ボタン ~押すなよ絶対だぞ!~
ボタンがあった。
目を覚ますとボタンがあった。
「なにそれ怖い」
一人暮らしのアパートに何者かが忍び込んだとでもいうのだろうか。
荒らされた様子もない室内、忍び込んでボタンだけを置いていく愉快犯。
だとしたらそれはホラーである。
待機している仕掛け人は今すぐ出てきてください。今ならまだ間に合いますから。警察を呼んでしまうよりも早く。その手に持つであろう「ドッキリ大成功」と書かれたプラカードを心待ちにしています。
「どこからどう見てもボタン」
手の平に納まりそうな銀の台座の上に浮かぶ赤いポッチ。チープなデザインは、見る人全てにボタンという印象を与える。その銀の台座に彫り込まれた「絶対に押さないで」という文章はMS明朝であり無機質な感じが真実味をかもしだす。熱湯を前にして「押すなよ、絶対だぞ!」というある種のお約束も相まって、浮かび上がるのは好奇心。
「押したらどうなるんだろう」
絶対に押すなということは、押すことによって何かが起こるのが自然である。これって、考えようによっては人類の命運がかかっているのかもしれない。スケール大きすぎた。人類の命運は言い過ぎた。もしかしたらこのボタンを押すことによって、どこか遠い場所で小さな不幸が起きるのかもしれない。
もしかしたら。
気に入らない相手の頭の上からタライが落ちてくるかもしれない。
ふーん、なるほどねぇ。効果の程はわからないけれど。こういうのね、ほら。なんていうのかな。自分で言うのもなんだけど王だよね。誤解がないようにもう一度だけ言わせてもらえれば、王様だよね。どうか押さないでくださいと懇願する家臣に、どうしよっかなーなんて言いながら押すか押さないかのソフトタッチ。
たまりませんなぁ。王者の風格を漂わせながら画像検索でライオンを入力。ほーう、いい面構えしてやがる。こんな感じで、ライオンに親近感を抱いてしまうのも仕方がないよね。
「でも、もし物騒な代物だったら……」
タライといった可愛いものではなく、もっと物騒なことを想像する。例えばどこかの爆弾の発射スイッチだとしたらどうだろう。っていうかそんなものが私の部屋にあるわけがない。それを言い出したらこんなボタンがあることもおかしい。部屋に遊びに来てくれるような親しかった人たちはどんどん結婚していった。取り残された私は天涯孤独の身の上なのだ。こんな茶目っ気のあるいたずらを誰が。
「もういいや。押そう」
ぽちっ。
増えた。
ボタン、二つになった。
二つになったボタンから目を逸らす。
世の中にはポケットを叩くことによって増えるビスケットもあるけれど。ボタンを押すことによって増えるボタンもあったらしい。らしいっていうか、どうしようこれ。分別の括りでいえば不燃ゴミでいいんだろうか。待て。仮にゴミ袋の中で押されてしまったらどうなる。際限なく増え続けるボタンを想像して溜息を吐く。
「はぁ……」
ぽちっ。
更に増えた。
ボタン、三つになった。
やってしまった。増えた方のボタンには増える機能がないのではないかといった希望的観測、少しばかりの好奇心から手が伸びてしまった。どうやら増えた方のボタンを押しても、ボタンが増えてしまうようだ。ボタンのことを考えすぎてボタンが何なのかわからなくなってきた。
「七つになった……」
七つ集めれば願いが叶うといったことももちろんなくて、なんだか楽しくなって押してしまった。もうどのボタンがオリジナルなのかも定かではない。ボタンの魔力、許すまじ。一度目のプッシュを今更になって悔やむ。そろそろ猫の額ほどの大きさのパソコン机からボタンが溢れ出してしまう。
いい加減に飽きてきた。増えたからなんだというのだ。増えたいなら増えればいい。だがな、明日にはみんなまとめて不燃ゴミに出してやる。そんな気概を持ってもう一度だけ押した。すると、銀の台座とそれに書かれた文章はそのままながら、ポッチの部分が青いボタンが出てきた。
「レア引いた」
巧妙に当たりを混ぜることによって、何度も引いてしまう、この場合は押してしまうが適切であるが。俗にいうガチャの原理というやつだ。パチンコにも同じことが言える。今はそんなことどうでもいい。この青いボタン、押したらどうなってしまうのだろう。
どうなってしまうのだろうもなにも、増えるに決まってる。増えて悲しくなるに決まっている。それでも押したくなってしまうのがボタンの恐ろしいところだ。
七つの赤いボタンと二つの青いボタンを前に、必死に目を背ける。
黒歴史なんて呼ばれる過去の遺産を目の前に広げられているかのような心境だ。あぁ……やめて。近寄らないで。読まないで「漆黒と地獄の狭間から生まれいずる混沌」うわぁあああ。やめてやめ「万物の根源」ぎゃあああ。
そんなこんなで赤いボタンが十、青いボタンも十になった。
そんなこんなってなんだ。区切りがよくなっただけじゃねぇか。もう自分で自分がわからない。区切りのいい数字にする最中。心のどこかで別の色のボタンがまた出ないか、期待していなかったといえば嘘になる。そろそろ黄色でもくるんじゃないかと思った。
もうボタンに釘付けであった。
ボタンの虜である。
ボタンなしじゃ生きていけない体になってしまった。
増えるというのはただそれだけで嬉しい。
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一か月後。
テレビに映るアナウンサーが真面目な顔つきで述べた。
「ボタンを見ても絶対に押さないでください。万が一ボタンを見つけた場合には最寄りの市役所までお届け願います。もう一度だけ言います。ボタンを見ても絶対に押さないでください」
そうして注意喚起を行うアナウンサーの手元には。
押されるボタン、そして増え続けるボタンがあった。