晴れ時々鉄骨
災難とは予期せぬ時に身に降りかかってくるものである。
避ける時間はなく、声をあげるいとまもなく、己の身に降りかかる殺人鉄骨をかろうじて視界に捉えたところで意識が途切れる。
人生最後の発見。
それは、死に至るほどの痛みは感じることすらもままならないということだった。
バイトからの帰り道、『不幸な事故』という避けようのない出来事が己の身に起こり、結果として人生が強制終了。
笑えない。ちっとも笑えない。
くべられた薪のように折り重なった鉄骨の束を見下ろしながら、意識が己の身体から離れ天に昇っていることを感じる。子供が気を抜いて手放してしまった風船が空へと向かっていくように緩やかに下から上へ。
ようやく突発的な事故を受け入れ始めると、同時に猛烈な想いが込み上げてきた。
(死にたくない! 絶対に死にたくない。死んでたまるか!)
死の拒絶、生への執着。
自分の人生はここからが本番だったはず。
やりたいことがようやく見つかって、叶えたい夢があって、果たしたい約束もあった。
(人生、こんなところで終わるわけにはいかないんだ!)
声の代わりに魂が叫んだ。
短いけど充実した人生だったなあ、などと達観は出来ない。
(死んでたまるか!)
地上から離れていく意識を、力づくで反転させ再び己の身体に戻そうと念じた。強くとても強く。
(このまま終われるか!)
生きていたどの時よりも頑なに願った。
だがしかし。孤軍健闘むなしく意識は天へと昇り続け、さらにはぼやけてもきた。
(死にたくない。このまま死んだら化けて出る。死んだって必ず蘇えってやる。でもやっぱり死にたくない。死に、たくない)
けぶるように色彩がうすぼけていく意識の淵。死ぬことを拒み続けることが、理不尽な運命に対する唯一の抵抗だった。
死ぬ、のは、い、や、だ。
虚ろになり、眠りにつく寸前のように白濁していく意識。
「生に対する執着はなかなかのようね」
まどろみにとろける中で、凛とした声が響く。
「ふむ。この者が選定するに値するかどうか、もう少し詳しく調べたいところだが、こちらもあまり時間が残されていない、か」
こんなものは所詮、消えゆく者が聴いた幻聴なのかもしれない。でも今の自分はそれに縋るしかない。だから、
「吟味を重ねて選んだツケが最後に周ってきたか。やむ得ない、この者を選定する。まあ悪運があると思えば、この者にも素養があるといえるだろう」
(助けて)
声の主に救いを求めた。
「汝の魂にアストヴェリア加護を。其は聖の元に導かれよ」
俺の願いは届かず、朦朧としていた意識がついに暗闇へと落ちた。
♦
「ん」
目が覚めると、寝起き特有の気怠さがあった。
「あ、生きてる」
半身を起すと尻に柔らかさと温もり。どうやら俺はベッドの上で仰向けになっていたらしい。
自身の身体をぺたぺた触り、特に異常ないということを確認。
「なんだ、夢だったのか」
という結論に至りほっと一息。しかけたところで、
「で、ここは一体どこなんだ?」
受け入れ難い景色を目にする。無機質な石に覆われている天井。視線を移すと壁や床も同じ。六畳ほどの部屋にはベッドと扉があるだけで窓もない。
どういうことだ?
牢屋さながらの部屋に自分が居る経緯も理由もわからず戸惑う。
ほどなくして、今自身が身に着けている衣服も、綿のような白い半そでに長ズボン。囚人もしくは患者のような出で立ちであることに気が付いた。
さっぱり分からない。何がどうなっているんだ?
顎に手をあててどうしようかと考えるが、自分の置かれている状況が把握出来ずに考えが浮かばない。
考えあぐねた結果、ひとますこの部屋から出てみようと思いベッドから降りる。
するとこれまた見覚えのない革らしきものをを編み込んだ靴を履いていたことに気が付く。
奇妙な状況に独りでいるという心細さを胸に抱きつつ、そろりそろりと木製っぽいドアに近づく。
ドアノブらしきものはなく、代わりに取っ手のようなものがちょこんとくっ付いていた。
いくか。
覚悟を決めたところで、大きく深呼吸をし、気持ちを整える。
見知らぬ部屋から出た先に待っているかもしれない未知を恐れつつ、取っ手をつまんだ。
そして扉を押し開こうとした瞬間、
「うわっ」
外側から引っ張られたらしいドアが突然開き、前に体重をかけていた俺はつんのめった。
「大丈夫ですか?」
倒れそうになるも、すんでのところで踏みとどまる。
「な、なんとか」
皮肉なことに、俺がピンチに陥ったのは、安否を気遣う声の主が原因である。
ん? 今、会話をしたよな。ということは。日本語を話せる相手が目の前にいる?
ということは、この得体のしれない場所は日本のどこか?。
明るい事実を確認すべく、俺は視線を地面から声のした真正面へと向ける。すると、
「いっ⁉」
素っ頓狂な声を挙げ、目の前にいる女性に目が釘付けになってしまった。
なぜなら、俺に日本語で話しかけてくれた女の人は、どうみても同じ人種の人間に視えなかったのだ。
白金の柔らかそうな髪。吸い込まれそうな緑がかった瞳。綺麗な鼻筋に小さな唇。もしこの世に女神という存在がいるのならば彼女のことを示すのだろう。
度を過ぎた美人というのは、目の保養になるどころか、身体が傷つけられるほどに危険なこともあるらしい。
「はじめまして、私はカリー・イエントといいます。どうぞカリーって呼んでください」
俺の無礼ともいえる反応など微塵も気にする様子もなく、カリーと名乗る女性が微笑みかけてきた。
「キミのお名前は?」
笑みを崩さないまま、カリーさんが言った。
「あ、あの、俺は瀬田俊っていいます。いやあ、カリーさん日本語、お上手なんですね」
自己紹介がどことなくへりくだってしまうのは、本能的に人間としての負けを悟っているからなのかもしれない。
それにしても、日本離れどころか浮世離れしたカリーさんの容姿。彼女は一体どこの生まれなのだろうか?
「ふふ、ありがとう。と言いたいところだけど違うのよね。私は今、ニホンゴなんて話していないわ」
「へ?」
「キミの方が私たちアストヴェリアの言葉を話しているのよ」
何を言っているんだこの人?
俺はカリーさんのおっしゃる言葉の意味が理解出来ずにきょとんとしてしまう。
「ちょうどいいわ。今からキミの置かれている状況を説明したいと思うのだけどいいかしら?」
「……お願いします」
今の時点でもカリーさんに問い質したいことは幾つもあったが、まずは彼女の話を先に聞いておくことにした。間違いなく、彼女の説明を受けた後で質問したいことが増えると思ったからだ。
ならばあとでまとめて聞いたほうが良い。
「よろしい。ではまず初めに言っておくけど、キミは一度死んでしまったのよ」
「ちょっとまってくださいよ!」
無意識のうちに言葉が出た。黙って話を聴こうと思った矢先にとんでもない発言がきたものだ。
死んだのなら、今カリーさんと話をしている俺はなんなのだ? まさか、ここは天国ですよとでもいうつもりか。
「認めたくないのは分かるけど、落ち着いて考えてみて。キミは目が覚める直前どういう状況だったのかしら?」
端正な顔をしかめるカリーさんはどことなく気まずそうだった。
「……」
彼女に言われ、いやがおうにも事故に遭ったことを思いだす。
「心当たりがあるのじゃないかな?」
カリーさん以上に顔をしかめているであろう俺に追い討ちが。
「まあ、あるといえばありますけど…… でも死にましたと言われてはいそうですかと納得はできませんよ」
混乱はしていたが、俺は今の自分の気持ちを素直に吐き出した。
やはりどうあっても、己が死んだことを認めることなどできはしない。俺は生きていたいのだ。
「それはそうよね。じゃあ私の言葉を信じてもらうために、外にいきましょうか。付いてきてくれるかな?」
どちらにしろこの部屋にずっといるわけにもいかないか。
「分かりました」
警戒心は残っていたが、今のところ印象の悪くないカリーさんの言葉に従うことにする。
「それじゃあ、いきましょうか」
「はい」
部屋から出ると、長く広い廊下が続いていた。 天井が高くゆったりとした建物は妙に古めかしい。かといって、老朽が進んでいるという感じもない。目立ったシミなどもないし手入れは行き届いているのだろう。
さらに等間隔で壁に飾られたタペストリーが荘厳かつ瀟洒な雰囲気を醸し出している。どこぞの貴族のお城みたいだなというのが率直な感想だった。
「いい? 外にでるわよ」
長い廊下を抜け、赤い絨毯が敷き詰められたエントランスらしき場所にでると、大きな両開きのドアに手を掛けながらカリーさんが心の準備を促す。
「はい、お願いします」
さてはて、何が待ち受けているのやら?
俺はある種の覚悟を決めて返事をした。