第六章 お姉ちゃん
「アリスさん」
廊下の端っこにはカウンターが設置されていて、アリスさんはその向こう側で書類か何かを書いていた。
「あ、あの……」
話しかけたものの、あたしはやっぱりためらった。アリスさん、忙しそう。
でもアリスさんは手を止めると、優しい顔であたしに微笑んでくれた。
「あら、のぞみちゃん。どうしたの?」
「え、ええと、あの、お話したいな、って思って……」
あたしは、しどろもどろになってしまった自分に驚いた。自分が何をしたいか言うのって、こんなに緊張するものだっけ?
「あら、ちょうどいいわ。私もちょっと休憩しようと思ってたの。じゃあ集会室で一緒にジュースでも飲みましょうか」
アリスさんはそう言ってくれた。
あたしとアリスさんはお揃いのオレンジジュースの缶を手にして、集会室の椅子に並んで腰かけた。
「ねえ、アリスさん。アリスさんは、幻想魔法のことどれくらい知ってる?」
「幻想魔法?」
「そう。魔法少女クルクルの敵」
「うーん。悪いんだけど、私はほとんど知らないわ。のぞみちゃんがカイ先生にお話しして、カイ先生が書き留めておいたものを読んだだけなの」
「……そうなの」
あたしはちょっとガッカリした。アリスさんは魔法学院の人だし、知ってるかと思っちゃった。
「その幻想魔法の事は、誰かにお話した? 例えば学校のお友達とか」
「え? ううん、してないよ。だって今、学校お休みだし」
「…………」
あれっ? そういえばあたし、最近学校に行ってないよね。あ、そっか。今って夏休み……、じゃない、冬休みだっけ? 忘れちゃった。まあいいか。
「お友達に会えなくて、つまらないんじゃない? 早く学校に行けるといいわね」
「うーん。でも今は魔法少女の修行で忙しいから」
「そうなの」
「うん。早く一人前の魔法少女になって、幻想魔法をやっつけるんだ」
「その『幻想魔法』っていうのに、のぞみちゃんは会った事があるの?」
「ううん。まだないよ。幻想魔法に操られてる人ならあるけど」
「操られてる人?」
「そう。操られてる人はね、仮面をつけられてるの。真っ白の、気持ち悪い仮面」
「まあ、そうなの」
「うん。それでいろいろひどいことするんだよ」
「怖いわね。でもそんな悪い奴なんだったら……、例えばそうね、警察が何とかしてくれるんじゃないかしら?」
「それはダメだと思う」
「あら、どうして?」
「だって幻想魔法を倒すのは、魔法少女の役目だもん。そのためにあたしが選ばれたんだって。うーたんが言ってた」
「どうしてのぞみちゃんが選ばれたのかしら? だってこんな小さい女の子より、もっと大人で力のある男の人の方がいいんじゃない?」
「うーん……。分かんない」
そういえば、どうしてだろう?
「グラン・パに会えることがあったら、聞いてみるね」
「グラン・パ?」
「うん。グラン・パっていうのはね……」
その後もあたしはだいぶ長い時間をかけて、幻想魔法やうーたんやグラン・パのことをアリスさんに話した。アリスさんから幻想魔法について何も新しい情報がなかったのは残念だけど、それよりもあたしは、アリスさんとゆっくりお話できたのが嬉しかった。最初に会った時からアリスさんは、どこか懐かしいような……、安心できるような、そんな感じがしてたんだ。あたしはアリスさんを好きだなと思った。
「あら。西条さんに何かあったの?」
有須看護師が集会室を出た時、ちょうど通りかかった看護主任が声をかけた。
「いえ、特に。話をしたいと言ってきたので……」
有須看護師はそう答えながら、チラリと時計を見た。
随分長い事話しこんでしまった。だけど今日一日で、のぞみちゃんの「魔法少女クルクルの世界」に大分詳しくなった、と有須看護師は苦笑した。主任と二人でナースステーションに戻る道すがら、妄想の内容について簡単に情報共有した。
妄想を抱く患者に対し、日常の場面を通じて現実感を取り戻させる事も、看護師の役割の一つだ。患者の妄想に対しては肯定も否定もしない。不用意に患者の言う事をはねつけて信頼関係を壊さないよう注意しつつ、現実の話題をふってさりげなく話を変える、というのがセオリーだ。そうして患者の意識を現実の世界へと引き戻す。有須看護師はその基本に則って、のぞみと話す機会をなるべく持とうと考えていた。
「……熱心ね」
そう呟いた主任の表情と口ぶりに、どこか引っかかる所があった。有須看護師がふと口をつぐむと、果たして主任は、慎重に言葉を選ぶように言った。
「……あまり、入れこみすぎないようにね」
有須看護師は主任の言わんとする事を察した。
医療者は患者の心の世界に対して、一種の防波堤のようなものを自らの内部に築いておく必要がある。所謂、「引っ張られる」事があるからだ。精神医療に従事する医師や看護師が、ある日を堺に医療者から患者へと変わってしまうケースは珍しくない。狂気と正常の間の垣根は、人が思うよりずっと低いのだ。
看護主任は、隣を歩く有須看護師の横顔をチラリと見やった。
看護学校を卒業してすぐ精神医療の分野に入った有須看護師は、まだ若く未熟だ。そんな有須看護師をこの数年見守ってきた主任は、彼女がこの道を志すきっかけとなった妹の事件を聞き及んでいたし、ただでさえ仕事熱心過ぎるきらいのある彼女が気がかりだった。彼女はまるで何かに追われるように仕事をしている。主任にはそう見えた。長年の経験から来る勘が、何かを告げている気がしてならなかった。
それは夕食の時だった。事件が起こった。
「だめ!」
食堂であたしの近くに座っていた女の人が、突然大声で叫んだ。あたしは驚いてスプーンを床に落としてしまった。
「だめよ! 開けないで!」
女の人がしきりに指差す方を見ると、誰かが窓を開けようとしていた。女の人はそれを見て叫んだみたい。だけど窓を開けていた人はのんびりと答えた。
「あら、田中さん。いいじゃない、空気が悪いんだもの」
「だめなのよ! 窓を開けると電波が入ってきちゃうでしょ!」
女の人は田中さんと言うらしい。ちょうどお母さんと同じ歳くらいの人だ。
「田中さん、大丈夫よ。落ち着いて」
アリスさんが田中さんに近づいて肩に手をかけた。でも田中さんの声はだんだん大きくなる。すごく怯えてるみたいだ。
「だめよ! やめてちょうだい! 窓を閉めて!」
あたしはびっくりして、少し怖くなってしまった。すると、あたしの斜め前の席に座っていたお兄さんが立ち上がった。お兄さんは落ちついて窓際まで歩いてゆき、窓を閉めた。窓を開けた人も諦めたのか、黙って自分の席に着いた。
田中さんは、ふうっとため息をついた。
「ああ、危なかった。どうもありがとう、吉岡さん」
吉岡さんと呼ばれたお兄さんは、田中さんに軽く会釈して席に戻った。田中さんが安心した顔で食事を始めようとした時、じっと見ていたあたしと目が合った。
「あら、ごめんなさいね、騒いで……。でもほら、電波が入ってきちゃうところだったから、私も慌てちゃって」
田中さんはすっかり落ちついた様子で、にこにこしながらあたしに言った。
「あ、えっと、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけです……。あの、電波って何ですか?」
あたしは少し身体を乗り出して尋ねた。もしかしてそれは――、幻想魔法と関係あるのかもしれない。
「あのね、この世界にはね、七十億人も人間がいるのよ」
田中さんは唐突に言った。
「それでね、あなたはまだ小さいから知らないと思うけど、その七十億人が皆それぞれ違う事を考えているの」
「…………」
「怖いでしょう? それでね、その七十億人分の考えが、それぞれ電波になってあっちこっちに飛んでるのよ。ピピピッ、て。もちろん目には見えないけど。だけどとっても身体に悪いの」
「そうなんですか……」
「ええ。それにね、たくさんの電波が飛んでるものだから、時々電波と電波が空中でぶつかる事があるの。そうするとね……、パッと火花が出るの。それは青い火花でね……、すごく危険なのよ」
危険と言いながら、田中さんはどこかうっとりした表情で宙を眺めている。しばらくしてあたしの方に向き直り、真剣な表情で言った。
「あなたも気をつけるのよ」
「はい。分かりました」
よかった。とりあえず、電波は幻想魔法と関係なさそう。
数日が過ぎた。合宿生活にも少しづつ慣れてきて、あたしは気づいたことがある。
ここには、なんだかおもしろい人がたくさんいる。初めのうちは、ちょっと驚いたりもした。
ある日の午後、あたしは集会室にある備えつけの冷蔵庫からジュースを出して飲んでいた。すると何度か顔を見かけたことのあるおじさんが、冷蔵庫のところに来て中から牛乳を取り出した。
おじさんは紙パックの牛乳をコップに注ぐと、それを持ってニコニコしながらあたしに話しかけた。
「やあ、どうも、こんにちは。僕、3258番です」
「えっ」
「あなたは、にんげんですか」
おじさんはあたしにそう聞いた。
「あ、はい、ええと……、そうです。たぶん」
ちょっと考えてから、あたしはそう答えた。
「それは、良いことですね」
3258番さんは微笑んだけど、なぜか少し寂しそうだった。
「あ、あの……。あたし、西条のぞみ――魔法少女クルクルです!」
「魔法少女、クルクル……?」
あたしが自己紹介すると、今度は3258番さんが目を丸くしてあたしを見た。
「あの、どうして3258番なんですか?」
「3257番の次で、3259番の前だからです」
「あ、ええと、そうじゃなくて……。どうして名前じゃなくて番号なんですか?」
「それはですね、」
3258番さんは、悲しそうな顔をした。
「僕がまだ、にんげんじゃないからなんです。名前はにんげんが持つものでしょう。いつかぼくもにんげんになれたら、そのとき名前がつくでしょう」
「でも、3258番さんは人間に見えますよ?」
「それは、見かけだけなんです」
3258番さんは大きなため息をつき、あたしの隣の椅子にゆっくりと腰かけた。
「僕が君くらいの子供だった頃、僕は、大人になったら自然とにんげんになるんだろうと思っていました」
あたしは黙って頷いた。
「ところが、僕は大人にはなりましたが、にんげんにはなりませんでした。僕は、『そうか、きっとあんまり若いうちはなれないんだな』と考えました。それで、歳をとるのを待ったんです。ずいぶん長いこと待ちました。なのに、まだにんげんになれないんです」
あたしは3258番さんがかわいそうになって、どうにか慰めてあげられないかと考えた。
「ええと……、でも……、3258番さんは3258番さんなんだし、それでいいんじゃないですか? にんげんじゃなくても?」
「いえ。僕はにんげんになりたいのです。なってみたいのです」
「どうしてですか?」
「僕はこれまで、人からいろんな風に呼ばれました。『子供のくせに』『もう子供じゃないんだから』『いい大人が』なんてね。その他にも、『学生』だとか『受験生』、『就活生』『社会人』『父親』『課長』。そういう風にいろいろ呼ばれる度に僕は、いつか人間になりたいとずっと憧れていたんです。そうこうしているうちにすっかりおじさんになってしまいましたが、まだにんげんになれないのです」
3258番さんはうなだれた。
「他の皆さんはとっくににんげんになって、しっかりやっているというのに……」
「あの、3258番さん!」
あたしは勢いよく立ち上がった。
「あたし、今はまだ魔法少女見習いだから……、『にんげんになる魔法』っていうのは使えないんです。でも一人前の魔法少女になってそれができるようになったら、3258番さんにその魔法をかけてあげますね!」
「本当?」
3258番さんは顔を上げた。
「はい!」
あたしが力強く答えると、3258番さんは「ありがとう」と言って笑ったので、あたしもなんだか嬉しくなった。
「電波が! 電波が!」
田中さんが悲鳴を上げている。
皆、声のした集会室の方へガヤガヤと集まっていった。あたしも皆の後からついて行くと、集会室では田中さんが泣きそうな顔で叫んでいた。
「大変! たいへん! 電波が入ってきちゃうのよ! 早くなんとかしないと……!」
田中さんの指差す窓の方を見ると、ガラスにうっすらとヒビが入っている。誰かがふざけて物を投げたのが当たったらしい。そばにいる人たちは、田中さんをなだめて落ちつかせようと一生懸命だ。
あたしは首をかしげて窓を眺めた。ガラスにほんの少しヒビが入っているだけだ。これだけでも、田中さんの心配している電波は入ってきちゃうのかな?
あっ! そうだ!
あたしは田中さんに駆け寄った。
「田中さん!」
「のぞみちゃん! 大変なの、電波が……!」
「大丈夫、田中さん。魔法少女クルクルが、防御の魔法をかけてあげるから!」
「えっ!?」
あたしは、防御魔法の呪文を唱え始めた。
「太陽は天上で静止せよ……、完全世界を照らせ! 来たれ、大いなる正午よ! メタモルフォーゼ=イントゥ=クルクル!」
「おおっ」
側で見ていた吉岡さんや3258番さんが、歓声を上げた。
「電波から田中さんを守って……! アリ=ピプラ=ゾール!」
「ありがとう、魔法少女クルクル」
田中さんはニコニコしながらそう言ってくれた。もうすっかり落ちついている。
「どういたしまして」
あたしはペコリとお辞儀をした。
「防御の魔法が田中さんを守ってるから、もし電波が来ても大丈夫ですよ」
「ええ、これでもう安心ね……。本当にありがとう」
「いやあ、すごいねえ。魔法少女……、僕もテレビでは見たことあるけどねえ。本物は初めて見ましたよ」
3258番さんがしきりに感心するので、あたしはちょっぴり照れた。
ヒビの入った窓ガラスに応急処置のテープを張りながら、有須看護師は小さく息をついた。一日の疲れが出てくる時間帯だ。
夕食後の、消灯前の一時。入院患者さん達が、集会室で思い思いの時間を過ごしている。隅の方のテーブルに田中さんと吉岡さん、自称3258番の武田さん、そして西条のぞみちゃんが一緒に座ってお茶を飲んでいる。
田中さんと武田さんは統合失調症、吉岡さんは鬱で入院している患者さんだ。
さっき田中さんが興奮状態になった時、たまたまナースステーションが出払っていて、スタッフが駆けつけるのが少し遅れた。しかしその間にのぞみちゃんが上手く田中さんをなだめたのだと、他の患者さんが後で教えてくれた。
「いやあ、魔法ねえ。すごいもんですよねえ。まだ若いのに、魔法少女なんて偉いねえ」
「ねえ、ほんとに。うちの娘も見習ってほしいわ」
「あの、でも、まだ見習いだから……。ほんとに、そんな大したことないんです……」
のぞみちゃんが武田さんと田中さんに見つめられ、しきりに照れている。吉岡さんはこの中で唯一、「現実」がきちんと見えている患者さんだ。しかし三人の幻想の世界を壊そうとはせず、黙って話を聞いている。いつも大人しい青年だ。
「そのうさぎさんは、魔法少女のマスコットなんだね」
吉岡さんが言う。
「そうです。うーたんていうの」
「まあ、可愛いわねえ」
田中さんがうさぎのぬいぐるみを撫でる。有須看護師はふと作業の手を止め、彼らを眺めた。
ここには、積極的に他者を傷つけようとする人はいない。
時折、患者さんが暴れる事はある。しかしそれも本人からすれば自衛の為、というのがほとんどだ(その内容が現実でないという事実はさておき)。しかし、外の世界は違う。とても子供じみた疑問と知りつつ、有須桃子は、なぜ人は傷つけ合わずにいられないのかと時々考える。妹の自殺の原因が学校でのいじめだった事もあり、桃子はこのシンプルな問いの答えを求めずにはいられなかった。
ここにいる人達は皆、弱い。まるで植物のように、世界の現実や運命に対して無抵抗だ。そして弱者であるが故の優しさを持っている。だが、それでは外の世界でうまく生きてゆけないのだ……。
「そうだ、プリンがあるのよ。皆で頂きましょう」
田中さんが立ち上がり、冷蔵庫から白い箱を取り出した。
「わあ!」
四人が仲良くプリンのカップにスプーンを入れる。その様を眺めていた有須桃子はふと、おかしいのは自分のいるこちら側、所謂「正常」な人間の側であるかのような、時折起こる錯覚に襲われた。
欲望、欺瞞、見栄、妬み、悪意、侮蔑、傲慢。様々なエゴのぶつかり合う、ギスギスした関係。うんざりするような「現実」の数々に疲れ果てて一日を終えようとする有須看護師には、この集会室の穏やかで平和な空気の方がよほど清浄に感じられた。
心の病とは一体何なのだろう。正常と異常の境目はどこなのだろう。
有須桃子は、窓越しに外を眺めた。十センチ程しか開かないようになっている、精神科閉鎖病棟特有の窓。有須桃子は、自分自身をもここに閉じこめたのだ。家族を救えなかった自分は、世界に出てゆく権利を持たないと感じていた。
――ある意味私も、病んでいるのかもしれない。
有須看護師はハッと我に返った。
いけない。
少しでも暇があると、余計な事を考えてしまう。考えても仕方のない事を。だからこそ、その暇を自分に与えない為に、こうして忙しく毎日を過ごしているというのに。
考えないように。考えないように。ただ身体を動かし続け、日々を過ごすのだ。患者さんに奉仕するのだ。そうしているうちにいつか……、忘れられるだろう。きっと。
有須看護師は誰にも聞こえないよう注意して、溜息で疲れを吐き出した。ふと、うさぎのぬいぐるみを膝に置いてプリンを頬張るのぞみに目が行った。
始めの方こそ可愛い子だと思い、担当するのが嬉しかったものだが、この頃どうも落ち着かない気分にさせられる。そして有須桃子には、その原因が分かっていた。
この子は妹を思い起こさせる。
年齢もちょうど妹の死んだ歳と同じ十四歳、顔立ちや雰囲気もどことなく似ている。
だが……。
有須桃子はのぞみから目を逸し、作業に戻った。
のぞみは強くならなければいけない。強さとは、ある意味、鈍感さでもある。のぞみはもっと鈍感にならなければ。そしてここから出て行かねばならない。のぞみは、妹とは違う。
日が経つにつれて、あたしはアリスさんに会う度に不思議な気持ちが湧いてくるようになった。
「ねえ、うーたん。あたし気づいたことがあるの」
ある日の午後。あたしはベッドに腰かけて足をぶらぶらさせながら、うーたんに話してみた。
「あたしね、最初にアリスさんを見た時から、どこかで会ったことがある気がしてたの」
うーたんは片方の耳をぴくりと持ち上げ、あたしの顔を見た。
「それでね……。アリスさんて、お姉ちゃんに似てると思うの」
「のぞみの、おねえちゃん?」
「そう。小さい頃に幻想魔法にさらわれて行方不明になっちゃった、あたしのお姉ちゃん」
あたしの思い出の中でお姉ちゃんはずっと子供のままだけど、今はちょうどアリスさんくらいの年齢になってるはずだ。それに、アリスさんがあたしに向けてくれる優しい笑顔は、ぼんやりとした記憶の中のお姉ちゃんの顔と時折重なった。
「今はどこでどうしてるのかなあ……、お姉ちゃん」
「だいじょうぶ」
うーたんが、ポンポンとあたしの腕を叩いて慰めてくれた。
「あたし、修行が終わってお父さんと一緒に幻想魔法を倒したら、その後はお姉ちゃんを探しに行こうかな」
すごく年上で、大人で、頼りになるお姉ちゃん。お姉ちゃんが帰ってきてくれたら……。そうすればもう、一人で不安になることもない。辛い時だって、お互いに励まし合えるんだもん。
お姉ちゃん。会いたいなあ。
「今日はね、花火が見えるわよ」
ある朝、朝食の時にアリスさんが言った。近所の河川敷で開かれる、毎年恒例の花火大会。それが、ここの集会室の窓から見えるらしい。みんなすごく喜んだ。
その日は夕食の後、みんなウキウキした顔で集会室に集まってきた。もちろんあたしも、うーたんと一緒に出かけた。みんなジュースやお菓子をそれぞれ用意して、すっかり花火見物気分だ。アリスさんが集会室の窓のカーテンを全部開けてくれた。
お喋りしながら待っていると、やがて、ドーンという音が微かに響いた。みんな話すのを止めて部屋が一瞬静かになった後、開け放したカーテンの向こう側の夜空に、色とりどりの花火が映し出された。
「うわあ……!」
部屋にいた人たちは口々に声を上げ、窓際に近寄った。あたしも隅っこの方の窓際でアリスさんの隣に並んで立つと、夜空に咲いた美しい花を眺めた。花火は次々と打ち上げられ、その度にみんな歓声を上げた。うーたんもはしゃいで、「た~まや~」なんて言ってる。
「きれい……」
遠くに小さく見えるだけの花火でも、毎日あまり変化のない合宿生活を送っているからか、前に見たどの花火よりも色鮮やかに綺麗に見えた。
「ほら、火花よ、あれが!」
田中さんが興奮した声で、窓越しに花火を指差している。
「あんなに大きい火花って事は、きっとたくさんの電波がぶつかってるんだね」
3258番さんが言った。
「そうね、きっとそうね。窓を開けちゃだめよ……」
田中さんが答えた。
「魔法はかけてもらったけど、万が一って事もあるから」
「でもあれはたぶん、危険じゃないよね。だって綺麗だもの」
3258番さんは、感心したように呟いた。
有須桃子は無言で花火を見つめていた。
桃子は花火が嫌いだ。それは一瞬の煌めきの後に散る、儚い命を連想させる。
ぼんやりと花火を眺めながら、桃子はこの後の仕事の事を考えた。今日は夜勤。新しい入院患者さんがいるので、気にかけておく。明日は午後から。疲れ気味だし、しっかり休んでおかなくては。明後日は特に忙しくなる。しばらくは日勤。あれをしてこれをして……。仕事は終わりなく続いてゆく。
毎日毎日、「明日」がやって来るのは、何の為なのだろう。桃子はふとそんな事を思った。
私がまだ生きていて、毎日のようにまた新しい日を迎えるのは、何故なのだろう。小さな妹の時計は十四歳で止まり、それ以上進む事はない。永久に。しかし私の時計はまだ時を刻み続けている。
何の為に? 妹一人救えなかった、何の力もない、何の価値もない自分! なのに、何故。答えの無いまま、また明日がやって来る。
のぞみちゃんは、「もうすぐ世界が壊れる」と言っていた。もし本当に明日世界が壊れるなら、何も問題ないのに。
桃子がそんな事を考えているうちに、花火はクライマックスの盛り上がりを見せ、フィナーレを飾る六尺玉がここぞとばかりに次々と打ち上げられた。夜空に金色の星が降る。まるで幻想の光景のようだ。患者達は大きな歓声を上げた。
花火も終わり、みんなそれぞれの部屋に戻って行った。もうすぐ寝る時間だ。
あたしも部屋に戻ろうと思った時、アリスさんが窓のカーテンを一つ一つ閉めて回り始めたのが目に入った。
「アリスさん、あたしも手伝うね」
あたしは、そばにあった窓のカーテンを引いた。
「ありがとう、のぞみちゃん」
アリスさんはカーテンを引きながら振り向いてそう言うと、
「あれ」
と言って、カーテンに視線を戻した。途中で引っかかっちゃって、閉まらないみたい。
「どうしたのかな」
アリスさんはカーテンレールを見上げた。あたしもアリスさんの隣に行って一緒に見上げた。
アリスさんは背伸びして腕を伸ばし、カーテンレールを探った。窓はあまり高い位置になくて、わりと背の高いアリスさんが目一杯身体を伸ばせば手が届く。
「レールのとこが歪んじゃってるわ。きっと誰かが強く引っ張ったのね」
その時だった。隣に立って何気なく見ていたあたしは、思わず叫んだ。
「アリスさん、それ……!!」
あたしは夢中で、アリスさんの腕を掴んだ。
アリスさんがいつも着ている、淡いピンク色の魔法学院の制服。アリスさんが背伸びをした時、その長い袖口から覗いたのは――。あたしと同じ、魔法少女の印!
「あ……」
アリスさんは慌てて腕を下ろし、袖口を隠そうとした。でももう遅い。あたしはちゃんと見てしまった。あたしと同じ、魔法少女の印。ということは、やっぱりアリスさんはあたしの……!
「お姉ちゃん!」
あたしは叫んだ。
「お姉ちゃんなんでしょう!?」
お姉ちゃんが、伏せていた顔をゆっくりと上げた。その顔には……。あの白い不気味な幻想魔法の仮面、泣いた顔の仮面が被せられていた……。
有須桃子の瞳はまるで凍りついたようにのぞみから離れない。
八年ぶりに呼ばれた、「お姉ちゃん」。その言葉は雷のように有須桃子を打った。断片的な映像の数々が、頭の中のスクリーンに鮮やかに映し出される。幼い頃の妹の姿。他愛もないお喋り。妹の寝顔。ケンカした日。二人で買い物に行った事。死の前日の妹の様子。窓枠にぶら下がり揺れていた妹の屍……。
「な、何言ってるの……、のぞみちゃん」
有須桃子はしどろもどろで、なんとかそう答えた。しかしその声には全く力が無い。のぞみは桃子の腕を離すまいと片方の手でしっかりと握り、もう片方の手で袖口を捲った。そこにあるのは、かつて有須桃子が自傷行為に耽っていた頃の名残だ。
「やっぱり……!」
やめなさい、そう言いかけた有須桃子の声は、喉に詰まったままとなった。のぞみが身体を伸ばして桃子の首に腕を回し、幼い子供のようにしかと抱きついてきたのだった。
「お姉ちゃん! 会いたかった!」
「…………」
「無事だったのね……。よかった」
「…………」
あたしは言葉に詰まった。聞きたいことがありすぎて、何から話せばいいか分からない。長い間どうしてたの? ずっと魔法学院にいたの? どうして家に帰ってこなかったの? それに、その仮面は……?
あたしはお姉ちゃんから身体を離すと、顔を覗きこんだ。泣き顔の仮面がとてもとても悲しそうに見える。
「お姉ちゃん、どうして泣いてるの? あたしと会えて嬉しくないの? ねえ、お姉ちゃん……」
だけどお姉ちゃんはあたしを見つめたまま、一言も喋らない。
「お姉ちゃん、あの……」
あたしは不安になった。お姉ちゃん、もしかして……。
「あたしのこと、忘れちゃったの……?」
「――忘れるわけないじゃない!!」
お姉ちゃんが叫んだ。それは、鋭い、絞り出すような叫び声だ。
「わ、忘れるわけ、ないでしょ! あんな、あんな……!」
お姉ちゃんは激しく泣き出した。
「わ、私が、悪かったの。もっと、私が、しっかりしてれば……、 ごめん、ごめんね……!」
お姉ちゃんは掴みかかるようにしてあたしを抱きしめた。そして泣き叫んだ。それはまるで爆発、さっきみんなで見た花火みたいだった。
「お姉ちゃんは何も悪くないよ! お姉ちゃんのせいじゃない……」
あたしはお姉ちゃんを慰めようとしたけれど、お姉ちゃんの泣き顔の仮面から溢れる涙は止まらない。
「おねえちゃん、げんそうまほう、のろいかけられてる」
うーたんが、小さな声であたしに言った。
「え?」
「『こうかい』と、『ざいあくかん』の、のろい」
「――そうか! だから……」
この仮面。お姉ちゃんは呪いでこの仮面を被せられて、お家にも帰れず、仕方なくここで働いていたのね。かわいそうなお姉ちゃん……。
「おねえちゃん、かぞくまもれなかった。じぶん、わるもの、おもってる」
「そんな!」
「おねえちゃん、すすめない。ずっとおなじばしょ、くるくる」
あたしは、まだあたしの身体を掴んで離さないお姉ちゃんの、震える肩を見下ろした。
「ごめんね、ごめんね……。私、助けてあげられなかった……」
お姉ちゃんは泣きながら、何度も何度も謝った。溢れる涙があたしの肩口を濡らしている。どうしたらいいんだろう。呪いをかけられているお姉ちゃんには、いくら言ってもあたしの言葉は届かない。
「呪い……。あ!」
そうだ! 今こそ、ディススペルの魔法を使う時じゃない!?
「ねえ、うーたん、魔法使ってもいいよね!?」
思わずそう聞いたあたしに、うーたんは厳しい顔をした。
「のぞみのこころ、しってる。こころにきく。うーたんにきかない」
「……あ、そうか」
あたしはちょっと考えた。心に聞く。実際に心と話せるわけじゃないから、どうすればいいのか分からないけど。でもあたしは今、魔法を使いたい。魔法の力でお姉ちゃんを助けたい、と思ってる。それが必要だって、感じる。呪文を唱える時と同じように、教えられてもいないのに、それが間違ってないって分かる。
だから、いいんじゃないかな。
あたしはそっとお姉ちゃんに語りかけた。
「お姉ちゃん……。魔法少女クルクルが、魔法をかけるよ」
「え……?」
お姉ちゃんは、涙に濡れた顔を上げた。泣き顔の仮面があたしを見つめる。
「今、魔法少女が呪いを解くからね。もう自由になって……、お姉ちゃん」
あたしは、ゆっくりと呪文を唱え始めた。
「太陽は天上で静止せよ。完全世界を照らせ……! 来たれ、大いなる正午よ!」
身体の中に、力が湧いてくる。あたしの魔法……、お姉ちゃんを助けて。
「メタモルフォーゼ=イントゥ=クルクル!」
閉じた瞼の内側で、虹色の光がキラキラと煌めく!
「呪いよ退け……! トリ=ヘキ=シフェニジル!!」
あたしは両手を高く掲げた!
どこか高いところから、あたしとお姉ちゃんの上に柔らかい光が降り注いだ。そしてその光は、優しく守るようにお姉ちゃんを包みこんだ……。
「お姉ちゃん」
のぞみの声に、有須桃子は我に返った。
今のは何だったのか。夢を見たのだろうか。妹がそこにいた。
――自由になって、と、言った。
有須桃子はゆっくりと顔を上げた。そこにいるのは……、のぞみだ。
「のぞみちゃん……?」
「お姉ちゃん。お姉ちゃんは今まで、悪い呪いにかかってたんだよ。でも魔法少女クルクルが呪いを解いたからね。もう大丈夫!」
死んだはずの妹の笑顔が、有須桃子の目に眩しく映った。
――魔法。魔法で呪いは解かれた。私はもう、自由になった……?
「さあお姉ちゃん、一緒にお家に帰ろう!」
「家に……?」
「そうだよ。これからは、家族がみんな一緒だよ!」
そう言って、妹――、のぞみが微笑んだ。のぞみに手を引かれるまま、有須桃子は立ち上がった。
家。
有須桃子は、あの日――、妹の死の第一発見者となってしまったあの日から、一度も家に帰っていなかった。それはまだ高校生だった桃子にとってあまりに衝撃が大きく、桃子は親戚の家に預けられ、卒業後はそのまま看護学校の寮に入った。家に帰ろうとこの八年の間に何度か試みたが、玄関口に差しかかると決まって嘔吐してしまい、中に入る事はできなかった。
その、家に……。やっと帰れるのだろうか?
二人はそっと廊下に出た。静かだ。すでに消灯時刻を回っている。廊下には誰もいない。
「もう、ここにいなくていいのね……」
有須桃子は呟いた。
「うん! そうだよ!」
のぞみが嬉しそうに答える。
贖罪の為、自分で自分を閉じこめた場所。
考える暇を与えない為、がむしゃらに働き続けた日々。
本当はずっと、苦しかった。
だけど、もう自由になって良いのだ。妹がそう言ってくれた。言って欲しかった言葉を、言ってくれた。そうだ。今こそ、ここから抜け出そう。もうここにいる必要はない。家に帰ろう。妹と一緒に……、帰ろう。
「のぞみちゃん、静かにね」
「うん」
のぞみと桃子は、廊下の端にある入院患者用出入り口の前に立った。辺りに人影はない。普段は医師の許可が無ければ開く事のないドア。しかし看護師である有須桃子はキーを持っている。
「今、開けるからね」
有須桃子はカードキーを取り出すと、ドアの認証部分にそれをかざした。ピッ、という電子音が、静まり返った廊下にやけに大きく響く。桃子はヒヤリとして振り返ったが、誰も駆けつけてくる様子はなく、胸を撫で下ろした。
そっと押すと、ドアは音もなく開いた。ここを出れば二人は自由だ。そして家に帰れるのだ……。