3 私に出来ること
3 私に出来ること
「東雲くん、紅茶かコーヒー淹れようか?」
「いらない」
「そ、そっか……」
すごく気まずい。練習場所として占領した音楽室で、東雲くんと二人きり。普通だったら好きな子と二人きりって、踊り狂っちゃうくらい嬉しいことなんだろうけど、そんなん無理! だって相手は東雲くんだよ。踊ってなんかいられるか! かなり緊張するんだ、これ。
東雲くんは何やらギターをいじっていて忙しそう。一方私は何もすることがなくて、部屋の隅で突っ立ってるだけ。こんなんだったら、私も平野くんたちと買い出し行くんだった。私、帰ってもいいかな? どうせ平野くんたち戻ってきてもやることないし、ここにいてもあんまり意味ないし結局いてもいなくても変わらないような気が……。あ、自分で言ってて悲しくなってきた。
「小塚さん」
「はい!」
「やっぱりコーヒー淹れてくれる? 喉渇いてきた」
「あ、うん。美味しく淹れるね!」
「いや、そこまで気合い入れなくてもいいから」
やったー! 東雲くんが初めてお仕事くれたよ。張り切っちゃうなー。あ、もしかして、私に気つかってくれたとか?……ないよね、それは。私如きに東雲くんが気を遣うわけがない。わー、また悲しくなってきた。
「ど、どうぞ……」
「ありがとう。そこにおいといて」
コーヒーを指定された位置に置いた私は、お盆を置くために水場に戻って小さくガッツポーズした。やったー! 東雲くんがお礼言ってくれた。嬉しい、嬉しい! こんなんで喜んでる私ってどれだけおめでたい人間なんだろう。ちょっとしたことで一喜一憂でバカみたいに大忙しだ。でも、こういうのって嫌じゃない。まあ、嫌でも結局止められないんだから、しょうがないんだけど。わーわーわー、なんだろう、この思考。恋する乙女みたいだ。あ、そっか、私って今、東雲くんに恋する乙女なんだ。
一応お砂糖とミルクも用意しておいたけど、東雲くんはやっぱりブラックのままコーヒーを飲んだ。私なんかミルク入れて、お砂糖もたくさん入れないと飲めないのに、すごいなー。美味しいかな? 東雲くんのお口に合わなかったらどうしよう! あー、また緊張してきちゃった。喉も渇いたし。私もコーヒー飲もうかな。
東雲くんに背中を向けて自分のコーヒーを準備してると、緊張はだいぶ解けてきた。だって顔見えないし、見られないし。何か仕事してるときが一番楽だなぁ。そっちに集中できて、東雲くんのこといちいち気にしなくていいし。
「小塚さん」
「うっひゃあっ!」
「ごめん。えっと、コーヒー美味しかったよ。ありがとう」
「あ、うん。机においといてくれればよかったのに。後で洗うから、そこの流しにおいといてくれるかな?」
「わかった」
ひゃー、めちゃくちゃビックリした。だって急に背後に東雲くんが!
東雲くんはティーカップをおくと元の場所に戻ってっちゃったけど、私の心臓はまだバクバクしてうるさい。さっきまで東雲くんは手を伸ばせば届くくらいの距離にいて、それがすごくビックリで、でも嬉しくて。あぁ、コーヒー飲もう。それで心を落ち着かせよう。
数日は何もすることがないままだった。そして今日はみんなそれぞれ予定が入ってるみたいで、珍しく練習お休み。私はみんなみたいに忙しくない暇人なので、久しぶりにお菓子を作ることにした。日持ちのするものがいいかな。そしたら明日みんなに食べてもらえるし。クッキーとか簡単だけどいいかな? カップケーキでもいいかも。あんまり気合入ったもの作ったら、ひかれちゃうかな? 楓や広田くん以外の人に食べてもらうのって初めてだから、ちょっと緊張するなぁ。東雲くんにも食べてもらえるかもしれないし! 東雲くん、甘いものってどうなんだろう? 好きかな? 嫌いかな? コーヒーはブラックを飲むくらいだし、あんまり得意じゃないかも。だったら甘さ控えめのガトーショコラとか……。うん、そうしよう! そうと決まれば、さっそくお買い物行かなきゃ!
「お母さーん、ちょっとスーパー行ってくるね」
「いってらっしゃい。ついでに卵買ってきてくれる?」
「うん、卵使うしね。買ってくるー」
東雲くん、食べてくれるかな? 普通に出しただけじゃ、食べてくれないかもなー。あんまりガツガツしてないし。那央ちゃんは真っ先に飛びついてきそうだけど。コーヒーと一緒にさりげなく、おやつですよーみたいなかんじで出せば食べてくれるかな? 難しいなー。
いろいろ、っていってもほとんど東雲くんのことだけど、考えながらする買い物はすごく楽しかった。大急ぎで家に帰って、作り始めなきゃ。お母さんが晩ごはんの準備始める前に! あれ? 東雲くんのおうち、窓開いてる。今日は東雲くんも予定あるって言ってたのに。って、あれ? なんだこれ! 私ストーカーみたいだ! いちいち人ん家の窓とか確認しちゃったりして。気持ち悪いな、嫌だな、こんな女。あ、誰か東雲くん家の前に人が……いけない、いけない。いいじゃないか、東雲くん家に誰が来ようと。いくら好きでもそんな監視みたいな、ダメ絶対。って思えば思うほど見たくなる! なんで!
「だれだろう、あれ……」
なんとなく、考えるのが嫌だった。東雲くんの家の前に立つ女のひと。それはもう、すごく大人の女のひとで、スタイルが良くて美人で、真っ黒なロングヘアーは綺麗なパーマがかかっていて。東雲くんとすごくお似合いだと思った。いやだ。すごく、いや。それで、そういうふうに思った自分がすごくみじめで、嫌な女に思えた。胸の、心臓じゃない、なんだかよく分からない部分がすごく痛くて、慌てて家の中に入った。お母さんがお帰りって言ったけど、返事なんかできなくて、買ってきた材料を玄関に置きっぱなしで自分の部屋にかけこんだ。
お菓子作るの、やめよう……。
次の日から買い出しには絶対ついていくことにした。東雲くんはだいたい買い出しには行かないし、来たとしても他のひとがいてくれる。二人きりになるのは辛くて、私には耐えられなかったから、ちょうどいいかもしれない。東雲くん、気づいてるかもしれない。私が東雲くんを避けてること。あれ以来、目もあんまり合わせられないし、二人でいるときは前よりもっと話さなくなった。前は二人きりだとドキドキして、嬉しくて、東雲くんとおしゃべりしようと一生懸命話題を探してたっていうのに。いったいどうしちゃったんだ、私。一方的に好きになって、一方的に遠ざけるなんて、最低だ。
今日は東雲くんが珍しくついてきてるけど、那央ちゃんが一緒だし、大丈夫。切れかけてたコーヒー豆とか、洗剤とか、他にも食料をたくさん買って、私たちの荷物はすごく多くなった。なかなか重いよ、これ。
「くーちゃん、ごめんな?」
「へ、何が?」
「いや、ほら、俺ら結構くーちゃんのことほったらかして買出し行っちゃったりしてたろ? 悪かったなぁ、と思って」
一人で楽器店に入って行った東雲くんを待っている間、那央ちゃんが申し訳なさそうな顔をして言った。そんなこと、私は全然気にしてないのに。こんな顔させてしまって逆に申し訳ないくらいだ。私なんか本当に役立たずで、部屋の中ウロウロしてただけなのに。私、家政婦みたいなことしかしてないよ? お茶淹れたり、掃除したりしてただけだよ? 謝られるほどたいそうな地位じゃないし。やー、那央ちゃん、やめて! そんな仔犬のような目で私を見ないで!
「渉と二人きりとか、居づらくなかった? アイツ、あんまりしゃべんねぇし、人に気ぃ遣ったりするタイプじゃねぇし」
「そんなことないよ。たまにお仕事くれるし、掃除のとき機材退かしてくれるし」
「へぇー、そうなの? やっぱ女の子にはそれなりに優しくするのか。あ、違うかな。この前知らない女殴ってたし」
「ええっ!? ダメだよ、それ! 女の子殴っちゃダメだよ! 男の子もダメだけど」
「でもさ、くーちゃんも知ってんだろ? 渉はこの辺で一番強くて、残酷なんだ。女だろうが子供だろうが関係ねぇよ。アイツにとって邪魔なものは、みんなアイツに排除されんの」
那央ちゃんに言われて、少しハッとした。そんなの嫌だって思うけど、私だって実際、こうやって関わるまで東雲くんのこと怖いと思ってた。ちょっと前のことなのに、すっかり忘れちゃってた。調子いいなぁ。やっぱり私ってバカだ。
「ま、俺らはそんなん関係ねぇけど。アイツがどんな考え方しようが、どこの誰と喧嘩しようが好きにしろってかんじ? それに、まぁ、俺らも似たようなもんだし」
那央ちゃんは笑ったけど、私は上手に笑えなかった。私は不器用で何もできなくて、こんなとき笑うことすらできない。那央ちゃんたちみたいに割り切った反応なんて私には無理だった。分かってて好きになったつもりだったのに、東雲くんに傷ついてほしくないし、誰かを傷つけてほしくない。何もできないくせに、高望みしすぎかな。
私が考えにふけってしまったから、那央ちゃんとの会話はそこで終了してしまった。あー、私って最悪! 那央ちゃんにばっかり気遣わせて、自分は気遣ってない! 何か話題を探してキョロキョロしてみる。……あれ?
「那央ちゃん」
「ん? どした?」
「あれ、東雲くんじゃない?」
「えー、どこだよ? 俺、全然分かんないんだけど」
私は指差して教えるけど、那央ちゃんは見えないみたいで、ピョコピョコ跳ねたり、おでこに手を当てて背伸びしたりしてる。でもやっぱり那央ちゃんには見えないみたいで、そうしているうちに東雲くんは私たちが居る方とは全然別方向にある路地裏に入っていってしまった。
「おかしいなぁ。ここで待ってるって言ったよね?」
「うん、言った。くーちゃんの見間違いじゃなくて?」
「それはないよー。顔見えたもん」
それに、私が東雲くんを見間違うはずないもん。
「じゃあ、私呼んでくる。東雲くん、私たちの居場所覚えてなかったのかもしれないし、探してるのかも。那央ちゃん、荷物よろしくね!」
「え、あ、くーちゃん!」
那央ちゃんが私を呼んだけど、見失っちゃうといけないし、私は那央ちゃんにブンブンと手を振って、路地裏へ消えた東雲くんの後姿を追った。
東雲くんはすぐに見つかった。それと、全然関係ないお兄さんたちも見つかった。なんだかすごく柄が悪い。お友達……ってかんじじゃないよね。もしかして、け、喧嘩? わ、わ、どうしよう。とりあえず、あそこのゴミ箱の陰に隠れよう。わ、何このゴミ箱! 臭い、臭い! 絶対生ゴミ入ってるよ。いーやーだー。
「なんなの、君ら? 用事があるならさっさと済ませてくれる? 俺、暇じゃないの」
わー、いきなり喧嘩腰! 喧嘩腰だよ、東雲くん! ほら、怖いお兄さんたちめちゃくちゃ怒ってるよ!
「ガキが、いい気になりやがって。久しぶりに地元帰ってきたと思ったら、ガキがこの辺仕切ってるっつーじゃん? 調子こいてるって聞いたから、お兄さんたちが軽く躾でもしてやろうかと思ってよ」
怖い顔のお兄さんはニヤリと笑って、拳をパキパキと鳴らした。笑顔も怖い。全然お礼する雰囲気じゃない。
よく見るとお兄さんはシルバーのごつい指輪をいくつもしている。あれ、痛いよ。あんなので殴られたら絶対痛い!
でも、東雲くんは喧嘩が始まっても全然痛くなさそうだった。だって、一発もお兄さんたちの攻撃が当たってない。
それでも、私の方はなんだか体中がズキズキ痛かった。東雲くんが傷ついてるわけじゃないし、そんなのあるはずないのに、東雲くんが怪我したらどうしようとか、死んじゃったらどうしようとか考えて、勝手にあちこち痛くなっちゃう。
「そこまでだ、東雲!」
「え?」
急に後ろから引っ張られて、目の前にピタッと動きを止めてこっちを見てる東雲くんと、それを取り囲む怖いお兄さんの集団が! その上、見上げるように後ろを振り返ってみると、さっきまで乱闘に参加していたはずの怖いお兄さんの一人が、私を羽交い絞めにしている。香水がキツイ。くっさー。
「動くんじゃねぇぞ? この女どうなってもいいなら別だがな」
「何言ってんの、君。頭おかしいんじゃない? 誰、その子? 一般人巻き込む気?」
「なんだ、テメェの知り合いじゃねぇのか。じゃ、まぁ、おまえには関係ねぇな。だったら、俺らがこの女どうしようがかまわねぇよな?」
わ、わ、私、このままだと完ぺきに足手まといだ。そんなの嫌だ。ただでさえ役立たずなのに、その上足引っ張っちゃうなんて、最低だ。逃げなきゃ。東雲くんの負担にならないように逃げなきゃ。この人たち、悪い人なんだよね? じゃ、じゃあ、ちょっとくらい、いいかな? うん、ほんと、コツンってするくらいなら死なないよね? よ、よし、やるぞー!
「必殺くーちゃんゃんキーック!」
「うおぅっ!」
よっしゃ、クリティカルヒット! 目をつむってたから当たるか分からなかったんだけど、お兄さんは私が蹴ったらしいところを押さえて、その場にうずくまった。あ、そこは痛そう。周りを見ると、私以外の人はみんな痛そうな顔をしている。東雲くんもだ! あ、これ、チャンスだ。よし、ナイスだ、久々美。
「小塚さん、何してるの! 早く逃げろ!」
「え、でも、東雲くんは?」
「俺はいいから、早く!」
「は、はい!」
私は東雲くんに言われて、ようやく逃げるために走り出した。私って、ほんと、どこまでもトロいな。
「チッ、やっぱり知り合いじゃねぇか! 逃がすなっ」
私に蹴られたお兄さんが辛そうにしゃがみながら叫んだ。に、逃がしてください! 私のバカ! なんで早く逃げなかったんだ!
一生懸命走ったけど、やっぱり私じゃ逃げ切れなくて、すぐに捕まってしまった。あー、後戻りー。
「手間かかせやがって、このガキ」
私を捕まえているお兄さんがギロッと睨んできた。こ、怖……。戻ってくると東雲くんと目が合って、笑ってごまかしてみると大きな溜息を吐かれた。あぁ、私すっごい迷惑かけてる。最悪だよ。結局前より状況を悪くしてしまったよ。
「ったく、ふざけてんじゃねぇぞ、ボケ。じっとしてろよ?」
どんっと急に体を押されて、私は地面に手をついてしまった。倒れ方がアホみたいだ。へにゃへにゃだ。もう、何すんだ! ばかっ!
文句を言ってやろうと思って立ち上がろうとしたら、背中がぐきってなって、地面に押し付けられた。あ、顎ぶった。
「痛っ!」
「ったく、じっとしてろっつってんだろうが」
うわぁ、どうしよう。体中痛いよ。さっき押されたときに擦り剥いた膝とか手のひらとか、打った頭だとか、今踏まれてる背中、いろんなとこが痛い。頬っぺたにコンクリートが当たって、ざらざらして痛いし気持ち悪い。ずるずると手を動かして頭の痛いところを触ってみると、なんだかすごくヌメヌメしていた。あ、手、赤い。これ、血? うわ、血だ。頭、から、血、出、たの、初めて……。ダメだ……。寝、ちゃう。
「君ら、ほんとムカツク。ぶっ殺す」
最後に聞こえたのは、東雲くんのすごく物騒な言葉だった。
手をついたそこは柔らかくて、さっきまで転がっていたコンクリートとは違う。驚いて目を開けると、私は音楽室のソファーに横たわっていた。音楽室にソファーがあるって違和感あるけど、那央ちゃんがほしいって言って、みんなで運んできたんだ。
「小塚さん、起きた?」
目を覚まして起き上がった私を見て、東雲くんは少しだけ安堵したように溜息を吐く。
「よかった。起きなかったらどうしようかと思った。小塚さん、痛いところ、ない?」
「あ、うん、だいじょう……ぶッ!」
いきなりぐっって東雲くんがタオルケットの上から擦り剥いている傷跡を押すから、あまりの痛さに涙目になってしまった。
東雲くんはそんな私を冷ややかな目で見ている。
「どこが大丈夫なのなんで嘘吐くの殺されたいの」
東雲くんはいっぺんにスラスラと、しかも全く表情のない顔で言った。いや、殺されたくはないですけど! ものすごく怒っている、のか? ええと、怒ってる、よね、私に。あ、違う、かな。自分に怒ってるかんじもしなくはない。ん、あれ? よく分かんなくなってきた。
「だいたいは那央から聞いたけど、なんでとっとと逃げなかったの?」
東雲くんは私にかけられていたタオルケットを小さく引っ張って、いつもより低い声で言った。あ、やっぱり怒ってる。
私はなんだか東雲くんが恐ろしくて、ソファーの上で縮こまって後ずさりする。ソファーの下に跪いていた東雲くんは、後ずさりする私を追いかけてソファーに登ってきた。しかも、無表情のままで。
膝を曲げたら擦り剥いた皮膚が伸びて痛かった。さっき、東雲くんに押されたから余計に痛い。……やっぱり、東雲くん、私が足引っ張ったから怒ってるんだ。私は自分が恥ずかしくて、情けなくて、痛いとかそういうの関係なしに泣きそうになった。心臓の近くがすごく痛い。
「ご、ごめんなさい」
「なんで小塚さんが謝ってるの? 本当に殺されたいの? 俺が聞いてるのは、どうして逃げなかったかだよ」
「う、えと、心配で、でもどうしたらいいか分からなくて……」
「心配ね……。ねぇ、俺があんな奴らに負けるわけないだろ? なめてるの」
「ち、ちが……」
「ちがくない、なめてるよ。俺がやられると思ったんだろ?」
「し、しの……!」
のめくん、っていう言葉は最後まで続かなくて、その代わりに東雲くんがずっとつかんでいたタオルケットを、ものすごい勢いで引っ張った音がした。
それで私は驚いて、おわっぷ、とか変な声出しちゃって、自分でアホだと思ったけど、東雲くんはそれすら無視して、今度は私の足首をつかんでタオルケットと同じように引っ張った。わ、わ、わ、ダメ! ダメだよ、東雲くん! 私の太い足、大根みたいだよ! あ、大根ほど白くないけど、色的にはゴボウだけど! それに今、すごく汚い。傷だらけで血も出てる。
東雲くんはゴボウ色の大根を見て顔をしかめた。あー、もう、本当に見苦しい足でごめんなさい。
「ひうっ!」
って、何してるの、東雲くん! そして、なんて声出してるの、私!
「俺についてこなかったら、こんな怪我しなかったのに……」
東雲くんは上目遣いで私を睨みながら、私の足を指で撫でた。痛かったりくずぐったかったりで、どうしたらいいか分からない。
「小塚さん、俺がその辺の奴らにやられないことくらい、分かるよね? この場合、小塚さんがしなくちゃいけないのは、俺の心配じゃなくて自分の心配だと思うけど」
「あ、うん、そうか、そうだね。私が心配しても意味ないもんね。結局足手まといにしかならなかったし。ごめんね、本当に!」
「小塚さん、俺が言いたいのはそういうことじゃない」
「え、じゃあ……」
何、って最後まで言い終わる前に、また私の言葉は止まった。息も止まったかもしれない。きっと心臓も止まった。東雲くんが、私の足を持ち上げて、傷口に口付けしたからだ。
いや、口付けなんてもんじゃない。舐めてる。舐めあげてる。頭が爆発しそうな恥ずかしさに見舞われて、慌てて足を引こうとしてみるも、がっしり東雲くんが押さえつけてて動くことすらできなかった。え、え、え、な、なん、なんなの、この状況!
「や、やめっ! し、しののめくっ……?」
「何?」
「な、何、じゃなく、て、それ、汚れて……!」
「だから消毒してるんでしょ」
ちゅぷ、ていう濡れた音をたてながら、東雲くんが私の膝から踝にかけての大きな傷を、ぐるりと嘗め回す。這わされた舌は熱くて、そんなこと考えてる場合じゃないのに、ぞくぞくした。猫みたいによく蠢く舌が傷口に触れるたび、痛いとかじゃない変な声が出そうになって、慌てて歯を食いしばる。
東雲くんはそんな私を見て少しだけ笑って、無意識にスカートを握り締めていた私の指を優しく解いた。こ、この顔初めて見る! なんという勝ち誇った表情だろう!
そう思っていたら、今度は悲しそうな寂しそうな切ない顔でいう。
「こっちも、怪我、してる」
全身がびりびりしているのは、怪我のせいじゃない。東雲くんのせいだ。
腕を引き寄せられて、また舐められる。ぬるぬるした感触。湿った熱さ。どうしようもなくドキドキして、私はぎゅっと目をつむってしまう。東雲くんはどうしてこんなことするんだろう? 彼女、いるんじゃないの? 私みたいなちんちくりんに、こんなことしていいの? 私って東雲くんのなんなんだろう? いろいろ考えることがいっぱいで、胸が痛くて、泣きたくなった。それでも、東雲くんを拒めない。私って本当に最低なおんなだ。
腕を舐め終わったらしい東雲くんは、そっと私の肩に手をかけて、ゆっくりと体重をかけながら、ぺろりと首筋の傷を舐めた。……わ、どう、しよう。反射的に、私に抱きつくみたいな体勢になっている東雲くんのシャツをつかむ。汗と私の血と怖いお兄さんたちの血で、少し濡れていた。
ん、って呻いたら、東雲くんが私の首のところでごくりと唾を飲み込む。手を置いた東雲くんの背中は大きくて、私と同じくらい熱を持っていた。
「自分が怪我してるし、バカじゃないの、小塚さん」
「ごめ、ん」
「許せない。すごく迷惑だ」
「ご、ごめんなさい」
「だから、なんで君が謝るの? 本当に殺してしまいそうだ。頼むから黙っててくれない」
東雲くんは優しい声でそう言って、私の首を吸い上げる。ちゅうっていう可愛い音がした。別に何か怖いわけでもないのに、体が緊張してがちがちだ。あぁ、そうじゃない。やっぱり怖いのかも。なんだか今日の東雲くんが、ちょっと変だから。別人みたいだから。もう本当にどうしようもなくて、私はじっとしてるしかなかった。
「小塚さん」
「な、何?」
「もう、あんなことしないでね」
「でも、私、何もできなくて……」
「君は!」
東雲くんが珍しく大きな声を出したから、私はかたく閉じていた目を思わず開けてしまった。あ、東雲くん、悔しそうな顔してる。バカな私には、何が悔しいのかなんて、分からないけど。
「君は、何もできなくていいんだ。ただここにいればいい。俺……たちのいるところに、いればいいんだ」
東雲くんが切ない声で言って、今度は私の耳を舐めた。彼の吐く小さな息が、直接私の鼓膜を揺らす。
もう一回ごめん、って言ったら、耳朶がすごく優しく、甘い力で噛まれた。熱を持っていたそこは、濡れて外気に晒されていっそう熱くなる。動かない肩に腕を回したら、東雲くんの肩が小さく揺れて。
「久々美、」
私を呼んだ。どうしよう、私、このまま溶けてしまうかもしれない。
(何もできない私でも、あなたは必要としてくれますか?)