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第五章 魔法合宿

 甲斐メンタルクリニック院長、甲斐亮介医師は、手にした書類をくるりと上下逆さにし、机を挟み向い合って座っている女性に差し出した。

「ではこちら、一番下の部分にご署名をお願いします。今回は医療保護入院という形になりますので……」

 ペンを手渡しつつ、促す。

 女性は、西条香織。病状が悪化して今日から入院する事になった患者、西条のぞみの保護者だ。甲斐医師の言葉が終わるのを待たず、香織はまるで急いでいるかのように署名をした。

「ありがとうございます」

 書類を手元で確認しつつ、甲斐医師は淡々と説明を続けた。

「……それから、お薬も変えてみた方が良いかもしれません。今お出ししている抗精神薬アリピプラゾール――これは幻覚や幻聴を抑えるお薬ですが――は、今の所あまり良い結果が出ていません。ですので今後の状態によっては変薬も考慮してみましょう。それからこのお薬の副作用が出ていますので――これは焦燥感、例えば足がムズムズしてじっとしていられないとか、不安感、それに体重増加などですが――副作用を軽減するお薬のトリヘキシフェニジルも先日から合わせてお出ししています。こちらはしばらくそのままで様子を見て……」

 突然、ウッという嗚咽が香織の喉から漏れ、甲斐医師の説明は中断された。

「す、すみません……」

 香織は手にしたハンドバッグからハンカチを取り出して口元を抑えた。目を伏せ、動揺をコントロールしようとしているのが見て取れる。甲斐医師はしばし沈黙したまま、待った。

 やがて香織は、震える声で甲斐医師に問いかけた。

「先生……。どうしてこんな事になったんでしょうか……?」

 香織の頬を涙が一筋伝った。香織は慌ててハンカチでそれを拭う。

「す、すみません……」

「いいんですよ、お母さん」

 側にいた看護師の有須桃子は、香織の側に寄り添うと優しく肩を叩いた。

 小児精神科医として何度もこんな場面を経験している甲斐医師ではあったが、やはり胸が痛む。まだ幼い患者の母親の嘆きというのは、見ていて特に辛いものだ。

 それでも、甲斐医師は務めて冷静な態度を崩さなかった。患者や家族の心情に同調し過ぎては、医師の勤めが果たせない。かと言って完全にそれらに対して距離を取ってしまえば、処方箋を渡すだけの医師になってしまう。難しい距離感の間で最適解を模索しつつ、医師として出来る限りの事を行う。それが甲斐医師なりの流儀だった。

 甲斐医師は胸中で、香織の吐き出す悲しみを冷静に受け止める準備を整えた。

「先生、のぞみは、どうしてあんな……!? あんな、腕の傷だって。痛かったでしょうに、どうしてあんな事を!? 自分で切るなんて。それに一人でぬいぐるみに喋ったり、魔法だとか訳の分からない事を言ったり。もう、私には何がなんだか……!」

 一度溢れ出した感情は、まるで決壊したダムから吐き出される奔流のようだ。

「病気から来る妄想なんですよ、お母さん。お薬でかなり抑える事ができるはずです。先程お話した通り、今のところ効果は芳しくありませんが、お薬の効き方は個人差が大きいので今後も慎重に対応していきます」

「……はい」

「腕の傷、いわゆる自傷行為ですが……。のぞみちゃんのような若い患者さんによく見られるケースです。傍から見れば異常と思えますが、本人には本人なりの理屈というか、理由があるものです。のぞみちゃんの場合は、ええと、何でしたか、『魔法少女の印』と呼んでいましたね」

「はい」

「なるほど。……『魔法少女』、でしたね」

 甲斐医師は手元の書類を確認しながら言った。

「自分が人と違う特別な人間である、という妄想は、子供の患者さんに限らず一般的なものです。通常は自分が歴史上の偉人ですとか、有名人の血筋だなどと妄想するケースが多いのですが、『魔法少女』というのは少し変わっていますね。これもテレビなどの影響でしょうか。しかし根本的な部分は同じだと思います。以前来院された時にも伺いましたが、確かお誕生日の日からそういった『魔法』の妄想が始まったんでしたね」

「はい、そうなんです。その前の週に主人が引っ越して行ったんですが……」

 香織は言い難そうに言葉を濁した。

「その時は普通にしていたんです。離婚の事を説明した時にも、ただ黙って話を聞いていたので、理解しているように見えたんです。それこそ、こっちが拍子抜けするくらい。でも今にして思えば、そうではなかったんですね」

「…………」

「主人には、その……。ずっと、内縁の方がいらして。離婚する事で随分前から合意はしていたんですが、のぞみがまだ小さかったので保留していたんです。向こうにもお子さんがいらっしゃるのでこちらには時々しか戻らなかったんですが、のぞみはいつもベッタリと甘えていて」

 複雑な家庭事情のようだ。甲斐医師はさり気なくカルテの隅にメモを取った。

「のぞみはこれまで何も知らなかったんです。でもいつかは分かる事ですし、変に子供扱いしてごまかさず、きちんと話そうと思ってそうしたんですが……。もう少し待った方が良かったのかもしれません」

 香織は小さく息を吸いこんだ。

「のぞみは、あまり感情を表に出すタイプの子じゃありません。どちらかと言うと、一人で抱えこんでしまうような子なんです。母親ですから、そういうあの子の性格は分かっていたはずなのに……」

 苦い後悔が、香織の胸を締めつけている。

「でも、あんな風に暴力を振るうなんて。今までそんな事、一度だって無かったんです。普段はとても良い子なんです」

 香織は医師の前で、我が子を庇うような口ぶりで話した。まるで彼が裁く為にここにいるかの様に。

 甲斐医師は、出来る限り穏やかな声音で答えた。

「のぞみちゃんは、いわゆる『悪の組織』のようなものに狙われていると考えています。これも妄想のパターンとしてはよくあるものです。そしてお母さんはその手先で、のぞみちゃんに害を及ぼそうとしている、と信じこんでいます。つまり暴力的な行為も、のぞみちゃんにしてみればやむを得ない理由があった訳です」

「…………」

 香織は黙りこんだ。しばらくの後、その唇がゆっくり微かに動き始める。甲斐医師には、香織が次に何を問うかが手に取るように分かった。

「――先生。私の育て方が、間違っていたんでしょうか?」

 それはこういった時必ずと言って良いほど、母親から医師に向かって投げかけられる問いだった。

「違いますよ、お母さん」

 甲斐医師はキッパリと答えた。

「誰が悪い訳でもありません。ご自分を責めるのはおやめ下さい。そういう風に考えると、お母さんの方が先に参ってしまいます」

「でも……」

「のぞみちゃんには今後、お母さんのサポートが何よりも大切です。肝心な時にお母さんの方が倒れてしまってはいけません」

 甲斐医師のその言葉が、香織に新たな力を吹きこんだ。

 香織は大きく深呼吸し、ハンカチで丁寧に顔を拭い、そして静かに顔を上げた。その表情には、先程までの取り乱した様子は微塵も残されていなかった。

「先生、どうかよろしくお願いします」

 香織は深々と、美しいお辞儀をした。

 母親という人種の持つ、この名付け難く何にも例え難い、汲めども尽きせぬ泉の如くに湧き上がる力。この力にあえて名を付けるなら、「愛」であろうか。しかしそれもまた一種の、愛という名の狂気ではなかろうか。

 だが甲斐医師は、その狂気に敬意をこめて香織に黙礼を返した。


 ここ……どこ?

 ベッドの上に起き上がったあたしは、もう一度、部屋の中を見回した。

 見覚えのない、クリーム色の壁紙。あたしの部屋のものとは違う。家具の少ない、がらんとした部屋。ぴかぴかに磨かれた床。窓にかけられた淡いピンクのカーテン越しに、ぼんやりとした日差しが差しこんでくる。

 知らない部屋だ。

 あたしは、何が起こったのか一生懸命思い出そうとした。

 確か……。お母さんと……、ケンカしちゃったんだと思う。でも何でだっけ? ええと、それからどうしたのかな? なんであたしは知らない部屋にいるんだろう?

 まるで、朝起きて夢を見たことは覚えてるのに夢の内容は思い出せない、そんな時みたいに記憶がすぽんと抜けている。

 その時、開け放してある部屋のドアから誰かが入ってきた。

「のぞみちゃん、起きてたのね。具合はどう?」

 それはアリスさんだった。アリスさんは屈みこんであたしの顔を覗いた。

――どうしてアリスさんがいるんだろう?

「ええと、よく分かんない……」

「頭の怪我が大した事なくて良かったわ」

 アリスさんはそう言って、あたしの髪に触れた。

 その瞬間、あたしはハッとした。アリスさんがいるってことは、ここは……、魔法学院?

「ねえ、アリスさん! あたしどうしてここにいるの?」

「のぞみちゃん、大丈夫よ。落ち着いて」

 アリスさんはあたしの肩を叩いた。

 ええと、何が「大丈夫」なんだろう?

「のぞみちゃんはね、しばらくここに泊まる事になったのよ」

「えっ? ここに!? どうして……?」

「ゆっくりしてもらうためよ」

「……?」

 ゆっくりする? なんで?

「あ、そうそう。これ、渡しておくわね。お気に入りなんでしょう」

 アリスさんは持っていた紙袋をあたしに差し出した。あたしはわけが分からないまま、「ありがとう」と言って袋を受け取った。

「それじゃ、もうすぐ夕食だけどそれまで自由にしていてね。私は近くにいるから、何かあったら遠慮無く聞きに来て」

 アリスさんはそう言うと部屋を出て行った。あたしは首をかしげたまま、しばらくの間ぼんやりしていた。

 えーと。とりあえずどうしたらいいんだろう? よく分かんないけど、ゆっくりしてればいいのかな?

 ふと目線を落とすと、アリスさんのくれた紙袋が目に入った。何だろう。そっと開けてみる――、

「じゃーん!」

 うーたんが、勢いよく飛び出してきた!

「うーたん!」

 あたしは思わずうーたんを抱きしめた。頼りになるのかならないのか、いまいち分からないうーたんだけど、こんな時一緒にいてくれるのは心強かった。

「うーたん……。来てくれたんだね」

「うーたん、まほうしょうじょのますこっと。まほうしょうじょとますこっと、いつもいっしょ。ふたりでひとつ」

 うーたんはもぞもぞとあたしの腕の中で動き、少し心配そうな顔であたしを見上げた。

「……のぞみ、げんき?」

 うーたんにそう聞かれ、あたしは改めて、どこか元気じゃないところがあるかな?と考えてみた。

 うん。別にどこも痛くないし、大丈夫。あたし元気!

「元気だよ! ……あ!」

 急に記憶が蘇った。そうだ、お母さんのこと! お母さんが幻想魔法に……!

「うーたん、大変! あたし家に帰らなきゃ!」

 あたしはベッドから飛び出した。だけどうーたんがあたしを止めた。

「いま、だめ。ここにいる」

「だって、お母さんが!」

「のぞみ、おかあさん、しんぱい」

「そりゃそうだよ! だってお母さん、幻想魔法に操られてるんだよ!」

 うーたんは静かに首を振った。

「おかあさん、とりあえずあんぜん。のぞみ、いますることある。そのためまほうがくいんきた」

「すること? 何?」

 うーたんは元気よく、片手を上げるいつものポーズを取った。そして、

「まほうがっしゅく!」

 と、言った。

「魔法合宿!?」

「そう。まほうがくいんでゆっくり、しゅうちゅう、まほうのしゅぎょう!」

「ええっ!?」

「いまおかあさんどうにもできない。でものぞみ、がっしゅくでつよいまほうしょうじょ、なる。げんそうまほうたおす。おかあさんたすかる」

「そう、そっか……」

 確かに、今家に帰ってもあたしは何もできない。お母さんのことは心配だけど、とりあえず安全ってうーたんが言うなら大丈夫だろう。うーたんの言う通り、今は幻想魔法と戦えるように強くなることが先かもしれない。

「分かったよ、うーたん。あたし、強い魔法少女になれるようにがんばる!」

 あたしは力強く言った。

「よーし。魔法合宿、がんばるぞー!」

「ヤー!」

 あたしとうーたんは揃って片手を上げ、ポーズを決めた。


「まあ、すみません。もっと早くにご挨拶しなければと……」

 香織は待合室のベンチから慌ただしく立ち上がった。目の前にいるのは、拓海の母だ。香織はのぞみから拓海くんという子の話は聞いていたものの、その母親と顔を合わせるのは今日が初めてだった。

「いえ、こちらこそ。うちの拓海がお世話になって」

 拓海の母は笑顔で会釈した。しかしそれとは対象的に、香織の表情は曇っている。

「あの、うちの子が先日お宅にお邪魔したかと思うんですが……。その……、何か失礼はありませんでしたか? 実は、あの時はそんなに状態が悪くなっていると知りませんで、その……」

 拓海の母は、気まずく口ごもる香織を穏やかな声で制した。

「大丈夫ですよ。うちの子もここに通ってますから、私もある程度は子供の心の病気について知っていますし」

 病気。分かっていたつもりでも、その言葉は改めて香織の心を刺した。

 我が子は、病気なのだ。普通の子ではないのだ。

 拓海の母は、香織の心情を表情から見て取った。

「ご心配でしょうけど、あまり気を落とさないようになさって下さいね」

 拓海の母は香織を力付けるように微笑んだ。その表情に、香織はふと訝しんだ。

 同じシングルマザーとして、その苦労は良く知っている。いや、障害のある拓馬くんに加え、拓海くんという難しい子も抱えているのだ。その心中の不安や悩みは自分の比ではないだろう。それなのに、この人は穏やかな顔をしている。

 香織はふと、最近の自分はどんな顔をしているのかと考えた。このところ、絶望感と空虚感で何事も上の空になりがちだった。日々をこなすのが精一杯で、毎日鏡を見ているはずなのに、久しく自分の顔を見ていない気がした。やつれて肌も荒れ、暗い表情をしているに違いない。そう思うと香織はたまらなく惨めだった。

「あ、いえ……、その、どうも……」

「何かご相談があれば、遠慮なく言って下さいね」

 思いがけずかけられた優しい言葉に、香織は胸が熱くなった。親しいわけでもないこの女性相手に、自分の心の葛藤や苦しみを吐き出したい衝動にかられた。だがそれと同時に、「難しい子供」を抱える親同士の仲間意識を持たれたら、と考えると不快だった。うちの子は違う。そう口に出したかった。そして、内心そんな事を考えている自分自身の卑しさが堪らなかった。

「ありがとうございます……。その……、私もまだ混乱していて。どうしてこんな事になったのか分からなくて。普通に育ててきたつもりだったのに、何が悪かったのかと……」

 拓海の母は、香織の吐き出すとりとめのない言葉を黙って聞いていた。

「その……、私、どうすれば受け入れられるのか、分からないんです。ただ戸惑うばかりで」

 何か明確な答を期待するかのような瞳に見つめられ、拓海の母は少し戸惑った。しかし、香織の顔を真っ直ぐに見つめ返した。

「そうですね。私も……。拓真が障害を持って産まれてきて、皆が私の事を、障害児を持って可哀想、不幸な母親だと言っているように思いました。私、悔しくて。普通の母親になり損ねたと言われているようで、悲しくて。普通の健康な子供の母親が妬ましくて……」

「……!」

 普通の子供の、普通の母親になり損ねた。香織はその言葉に思わず息を飲んだ。それは、今まさに香織の胸にある絶望だった。

「でもね」

 拓海の母が突然思い出したようにくすりと笑ったので、香織は驚いてその顔を見た。

「実は、のぞみちゃんの『魔法』のおかげなんですよ」

 拓海の母は冗談めかした口調で言った。

「は……?」

「のぞみちゃん、魔法をかけてあげるなんて言い出して。私はまあ、子供のごっこ遊びのようなものかなと思ったんですが。ほら、小さい子がよくテレビの真似してそういう遊びをするでしょう」

「……ええ」

 でも、のぞみは中学生だ。胸が締めつけられる。香織は赤面した顔を見られたくなくて、俯いた。

「本人は大真面目に魔法の呪文を唱えてるんです。のぞみちゃんには悪いけど、私、笑っちゃって。でも、そうしたら何だか力が抜けて……」

「え……?」

「普通の子供の、普通の母親になり損ねた。そう言っていたのは、他ならぬ私自身だって気づいたんです。制約される事はあっても、家族三人でいくらでも幸せな体験をする事ができるのに。今ここに、目の前に、見なければならないものがあるのに。それを見ようともせず、『普通』という幸福の見本を見つめていました。幻想を自分で作り上げていたんです。のぞみちゃんっぽく言えば、悪い魔法の呪文をかけられていた、ってところでしょうか」

「まあ……」

「自分で自分の幸福を決める。それが『普通』の幸福とは違っても。今にしてみれば、どうしてそんな単純な事に気づかなかったのかなと思います」

「その……。お強いんですね。私にはとてもそんな風に考える事は……」

「違うんですよ。やってる事の馬鹿馬鹿しさが、身に染みて分かっただけなんです。私は毎日他人の声だけ聞いて、右往左往していました。本当の自分の生活を体験できていなかった。そうしている間にも、時間はどんどん過ぎていきます。子供達と過ごせる、大切な――、いつかは終わる、幻想の時間が。ねえ、馬鹿馬鹿しいと思いませんか」

「…………」

 香織は黙りこんだ。

 彼女の言う事も、理解はできる。けれど、「普通の、幸せな子でいてほしい」。それは多くの親が、子供が産まれた時に漠然と抱く願いではないだろうか。

 だが。香織の唇の端に、微かな自嘲の笑みが浮かんだ。香織のその願いこそ、今や「幻想」となったのだ。


 せっかく自由時間みたいだし、あたしは学院の中を探検してみることにした。うーたんを抱いたままおずおずと部屋の入口まで行き、そっと外を覗いてみる。廊下は右も左も、ドアが五つくらい並んだ先で曲がり角になっていた。向こうの方に一人か二人、せかせかと歩く人がいる。あたしは部屋から出ると、廊下に沿って進んでみた。廊下の両側の部屋はどれもドアが開け放してある。のんびりと歩きながらひとつひとつ部屋を覗いてみると、ベッドに寝転がっている人や、座ってお喋りしてる人たちがいた。

 この人たちもみんな、合宿に来たのかな?

 何度目かに廊下を曲がった時、あたしは驚いて足を止めた。廊下をずっと進んでいたはずなのに、いつの間にか、さっき自分がいた部屋の前に戻ってきてる。

「うーたん、あたし戻ってきちゃったよ。外に出てみようと思ったのに」

「ここ、まほうでふういんされてる」

 うーたんがしれっと言った。

「ええっ。どうして!?」

「がっしゅくおわるまで、あそぶ、だめ!」

 うーたんは、短い腕でビシッとあたしの顔を指差した。

「ええ~、そんなあ。厳しいなあ……」

「つよいまほうしょうじょ、なるため!」

「うーん。分かったよ」

 その時、後から声をかけられた。

「のぞみちゃん」

 振り返ると、アリスさんだ。

「呼びに行こうとしてたのよ。……何してたの?」

「探検してたの!」

「あら、そうなの……。さあもう夕食の時間よ。夕食は食堂でとるから、一緒に行きましょう」

 そう言って、アリスさんは自然にあたしの手を取った。その瞬間、あたしの心臓がポッと暖かくなった。だってあたしはもう小さい子じゃないから、誰かに手をつないでもらうなんて久しぶりだ。

 アリスさんて、なんだかお姉ちゃんみたい。

 あたしは妙にドキドキして、恥ずかしくて、でも嬉しくて……、俯いた。

 うーたんは、「世界がもうすぐ壊れる」って言ってた。

 もしそうなったら……。あたしの家族だけじゃなく、アリスさんやカイ先生や、学校の友達も、拓海くんたちも、みんな死んじゃうんだ。

 あたしは改めてそのことに思い当たって、魔法少女の使命を今までちゃんと考えていなかった自分に気づいた。今までは、お父さんを助けて一緒に戦うことしか頭になかったけど……。

 あたしはアリスさんの温かい手をしっかりと握り返した。その力強さに、アリスさんは少しだけびっくりしたみたい。だけどあたしは構わず、アリスさんの顔を見つめて言った。

「アリスさん! 大丈夫だから。あたし……、魔法少女クルクルが必ずみんなを守る。だから大丈夫だからね!」

 一瞬、アリスさんの顔に真剣な表情が浮かんだ。でもアリスさんはすぐに穏やかな笑顔に戻って頷くと、

「行きましょう」

 と、あたしを促した。


 有須看護師は看護計画を記入する手を止め、大きく背を伸ばした。時計を見れば、もうすぐ深夜二時。今夜のナースステーションは今のところ平和だ。見回りに出るまでまだ少し時間があるから、きりのいい所まで仕上げておこう。有須看護師は再び看護計画に向かった。

 今日付けで入院となり、有須看護師が担当する事になった中学生、西条のぞみ。彼女の今日の行動を思い出し、有須看護師の口元に思わず笑みがこぼれた。

 のぞみは疾病による妄想の中で、自分が「魔法少女」という、スーパーヒーローのような存在だと信じている。そして人々を危機から救うという使命感を抱いているらしい。今日の夕方、有須看護師に向かって、自分が皆を守るから大丈夫だと言った。真剣そのものの表情で。

 正常な人間の側からすれば、何とも滑稽な場面ではあるが……。困難の多いこの職場で日々戦う有須看護師にとって、可愛らしい子供の行動に思いがけず心が癒された一時だった。

 この小さな患者は、両親の離婚という現実に心が上手く対応できず、「魔法少女」の妄想の世界に捕らわれてしまった。甲斐医師に言わせると、自分が特別な人間であるという、「よくあるタイプの妄想」だそうだが。

 キーボードを打つ有須看護師の手がふと止まった。 

――しかし、誰でもそうではないだろうか?

 誰も皆心の奥底では、自分が世界で唯一無二の特別な存在だとでも思っているのではなかろうか。

 有須桃子の唇の端に、皮肉な笑いが浮かんだ。

 幻想。そんなものは、ただのファンタジーだ。

 人がそれほど特別な存在であるなら、何故あの子は死んだのか。あんなにもあっさりと、まるで虫けらのように。――死んだ。

 フラッシュバックが桃子を襲う。あれから十年近くが経つ。ある日桃子が学校から帰ると、当時中学二年生の妹が窓枠からぶら下がっていた。幼い頃、遠足の前日に二人で作ったてるてる坊主のように、窓からの春風に揺られていた。

 自分にとって紛れもなく、「特別」な存在であった家族の一員。産まれた時から知っていた妹。たった十四歳の妹が、自ら命を絶つほどに思いつめられ、心を病んでしまっていた。妹を死に追いやったのは学校での陰湿ないじめだったと、後になって分かった。

 気づく事ができなかった。

 後悔。怒り。悲しみ。絶望。混乱。痛み。嫌悪。様々な感情の嵐の中で立ちすくむ桃子の前には、所詮全ては手遅れだという現実だけがあった。妹は、同級生達の無邪気なストレス解消の為だけに死んでいった。妹の短い人生に、どんな意味や価値があったのか。桃子にはその答を見つける事ができなかった。妹は自分にとっては「特別な存在」でも、この世界にとっては違った。この世界にとって妹の命とは、虫けらと同程度の価値しか無かったのだ。そして妹の「命の価値」を守る事のできなかった桃子もまた、「特別な存在」では無かった。

「助けてあげるから、大丈夫」

 のぞみはそう言った。

 違う。それは私が――、私こそが、妹に言ってやりたかった言葉だ。あんな事になる前に。

 しかし妹は、桃子の言葉が届かない場所へ行ってしまった。時は過ぎ、今の桃子は、せめて妹のような人達の力になろうとここで働いている。

これは、贖罪なのだ。

 ぼんやりとキーボードの上で遊んでいた指先に気づき、有須看護師は我に返った。

 いけない。この、深夜の時間帯のせいか。少し感傷的になっている。

 有須看護師は再び忙しく手を動かし始めた。時間は常に足りず、する事はいくらでもある。


 合宿生活が始まった。毎日何時間か、この前の折り紙みたいな訓練の時間や運動の時間がある。それ以外は自習だ。あたしは新しく覚えた魔法、「ディススペル」と「強化」を、実際にやってみて練習しようと思い立った。だけどうーたんにそう言ったら、

「まほう、やたらつかう、だめ」

 と、止められた。

「だって練習しておかないと、いざって時に失敗しちゃうかもしれないじゃない。この前はたまたま上手くいったけど」

「まほう、そういうのとちがう」

「そういうのと違う、って……。楽器とかスポーツみたいに、練習して上手くなるようなものじゃないってこと?」

「そう。まほう、こころ、つかう」

「心?」

「そう。まほう、こころだいじ。こころ、まほうひつようなとき、しってる。こころちゃんとしたら、しっぱいとかしない。だから、こころつかうくんれんする」

「心を使う訓練? どうやるの?」

「こころ、ゆくほうにゆく」

「へ?」

「まほうしょうじょくるくるのこころ、したがう」

「心に従うって……。要するに、好きなようにしろってこと!?」

「そう」

「それ、ただサボってるだけじゃない?」

 今度ばかりはあたしも、うーたんの言うことに納得できなかった。せっかく張り切って修行するつもりだったのに、好きにしろなんて拍子抜けだ。もしかしてうーたんは冗談を言ってるのかも、とすら思った。だけどうーたんの顔は真剣だ。

「さぼってる、ちがう。くんれん。こころのくんれん。とてもたいへんむずかしい」

 とても大変難しい? ただ好きなようにすることが? そんなはずないでしょ。

「やってみる」

 うーたんがそう言うので、あたしは試してみることにした。

「うん。分かったよ。じゃあ……」

 心の行く方にゆく。好きなようにする。えっと……。

 あたしは何気なく、壁にかけられた時計に目をやった。ちょうど三時だ。夕飯まで時間もたっぷりあるし、ええと、何しようかな。

「魔法少女クルクルの心に従う」だっけ。でもいざ好きにしろって言われると、ちょっと……。

 あれっ?

――何すればいいんだろう、あたし?

「…………」

 黙りこんでしまったあたしに、うーたんがウンウンと頷きながら言った。

「……とてもたいへんむずかしい」

 あたしはくやしくなって反論した。

「ちっ、違うもん。今ちょっと考えてるっていうか……。だってここ何にもないんだもん。することないよ」

「それ、だいじ。なにもない。なにかしたい。する。そういうくんれん」

「うう……。じゃあ……、えっと、体操したい。うん。体操する!」

 あたしはとりあえず言ってみた。ところがうーたんはすかさず、

「うそ」

 と、言った。

「え、えっ?」

「のぞみうそついた」

「う、ウソなんてついてないよ!」

「うそ。のぞみ、とけいみた。こばらすいた。ほんとはのぞみ、おやつたべたい」

「!!」

 あたしはびっくりした。そう、確かにさっき時計を見た時、おやつ食べたいなとちらっと思ったんだ。でもここにおやつはないし、ジョギングもしばらくさぼってるから太ると嫌だし、と思って言わなかったんだ……。

「すごいね、うーたん! テレビに出てくる探偵みたい!」

 うーたんは得意げな顔で鼻をピクピクさせた。

「のぞみ、おやつたべたい。たべる。アリスさんにきく」

「えっ、でも、いいよ……。今日は我慢する」

「がまん、だめ!」

 うーたんは厳しい表情であたしの顔を指差した。

「いま、こころしたがう、くんれん!」

「あ、そっか……。うーん。分かったよ、うーたん。アリスさんに聞いてみる」

 アリスさんを探しに行くと、アリスさんは「集会室」という、みんなが集まってお喋りしたりする大きい部屋にいた。部屋のあちこちを動きまわっていて、なんだか忙しそう。おやつのことなんて聞いたら、悪いかもしれない。あたしはちょっと戸惑ったけど、うーたんがちょいちょいとあたしをつついたので、思いきって聞いてみた。するとアリスさんは、ちょうど今から買い出しに行くところだと言った。

「買い出し?」

「そう。皆はここから出られない決まりになってるから、私達が皆の欲しいものをまとめて買ってくるのよ」

 聞いてみてよかった、とあたしは思った。


 あたしとうーたんは集会室の椅子に並んで座り、アリスさんに買ってきてもらったどら焼きを食べた。

「あー。おいしかった」

 袋をゴミ箱に捨てて大きく伸びをした時、ふと思いついた。

「……うーたん。あたし、アリスさんともう少しお話したい。それで、幻想魔法のことを詳しく聞いてみたい」

 そう。あたしは敵の「幻想魔法」について、まだあんまり知らない。幻想で人を惑わせるのは分かったけど、アリスさんや魔法学院の人ならもっと詳しく教えてくれるかもしれない。

 ほら、なんだっけ。「敵に勝つには敵を知る」とかなんとか言うじゃん。あたしはこれから幻想魔法と対決するんだから、相手のことを少しでも知ってた方がいい。

「のぞみ、くんれん、ひゃくてん!」

 突然うーたんが片腕を上げて叫んだ。

「え、えっ?」

 言われて思い出した。「心の訓練」のこと、どら焼きを食べてる間にすっかり忘れてしまっていた。

「のぞみ、おやつたべたいおもった。そうだんしてかいけつした。おやつたべた。つぎのあいであ、うかんだ。よかった」

「ええっ。まあ確かに……、よかった、かな?」

「こころしたがう。よかった」

 うーたんは言い張った。

「でもどら焼き食べたのは関係ないんじゃない?」

「かんけいある。のうみそ、かんがえる、あまいものひつよう。だからおやつたべたいおもった」

「ええっ? 脳みそ!?」

「そう。こころ、なにひつよう、しってる。なによい、しってる」

「へえ」

「こころ、おりこう。のぞみしらないことしってる」

「ふーん」

 あたしはちょっと考えてみた。そして疑問が湧いた。

「でもさ、うーたん。『太りたくない』っていうのも、あたしの心が思ってることじゃない? そうすると、『おやつ食べたい』っていうのと反対のことを、同時に思っちゃってることになるよ?」

「こころよくばらない。みえはらない。のぞみ、ふとりたくない、それ、よくぼう。たいそうしたい、それ、がんばってるみせたい。みえっぱり」

「うっ」

「こころ、ひつようなもの、ひつようなだけ。それだけ」

「でもさ、うーたん……」

 あたしにはまだよく分からない。

「いつも思う通りに好きなようにしてたら、やっぱりだめだよね? だって誰かに迷惑かけちゃうよ」

「のぞみ、おこさまむけアニメみすぎ」

「え、えっ?」

「『いつも』よいこと。『ぜったい』ただしいこと。『しんじつ』のあい。『えいえん』のゆうじょう。『せいぎ』はかつ。……うそ。ふぁんたじい」

「ウソ!?」

「うそ」

「そっ、それはあたしだってもう中学生なんだから……、現実はいつもマンガみたいにうまくいかないって分かってるよ。だけど、だけどさ、全部がウソってことはないよ、きっと。だってそんなの夢も希望もないじゃん」

 言いながら、あたしはなんだか自分で自分に言い聞かせてるような気がした。でもあたしだって女の子だし、せめて「真実の愛」くらいは信じたいんだけど……。口には出さないけどさ……。

「ゆめ、きぼう、ちゃんとある」

「……どこにあるの?」

「みつけるとき、くる。おおいなるしょうご」

「え……? 『大いなる正午……』?」

「うん」

 うーたんは頷いた。

「せかい、いつも、ゆらゆら」

「え? ゆらゆら?」

「そう。ゆらゆら」

「でも世界がゆらゆらだったら、みんな困っちゃうじゃない」

「けっこうこまってる」

 うーたんは自分の首をゆらゆら振りながら言った。

「だからみんな、げんそうまほうまどわされる。けっこうこまってるから」

「そうなんだ……」

「ゆらゆらで、こころのいうこと、きけないときある。でもとりあえず、きく。しる。きいてあげる、こころ、けっこうまんぞく」

「分かったよ。とりあえず聞くんだね」

「そう。おやつのこと、かんたん。くんれんだから。でもくんれんしないとかんたんもできない」

「うん。分かった! あたしがんばるよ」

「のぞみ、のぞみのこころ、しんじる。のぞみのみかた。しんじて、なかよくする。そしたらまほうじょうずにつかえる」

 うーたんは言った。

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