1 始まりは最悪な状態から
1 始まりは最悪な状態から
私たちはただおしゃべりしながら歩いてただけなのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。狭い廊下だから普通に歩いたって肩がぶつかりそうなのに、どうしてもっと注意して歩かなかったんだろう。今、目の前に立ちはだかる東雲くんのお怒りを買ってしまった私たちは、いったいどうなってしまうんだろう……。
東雲くんは、この辺りですごく有名な不良だ。気に入らない人は、問答無用でボコボコにしちゃうらしい。あぁ、私たちもそうなっちゃうのかな? やだな、怖いな……。どうしよう、体震えてきた。
楓が私を庇って後ろに隠してくれてるけど、なんだかすごく睨まれてる気がする。うわぁん、怖いよ!
「君ら……」
今までずっと黙ったままだった東雲くんが、急に話しだした。なんだろう? 何言われるんだろう?
「どこ見て歩いてるの? 次はないと思いなよ」
それだけ言うと、東雲くんは学ランを翻して行ってしまった。裏地に刺繍してある椿の花が綺麗で、姿勢のいい後姿がすごくかっこいい。東雲くんが不良で怖い東雲くんじゃなかったら、恋してしまいそうだった。
「あの時は、ほんと死ぬかと思ったわ」
「うん、すっごく怖かったね」
あの日から数日、私たちは無事怪我もなく日常生活を過ごせている。今は楓の彼氏の広田くんを待ってるところ。あ、一緒に帰るわけじゃないんだよ! そこまで厚かましくないよ、さすがの私も。
「アンタ震えてたもんね。大丈夫だったの?」
「うん、大丈夫だったよ。楓が庇ってくれたし。ありがとう」
「別にいいわよ、そんなこと。っていうか、なんだったのかしら、あれ」
「機嫌よかったのかな? ラッキーだったね」
私がヘラッと笑うと、楓は呆れたような、困ったような顔して首を横に振った。
「あんなとこで東雲に会うこと自体、アンラッキーよ。教室でも、あんたの家の近くでも会わないのに」
「そ、そうだね……」
そうだった。なんと東雲くんは同じクラス! ほとんど来ないから、時々忘れちゃうんだけどね。三年生になってもう一ヶ月経つのに、教室で東雲くんを見たことは一回もない。でも机の中には用具が入ってるから、来たことはあるんだと思う。私がいないときに来たんだ、きっと。
そのうえ、私の家と東雲くんの家はおとなりさんだ。中学三年生のときに東雲くんが隣に引っ越してきて、そのころから東雲くんは大変な荒れ模様だった。引っ越して早々、近所の悪ガキから不良のお兄さんまで、みんな東雲くんが病院へ送ってしまったという。おかげで一時期近所の治安はすごくよかった。ご両親とは一緒に住んでないみたいで、東雲くんの家は広そうなのに、東雲くん以外の人の出入りはほとんどない。たまにダンディなおじさんが来てたけど、お父さんって感じじゃなかったし、今ではその人も見なくなった。
そんな東雲くんとおとなりさんな私だけど、今まで一度だって東雲くんとトラブルになったことはない。
「かえでー」
「和哉、お疲れ」
教室に入ってきて楓の背中に覆いかぶさる広田くんの腕を、ポンポンと楓が叩いてあげる。いいなぁ。ラブラブだなぁ。
「広田くん、お疲れ様」
「おー、我が妹! 癒されるぅ」
「妹じゃないよ、広田くん」
「妹みたいなもんだろ?」
広田くんはニカッと笑うと、向かい側にいる私の頭をワシワシと撫でた。ちょっと痛いよ、広田くん。楓も重そうにしてるよ、広田くん。
「つーか、俺らの娘みたいなもんだろ、小塚は」
「あー、そうかも。こんな大きい子、産んだ覚えないけどね」
「えー、私って二人の子供なの? そしたら楓、何か買ってくれる? そうだ、アイス買って!」
「誰が買うか。そんなことより、とっとと帰るわよ」
楓が広田くんを振り払って立ち上がった。
「ちょっと久々美、何してんのよ?」
「帰るぞ?」
「あ、私まだ残ってプリントやってくから」
「え、じゃあ私らも……」
「いいの、いいの! 二人は仲良くラブラブで帰ってください! バイバーイ」
「え、あ、おい!」
私は一気にまくし立てると、二人を教室から追い出した。まったく世話のかかる両親だ。でも二人とも優しくて大好き。本当の両親と同じくらい大好きだ。
気分いい状態のまま課題を終わらせて帰って、今日はスムーズにいろんなことが進んで調子がいい。
「ただいまー!」
「あら、おかえり。ちょうどいいとこに帰ってきたわね」
テンションに任せて勢いよくドアを開けて、元気に自分の帰りをお知らせしたんだけど、わざわざ大きな声で言う必要はなかった。
お母さんは玄関でハイヒールを履きながら、にこにこ私を見ている。というか、あれー? お母さん、おめかししてる。おでかけ? いいなぁ、おでかけ。
「お母さん、今から友達と夕ご飯行くの。ご飯用意しておいたから、お父さん帰ってきたら一緒に食べて」
な、なにー? 可愛い娘と愛しの旦那様をおいて、お友達と夕御飯だなんて! うらやましい。いいなぁ、できれば私も将来はそういう主婦生活を送りたいよね。いつもならいいなぁ、いいなぁってお母さんを困らせて遊んでやるところだけど、今日は気分がいいからしない!
「あ、それと」
お母さんはドアを開けながら振り返った。それで、悪魔のような笑みを浮かべて、捨て台詞を吐いた。
「回覧板と冷蔵庫の中に入ってる筑前煮のタッパー、お隣の東雲さん家に届けといて。よろしくね?」
「え?」
私が聞き返したのに聞こえてなかったのか、無視したのか。帰ってきた私の上機嫌を自分のものにして、お母さんは出かけていった。おかげで私のテンションは奈落の底へ落ちていきましたけども!
嫌なことはさっさと終わらそう! そうしよう! と思って、制服も着替えないまま、筑前煮と回覧板を持って東雲家の門の前に立った。心臓がバクバクする。このままどんどん早くなって、死んじゃうんじゃないかってくらい。そのくらい! そのくらいのことなのだ! 東雲くん家をお尋ねするっていうのは! とにかく落ち着け私。大丈夫。回覧板と筑前煮をお渡しするだけなんだから。悪いこと何もない! お母さんだってよくお尋ねして、平気な顔して帰ってくるじゃないか。ていうか、東雲くんかっこいいわねーとか言いながら、笑顔で帰ってくるじゃないか。くそう、お気楽な親め! いい! もういい! インターホン押しちゃうもんね!
お尋ねした東雲くん家はあいにくお留守だったようで、門の前で百面相をし、一大決心してインターホンを押した私の葛藤は無駄に終わった。でもいいの、そんなこと。危機をまぬがれたんだから! うふふ! 気分いいなー。歌でも歌っちゃおうかなぁ。
窓を開けて下に人がいないか確認してみる。人通りの少ない住宅街なので、全然人なんかいなかった。大きい声だとご近所迷惑だけど、小さい声なら大丈夫だよね。自分でも何でか分からないけど、校歌を選曲。あ、風が気持ちいい。散りかけてるけど、桜もきれい。
調子に乗ってノリノリになってしまったから、急にお向かいの窓が開いてすっごくびっくりした。本当にびっくりしてるときって、声が出ないものなのかな。間抜けなびっくり顔のまま凝視する目の前、すぐそこにいたのは当然だけど……。
「邪魔して悪かったね。すぐ出て行くから、気にしないで。続きドーゾ」
「……し、東雲くん」
「何?」
「あ、ううん、何でもないよ! ちょっとびっくりしただけ」
「そう」
東雲くんだ! 東雲くんがいるよ! 怖い! こんなことならいちいち窓なんか開けずに、お部屋でひっそり歌うんだった。東雲くん、いつにも増して怖い! なんでシャツに血が! 何してたの、東雲くん! ビクビクしながらさっきまで課題に勤しんでいた机に戻って、大人しく片づけをしてみる。大丈夫かな。さっきの校歌は東雲くんのお怒りを買っていないだろうか。ものすごく視線を感じる。窓の向こう。視線がささる。でもこのタイミングでカーテンとかしめたら絶対に殺される。
「し、東雲くん!」
「なぁに?」
「あ、えっと……なんで見てるのかなって……」
「別に」
「そ、そっか」
あははと笑ってみるけど、東雲くんはクスリともしなかった。ただその目で私を見ているだけ。吸い込まれそうなくらい。私もただ見返すことしかできなくて、ただどきどきした。このどきどきは、さっき門の前に立ってたときのとは、違う。
「あの、東雲くん、今から回覧板を渡しに行ってもいいですか?」
「どうぞ」
さっき門の前で何分かためらって百面相してたのが嘘みたいに、今度はあっさりインターホンを押せた。なんだろう。私、どうしちゃったんだろう。東雲くんが出てきて、門から玄関まで歩いて、当然だけど東雲くんが目の前にいて。でも、怖くなかった。学校の廊下ですれ違ったときは、あんなに怖くて楓を盾にしちゃうくらいだったのに。
「これ、回覧板だよ」
「ご苦労さま」
「それと、お母さんが持ってけって、筑前煮なんだけど、東雲くん、筑前煮とか食べる?」
「食べるよ。和食は好きだ」
「そうなんだ! 私も、好きなんだよ」
「だから、君のところは和食が多いのかな? お母さんには何度か御裾分けをもらっているんだけど、今度お礼をしなきゃね」
「そ、そんな! いいよいいよ! 好きでやってるんだから」
「じゃあ、とりあえずお礼言っておいて」
「は、はい!」
会話、終わっちゃった。どうしよう。そろそろお暇しなければ……。
「じゃ、じゃあ私はこれで……」
「歌……」
「へ? 何、東雲くん?」
「歌、上手いね」
「そ、そんなことないよ。音痴だよ」
「そうかな? 俺は綺麗だと思ったけど」
「や、やだな。恥ずかしいな。ごめんね、お耳汚しで」
「そんなことないよ。もっと自信持ちなよ?」
ドアによりかかった東雲くんは、きょどる私を見て小さく笑った。私の歌声なんかちっとも綺麗じゃない。東雲くんの笑顔のほうがよっぽど綺麗だ。ううん、比べ物にならない。月とすっぽん。フカキョンと私。松島奈々子と私。黒木瞳と私。そんな感じだ。すっかり見惚れてしまっている私にもう一度微笑んで、東雲くんは身を翻した。この前と同じように、学ランがヒラリと揺れて、椿の花がちらりと見えた。
「それじゃ、また明日、小塚さん」
「あ、うん、またね!」
……あぁ、もう、どうしよう。名前、覚えててくれたんだ。