4 にわか雨
4 にわか雨
あの(あれ、は、しょ、消毒? に、なるのか?)後、東雲くんは普通に救急箱を出して、足の手当てをしたり、頭の包帯を変える一般的な手当てをしてくれた。私の、その、東雲くんに舐められて(ひー、恥ずかしい!)濡れたところも、さりげなく拭いてくれた。久々美、って名前で呼んでくれたのも、あのときの一回だけで、後は普通に小塚さんだった。私に触ったりとかも、拍子抜けするくらい、なくて、普段の東雲くんに戻っていた。それでも、やっぱり、東雲くんは不機嫌なようで、少しだけ怖かった。
東雲くんは救急箱を閉めると、小さく溜息を吐いて帰る仕度を始めた。
「小塚さん、今日は一緒に帰ろう」
「あ、そんな、いいよ。一人で大丈夫だから」
「ダメ。小塚さん、電車でしょ? その足でここから駅までと駅から家まで歩く気?」
「う、そ、それは……」
「痛いよ、そんな足で歩いたら」
「じゃ、じゃあ、お願いします」
「うん。それじゃ、行くよ」
東雲くんは自分と私の荷物を持ってドアの前へ立った。さりげない。さりげなくジェントルメンだね、東雲くん! でもそこまでしてもらっちゃ悪いから、私は東雲くんに荷物を渡すようにお願いする。
「東雲くん、私、荷物くらい自分で持つよ」
「ダメ」
「え、でも……」
「ダメ。君はただ歩いていればいいの」
「でも、それじゃ……」
「言い方を変える。これは俺がやりたくてやってることだ。だから邪魔しないで。いいね?」
「……はい」
負けた。
東雲くんは諦めた私に満足した顔をして、先に歩いていった。なんだか悔しい。
東雲くんは学校にバイクで来ているので、バイクで送ってもらうことになった。(うちの学校、バイク通学ダメなんだけど……)バイクに乗るのなんて初めてだし、あの東雲くんと一緒に下校するなんて、いつもならかなりはしゃいじゃうんだけど、今日はそんな気分にはなれなかった。東雲くん家はお隣さんなのに、今まで一緒に帰ったことなんかなくて、東雲くんとの初めての下校だっていうのに、嬉しい気分になれない。空気も重い。東雲くんはもともとペラペラしゃべる方じゃないし、話しかけるのは私ばかりだから、私がしゃべらないと会話もない。だけど私はしゃべる気がしない。どうしちゃったのかな、私。
いろいろなことがありすぎて、今日は酷く疲れた。体もだけど、なんだか心も。東雲くんは、やっぱり私に怒っているんだろうか。つーか、正面きって迷惑って言われちゃったし。
でも、私に触ったときは、表情とか、声とか、すごく優しかった気がする……んだけど、私が怪我してたから? じゃなかったら、気のせい? だとしたら、私はすごい自惚れ屋のおかしな女ということになってしまう。でも、でも、なんだろう、ほんと。優しく包帯が巻かれている首に触れてみる。まだ、今すぐにでも、東雲くんの感触が思い出せそうな気がするのに……。
あぁ、やだなぁ。私、これ、変態じゃないか。恥ずかしい。バカみたい。東雲くんにしたら、本当になんでもない、ただの消毒だったかもしれないのに。
もやもやした気持ちは晴れなくて、胸が痛い。なんだよ、もう、これ、恋する乙女かよ、私。もともと恋する乙女だったけどさ、あんな刺激が強いの、どうしたらいいんだよ、ほんと。あんなふうにしておいて、ドキドキしているのが私だけだなんて、ひどい。
なんだか泣きそうになっていたら、どこかからバイクのエンジン音が聞こえてきた。滲みそうになっていた涙を東雲くんが戻ってくる前に慌てて袖で拭う。強く擦りすぎて、鼻の頭が痛かった。
東雲くんのバイクはゆっくり進んだ。東雲くんに貸してもらった少し大きいヘルメットが、バイクの振動に合わせてグラグラ揺れる。掴ませてもらっている肩は思ったより骨ばっていて、視界に広がる背中は大きく見えた。
バイクに乗っているせいでいつもより早く景色の変わる私の帰り道は、暗くて静かだ。なんだかいつもと違う。なんだか、とっても、泣きそうな気分になってしまう。
また溢れ出しそうになった涙を飲み込むために、私は視線を帰り道の景色から空へ移動させた。いつもは、一番星見えるかなとか、お月様もう見えるかなとか、考えて見る夕焼け空なのに、今日は視界が霞んで何も見えない。
ダメだ、もう、耐えられない。だいぶ家にも近づいたし、降ろしてもらおう。
「東雲くん、もう近いから、この辺でいいよ」
「隣なんだから最後まで送るよ」
「ううん、いいから、ここで降ろして」
「どうして? すぐそこだしもうちょっとの我慢だろ」
「うん、だけど……」
「なんなの、君?」
東雲くんはイラついたように言って、急にバイクを止めた。振り向いた顔は怒ってる。あぁ、また怒らせた。いや、もうずっと怒ってたけど。さらに怒らせた。やっぱりバカだ、私。
「君は……」
東雲くんが何か言おうとしている。ダメ、やっぱりダメだ。泣きそう。やだ、こんな涙、嫌い。大嫌いだ。体中がピリピリする。心臓がドキドキする。いつも東雲くんに対するドキドキは、かっこいいとか綺麗とか、そういうふうに思ってドキドキするんだけど、今のドキドキは違う。単純に怖くてドキドキしてるんだ。こんなの、初めてだ。冷や汗が出る。
私はバイクから降りてヘルメットを座席の上においた。
「東雲くん」
呼びかけると、東雲くんは少し驚いた顔をして私を見た。だって、私、東雲くんのお話途中で遮ったことなかったもんね。
「何?」
聞き返した東雲くんの顔はやっぱり怒っていて怖かった。東雲くんの鋭い視線が、私の肌にチクチク刺さって痛い。東雲くんの視線は鋭くて冷たい。絶対零度だ。氷点下だ。それでも東雲くんはかっこよくて、真っ黒な髪が空に溶けていくようで綺麗だ、とか思ってしまう私はバカだ。
本当は早くさよならして家に帰ってしまいたいのに、東雲くんの目は私を捕まえてしまって逃れられない。体が動かない。体だけじゃない。心も捕まってしまったみたいに、東雲くんのことばかり考えてしまう。
「今日、は、ありがとう。いろいろ迷惑かけちゃってごめんね。さようなら」
言って踵を返してしまえば、なんのことはなかった。私はスタスタと家への道を歩いて行ける。捕まってると思っていた足はちゃんと動くし、脳味噌もちゃんと働く。さっきまで動けなかったのが嘘みたいだ。
後ろでバイクの大きなエンジン音がした。いつもの私ならビックリして振り返ってしまったと思う。っていうか、大きな音じゃなくても、私だったら東雲くんがいるだけで振り返ってしまったと思う。でも、じゃあ、今振り返らない私はいったいなんなんだろう。本当に、どうしたんだ、私。私は、東雲くんを振り返る私が嫌いだけど、振り返らない私も好きじゃない。
私の心はすっかり寂しい色になってしまった。今日の夕方まではすごく綺麗な色だったのにね。きっと心の中に東雲くんがいてくれたからそう見えていたんだ。
「また明日、小塚さん」
鳴り響くエンジン音に紛れて、私が東雲くんに恋してしまったきっかけの言葉が、空耳みたいに聞こえた。あぁ、私はまだ明日より昨日がほしいよ。だって、昨日には東雲くんがいるじゃんか。
東雲くんに送ってもらった次の日、私は学校をお休みした。これは行きづらいとかじゃなくって、本当に体調を崩してしまったからだ。それで二日間お休みして、今日は土曜日でもともとお休みだけど、そしたらやっぱり本当に行きづらくなっちゃって月曜日もお休みしそうだ。私って本当にバカだ。こうやって泥沼に嵌っていくんだ。前みたいに学校で楓や広田くんとおしゃべりして、帰りにマックへよるだけならいい。でも、今は違う。きっと教室には東雲くんがいて、足と腕を組んで怒った顔で私を睨む。ううん、もうそれもないかもしれない。東雲くんたちは新しいマネージャーさんを見つけて、私のような使えない女はお役御免かも。東雲くんに睨まれるより、私にとってはそっちの方がよっぽど怖い。また涙が出そうで、タオルケットを頭からかぶった。私、本当にバカだ。勝手に落ち込んで泣くなんて、意味ないこと繰り返して。目の周りを赤くして。こんなんで学校なんか行けるわけない。
休んでいる間は何しても楽しくなかった。今日も、久しぶりにゲームやってみたけど全然集中できなくて飽きてきちゃったし、おやつのシュークリームも美味しくなかったし、ドラマの再放送も何やってるのかさっぱり分からなかった。私、病気みたいだ。病人よりも病人らしいと思う。だって風邪引いた時だって、こんなに暗くならないもん、私。
時計を見たらもう一時ぐらいで、今日は午後から練習の日だから、みんなきっと音楽室で練習し始めてる時間だ。やること、いっぱいでみんな大変だろうに、お掃除とか大丈夫かな。あの人たち掃除とかしたことなさそうだもんな。大騒ぎになってそう。……このままずっと休んでるわけにもいかないとは思うけど、どうしたらいいんだろう。東雲くんに会って、どんな顔したらいいのか分からなくて、怖い。でも、だからって、他のみんな、もちろん東雲くんにもだけど、迷惑かけていいわけじゃないし。……あー、分かんない! ダメダメだ、私。ダメ人間の典型的見本だ! このままじゃ本当に迷惑だよね。ここはいっそ潔く辞めてしまおうか。……それがいいかもしれない。東雲くんと微妙な空気のままいれば、他のみんなに迷惑だし、私が辞めればみんなはもっと優秀なマネージャーさんを見つけられる。なにより、このまま続けてたら、東雲くんを忘れられない。ずっと未練がましく東雲くんを見続けるなんて、辛い。
とりあえず、平野くんにメールしよう……。ベッドに横たわったまま、机の上の携帯を取る。画面の明るさに目を細めて、今の私ってうじ虫みたいだ、と思った。マネになったときに教えてもらったアドレスに、できるだけ丁寧な言葉でメールを送る。な、なんか緊張するなぁ。今までほとんどしてなかったし。
ちゃんと送信できたのを確認したら、少しホッとした。そういえば、私、東雲くんのアドは知らないなぁ。前はすっごく知りたかったけど、今は知らなくてよかったと思う。だって知ってたら、東雲くんにもメールしなきゃいけないもんね。そんなのきっと耐えられない。死んじゃう。
しばらく帰ってこないだろうと思っていたメールは意外とすぐに返ってきた。十分も経ってない。律儀だなぁ、平野くん。
『今から行く』
なんだ、これ……? 平野くんが今から私の家に来るっていうこと? いやいやいや、それはない。ありえないね、うん。きっと平野くん間違って送っちゃったんだ。うん、そうに違いない。私は平野くんに、送信相手間違ってますよ、みたいなメールをして、そしたらなんだか眠くなってきちゃって、布団の海にダイブした。タオルケットを頭の上まで被って体を丸めると、治りかけの傷が伸びてヒリヒリ痛かった。
(雨模様の私の心はいまだに晴れない)