間に涙が滲んできて、最後の方は泣き声になってしまった。
何がウソで何が本当なのか、あたしには決められない。あたしのことなのに、あたしが決められない。誰かに勝手に決められちゃう。それはとてもとても、悲しくて辛いことだった。
ベッドに顔を伏せたあたしの頭を、うーたんの柔らかい腕がポンポンと叩いた。
「のぞみ、のぞみでなくなる、だめ」
「え……?」
「どんなのぞみも、のぞみ。でも、のぞみでないのぞみ、だめ……」
「う、うーたん、」
あたしはしゃくり上げながら言った。
「よく、分かんないよ、あたし……」
また涙が溢れてしまって、言葉が続かない。
「のぞみ、だから……」
そこまで言うと、かくん、とうーたんの頭が垂れた。
「うーたん、ねむい……」
言い終わるか終わらないかのうちに、うーたんは眠りに落ちていた。
あたしはしばらくの間、一人で泣きじゃくっていた。そのうち涙が自然に止まると、うーたんをそのままにして立ち上がった。
泣いたら少しだけすっきりしたみたい。あたしは外の空気が吸いたいと思った。こんなにいい天気なんだから、新鮮な空気を胸いっぱい吸いこみたい。そしたらこんな悲しい気分も吹き飛んで、別の考えが浮かぶかもしれない。あたしは窓のところに行って開けようとしたけれど、なぜかほんのちょっとしか開かなかった。力いっぱい押したり引いたりしてみたけれど、やっぱりそれ以上はびくとも動かない。あたしは諦めて、十センチくらいだけ開いた窓の隙間に顔を近づけた。冷たい空気が流れこんで頬をなでる。気持ちいい。見上げてみれば、広い広い空。大きな雲が、あたしのことなんて知らん顔でぽっかり浮かんでる。もしあの場所に行けたら、きっと別の世界みたいだろうな。
もしかしたら今この瞬間にも、あの別の世界から、あたしのことを眺めている人がいるかもしれない。
まるで小説を読むみたいに……、あたしの物語を見つめている人が。
あたしはその誰だか知らない人に、まるで友達みたいに話しかけたくなった。
(ねえ、あなたはあたしと違って、何が本当で何がウソか、はっきり分かる? だけど、『分かる』って、思っていても……、それはほんとうに本当なの? ねえ、本当に? 本当に? 本当に……?)
【看護記録より】
次第に病識が現れ始めた様子。だが同時に鬱傾向あり。注意必要。自身の妄想に疑いを持ち始め、何が現実かの判断がつかず混乱している。神経質になり、表情に時折苛立ちが現れる。無気力、座りこんでぼんやりと一日を過ごす事が多い。
日々が、ただなんとなく過ぎていった。うーたんはますます眠る時間が長くなる。そしてある晩とうとうあたしの膝に登ってきて、小さな声であたしの名前を呼んだ。
「のぞみ」
あたしにはなんとなく分かっていた。しばらく前から、この時が来るのを予感していた。
「のぞみ……。ちょっとのあいだ、おわかれ」
「うーたん……」
あたしは泣くのをこらえるのが精一杯で、ほとんど何も言うことができない。
「うーたん、ちょっといない。でものぞみ、がんばる」
「うーたん……、やだよ……」
頬にこぼれたあたしの涙を、うーたんはふわふわの手でそっと拭った。
「まほうしょうじょとますこっと、いつもいっしょ。ふたりでひとつ……」
うーたんのぬいぐるみの身体が、くたっと倒れた。
「うーたん!」
あたしは慌ててうーたんを抱き上げた。だけどそれはもう、ただのぬいぐるみだった。
――うーたんは、行っちゃったんだ。あたしをおいて。
「西条のぞみちゃん、一時帰宅の許可がおりたのね」
「ええ、三日間だけですが。お母さんが強く希望されていて……」
有須看護師は手を止めずにてきぱきと雑用を片付けながら、主任に答えた。
「良かったわね」
「はい。吉岡さんも、もうすぐ退院ですし……。こういう時はこの仕事をしていて良かったと思いますよね」
有須看護師は微笑んだ。
「では、何かありましたらすぐにお電話下さい。それから頓服で睡眠薬と抗不安薬が出ていますので、薬局でお受け取り下さい。詳しい使い方は薬局の方で説明を……」
迎えにきたお母さんに有須さんがいろいろと説明している間、あたしは「うーたん」を抱いたまま、ぼんやり窓の外を眺めていた。
「のぞみちゃん。三日間、元気でね。お薬飲むの忘れちゃだめよ」
出入り口まで送ってくれた有須さんが言った。
「はい」
「じゃあ、いってらっしゃい」
お母さんが有須さんにペコリとお辞儀をして歩き出した。あたしも後に続く。背後でカチャリとドアが閉まり、ピッ、という電子キーの音が妙に大きく響いた。
久しぶりの自分の部屋は、少しよそよそしい感じがした。まるでお人形の部屋みたいにきちんと片付いている。あたしは落ちつかない気分で部屋の中を見回した。どこに座ればいいかさえ、ちょっと考えてしまう。軽くため息をついて「うーたん」をベッドの端に置き、窓を開けようと部屋を横切った。
カーテンを開いてふと二階から見下ろすと、家の前に誰かいる。男の子だ。
――拓海くん!
あたしは急いで一階に降りて行った。玄関の戸を開けると、ちょうどチャイムを押そうとしていた拓海くんが、
「のぞみちゃん!」
と、嬉しそうな顔で笑った。
「……あのね、魔法なんて本当はなかったんだ。ぜんぶウソだったんだよ。あたし病気で、そういう夢を見ていただけなんだって」
拓海くんは口をぽかんと開けてあたしを見た。
あたしはその顔を真っ直ぐ見ることができずに俯いた。だってあたし、拓海くんを騙しちゃったことになるんだもん。もちろんそんなつもりはなかったけど……。
「ごめんね……」
「のぞみちゃん、僕、分かんないよ」
「…………」
「だってさ、ママに魔法かけてくれたでしょ」
「それは……。あの時はあたしも魔法を信じてたから……」
「今はちがうの?」
「今は……」
あたしは答に詰まった。
あたしは、魔法を信じてる?
だけど。だって。先生がウソだって言うから。みんなが、魔法なんてウソだって言うから。あたしが信じてるかなんて、どうでもいい。他のひとがそう言うんだから……。
「分かんない……」
あたしは小さな声で呟いた。
「魔法、うそじゃないよ。ほんとうだよ!」
拓海くんの強い口調に、あたしは思わず顔を上げた。拓海くんは眉をキッと上げてあたしを見つめていた。
「ママ、前とちがうもん。魔法のおかげだよ!」
「それは……」
「魔法少女クルクルのおかげだよ!」
拓海くんは強く言い張った。
二階の窓から見ていると、拓海くんが振り返ってバイバイした。あたしも手を振り返し、角を曲がってその姿が見えなくなるまで見送った。
魔法は、ウソだったのかな。
それとも、本当なのかな。
あたしには分からない。
だけどあたしがどう思おうと、それが本当にほんとうか分からないもん。だから、どっちでも同じ……。
ベッドの上にはうーたんが……、ただのぬいぐるみのうーたんが、転がっている。
あたしはうーたんのそばに行き、身体を起こして壁にもたせかけた。うーたんはただ座っている。だけどその瞳が、あたしを見つめているような気がした。
――じぶん、しんじない?
あたしは長い間、たたぼんやりとうーたんを眺めていた。
「……のぞみ? 何してるの?」
お母さんが部屋のドアをノックして、顔を覗かせた。
「別になんにも……」
「そう……。あのね、ケーキがあるのよ。下で食べない?」
「……うん。食べる」
一言そう言っただけなのに、お母さんはなぜか一瞬、ほっとした表情を見せた。それがあたしの心にふと引っかかった。
お母さん、前と何かが違う。
香織は階下のキッチンでのぞみの為にケーキを取り分けながら、今日何度目かの溜息をついた。
ああしていると、前と何も変わらない……、普通の子なのに。
のぞみの状態に一番戸惑っているのは、本人よりむしろ香織だった。今ものぞみが帰宅して嬉しいものの、どう扱えば良いのか分からない。病院で指導を受けて接し方は教えてもらったが、自信が無い。変に刺激して妄想を悪化させるような事があったらと、何気ない一言を発するのにも躊躇ってしまうのだった。
お母さん、やっぱり何か変だ。
前はこうして一緒におやつを食べる時なんか、いろいろお喋りしたのに。でも今日は黙ってケーキをつまんでいる。なんだか元気がない。
「……お母さん、どうしたの?」
お母さんははっとして顔を上げた。フォークを持つ手が止まっている。
「お母さん、何か心配ごと?」
自分で言って、気づいた。そういえば何かあった気がする。心配なこと。あたしとお母さんの間に……。えっと、何だっけ。心配だけど、話すのを避けていたこと……。
――お父さん!
「ね、ねえ、お母さん! お父さんのことだけど」
そう言ったとたんにお母さんの顔色が変わったのを、あたしは見逃さなかった。
「のぞみ、その話は……。お母さん今はしたくないの」
「え……?」
お母さんは黙りこみ、またケーキを口に運んだ。
おかしい。
おかしいよ。お父さんのこと話したくないなんて。なんで? おかしい……。
――そう。そうだよ! おかしいじゃん!
もし魔法がウソだって言うなら、お父さんのことは!?
魔法戦士だってのもウソってことになるよね。それならどうして、お父さんは家に帰ってこないの?
そう。そうだよ。お父さんのことが証拠だ! どうして今まで気づかなかったんだろう。魔法はやっぱり本当だったんだ!
だってお父さんがあたしを置いていなくなるなんて、絶対ないもん。絶対はうそだってうーたんが言った。でもこれだけは絶対に、絶対だ。あたしはお父さんが大好きだし、お父さんだって家族のことが大好きなんだもん。だから、いなくなるなんて、絶対に、ない。
ゆらゆらじゃない。絶対、だ。
そうだ。あたしやっぱり騙されてたんだ。みんな幻想魔法に操られて手先になってたんだ。お母さんもカイ先生も、魔法学院の人たちもみんな。魔法学院での合宿は、あたしの魔法の力を奪うために計画されてたんだ! そうとも知らず騙されて……、うーたんは眠らされてしまった。
許せない、幻想魔法!
フォークを持つあたしの手が震えている。お母さんがふと顔を上げた。
「……のぞみ?」
あたしはとっさに笑顔を作った。ケーキの最後の一口を頬張る。
「ごちそうさま! お母さん、このケーキおいしいね。どこのお店?」
お母さんも微笑んだ。
「駅前に新しくオープンしたのよ。ああそうだわ、おやつ食べ終わったら……」
お母さんは、そばに置いてあったバッグから薬を取り出した。
「はい、これ。ちゃんと飲んでね」
今はまだ、騙されてるふりをしてた方がいい。
「……うん」
あたしは薬を口に入れた。
お母さんはそれだけ見て安心すると、食器を片付けにさっさとキッチンに行ってしまった。
ふふふ。甘いわね、幻想魔法!
ペッ。あたしは口に含んだだけの薬を吐き出すと、トイレに行ってそれを流してしまった。
――証拠隠滅、完了!
「のぞみ、のぞみ」
うーん。うるさいなあ。あたしは半分眠ったまま答えた。
「なに……」
「おきて」
薄く目を開けると、まだ部屋の中は薄暗い。
「まだ、寝る……」
あたしはお布団にしっかりとくるまりながら言った。
「のぞみ! おきる!」
柔らかい、フワフワしたものがあたしの頬を叩く。
「……!?」
飛び起きたあたしの目の前に立っていたのは……、うーたん!
「じゃああぁぁーん!」
いつもの、片手を上げるポーズで――。
「……うーたんっ!!」
あたしはうーたんをひったくるようにして腕の中に捕まえた。
「うーたん……!」
それ以上、言葉が出てこない。ただ黙って、うーたんをきつく抱きしめた。うーたんも、短い腕でギュッとあたしを抱きしめてくれた。
「うーたん……。うーたんがいなくて、大変だったんだよ……」
あたしは、みんなが幻想魔法に操られて、あたしたちを罠にかけたことを話した。
「あたし、魔法なんてぜんぶウソだったのかもしれないって……、ちょっと本気で考えちゃったんだから……」
「どうして?」
「だって……。みんなが魔法なんてウソだって言うから。あたしが病気なんだって……」
言いながら、胸に何かがこみ上げてきた。
「あ、あたしが、変なんだって。だから、ぜんぶ、う、ウソで……」
うーたんを抱きしめた腕の、魔法少女の印。その上に涙の粒がポタリと落ちた。
「み、みんなが……! みんなが……、言う、から……!」
もう言葉にならなかった。あたしは小さな子供みたいにわあわあ声を上げて泣いた。本当は泣きたくなんてなかった。だってあたしは魔法少女なんだから、強くなきゃ。だけど泣いていると、あたしの悲しい気持ちがバラバラになって、涙の一粒一粒になって、身体の外に出ていってくれるみたいだった。泣けば泣くほど少しづつ、悲しい気持ちでどろどろに汚れていた心が、きれいになっていくみたい。
うーたんはあたしが泣いている間ずっと、ふわふわの手であたしの頭をなでてくれていた。だからあたしは、安心して泣くことができた。
「……まほうしょうじょとますこっと、いつもいっしょ。ふたりでひとつ」
あたしは顔を上げてうーたんを見た。黒いプラスチックの瞳と、赤い糸で縫いつけただけの口元が微笑んでいる。あたしも涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、笑った。うーたんがティッシュを持ってきてくれたので顔を拭くと、ようやく落ちついて話ができるようになった。
「うーたんが戻ってきてくれてよかった。ほんと、危なかったよ。あたしもう少しで完全に騙されちゃってたかも」
あたしがそう言うとうーたんは、
「あぶない、あぶない!」
と、マンガみたいに汗を拭く仕草をしてみせた。ぬいぐるみのくせに。あたしは思わず吹き出してしまった。一度笑い出したらなんだか止まらなくなっちゃって、あたしたちは一緒に笑い転げた。
一人ぼっちで寂しかったことも不安だったことも、こうしてうーたんが戻ってきた今は、ただの笑っちゃう話だもん。だから……、思い切り笑ったっていいんだ。
さんざん笑い疲れた頃、あたしたちはどちらからともなく黙りこんだ。
そうだ。のんきにしてもいられないんだ。あたしたちの周りの人はみんな、幻想魔法に操られてる。味方は誰もいない――。
「ねえ、うーたん。あたしたち、これからどうしたらいいのかな……」
うーたんは少しの間を置いてから、静かな声で答えた。
「――いまこそ、まほうせんし、あいにいく」
「あっ!」
そうだ。魔法戦士の、お父さん。今こそお父さんの力が必要だ。お父さんに助けを求めて一緒に戦おう。世界を救うんだ! あたしとお父さんで、一緒に……!
あ、でも……。
「会いに行くって言っても、どこに?」
うーたんは耳をぴくっと動かした。
「りゅっく。うーたんの」
「え、リュック……? ああ、あれね」
机の上に置きっぱなしになっていた黄色いリュックを渡すと、うーたんはその中をゴソゴソと探った。そして、
「じゃーん!」
と、水色の紙を取り出した。
「あ、これって……」
あたしはその紙に見覚えがあった。そうだ。前に、お父さんからお手紙がきた時の封筒だ! 裏返してみると……、住所が書いてある!
「うーたん、えらい! すごい! よく取ってあったね!」
あたしは思わず叫んでしまった。この住所に訪ねて行けば、お父さんに会える。
「よし、うーたん。この家から逃げ出して、お父さんを探しに行こう!」
もうすぐ夜が明ける。あたしは音を立てないよう気をつけて、玄関のドアを開けた。明け方の冷たい空気が家の中に流れこむ。
こんな朝早く外に出るなんて、初めてだ。なんだか悪いことをしてるみたいでドキドキする。だけどお母さんが目を覚ます前に、なるべく遠くまで逃げなきゃいけない。
「のぞみ、はやく」
うーたんが小声で急かした。
あたしは修学旅行の時に使った大きめのスポーツバッグを抱え、うーたんはいつもの黄色いリュックサックを背負っている。旅支度はばっちりだ。あたしは玄関から外に出て、そっとドアを閉めた。
――お母さん。
振り返り、二階のお母さんの部屋の窓を見つめる。
待っててね、お母さん。お父さんと一緒に幻想魔法を倒して、帰ってくるから。そうしたら操られてるお母さんも、きっと元通りになるはずだから。
あたしは大きく息を吸いこんだ。
「よおし! 出発!」
「ヤー!」
あたしとうーたんは、早朝の街を足早に歩き始めた。