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第七章 そうぞうするちから

「誰かあ! 誰か来て! 助けて下さあい!」

 突然、廊下に叫び声が響き渡った。

「誰かーっ! 早く来て! 吉岡さんが!」

 廊下の角から患者の一人が駆けてきた。有須桃子の姿を認めると、その患者は叫んだ。

「あっ! 看護師さん! 早く来て!」

 

 それは反射としか言いようがない。

 有須看護師は考える前にドアを閉め、のぞみをその場に残し、全力で駈け出していた。ただならぬ事が起こったのだと、経験が告げていた。

 患者の導くままトイレに駆けこんだ有須看護師の目に映ったのは、シーツを裂いて作った紐で首を括り、ぶら下がっている吉岡さんの姿だった。

 一瞬、有須桃子の足がすくんだ。しかし……。

――まだ間に合う!

 吉岡さんの身体が微かに動いている。そう長い時間は経っていない。

 有須看護師は吉岡さんの身体に飛びついた。一緒に駆けつけた患者も慌てて手を貸す。そのまま二人で吉岡さんを持ち上げるようにしてシーツを外した。床に寝かせてそのまま応急処置を始める。

 まだ間に合う。今度は……、間に合う!

 騒ぎを聞きつけて集まった患者さん達に、ナースステーションまで応援を呼びに行くよう頼む。誰かが走り出ていった。

 まだ、間に合う。今度は、間に合う。今度こそ!

 有須看護師は心の中で、何度も何度もそう繰り返した。まるで呪文のように。いつしか応急処置の心臓マッサージのリズムと、その呪文のリズムとがぴったり合っていた。

――ああ、そうだ。私はまだ、生きていた。

 必死に処置を続ける有須看護師の胸に、ふとそんな実感が浮かんだ。

 周りは大騒ぎだ。泣き叫びうろたえる患者さんを、他の患者さんがなだめている。吉岡さんに向かって呼びかけている者もいる。大勢の足音。どこかで物がぶつかって倒れる音。誰かの大声。

 今ここに、死の淵を渡って行こうとする者と、生きている者がいた。その対比が、有須桃子の「生」を浮き上がらせた。

――私はまだ、生きていた。私の世界は、まだ生きていた!

 桃子は妹の死と共に、自らも死んだようなつもりでいた。ここは桃子にとって、自分の「生」を閉じこめた墓所だった。しかしその生は、まるでコンクリートの僅かな隙間から生え出た草のように、自ら力を内包していた。そして、天に向かって全力で伸びようとしていた。何の理由も、価値も無く。ただ伸びようとする意思だけがあったのだ。

 なぜ、私は死ななかったのか。妹を救えず、自分に生きている価値を見い出せなかった。死んでしまいたかった。しかし、それでもなお、死ななかったのはなぜか。それは、力だ。命の意思の力が働いているからなのだ。現に今こうして……、その力によって私の身体は動いている。そして吉岡さんの「命の意思」を、なんとかして呼び戻そうとあがいている……。

 どれくらいの間、無我夢中で処置を続けていたのか、有須看護師には分からなかった。やがて、苦しそうな咳が吉岡さんの喉から飛び出した。


 有須看護師は、ベッド脇に置かれた椅子にそっと腰かけた。ベッドでは吉岡さんが眠っている。

 有須看護師の思った通り、彼が首を吊ってから発見されるまでの時間はごく僅かなものだった。しかし、たまたまトイレに行って彼を見つけたあの患者さんがいなかったら、今頃吉岡さんは……。それを思うと有須看護師は不思議な気がした。偶然。全ては偶然だったのだ。理由などない、ただの偶然が吉岡さんの命を長らえさせた。

 吉岡さんが、男性にしては長い睫毛に縁取られた、その繊細そうな瞳をうっすらと開いた。

「……具合はどうですか?」

 有須看護師は、できる限り静かに声をかけた。

 吉岡さんは答える代わりに、ベッドの上にゆっくりと上半身を起こした。有須看護師の顔を見ようともせず、うなだれている。まるで刑事ドラマに出てくる犯人か何かのようだ。有須看護師の胸が痛んだ。

「……俺は……自殺すら失敗するなんて……。本当に、俺ってどこまで……」

 吉岡さんは鼻でせせら笑った。

「……そんな事、」

 有須看護師は、何か看護師らしい事を言わねばと思った。

「…………」

 言葉が出てこない。「そんな事を言ってはいけませんよ」「そういう風に考えるのは病気のせいなんです」「お薬をきちんと飲んで、ゆっくり休んで……」「気楽に、考えすぎないように……」

 教科書に書いてある言葉。マニュアル通りの、こういった場面における、「正しい」言葉。しかしどれも、有須看護師の口から出る前に喉に引っかかって止まってしまった。どの言葉も、嘘をついている時のささやかな罪悪感のようなものを纏っている。口にしても、きっとどこか上滑りするだろう。有須看護師は戸惑った。

「有須さん、俺ってね、『勝ち組』だったんですよ」

 沈黙が気まずくて、苦し紛れに口を開いたのかもしれない。だが、普段は無口過ぎるくらいの吉岡さんが、積極的に自らの事を語る気配を見せている。有須看護師はさりげなく身を乗り出した。

「家はけっこう裕福で、小学校から私立校に通ってました。学生時代はずっと良い成績をキープして、名の知れた大学に入って、卒業後は一流と言われるような企業に就職しました。不満も無かったし、自分に自信を持っていました。それがある時、後輩が一足飛びに出世して上司になったんです。悔しくて、情けなくて……。俺は負けた。競争に負けたんだと思いました。それから俺は、がむしゃらに頑張りました。寝る間も惜しんで仕事をしました。だって、競争に負けたら、俺にはもう価値が無くなっちゃうじゃないですか。それが……、ある時ふと、バカバカしく思えたんです。俺達ってまるで商品だな、って。どれだけ価値の高い商品になれるか。結局人生ってそれだけなのか、って。それなら、別に俺がやらなくてもいい。他にいくらでも、もっと商品価値の高い奴がいる。そんな事考えてたら急に、身体が動かなくなっちゃったんです。会社に行くどころか、朝起きる事すらできなくなって。何をするのも意味が無い気がして、何もする気になれなくて、一日中布団の中から出られなくなっちゃったんです。それで家族に病院へ連れてこられて、鬱の診断で休職して……」

 有須看護師は黙って頷いた。仕事ざかりの男性特有の、辛い状況。しかし立場や性別は違っても、有須看護師には理解できる気がした。

 自分が信じ、疑わなかった価値。自分を足元から支えていたもの、それが崩れてしまう。それは言ってしまえば、その人の世界が崩壊するも同然なのだ。他人からすれば、「たかが、それぐらい」と言えるような些細な事であったとしても。

「俺はもう、うんざりなんですよ! 商品扱いされるのなんか!」

 吉岡さんは声を荒げ、両手で頭を抱えこんで髪を掻きむしった。

「3258番さん……武田さんの言う事、俺、分かる気がするんです。『にんげんになりたい』って。おかしいですよね? 統合失調症の人の言う事が分かるなんて、俺も統合失調症なんですかねぇ!?」

 ヒステリックな笑い声が病室に響いた。

「『3258番』って……、まるで商品の番号みたいですよね! ハハッ。俺も今度からそうしようかな!? じゃあ俺は、3259番になりますよ……! 俺、商品番号3259番です! アハハハ!」

「……吉岡さん」

 有須看護師は静かに口を開いた。

「商品扱いしているのは、吉岡さんご自身ではないですか」

「……え?」

 吉岡さんの笑い声が止まった。

「少なくとも私は、吉岡さんも私も……、誰も、商品だとは思いません」

「…………」

「吉岡さんご自身こそが、人間の価値はどれだけ良い商品であるかだと考えていたんじゃないでしょうか」

「それは……、だって、そりゃそうですよ。それが僕の価値観だったんですから……、ずっと……」

「競争に負け、病気になり、所謂『勝ち組』から脱落してしまった。自分にはもう商品価値がない。生きている価値もない。そんな風に考えたんじゃ?」

「……!」

「でも、それは真実なのでしょうか。その価値観はどこから来たのでしょう。それは本当に、吉岡さんご自身の価値観なのでしょうか」

「それは……、ただ子供の頃からそうだったから……。何となく……。親もそんな感じだったし……。いや、ちょっと待てよ……」

 ふと口をつぐんだ吉岡さんは、有須看護師がそばにいる事を忘れたように、独り言を呟き始めた。

「これってつまり……、俺のこういう価値観は、その価値観自体から来ている……? でもそれじゃ……、まるでクルクル回るみたいな……」

 吉岡さんはハッと顔を上げた。

「す、すみません。俺、何か……、訳分からない事言って……」

 有須看護師は微笑んだ。

「いいんですよ、吉岡さん。……あの、せっかくですから。私も少し、訳の分からないお喋りをしてもいいでしょうか?」

「え? は、はい」

「その……。もしかしたら、吉岡さんは、作り直しがしたかったんじゃないでしょうか」

「作り直し?」

 訝しむ吉岡さんの表情に、桃子は、自分がつまらない事を喋ろうとしていると思った。話し始めた事を早くも後悔しかけたが、引っこみがつかなくなり、言葉を続けた。

「ええ。その……。吉岡さんは、今まで順風満帆に過ごしてはきたものの、心のどこかでずっと疑問に思っていたんじゃないでしょうか。競争だけが人生の答えじゃないんじゃないか、もっと違う価値観もあるのじゃないか、って。でも現実には、そんな事を考えている暇はありませんよね。そんな事していたら競争に遅れてしまいますから。でも、心の隅でその疑問がずっと引っかかっていた。それは言うなれば、土台の部分に小さな穴が空いた建物みたいなもので……。たまたまきっかけがあって、その小さな穴から吉岡さんの土台は壊れてしまいました。でも、壊れたら、また新たに創造する事になります。その時には、一から作り直す訳ですから、今までよりもっと価値あるものを作れるかもしれない。吉岡さんは心のどこかで、そんな風に望んでいたんじゃ……、なんて。私、そんな風にちょっと考えてみたんです。あの、気に触ったらごめんなさい……」

「あ、いえ……、そんな事……」

 吉岡さんは頭を振った。

「鬱病になって、休職する。それは社会的、常識的に見れば、『良くない事』です。でも、」

 有須桃子は、躊躇いつつも言葉を続けた。

「何が良い事で、何が悪い事か。それは所詮、社会のありようが決める事です。だけどそういう社会の都合とは別の基準で働く、人間の本能的な力っていうか……、そういうものがある気がするんです。追い詰められた時にだけ働く、人の心の力が」

 吉岡さんは、長いこと、じっと黙っていた。

「でもね、有須さん」

 吉岡さんは、ぼんやりとした、悲しげな、力の無い瞳で有須看護師を見つめた。そして問うた。

「――僕達はどうして、そうまでして生きなきゃいけないんでしょうね……?」

 問いかけておきながら、答えを求めても無駄なのは知っている、とばかりに吉岡さんは顔をそむけた。そして誰にともなく、一言ポツリと、

「明日、世界が壊れちゃえばいいのに……」

 と呟いた。

 その一言に、有須桃子はハッとした。人はなぜ生きるのか。その根本的な問に答えられない自分にハッとした。

 人は何故生きるのか。人の価値とは、生きる価値とは何なのだ。

 自分も、今までその問から顔をそむけてきた。しかしここに来る患者さん達は多かれ少なかれ、その問を抱えている人々だ。いや、問から逃げ切れなかった人々と言った方が良いかもしれない。彼らに、薬を与えるように答を与えてあげる事はできない。しかし、少なくとも、その問に共に向き合う事はできるのではないか。

 そしてその為には自分自身も、生きる事に誠実な人間でなければいけない。強く、人生を創造する人間でなければ……、

――人生を、「創造」する?

 突然現れたその言葉に、桃子はハッとした。

――ああ、妹にはそれが無かったのだ!

 無理もない。まだ幼い子どもだった。無垢で無知なあまり、全てを理解したような気になってしまった。そして諦めてしまったのだ、あの子は。

――それならば。

 有須桃子は、顔を上げた。

 私がやろう。妹の分まで。そして妹に見せてやろう。それが、きっと……。

「吉岡さん」

 桃子は、静かに呼びかけた。答など期待していなかった吉岡さんは、その厳然とした口調に驚いた顔で桃子を見た。

「私には、吉岡さんに答えてあげる事はできません。でも私は、その答えを自ら創造しようと思います」

「え……?」

「それを諦めてしまった人がいたんです。とても身近な人が。だから私は、せめてできる限り多くの人達に、諦めないように手を貸したいんです。そうしながら、私は私の生きる価値を創造しようと思います」

 気づけば吉岡さんは、呆気にとられた表情で桃子を見つめている。桃子は途端に恥ずかしくなり、慌てて顔を伏せた。しかし、

「……じゃあ、有須さんも俺も、強くならないといけないですね」

 その言葉にハッとして顔を上げれば、吉岡さんは弱々しいながらも笑顔を見せてくれていた。

「ええ、そうですね」

 桃子も、微笑み返した。

 真摯に誠実に、そして強く、毎日の生活に向かう。それには鋭敏でなければいけないと思う。鈍さも、一種の強さにはなり得る。だが必ずしも、強さイコール鈍さではないと有須桃子は信じた。


 桃子が部屋を出ると、廊下のベンチに一人、不安気に座りこんでいたのぞみが勢い良く立ち上がった。

「お姉ちゃん! 吉岡さん、どう?」

「もう大丈夫、心配いらないわ。だからのぞみちゃんも部屋に戻って休みなさい」

「…………」

「どうしたの?」

 のぞみは、大きな瞳でじっと桃子を見つめた。

「だって、お姉ちゃん、一緒に……」

「…………!」

 吉岡さんの騒ぎで、すっかり忘れていた。桃子は今になって、自分が取り返しのつかない事をしようとしていたのだと気づいた。

 魔法少女クルクルの幻想に、捕らわれてしまったのだ……。


「……ごめんなさい。私は、行けないわ」

 思いがけないお姉ちゃんの言葉に、あたしは戸惑った。

「えっ? ……ど、どうして?」

「私はここで、やる事があるからよ」

 はっきりとした口調で言うお姉ちゃん。もしかして、あたしのディススペルの魔法、失敗しちゃったの!?

「お姉ちゃん、ごめん! あたしの魔法きかなかったのね。でも大丈夫、もう一回……」

「違うのよ、」

 お姉ちゃんは、慌てたようにあたしの両肩を掴んで言った。

「私にはここで、できる事があるわ。私はそれが価値ある事だと思う……、いいえ、違う。私自身がそれに価値を与える為に、ここにいるって決めたの」

 あたしにはお姉ちゃんの言うことがよく分からなかった。確かにここでは、吉岡さんや田中さん、3258番さん、その他にも大勢の人がお姉ちゃんを必要としてる。お姉ちゃんがみんなのためにがんばってるのもえらいと思う。だけどあたしはそれでも、お姉ちゃんを説得したかった。

「で、でも、お姉ちゃん。お家に帰りたくないの?」

「のぞみ」

 うーたんが厳しい口調であたしを遮った。

「のぞみ、これでいい」

「だって、だってせっかく一緒に……」

「これでいい、のぞみ。おねえちゃん、みつけたから」

「見つけた? 何を?」

「おねえちゃん、『そうぞうするちから』みつけた!」

 うーたんは嬉しそうにぴょんと飛び上がった。

「創造する力?」

「そう。できること、する。よろこび、かんじる。いきてることのかち、だれかにきかない。じぶんでそうぞうする!」

「自分で価値を創造する?」

 あたしは首をかしげた。うーたんの言うことは、やっぱり時々、難しい。

 でも……。あたしはさっきの騒ぎの時のお姉ちゃんを思い出した。てきぱきとみんなに指示を出しながら、懸命に吉岡さんを助けていた。お姉ちゃん、かっこよかった。そして、なんだか生き生きしてた。幻想魔法の呪いのせいで、嫌々お仕事をしているようには見えなかった。

「私は……、」

 お姉ちゃんがあたしの背の高さに合わせ、腰を屈めた。そしてあたしの目を見つめて言った。

「私はここを、私の、創造の場所に決めたわ」

 あたしはお姉ちゃんを見つめ返し、小さく息を吸いこんだ。そして、なるべく元気を出して答えた。

「うん、分かったよ。お姉ちゃん」

 うーたんが、黙ってウンウンと頷いた。 

「お姉ちゃん」

 あたしは言った。

「魔法少女クルクルが、『強化』の魔法をかけるよ。お姉ちゃんがここでがんばれるように」

「え……?」

 あたしはお姉ちゃんの仮面の頬に、そっと両手を当てた。

 目を閉じて、小さな声で、丁寧に、呪文を唱える。

「太陽は天上で静止せよ……、完全世界を照らせ! 来たれ、大いなる正午よ……」

 あたしの手から、冷たい仮面を通して、魔法の力をお姉ちゃんに送りこむ。

「お姉ちゃんが、強くいられますように……。ジア=ゼパム!」

 指先からキラキラした光の粒が溢れ出す。あたしはお姉ちゃんの泣き顔の仮面をそっと外した。

 仮面の下のその顔は……。夜空に咲いた花火のような、華やかで軽やかな笑顔だった。お姉ちゃんは、はにかみながら、

「ありがとう、のぞみちゃん」

 と言ってくれた。


 あたしは少しだけ寂しい気持ちで、お仕事に戻って行くお姉ちゃんの後ろ姿を見送った。でもその真っ直ぐ伸びた背中はとても頼もしく見えて、半分嬉しいような、半分はやっぱり悲しいような、不思議な気持ちだった。

「……うーたん。あたし結局、お姉ちゃんの役に立てたのかな?」

 あたしは足元に立っていたうーたんに呟いた。するとうーたんはぴょんとあたしの胸に飛びこみ、軽く腕を叩いた。

「……?」

 左腕、なんだか少し熱い気がする。

 服の袖をまくってみた。するとそこには――、新たな「魔法少女の印」が現れている!

「うーたん! 見て!」

 あたしは腕を伸ばし、印をうーたんに見せびらかした。

「まほうしょうじょのしるし、ふたつめ!」

「やったあ!」

 あたしとうーたんは両腕をつなぎ、くるくると回ってはしゃいだ。

 二つ目の魔法少女の印が現れたってことは、あたしの魔法、お姉ちゃんの役に立ったんだよね。きっと。

「残りは後一つ……。うーたん、あたしがんばるよ!」

「うん。がんばれ! まほうしょうじょクルクル!」

 うーたんはいつもの片手を上げるポーズで言った。


 巡回中、有須看護師は廊下の窓の前でふと足を止めた。

 満月だ。

 窓から銀色の月光が明るく差しこみ、よく磨かれた白い床を照らしている。

 月は、狂気の象徴だという。だがなんと美しいのだろう。有須看護師はしばらくの間、ぼんやりと満月に見とれた。

 妹に対する罪悪感と自責の念から、がむしゃらに働いてきた――、つもりでいた。だが迷いがある時も辛い時も、夢中になって眼の前の仕事をしていると、グニャグニャと頼りない自分の中心がしっかりと固まるような感覚が常にあった。

 桃子は思わず微笑んだ。

――まるで患者さんの妄想みたい。

 だが、その「妄想」が自分を力づけてくれるなら、今はそれで良いと桃子は思った。

 そう。さっきの、のぞみちゃんの「魔法」だって……。

 桃子は、真剣な顔で「魔法の呪文」を唱えていたのぞみを思い出し、胸に広がる温かい感触をもう一度味わった。

 廊下に一人の患者が出てきた。有須看護師の姿を見つけると、その患者はホッとした表情を見せた。

「あ、看護士さん。ちょっと来てくれませんか」

「あら、どうしましたか……」

 有須桃子看護師は、小走りで患者の元に向かった。


「はい。今日から新しいのになったわよ」

 昼食の後、アリスお姉ちゃんが、小さなトレイに載った新しい魔法のタネをくれた。

「わあ! ありがとう!」

 あたしはそれを受け取り、さっそく飲みこんだ。

 魔法学院での合宿も、もう何日目だろう。がんばってきたかいがあった。これで四つ目の魔法だもん。

 今日の午前中はカイ先生とお話する時間だった。あたしは喜々として、新しく現れた二つ目の魔法少女の印を見せた。先生は真剣な顔でそれを調べ、いつものように書類に何か書きこんでいた。


「これで四つめだね、うーたん」

 部屋に戻ったあたしは、うーたんを抱いてベッドに座った。

「今度のは、どんな魔法なの?」

「げんわくまほう、『リスペリド』!」

「幻惑……って、えっと、惑わせるってこと?」

「そう。きりをだす。つつんじゃう。みえなくする」

「霧? 見えなくする? 何を見えなくするの?」

「いろいろ」

「いろいろ……?」

「……すぐわかる」

 うーたんはぷいっと顔をそむけ、耳のお手入れを始めてしまった。

「うーたん、どうしたの?」

 なんだか今日は機嫌が悪いみたい。

「うーたん、いそがしい」

 うーたんはそっぽを向いたまま、丁寧に耳をなでていた。


 有須看護師は多少複雑な心持ちで、食後に配る薬を嬉しそうに飲み下すのぞみを見つめた。

 のぞみは処方される抗精神薬や副作用を抑える薬の数々を、その妄想世界の中で、「魔法」の源であると解釈している。皮肉にもそれが幸いして、服薬に抵抗が無い。

 様々な理由から、服薬を拒む患者さんは多い。薬は一人づつ順番に看護師の見ている前で飲む決まりになっているが、その場は口に含んでおいて看護師の目をごまかし、後でこっそり吐き出すような困った人もいる。

 のぞみに関してはそんな心配が無い。だが、「これを飲めば魔法が使えるようになる」と信じて笑顔で服薬するのぞみを見ていると、治療の為に必要な事とは言え、何だか騙しているような気がしてしまうのだ。


「ねえ、うーたん、退屈だよ! 遊ぼうよ」

 ある日の午後。あたしはベッドでうとうとしているうーたんを揺さぶった。

 合宿のスケジュールは、最初に思ったほど厳しくなかった。自由時間がたくさんある。それは嬉しいんだけど、テレビもないし、遊ぶものもない。暇なんだ。いつもはうーたんとお喋りしたりして時間を潰すんだけど、ここ最近うーたんはよく眠る。お昼寝ばっかりしていて、あまりあたしを構ってくれない。

「ねえ、うーたんてばあ」

 むりやり起こそうとしたけれど、うーたんは、

「うーたん、ねむい……」

 と、背を向けてスヤスヤ寝入ってしまった。

「もう」

 あたしはうーたんに遊んでもらうのは諦めて、ベッドから立ち上がった。

 集会室に行こうかな。田中さんたちとお話でもしよう。


【看護記録より】

 変薬から三日経過。現時点で目立つ変化は見られず。症状改善の兆しも現れていないが、副作用の悪化等も無し。このまま経過を観察。


 なんだかこの頃、何かがおかしい気がする。

 頭が冴えてるようで、ぼんやりしてる。ぼんやりしてるようで、妙に神経が尖っている。どっちなのか自分でもよく分からない。日々の生活が、なんだか夢を見ているみたい。現実だっていう感じがしない。時間が、ふわふわと蝶々のように目の前を通り過ぎていく。何かを忘れているような気がする。でも何を? 思い出せない。こうしている間にもどんどんそれを忘れていって、そのうちに忘れてることも忘れてしまう。そんな気がする。なんだか不安だけど、でも、まあいいや。


【看護記録より】

 変薬から一週間経過。患者は以前の活発さが抑えられ、ぼんやりしている事が多くなった。社交性の減少。一人で過ごす時間が増えた様子。表情には感情の起伏があまり現れず、安定している。


 変な夢を見た。

 仮面をつけた人たちが大勢、輪になって踊っている。仮面は幻想魔法に操られた人の物と似てるけど、拓海くんのママやアリスお姉ちゃんの仮面とは違う表情だ。

 無表情。それは完全に無表情の仮面だった。笑ってもいない、怒ってもいない、泣いてもいない。だけど仮面の人たちは幸福なんだって、夢の中のあたしは思っていた。みんなの踊っている様子が、とても楽しそうに見えたから。

 そのうち一人が踊りの輪を離れ、あたしのところにやってくる。あたしの手を引き、踊りに加わるように誘う。あたしは、楽しそうだし輪に入ろうかなって少しだけ考える。だけどあたしには何か大切なことがあって……、それをしなきゃいけないから、一緒に踊るのを断る。するとその人はすごく不機嫌になってしまい、あたしは悪いことしたと思って謝る。その人はとたんにニコニコして、あたしにも無表情の仮面を差し出す。あたしは仕方なく仮面をつけ、踊りに加わる。本当は踊りたくなんかないのに。


 今日の午後は、カイ先生とお話する時間だ。あたしはアリスさんに連れられてカイ先生の部屋に向かった。うーたんにも声をかけたのに、おふとんの中から「いってらっしゃい」と言って手を振っただけ。魔法少女のマスコットのくせに、最近いくらなんでもサボりすぎじゃない!?


「こんにちは、のぞみちゃん。調子はどうですか?」

 カイ先生は、いつもの優しい顔であたしを迎えてくれた。

「はい、えっと……。最近うーたんが眠ってばっかりで、あんまり魔法のこと教えてくれないので……、その……」

「そうですか。あまり無理しなくて良いんですからね」

「……はい」

「体調とかはどうかな?」

「元気です!」

「そう。最近少し大人しいようだと有須さんが話していましたが……。例えば気分が落ちこむとか、悩むとか……、そういった事はあるかな?」

 カイ先生が何気なく聞いてきたので、あたしはちょっと迷ったけど、思いきって話してみることにした。

「えっと、あの……」

 あたしは口ごもった。説明するのがちょっと難しい。

「ええと、最近なんだか、ぼんやりしちゃうっていうか……。いろんなことが、はっきりしないような……、本当は何なのかよく分からないような、変な感じがするんです」

 先生にそう言った時だった。自分の考えを改めて言葉にしたことで気づいた。どうして今まで思いつかなかったんだろう! これって――、

「先生! 今思いついたんですけど、これって幻想魔法の仕業かもしれません!」

「え?」

「あたしもしかして、知らないうちに魔法をかけられたとか……」

 先生がゆっくりと、あたしの方に身を乗り出した。

「どうしてそう思うのかな?」

「え? どうして、って……。えっと、その……」

 あたしは戸惑った。カイ先生、今まで見たことないような、真剣な顔だ。

「分かりません……。でも今までも、怪しいことが起きた時は幻想魔法の仕業だったから」

「そう。今まで、いろいろ大変だったんですよね」

 カイ先生は、今までの出来事を書きとめてある、いつもの書類を見ながら言った。

「はい、そうなんです。拓海くんのママとか、お姉ちゃんのこととか……」

「じゃあ今度の事も同じと思ってしまうのも、無理はありませんね」

「……? 違うんですか?」

「違う『かも』しれませんよ」

 先生は、「かも」のところに力をこめて言った。

「?」

「のぞみちゃん」

 先生がじっとあたしの目を見つめる。

「今そういう変な感じがするのは、飲んでいるお薬が効いてるからなんですよ」

「お薬?」 

 あたしは首をかしげた。先生は何を勘違いしてるんだろう。あたし、お薬なんて飲んでない。そもそもあたし、健康だもん。お薬なんて必要ないし。

「のぞみちゃんはね、」

 先生は、ゆっくりと、まるで呪文を唱えるように言った。

「本当は無いものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりしているのかもしれませんよ」

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