二人の未来
いつもと同じ朝が来る。
「グツグツグツ」
音の鳴り始めと同時に。
「ふーっ」とため息をつきながらいつもと同じように朝を迎えた。毎日分かっていることではあるのだが、ため息をつきながら迎える朝はどうしようもない気分だ。炊飯器が米を炊き始める音で目を覚ますのがいつもの日課となっている。そしてもう一度寝る。
「ピピピピピ」
音が鳴る。
一時間前と同じように、「ふーっ」とため息をつきながら、夜仕事から帰ってきた後に食べるためにセットしておいた米が炊き上がる音で六時に再び目を覚ます。
そしてもう一度寝ようとする。しかし眠れずにベッドの上で考え事をしながら次の音が鳴るのを気にする。
次の音が鳴り始めると同時に、部屋に光が放たれる。丁寧にニュースを読み上げるアナウンサーの声が部屋に響き渡る。
六時五〇分、アラーム機能でついたテレビをベッド横の机に置いているリモコンでついたと同時に消す。
そしてしばらくベッドの上でそれまでと同じように何もせずに考え事をする。
小学生の登校する声が聞こえる。
また朝が来た。何も代わり映えのない朝が来た。
昨日と同じように会社に行き仕事をこなさなければいけない憂鬱な気分に襲われる。次の音が鳴るのを目を閉じながら気にしつつ、いつベッドから起きて、歯を磨こうかと考えている。
すると彼のあの目が瞼の裏に現れた。まるで俺に何かを訴えているかのように睨んでいる。
ハッと目を覚まして、昨日の仕事帰りの出来事を思い返していた。そして一つの懸念が生じた。
自分のしたことは本当に正しかったのかと。そんな自問自答をしながら会社へ向かった。
昨日の朝はいつも以上に目覚めの悪い朝だった。
クーラーの音で目を覚ましてしまい、これが現実なのかと嫌になる。
本当はもう二度と目を覚ますはずではなかったのだから。
「結局死ねなかったか」
そうつぶやいて、部屋の灯りをつけ机にある睡眠薬のビンに目を向けた。
量が少なかったのかと思いながら、ビンの蓋を開ける。
そう、俺は自殺をしようとして大量の薬を飲んだ。
ちゃんとインターネットで調べて致死量を飲んだつもりだったが駄目だったらしい。
自殺してしばらく発見されずに暑さで自分が腐敗することが怖かったため、クーラーをつけっぱなしにしていた。もうすぐ九月だというのに夜中にこの暑さはさすがにまいる。
寝汗を少しかいている。どうしてこんなに暑いのかと思いながら、クーラーの設定温度を下げる。もう死のうとしている人間がするにはおかしいのかもしれないが、最後ぐらい快適に眠り続けたかったのだ。
ここまで育ててもらって自殺するのは自分勝手だとも思ったが、それは俺だけに限ったことだろうか。
人間は勝手な生き物だ。
人間が生きる場所を求めたために、自然を破壊し、そこに住む生物の居場所を奪った。
生活がもっと便利になるようにと様々なものを開発し、街にはたくさんの車が走り、工場が立ち並ぶ。
人間は勝手な生き物だ。
自分達の居場所を失った動物達が餌を求め、丹精込めて作った畑の農作物を荒らしに来るのを人間はひどく嫌う。
そう、かつての人間が彼らにしたのと同じことを彼らにされているだけなのにもかかわらずだ。
人間の生活を便利にするための車や工場から排出される煙を、空気が悪い、大気汚染だといって自分達で環境の悪化を指摘する。そこには二酸化炭素を吸収して酸素を放出してくれる自然が少ないからだと、自然を破壊した人間本人が言っている。
その結果、異常気象に敏感になり日本近海では見られるはずのない魚が悠々と泳いでいるのが目撃され、世間は大騒ぎしている。
過去最高規模の台風が日本に近づいているというニュースを毎年耳にしているのは気のせいだろうか。今年の夏は例年以上に暑い夏になると毎年聞いているのも気のせいだろうか。その度に地球がおかしいと言って人間同士で議論している。
だがきっと、未来にはその暑さに対抗する優れた冷房機器が発明されるのだろう。
そしてまた温暖化は繰り返し進んでいくのだろう。
「便利になりすぎるのもあまりよくないのかもしれない」とその便利になった恩恵を受けるだけ受け、都合が悪いことに関しては見知らぬふりをして被害者ぶる。
「このまま温暖化が進んでいった場合の一〇〇年後の地球の平均気温は・・・」といったニュースもあるが、そんなことは自分には関係ない。関係あるのはこれから生まれてくる未来の人間、自分の子どもやその子ども達になる。
そしてその未来の人間達は今の人間達と同様に暑い・異常などと言っているのだろう。
過去の人間が残した便利なものには感謝をし、都合の悪いことには平気で文句を言っていることだろう。
「便利になりすぎるのもあまりよくないのかもしれない」と過去の人間に対して思っているかもしれない。
人間は勝手な生き物だ。
俺も過去の人間の恩恵を受けている。都合の悪いことには被害者ぶるが、紛れもなく未来の人間に対しては加害者でもある。
未来とはいったい何なのか。
そんなことなど今の自分にはもう関係ない。今まさに自ら自分の未来を捨てようとしているからだ。何もこれから生きる先に、明るい未来が待っているわけではない。そんな先のことなど今は何も想像できない。想像できるのは何も代わり映えのしない今日と同じ明日という未来がやってくるということ。
このままじっとしているだけでは自分の未来を変えられないことは分かっている。
だから自ら決心し行動することで自分の未来を変えることにした。
輝かしい未来に向かって明日を変えるのではなく、もう未来などに悩む必要もなくなるように、自ら自分の人生をここで捨てることで本来あるはずの未来をこなくする。
人生をここで終わらせるという決心だった。
過去の偉人達は言っている。
『あきらめてはいけない』とか『挑戦し続けることが大切だ』などと。
そんなことは成功した者だから言える言葉なのだとずっと思っていた。もう挑戦する気力すらない。もう明日なんて来なければいいと毎日思っていた。
夜寝るとき、このまま目が覚めなかったらいいのにと考えながら眠りにつく。そして当然のように目が覚める。
目が覚めた途端、今思い悩んでいる現実から解き放たれ、何年か前のあの充実した頃に戻っているのではないかと、すべてこれは長い夢だったのだという結末を願ったりもしてはいたが、そんなことが起こるはずもなかった。
ちゃんと目を覚ますし、何度目を覚ましても過去に戻っていることはなかった。
あるのはこれから始まる、昨日の続きの今日という未来だ。
だから俺はその未来から逃げるため、この手で未来を奪い去ってしまおうと今まさに大量の薬を飲もうとしている。インターネットでどれだけ自殺の仕方を調べたことか。
先ほど失敗したため、念を入れ致死量とされていた量である先ほどの二倍の錠剤を一気に口に入れ、水で腹の奥底に流し込んだ。
「ごくり」
体が一気に熱くなってきている。
「あー。これでもう悩む必要もなくなる」
そうつぶやきながら意識が朦朧としていった。
そこで目が覚めた。
「ふーっ」
いつも以上に深いため息をついていた。
なんとも嫌な夢だ。おかげでクーラーをかけていたのに寝汗をかいてしまった。ちょうど一年前に試みようとした出来事が夢で蘇った。
だが一年前は、大量の薬をネットで買うだけで終わった。結局それを一気に飲み込むことができずに一年を生きてしまっている。
だから今こうして朝を迎えたのだ。
昨日の朝がいつもと違ったのは、そんな嫌な過去を忠実に再現された夢を見た後、アラーム機能でついたテレビを少し聞き入ってしまったこと。
ベッドにうつ伏せの状態で、ベッド横の机の上に手を伸ばしてリモコンを探したが見つからず、テレビをすぐ消すことができなかった。
流れ始めたニュースを見ずに、ベッドでうつ伏せのまま机の上にあるはずのリモコンを腕だけで探しているうちに、アナウンサーから読み上げられるニュースが耳に入ってきた。
就職してからは学生時代とは違い長い夏休みなんてあるはずがない。夏休みを満喫している学生を見るとうらやましいなとこの一カ月は思っていたが、昨日は聞くつもりもなかったニュースを聞きながら学生に少し同情していた。
一部の地域では今日で長い夏休みも終わり、明日から新学期を迎えようとしているとアナウンサーが言っていたからだ。
俺は机の下に落ちていたリモコンでやっとテレビを消して、本来なら休日のはずの日曜日に、朝食も食べずに歯だけ磨いて会社に向かった。
昨日は休日出勤にもかかわらず仕事が終わったのは、二二時を回っていた。ここ最近はずっとこんな感じだ。遅い時は〇時を回っていることも珍しくない。二〇時に帰れるならラッキーなくらいだ。もうこんな日常にもすっかり慣れてしまっている。
会社から出ると小雨が降っていた。黒い雲に覆われた空の下を、水たまりを避けながら駐車場にある車まで走っていき、帰りに夕飯のおかずを買いにスーパーに寄った。
いつもと同じように、半額のシールが貼られた今週買うのは何回目かというお決まりの惣菜をカゴに入れようとしたとき、胸元に黄色の名札をつけた男の子とすれ違う。
この時期には珍しい制服姿で身長は俺とさほど変わらず細身な体型で顔が少しやつれているようだった。どこかそわそわしていて、万引きでもするのではないかという何かしらの違和感を抱かずにはいられない。
「ゾクッ」
体が寒気を感じ身震いした。その原因は彼の目だ。
今の彼の目に俺の背筋は凍りついてしまった。俺の細胞が瞬間的に反応したようだ。
彼を放っておくなと言わんばかりに、自分の意思と反して、なぜか俺はしばらく彼の行動に目をやっていた。すると彼は何かをとるでもなく、買うでもなく店の外に出て行った。俺はすぐにレジでお会計を済まし、彼の姿を探していた。
雨は少し強くなっていた。
さっきすれ違った時の彼の目はどこかで見たことのある目だと感じていた。どこで見た目なのかはすぐに分かった。
思い悩んでいたあの時の、鏡に映る自分の目にそっくりだったのだ。俺はハッとして強くなる雨の中、彼の後を追っていた。深い闇に吸い込まれるように、とある橋の中央にある彼の姿が、数少ない対向車のヘッドライトによって照らされた。
俺は必死に走って彼を追いかけた。頭には今朝のニュースが流れていた。
もうすぐ新学期が始まるというニュースを読むアナウンサーに対して、コメンテーターが言っていたこと。
学生にとって新学期が始まろうとするこの時期は、自ら命を絶ってしまう学生が多いので気をつけないといけないと語っていた。
橋の中央で何か覚悟を決めたように「ふーっ」と一息つきながら手すりに手をかけ、身を投げ出そうとしている。
俺はとっさに「横山君」と叫んで駆け寄り、彼の左腕を掴んで行動を制止させた。掴んだ左の手首には何かで切ったような傷跡が見えた。
体を半分投げ出した状態で静止している彼と目が合った。
「ああ。やっぱり」
彼の目は彼の名前にはとうてい似つかわない、絶望に満ちた目をしていた。そうあの時の自分の目を見ているようだった。自分の未来を若くして捨てる覚悟をしていた彼を引きずり下ろした。
彼の目には溢れんばかりの涙が込み上げていたのがすぐに分かった。
「どうして。どうして」
彼はか弱い声を発しながら地面にしゃがみ込む。彼にかける言葉が見当たらなかった。彼の目を見るとあの時の自分に問い詰められている感じがした。
しばらくの沈黙の後、口を開いたのは彼のほうだった。
「どうして。名前を?」
彼はそう問いかけた。そして俺はスーパーですれ違ったこと、そしてその時に感じ取った目の違和感を説明した。彼は驚いた様子だった。彼は俺とすれ違ったことにさえ気付いていなかった。
「無理もない、そんな心境ではなかったのだろう」
そう答えた。続けて彼は聞いてくる。
「僕は一体どんな目をしていたの?」
少し睨まれているように感じた。
「なんて余計なことをしてくれたのだ」とその目は語っているようで、その目に圧倒されそうになる。
「過去の俺の目に似ていたんだ。自分の将来を悲観し、何をやっても楽しくない。
必ずやってくる朝を怖いと思いながら仕方なく生きているような目。いっそうこの人生を自分で終わらせてしまおうかと思っている目だった。そう、あの日の自分の目と同じだった」
橋の手すりにもたれながら彼に説明した。
彼も少し冷静になったようで、横に並んでお互い俯きながら話続けた。
「お兄さんは何があったの?」
「俺は仕事の悩みさ。君も生きていればそのうち分かる日がくるかもな」
「そんなに辛かった?」
「ふーっ」と俺はため息をついた。
「さっきも言っただろう。あの時の俺と同じ目を君はしていたんだ。それがどういうことなのか今の君が一番分かっているんじゃないのか?」彼の目を見て話した。
彼はビクッと身震いさせながら「そっか」とつぶやいた。
彼の目から先ほどまでの鋭さはなくなっているようだ。雨がまた少し強くなってきた。
「帰ろうか。家まで送ってくよ」
さすがに彼を一人で帰らすわけにはいかなかった。スーパーに向って歩き出した俺に「聞かないの。僕の理由は?」と言った彼に、「聞いてほしいなら聞いてあげるけど。続きは車の中にしようか」と振り向きもせず彼に言った。
さっき身震いした彼を見て、俺は今もあの時の目をしているのではないかと思い、彼にしばらく目を見せることができなった。
スーパーについて自動販売機でコーヒーを二つ買った。その一つを彼にあげると、「ありがとう」と優しい目で返事をしてくれた。
何だ、素直な子なんじゃないかと思いながらも、逆にこういう人間こそが自分を追いつめてしまうということも分かっていた。
車に乗ってしばらくして、次は俺から口を開いた。
今でも何故こんなことを知り合ったばかりの少年に話したのかは定かではないが、直感的に話さなければいけないと感じ取っていた。それは生きていればいいことが必ずあるとかそんな綺麗事ではなく、さっき話した、鏡に映った自分の目についてだ。
彼にとって俺の過去の話なんてどうでもいいことだろう。聞いているのか、聞き流しているのかは俺には分からなかったが、そのまま俺は自分の意思のまま話していた。
「あれは一年前の今頃だったかな。仕事が本当にしんどかったんだ。毎日夜中の〇時頃まで残業するのが当たり前になって、休日出勤までして必死に働いていた。それでも仕事ってうまくいかないんだよな。
別に労働時間が多くて肉体的にしんどいとかというよりも、精神的にきつかった。ただそれだけだ。もう会社のメールを見るのが怖いくらいだった。
俗に言う鬱ってやつだな。会社の人にも親にも友達にも誰にも相談することはできなかった。親には心配かけたくないし。でも体はいつも正直だ。頭痛もして夜も眠れない。でも会社に行かなきゃいけない。そこからは責任感と自分の体の訴えとの戦いだった」
彼をチラっと見たがまだ彼は俯いていて表情は読み取れなかったので、そのまま続けた。
「どうしてだろうな。それでも無理して会社に行ってしまうんだ。悔しいけど。
行ってもまた余計に苦しみが増すだけだって分かっていながらも、行かなければ一日分の仕事が増えることになるし」
いつもは気にならないウインカーの音がやけに大きいように感じた。
「でもその日が来た。ついに自分の責任感より、体の訴えが勝ったんだ。体の訴えは凄かった。頭痛は不思議となかったがそれ以上に朝ベッドから起き上がる気力が完全になかった。会社に行かなきゃと悩むこともなく、会社に休みの連絡をいれた。その日は部屋の灯りもつけず、何も食べずに、ベッドの上でただボーっとしていた。
それを三日も続けたんだ。それからは出勤したり休んだりの繰り返し。会社から病院に行ったらと勧められて病院に行って、簡単な問診を受けたら案の定、精神科に回された。診断結果は想像通り鬱だった。薬をもらって体をだましながら仕事に行ったり、駄目だと思って休んだり」
すると久しぶりに彼の声を聞いた。
「休んだ日は何をしていたの?」
俺はもう独り事のように話していて、彼が乗っていることを忘れているぐらいだったので彼が聞いていることに驚いたが、彼の質問にありのままを答えた。
「ベッドの上で携帯をいじっていたさ。転職サイトに登録したり退職届の書き方を検索して書いたり、仕事を辞めてからの次の人生を想像していた。ただ俺ができたのはそこまでだ。この仕事を辞めて次の仕事は見つかるだろうか。頭の中ではどんな仕事だって構わないと思っていたが、他人の目を気にしちゃうんだよな。ある程度の職に就かないといけないんじゃないかって。
辞めたいのにその後のことを想像して辞められない。別に我慢していれば満足できる給料はもらえるし、それなりに知名度のある会社に勤めてはいるわけだし。精神面の負担以外には特に不満はなかった。
だけどそれが自分にとって一番重要なことなのだろう。自分の体が素直に反応しているのだから。
だがその反応を見て見ぬふりをしてこの通り一年間辞められずにズルズルと働き続けている」
「辛くないの?」
俺の話の合間に少しずつ問いを投げかけてくる。
「当然辛いさ。その結果、自分のあんな目を見ることになったんだ。君がさっきしていたのと同じような目をね。もう自分自身が嫌になったことがあった。そう、さっきの君みたいにこんなに苦しいならいっそ・・・」
この続きの言葉を今の彼に言うべきか、別の表現に言い換えようかと言葉を詰まらせたとき、「死のうと思ったんだ」まさに言おうか言うまいか悩んだ言葉を彼がそのまま代弁してくれた。
「ああ、そうだ。死に方もいろいろ調べたさ。
でも人間って勝手なものだよな。中々それができないのだから。何度も包丁を手にして、手首や胸に当てたこともあったが、それ以上押し込むことはできなかった。
顔にサランラップを巻いて寝ようとしたが、苦しいギリギリのところでほどいていた。大量の薬を買って一気に飲み込もうともしたが、封すら開けられない。
自殺した俺を最初に見つけた人の衝撃はどうなのか。変わり果てた俺の死体がその人の脳裏に一生焼き付くかもしれないし、自殺したことを親が知った時どうなるか考えるとそんなことはできなかった。
俺は一人っ子だから。結婚して孫の顔を見たいと楽しみに言っていた親の顔が浮かんでくる。それにマンションの一室で自殺なんてしたらその部屋はいわくつきになって、自殺した俺から両親に残すのは、失望と多額の損害賠償だってこともネットには載っていた。
親より早く死ぬことは親不孝なのにさらにそんな負担もかけるのかと。
だから自殺と疑われない死に方もネットで調べたさ。当然実行しようとする前にはその検索履歴もしっかり消して、自殺しようとしていた痕跡も残さないようにな」
俺はありのままを話し続けた。
「やっぱり勝手なものだよな。いっそ死ぬならヒーローになって死ねたらなって思ったこともある。よくドラマとかにあるだろう。事件に巻き込まれた子どもを助けるために飛び出して代わりに撃たれるってやつ。でもそんなこと起きやしないし、実際起きたところで腰が抜けて、ただ見ているだけの臆病な傍観者なのかもしれない。
そんな思いも知らずに助けられた子どもに、自分の身代りに死んだ人がいるのだと悲しい思いをさせることほど罪深いことはない。一生その子に自分は生かされた命なのだと、助けてくれた人の分までしっかり生きないといけないなどと、変な責任感を持たせることになる。
本当は自分が身代りとなって死ぬためだけに助けたのにだ。
あと車の前に飛び出して轢かれることも考えたけど」と言ったところで彼は俺のほうを見つめた。
目が合ってしばらくの沈黙の後、
「実際に俺の勝手で轢いてしまうことになる運転手のことを考えるとそんなことはできなかったけど」
そう言うと彼はハッとして俺から目をそらして言った。
「自分勝手なんかじゃないじゃん」
「いや。世の中には望まずして死んでいく人はたくさんいる。それは寿命だったり、病気だったり、事故だったり、殺害される人だっている。そんな人が望んだ明日を俺は死にたいと思いながら過ごしていたんだ。むしろその人たちの代わりに俺が死んだらいいのにと思いながら」
「うん」彼は相槌をうった。
「そんな時だ。ふと鏡に映った自分の目が絶望の淵に立たされたような恐ろしい目をしていたのは。
当然のことだ。死ぬことだけを考えて生きていた。もう自分には未来なんて関係ないと思っていたのだから。
自分の目に背筋が凍る思いをしたのは後にも先にもあの時だけだ。まさか人の目で同じ思いをすることになるなんて思ってもいなかった」彼の目が再び頭の中によぎったのを、振り払いながら話続けた。
「家族を含め、俺が自殺することで巻き込まれることになるいろんな人のことを考えると死ぬことが怖かった。そして万が一、死にきれずに生き残ってしまった場合、それからどうなるのか考えると死ぬことが怖かった。そして結局できなかった。死ぬことも、会社を辞めることもな。その結果今こうして君といることになった」
彼は近くの高校に通う二年生だった。俺が一通り自分のことについて話し終えた後、意外にもこちらから聞くことなく自ら自分のことについて話しだした。
「僕は母子家庭なんだ。父は僕が四歳の頃に不運の事故で亡くなったらしい。だから父の記憶はあまりなくて、母にどんな人だったか聞いていた。その時から母との二人暮らしが始まったんだ」
彼は丁寧にこれまでの一七年を話してくれた。
「それから僕は母に迷惑をかけないように幼いころからずっと良い子を演じてきた。母は女手一つで子どもを育てるために昼夜問わずに働いてくれた。決して強い体ではないのに、僕に不憫な思いをさせないようにと必死だったのだと思う。
そんな母に僕は気遣って、欲しいものを我慢し、母の負担を少しでも軽くしようと家事を手伝った。我儘は言わなかった。小さいころからずっとずっと自分を犠牲にして生きてきたんだ」
どこか俺と似ているところがあると思った。俺も子どもの頃からよく空気を気にしていたからだ。
しかし彼ほどではないなと思い、自分と似ているなんて、到底言う気にはなれずに相槌だけした。
「小学校を卒業して、中学生になってやっと本気で打ち込めるものが見つかったんだ。中学校では必ず何かの部活に所属しなければいけなくて、仲の良かった友達が陸上部に入部するということで僕も陸上部に入部することにした。陸上部なら他のスポーツに比べて用具にお金がかかるわけでもないし。
僕は小学校の時から運動神経は良くて、市の陸上競技会では長距離の選手として学校を代表して出場し、優勝もしたことがあるんだ。
運動神経が良いのは父親譲りみたい。母が運動があまり得意ではなかったのは、運動会の親子競技とかで知っているんだ。確か父と母は大学の同じ漫画サークルで、二人ともインドア派で育ち方も似ているっていうことで気が合ったって聞いていたから、父親がスポーツしていたイメージはなかったんだけど。
そんな父のおかげか自分で言うのはアレだけど、長距離の選手としていつのまにか学校内で注目される存在となっていたんだ。中学三年生の時には全国大会で優勝もしちゃって。
これまでは興味を持てるものもなく、家に帰って一人でいる時間はふといろいろ考えてしまうこともあって嫌だったけど、走っている間は無心になれて気持ち良いんだ」
どこか遠くを見て彼は話していた。そして彼は俺が想像していた彼とは違った。
確かに彼の置かれた環境は辛いものがあったのだろう。しかし何の才能もない俺からしたら、立派な才能があって羨ましいと思うほどだった。これからその才能を活かすことはいくらでもできるだろう。そんな才能と輝かしい過去の栄光を持ちながら何故あんな目をすることになったのか疑問で仕方なかった。
彼は話を続けていく。
「そのころから真剣に進路を考えるようになったんだ。母に負担もかけたくなかったから本当は高校には進学せず就職するつもりだった。しかし母は反対したんだ」
わが子の将来を思ってのことだったのだろう。親として経済的なことで子どもの将来の選択肢を狭めることは辛いことだ。
「母は僕に泣きながら言ったんだ。今まで散々自分を犠牲にしていたことを知っているって。これ以上誰かのためではなくて自分のために生きてほしこと。父と覚悟をもって僕を生み、この名前をつけたということ。たった一回きりの人生を後悔なく楽しんで生きてほしいんだって言ってくれた。
母はずっと僕のことを見てくれていた。理解してくれていた。ちゃんと見てくれていたんだという安心感からか、これまで心配かけまいと見せなかった涙がこれまで我慢してきた分まで溢れてきて、母としばらく泣いていたんだ。そうしたらふと母の手に握られているものが目に入った。それは母が肌身離さず毎日身に付けていた十字架のペンダントだった。
母は一瞬照れたけど、どこか神妙な面持ちで説明してくれた。そのペンダントには若い父と母に生まれたばかりの僕の家族三人の家族写真が入っていた。それが母のお守り代わりなのだと教えてくれた。そこで初めて僕は母に我儘を言ったんだ。そのペンダントと写真が欲しいって。でも母にはこのペンダントだけはあげられないって断られた。これは父が死ぬまでしていたもので、次は私がしないと意味がないって言っていたかな。それに何か話したいこともあるって言っていた。それは時が来たら話すって言っていたんだけど。
そのとき母は古いアルバムを取り出してきて見せてくれたんだ。そのアルバムは父が僕の成長の証として作ってくれていて、ペンダントの家族写真もあった。僕に悲しい思いをさせないように見せなかったらしいけど、ペンダントの代わりとしてそのアルバムをくれたんだ。でも結局今こうして僕がそれを身に付けることになっちゃった」
そう言うと彼は胸元に手を当てた。
首元には銀色のチェーンが見え、彼が制服の上から手を当てた胸元に何があるのかは容易に想像がついた。しかし何故彼がそれを身に付けているのだろうか。
「それからしばらくして今の高校から推薦の話が来たんだ」
彼の通っている高校は全国でも有名な高校で、何度も甲子園に出場しサッカーの強豪校でもあるほどスポーツに力を注いでいる私立高校だ。当然と言えば当然の話だ。全国一位の選手なのだから。
「推薦入学で学費はほとんど免除される。それで僕はこの高校に入学することに決めた。母も大喜びしてくれた。それからは部活も勉強も可能な限り努力し、高校でもタイムを伸ばしていった。充実した高校生活だったんだ」
急に声のトーンが低くなった。まだ高校生活を送っているのに高校生活が終わったかのようなニュアンスだ。
ここで悟った。彼があの目をした理由がこれから彼の口から発せられることになるのだと。
「三週間前、部活の途中に顧問の先生が血相を変えて僕に向かって走ってきたんだ。先生が話す言葉に体が震えた。だんだん血の気が引いていくのが自分でも分かった。顧問の先生の車で急いで病院に向かって病室に行くとしばらく立ちすくみ、間違いだと信じてベッドに横たわる人の顔にかけてある白い布を恐る恐る取った。
そこにはきれいな顔をした、母の顔があった」
彼はあっさりと言ってのけた。胸に手を当てながら。想像もしていなかった展開に俺は何も言うことができなかった。
それからはあっという間のことだったと言う。
まだ高校二年生の彼には通夜や葬式をどうしていいか分からないのは当然のことだろう。今の俺だってそうだ。両親が死んでしまったら何をどうしていいのかなんて想像もつかない。
今日が三七日で、今家には親戚の人が集まっているらしい。俺は葬式の経験などはなく、初七日や四十九日などは知っているが亡くなってから七日毎に行われる二七日や三七日などがあることを彼から聞いた。
彼は担任の先生がお参りにきてくれていたので、少し先生とこれからのことについて話をしてくると言って家を抜けてきたらしい。誰も飛び出す彼を止めることはできなかったのだろう。そして誰も彼がこんなことするとは思ってもいないのだろう。
互いに打ち解けつつあったとき、彼の携帯電話が鳴った。さすがにこんな時間まで帰らなかったら心配して電話の一つでも掛けてくるのは当然だ。彼は少し戸惑って電話にでた。
「うん。ごめん、大丈夫。先生に話を聞いてもらっていたんだ。車で家まで送ってもらっている途中だから。もう少ししたら帰るよ」彼はそう言って電話を切った。
「俺はいつから君の先生になったんだろうか?」
「仕方ないじゃん。先生に会ってくると言って出てきたんだから。それに僕にとっては人生の先生みたいなもんだし。あながち嘘はついてないよ」
「あんなことをしようとしていたのに?」
彼は黙り込んだ。なんて嫌なことを言ってしまったのだろう。
それからは無言のドライブとなった。
もうここでいいからと言う彼を、何とか彼のいう家の前まで案内させ、ガレージに止めてあるシルバーの車の前に駐車した。
彼は一緒に車を降りて家の前まで行った俺にびっくりしたようだ。
「さっきのこと言うつもり?」
彼は鋭い目で睨み付けてきた。でもその目はもうあの目ではなかった。
「これを確認したかっただけ」と表札を指差した。
「若くても、生きているだけでいろいろ悩むこともあるよな。横山未来君」
そう言って家の扉を指差し、彼は察したかのように扉を開けて家の中に入っていこうとしたが、扉を閉める前に俺に向かって軽く会釈してから扉を閉めた。それを見届けてから車に乗り込み、本格的に降り出してきた雨の中、自分の家に向かって車を走らせた。
俺はマンションに住んでいるが、駐車場は少し離れたところにある。駐車場からマンションの自分の部屋に向かって半分あきらめながら走っていた。傘も持っていないし、どのみち全力で走っても濡れてしまうのは避けられないほどの雨になっていたからだ。そして部屋の扉を開けると同時にびしょびしょになった服とズボンを脱ぎ、すぐにシャワーを浴びた。
「ふーっ」
今日何度目かというため息をつきながら、風呂場の鏡を見た。少し安心した。あの時の目をしていなかったからだ。少し良いことをした気分に浸りながらさっと風呂を済ませる。鏡を見ながらドライヤーで髪を乾かしている間、自分の顔をじっと見つめていた。
「大丈夫。あの時の目はしていない」
そうつぶやきながら自然と顔がにやけていくのが映る。一時間前の出来事がさぞ自分がヒーローだったかのように思えたからだ。さっきスーパーで買ったいつもと同じ惣菜と十八時間前には炊き上がっていたご飯を食べ始めた。
そして日付が変わった一時頃、朝を知らせてくれる米を研ぎ、いつもの時間に炊き上がるようにセットしてベッドに入った。
そして数時間後、いつもの音が朝になったことを順番に知らせてくれる。
いつもと変わらぬ朝を迎えベッドの上でいつものように目を閉じながらグダグダしていると、彼のあの目が瞼の裏に現れた。
まるで俺に何かを訴えているかのように睨んでいる。ふと昨日の彼の言葉を思い出した。
「仕事中に倒れたらしい。これまでの無理が祟ったのだと思う。人のためじゃなく自分のために生きてほしいって言っておきながら、母は俺のために必死に働いてくれていたんだ、俺のために生きてくれていたんだ。
あのとき母が自分で言ったこととは矛盾しているよね。母は自分の人生に後悔していなかったのだろうかって考えてしまうんだ。それに夢に出てきたんだ。父親と一緒に。何か言っていたようだったけど何も聞こえなかった。無性に寂しくなった。これからの未来が怖くなった。
だから・・・会いたかった。会いに行きたかった。ああすればもう一回一三年ぶりに家族三人会えるんじゃないかと思った。母が話したいと言っていたことも聞きたかったし」
彼のこの言葉が深く胸に刻まれている。
俺のしたことは正しかったのだろうか。いや人間として正しいことをしたのには間違いない。でもそれは俺から見た場合の話である。彼から見た場合はどうだったのだろうか。
もし俺が彼の立場だったなら、どう感じているのだろうか。あのとき俺が止めていなかったら彼は間違いなく飛び降りていた。彼は本気で両親に会いに行くつもりだった。その覚悟を彼はしていた。
だが彼は会いに行くことはできなかった。この俺がそれを止めてしまったからだ。俺は彼の人生を大きく変えてしまったのだ。鏡の前に立って顔を見た。
「ヒーローか」
昨日鏡をみてヒーロー気分に浮かれていた自分に嫌気がさした。
仕事中も彼のことが気になって仕方がなかった。彼は今どうしているのだろうか。
仕事の帰り、どうしようもならない胸騒ぎがして導かれるようにあの橋に向かうと車のヘッドライトに照らされた彼の姿を見つけた。近くに車を止め、彼のほうに歩いて行った。彼は手すりに手を置き、橋の下をずっと見ている。
「凄いな。本当に来てくれるなんて」
彼は俺が近づいてくる気配を感じ取ったのだろう。振り向きもせずに話しかけてきた。
「何となくかな。朝からずっと気になっていたんだ。昨日の俺は正しかったのかって」
朝から感じていたことを彼に伝えた。
「家に帰ってから恨んだよ。なんておせっかいな人がいるんだって。とんだヒーローだよ」
間髪入れない彼の言葉が俺の心にグサッとささる。今日一日中、自問自答していたことをつかれ何も答えられなかった。
「でも、もう一回やればいいだけのことだと思った。また明日すればいいやと昨日思った。止めにでも来てくれた?」
「・・・」
「僕は今日も会いに来たんだ」彼は力強い口調で俺の目を見ていった。
「会いに来た」彼はもう一度繰り返した。
「・・・」何も言えない。
しばらくの間の後、彼は急に涙を流し始めた。
「会えたよ。また会うことができた。夢の中で二人に。そしてはっきり聞こえた。会いに来ちゃいけないって。そんなことをしても会えないからって。この前の夢で伝えたかったことは生きてほしいってことだったんだって」
涙を拭いながら彼は続けた。
「本気で死ぬつもりだったらこんな時間にこの場所に来やしないよ。もっと別の場所でやっているさ。だってお兄さんは今日も来てくれそうな気がしたから」
少し腫れた目を向けながら、ニコッと笑った。
「今日は会いに来たんだ、お兄さんに。死ぬためなんかに来たんじゃない」
優しい彼の目を見て少し安心した。
「僕の父親は不運の事故で亡くなったって言ったよね」俺は昨日の会話を思い出していた。
「不運な事故っていうのは、父が運転する車の前に自殺しようと飛び出したどこかの身勝手な人間を何とか躱そうとして電柱につっこんだらしい。
結局父親は死んで、その身勝手な人間は骨折程度の怪我で生き残ったって聞かされた」
そのことを聞いてハッとした。俺は昨日なんてことを彼に言ってしまったのだと。あの時の彼の表情はそういうことだったのかと理解した。事情も知らずにあんなことを言ってしまったことを後悔した。
「お兄さんは言ったよね。俺は自分勝手な生き物だって。でもお兄さんは自分勝手な人間なんかじゃないよ」
この彼の一言で少し救われた。
「ヒーローになれたね」
いたずらっぽく彼は笑っていた。朝からずっと気にしていた問いに、彼が答えてくれた。
「ふーっ」
深いため息がでた。一気に心が軽くなった。俺は昨日、彼の両親にとても失礼なことを言ってしまった。でも俺は今日、その彼の両親に救われた。そして失礼なことを言った俺を思ってか会いに来てくれた彼にも救われた。
「もう大丈夫だよ。もうここには来ない」
「これからどうするんだい?」
「さーね。まだ分からない。母のお姉さんが一緒に住もうかって言ってくれているんだけど、伯母さんにも家庭があるし。
それにあの家からは離れたくないんだ。僕はあんまり覚えていないけど、あそこには僕の知らない家族三人の思い出が間違いなく詰まっている。あの家から出たらもう会えないような気もするんだ」
「そっか」
「そうとしか答えようがないよね。どうしてなのだろう。不思議な気持ちだ。母が死んでからほとんど誰ともまともに口を聞いていなかったんだけど、初めて会った人にこんな話をするなんて思ってもいなかった。
呼び止めてくれたのがお兄さんで本当によかったよ。人柄っていうか雰囲気というか。つい話してしまうんだよな。実は僕、人見知りする方なんだけどね」
俺は確かに変に質問したりはしなかった。元々自分から話をするようなタイプではなく、どちらかというと聞き手のタイプだ。人の話を聞くことは嫌いではなくむしろ好きな方で、友達からのくだらない相談事を茶化しながら真面目に聞いていると、相手もいつのまにか真剣に語りだしていることが何度もあった。愚痴を言われるのもあまり気にはならない。
俺は小さい頃から喧嘩をしたり、争いごとをすることは嫌いだった。自分が思っていることも遠慮して言えずに、周りの意見に乗っかってしまう。そのためなのか、人の顔を気にするようになり、周りの空気を読むのがうまくなった。
「なんかお兄さんの目を見たとき、本当のことを話さなきゃいけないって思ってしまったんだよね。お兄さんに呼び止められたとき、お兄さんの目はそんな目をしていたんだ。すべてを包み込んでくれるような目だった」
俺はそんな目をしながら彼のことを見ていたのかと驚いた。自分の目としてはあの絶望の淵に立たされたような目ぐらいしか印象がなく、彼が言ってくれた目を自分で見てみたいと思った。
「あのときスーパーに入ったのも、偶然だったんだ。前も見ずにぼーっと歩いていたら、前から歩いてくる人とぶつかっちゃって。怖い人だったら危なかったけど、こっちが悪いのに何故か相手が謝ってくれてそのまま歩いて行っちゃった。
でもその人からどこか懐かしい匂いがしたんだ。その匂いが何なのかはっきりとは分からなかったけど、振り返ってみるとその人はあのスーパーの袋をぶら下げていた。だから僕もあのスーパーに入ったんだ。そしたら父の大好物だったらしいたこ焼きが売ってあった。ぶつかった人からしてきたのはきっとたこ焼きのソースのいい匂いだった。
だからそれを最後の晩餐にとでも思ったんだ。でもお金を持ってきてなくて、万引きでもしようかとも思ったけど、どうせこれから死ぬのになんか悪い気がして。それを食べたらもっと悪いことをしようとしていたんだけど。そんなところを見られていたなんて思いもしなかったよ」
「運が良かったということにしておけばいいさ。たまにくらいそう思わないとやっていけないよ」
今日も彼を家まで送っていった。車の中で、彼は少しもぞもぞしながら尋ねてきた。
「これからも会ってくれる?」
「俺なんかでよかったらいいよ。これも何かの縁かもしれないし」
「連絡先教えてもらってもいい?」
ちょうど赤信号で停車した際に、会社の鞄に入っている名刺入れからすっと名刺を差し出した。彼は驚いた顔をしていた。そこには俺の個人携帯の電話番号も記載されている。
「本当に?」
何に驚いたのだろうか。迷いもなく自分の連絡先を彼に教えたことが予想外だったのか、その意味を大して気にすることもなく俺はうなずいた。彼はしばらく名刺を見ているようだった。彼はおもむろに携帯を取り出し、電話をかけ始めた。すぐに俺の携帯が鳴った。
途中、彼と一緒にあのスーパーで彼が最後の晩餐にしようとしていた彼の父親の大好物を買った。今日の二人の晩御飯だ。彼を家に送り届けてから、家に帰って携帯を取り出し、不在着信があった番号を『横山未来』と登録した。
そしてさっき買ったばかりの少し冷めたたこ焼きをおかずにする、少し変わった晩御飯を食べた。
彼から電話があったのはあれから数日たった休日の土曜日朝八時頃のことだった。
「もしもし。横山です」やけにかしこまった口調だった。
「もしもし。どうした?」俺はいつも通り答えた。
「今日って時間ある?」
「ああ。仕事は休みだし、大丈夫だけど」
「昼から会いたいって言ったら迷惑かな?」
「特に予定はないから付き合うけど」
「ありがとう。午前中は部活だから一六時ぐらいに家に来てもらってもいいかな?ちゃんと紹介しておきたいんだ」
何のことを言っているのか分からなかったが、特に断る理由もない。
「わかったよ。十六時頃に伺わせていただきます」
敢えてかしこまった口調で答えると、彼がフッと笑う声が聞こえて電話を切った。
俺は休日の日も平日と同じぐらいの時間には起きる習慣がついている。というより目が覚めてしまう。昼頃まで寝るというのは、せっかくの休日が逆にもったいないと感じてしまうからだ。これは学生の頃から変わっていない。そんなことをこの前話したからだろうか、部活が始まる前のこの時間に電話をかけてきたのだと思った。
約束の一六時少し前に彼の家に車で向かった。彼の家に着いたとき彼が家の前で待ってくれていた。彼は交通整備のおじさんのように車二台分の駐車場に止めるよう手をくるくる回した。
以前そこにはシルバーの自動車が止まっていたのだが、今はその車はなかった。
車から降りると「もしかして寝ていたのを起こしちゃった?」と彼が尋ねてきた。
「いや。いつも通り起きていたさ」
「やっぱりね」
彼は本来こういう性格なのだろう。少し迷惑だったかなという表情を浮かべつつも、さわやかな笑顔がよく似合っていた。少しずつ現実を受け止め、前を向き始めているのだろう。
「そこにあった母の車は母の姉が持って行ったんだ。俺はまだ乗れないしここに置いておいても無駄に維持費だけかかっちゃうみたいだし。結構古い型みたいで売れそうにもない感じだったから、免許とりたての子どもが乗るにはちょうどいいかなって伯母さんが言っていた」
何故だろうか。さっき生じた疑問は口にしていないのだか、彼には届いていたかのように答えてくれた。彼の家は一人で住むには大きすぎる一軒家だ。そこで家族三人で暮らしたのはわずか四年のこと。
もともとは彼の父親の実家で、彼の父の両親、つまり彼の祖父母は彼の父が小さい頃に亡くなってしまったらしい。そして彼の母方の祖父母も彼の母が小さい頃に亡くなったようで、父親が事故で亡くなってからはずっとこの家で母親と二人暮らし。
家の前での立ち話もそこそこに、彼は俺を家の中に上がるよう促し、そのまま座敷に案内された。
その部屋の壁には彼の祖父母と彼の父親の遺影が、そして仏壇には母親の写真が置かれていた。その部屋は俺の実家と同じような感じがした。そして彼の祖父の遺影はどことなく実家にある俺の祖父の遺影と似ているような気がした。祖父は俺が生まれる前に亡くなっており、祖父の顔は遺影でしか見たことがない。ただそんなにはっきりと実家の祖父の遺影を覚えているわけではなかったが、どことなくそんな気がした。
俺は実家の法事にはよく参加していた。家族で墓参りにも行っていた。最近の若者には珍しいのかもしれないが、父や母がそうだったから、それが普通なのだろうと思っていた。
彼もそうなのだろう。きっと母親と一緒にそうしてきたのだろう。
彼は仏壇の前に正座し鈴を鳴らして丁寧に手を合わせた。その高校生とは思えないほどのしっかり伸びた背中がそう語っている。彼は拝み終えるとそのまま俺のことを両親に紹介してくれていた。
「紹介するまでもないか。もう誰か知っているよね」
そう言って彼は仏壇の前から離れた。俺は仏壇の前に座って手を合わせた。何とも不思議な感じだった。つい数日前まで赤の他人だった人の家を訪れ会ったことのない人の遺影を見ながら手を合わせているのだから。
仏壇の前にはいくつかの供え物があったが、その中でも四本の缶ビールが供えられているのに目が留まった。
「父親はビールが大好きだったんだ。半年に一回ぐらいのペースで学生時代の友達と集まって、母も一緒にみんなで飲みながら、学生時代のことや就職してからのことなどを話して盛り上がったみたい。
詳しいことは聞かなかったけど、父と母は大学時代に出会ったらしくて、家で飲んでいたメンバーはみんな同じサークルのメンバーだったらしい。みんなその日が来るのを楽しみにしながら、毎日頑張っていたんだって。確か父が亡くなる数週間前にも集まっていたみたいで、その時は僕が遊んでいる途中に大怪我してみんなで大慌てしたって言っていたな」
そう言って左手首の傷を見せてくれた。
「その父と母の友達は毎年父の命日に、家の仏壇に手を合わせに来てくれていたらしい。僕は数回ぐらいしか会ったことがないんだけど。その際に三本のビールを供えてくれるんだ。お参りに来てくれた二人と亡くなった父の分とで合わせて三本。そこに母が一つ供えて四本のビールが並ぶのが決まりなんだ。そうすることで、あのときの気分を思い出していたのかな。
でも今年は母もいなくなったから、二人が来てくれたとき家が留守だったら悪いし、僕が部活から帰ってくるまでは母の姉が家にいてくれて、その間に二人が来てくれたらしい。今年は母のビールも合わせて四本のビールを供えてくれたみたい」
今日が彼の父親の命日ということをその話を聞いて初めて知った。
「ちゃんと紹介しなきゃ怒られるだろうなって思って。なんせ僕のヒーローだから」
彼は意地悪そうに笑った。
「そんなにいいものじゃないさ」
彼が何か言いたそうな顔をしているのを悟った。
「それで。他にも何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
今度は俺が意地悪そうに彼に言った。
「へっ、バレていたんだ」
少し恥ずかしそうに続けた。
「お墓参りに行きたいんだ。ここからは少し遠すぎて。いつもは母親と車で行っていたんだけど」
「そういうことか。分かった、送っていくよ」
「いいの?」
「毎年行っているんだろう?今年に限ってこなかったら、お父さんも気が気でないだろうし」
「まぁ、全部見られていたんだろうけど。あんなことをしてしまったからこそ、謝っておかないと叱られちゃうし」
「何となく分かるな、その気持ち。俺も実家に帰ったときは仏壇の前で手を合わせて、ちょっとしたことを報告したりするし」
「へぇーそうなんだ。やっぱり僕らってどことなく似ているところがある気がするんだよな」
「俺は初めて話したときからそんな気がしていたけど」
「やっぱり?僕もあの時からそう感じていた。だからこんな無理なお願いも聞いてもらえるかもって思ってしまったのかな。でも嫌ならいいよ。お兄さん優しい人だから、まだ変な責任感じて付き合ってもらっているのだったら悪いし」
「そういう思考回路も似ているな。いいんだよ別に。そりゃ常識もなくて警察の世話になっているような子だったらちょっとアレだけど、幸い君はそうじゃないし。やっぱり似ているからなのかな。ほっとけない気持ちは嘘じゃないけど、でもそれ以上に・・・」
その後の言葉を今ここで言っていいのかと言葉を詰まらせていると「それ以上に?」と彼の方がしびれを切らして聞いてきた。
「それ以上に、君のこれからが気になるんだ。これからどんな選択をしていくのかなって」
「じゃ、飽きるまで見ていてもらうよ。だから飽きるまで付き合ってもらうね」
「あぁ。それじゃお父さんのところに行こうか」
彼は静かにうなずいた。
彼と車に乗り、彼のお父さんのところに向かい始めた。彼のお父さんのお墓があるのは彼の家から車で四、五〇分くらいかかるらしい。車の中ではこれからのことについて彼は話してくれた。一人で生活をしていくことを決めたこと、それは思っていた以上に大変だということ。
「いつかは独り暮らしをしたいなと思っていたんだけど、まさかこういう形でなるとは思わなかった」
「俺もずっとそう思っていたな。大学まで実家暮らしだったから就職してやっと念願叶って独り暮らしができるようになったし」
少し調子に乗って今の彼には不謹慎なことを言い過ぎたかなと彼の顔色を窺った。
「それで?気遣ってくれるのはもういいよ。学校でもクラスメイトや友達が心配して気遣ってくれるんだけど、それがしんどくて。僕はもう現実を受け入れようとしているのに、変に気遣われるとこっちが悪い気がして。これまで通り冗談言って笑い合いたいんだけど、そういう雰囲気にしちゃ駄目だって空気が流れるんだ。だから変に教室がシーンとしちゃって。もう大丈夫だって意味で、こっちがキャラでもないのに無理してボケたりしたらキャラが変わったって心配されるし」
俺は思わず笑った。
「初めはそうなるよ。今まで通り接するのは難しいかもしれないな。なんて声をかけていいかなんて分からないだろうし。誰もそんな経験してないんだから」
「そうなんだけど。僕とみんなの気の遣いあいだよ。そしたら何かおかしくなって。みんなも同じだったらしい、その時やっとクラスに以前のような笑いが起こったんだ」
「いいクラスメイトじゃないか」
「うん。それは感じる。僕は本当に周りの人に恵まれているんだってこと。お兄さんも含めてね」
「君は凄いな。やっぱり」
「いいよ、そんなこと。それよりさっきの続き話して」
「あぁ。やっと独り暮らしができるってワクワクした気分だったよ。朝起きるのも、テレビ見るのも、何を食べるかも、何時に寝るかも、すべて自分の都合だけで決められるんだから、ほかの何にも左右されない自由を手に入れた感じだった」
「確かに。僕もそんなこと思っていた」
「俺は料理や掃除をするのは好きな方だし、洗濯はアレだけど一人分の洗濯なんて何日分かをまとめてすればしれてるし、でも実際は仕事中心に回っているんだよな。夜遅く帰ってくると自由なんてあんまりないし」
「せっかくの休日ももったいないからって、早く起きちゃう性格だし。そして最近知り合った少年に振り回されるなんてね」
「あぁ、まさかだよ。アッシーに使われるなんてな」
「?」
「アッシーなんて言葉知らないか」
「ジェネレーションギャップってやつだね」
「言っておくけど、俺もその年代じゃないからな。俺よりもっと上の世代の言葉なんだから」
「お兄さんって何歳だっけ」
「二六歳」
「彼女なしの二六歳か」
「なんでそうなるんだよ」
「女性の影がまったく見えないよ。それに今までの話を聞いていてもそうとしか思えないな。普通、休日の急の呼び出しに即答しないよ」
「だから自信持って電話してきたのか」
彼はニコッと笑った。そんな他愛もない話ができる雰囲気になっていた。
確かに彼の置かれた状況は同情してしまうが、彼自身がそれを嫌っているのがよく分かった。彼の言っていることは本心なのだろう。彼は現実を受け止め、前を向く決心を固めたに違いない。ただ一人では不安なこと、分からないこと、不自由なことはたくさんある。
どんなにしっかりしているように見えたって、彼はまだ一七歳の高校二年生だ。まだ大人になっていない彼にはどうしてもできないことがある。そういう時ぐらい、年齢だけは大人の俺が手を貸してあげてもいいだろう。
同情という感情がないと言えば嘘になるし、変な責任を感じていないわけでもない。だがそれ以上に、彼の話を聞くのは好きだった。どこか大人びた彼の話には何故か引き込まれてしまう。それは彼が俺の経験していない人生を送っているからなのか、それとも彼自身がそういう人間だからなのかは、はっきりと分からないが、彼といることは俺も居心地がよかった。
「あそこのスーパーに寄ってもらってもいい?花だけ買っておきたいんだ」
信号待ちしているときに彼は言った。いつも父親が好きな花を供えているらしい。俺は言われたスーパーの駐車場に車を止めた。隣にはやけに年季の入った車が止まっている。彼は一人でスーパーに入っていった。
俺は花には無頓着で彼がスーパーから持って出てくる色とりどりの花が何なのか分からなかったが、唯一分かったのが一際目立つまっすぐ伸びた二本の向日葵だった。彼は車に戻ってきて、小さな二つの花束と一緒に買ってきたコーヒーをスーパーの袋から取り出し、俺に渡してくれた。彼は野菜ジュースを持っていた。
「僕、実はコーヒー好きじゃないんだよね」
「そりゃ悪かったな」
笑いながらコーヒーを開け、あの日の夜のことを思い出していた。
「男の独り暮らしって野菜食べるのが結構難しかったりするんだよな」
「ホントそれ。料理するのは小さい時から慣れていんだけど。栄養とか考えたのはさすがに。だからあんまり意味ないんじゃないかって思いながら、こういうのに頼っちゃうんだよね」
そう言いながら彼も紙パックのジュースにストローをさしていた。
「確かにな。俺も一時期野菜ジュースにはまっていた。でも今となってはそういうこともあんまり考えなくなった」
「早く料理作ってくれる彼女さん、見つけなきゃね」
「それができたら苦労しないんだよ」
そう言って笑い合っていた。
時間的にもうそろそろ到着するかなというところで「ホントは練習の一環として、走ったり自転車できてもよかったんだけど」とスーパーを出発して彼は言った。
確かに彼ならそうしてもおかしくないだろう。なんせ彼は注目される長距離選手なのだから。そう思いながら信号を左折すると目の前にはすごい上り坂が現れた。車でもしっかりとアクセルを踏み込まないといけないぐらいの坂だ。
「これだからさ」
「さすがに花を抱えてこれに挑んでいたら、車に乗せてあげたくなるな」
「でしょ。さすがに恥ずかしいし。すれ違う車の人達にどれだけ墓参りに行きたいんだよって思われちゃうじゃん」
やはり今時の子だなと坂から歩いて下りてくる男性を見ながら思った。別に悪いことをするわけじゃない。むしろお墓参りに行くのだから感心できることだ。でもそういう真面目に思われることがかえって恥ずかしいと感じるのは男性の思春期にはよくあることだ。彼の大人びた話の中にはこういった子どもっぽいところもあり、やっぱり彼はただの高校生なのだと実感した。
坂を上りきったらやっと目的地が見えてきた。近くの空き地に車を止め二人で彼のお父さんのところに向かった。そこには彼の家の仏壇に供えてあったものと同じ缶ビールが置かれている。仏壇に供えられていたのと違うのは、本数とその状態だった。
「今年は一本増えている。仏壇の前と一緒」
彼が言う一緒というのは、仏壇とお墓に供えられている本数が今年になって両方一本ずつ増えているということ。仏壇に供えられていたのは四本のビールだったが、お墓にあったのは二本のビールだった。
「きっと家に寄ってくれた後、ここにも来て供えてくれているのだろうって母が言っていた」
そう言いながら、供えてある二本のビールを手に取り、片方を俺に差し出した。やはり初めに見た通り、そのビールはキンキンに冷えた状態で供えられたのだろう、まだ冷たかった。彼はビールのふたを開け、お墓にかけだした。俺もそれを真似した。
彼は家から持ってきたろうそくを立て、火をつけた。そして線香にも火をつけた。線香の懐かしい香りがした。
「毎年思うんだけど向日葵ってどうなんだろう?」
一際目立つ、買ってきた花を供えながら彼は言った。
「別にいいんじゃないか。父さんの好きな花なんだろう」
「母の好きな花でもあるんだ」
「世間の常識なんか気にする必要ないさ。大事なのは君の意思でここに来たということ。花なんてついでみたいなものさ。どんなにきれいな花を持ってきたって、そこに君の心がなかったら意味がないんじゃないか?仮に手ぶらだったとしても、今の君の目を見られただけできっと十分だったはずさ」
「あの目できたらびっくりさせたかな?」
照れを隠そうと彼は言った。
「もう大丈夫なんだろう。そういう目に見える」
「うん、これが自分の人生なんだ。母は誰かのためじゃなく自分のために生きてほしいって言ってくれたけど・・・」
「父さんと母さんのために生きていくんだろう?」
「はぁ、敵わないな。せっかく母が言ってくれたんだけど。自分のために生きてって。でも僕には誰かのために生きるっていうのが自分らしいんだよ。自分に嘘をついて生きていく中に自分は存在しない。父と母の二人のために生きることが自分らしいって思う。だから、二人の分も精一杯生きていくことこそが、自分のために生きるってことになるのだって思ったからさ」
そう言って、お墓の前にしゃがみ込んで彼は手を合わせた。俺も彼の横でしゃがみ込んで目を瞑りながら手を合わせた。しばらくした後目を開けてみると、彼は横でまだ目を閉じて手を合わせていた。少し口が動いているのが分かった。きっといろいろなことを話しているのだろう。彼のしようとしてしまったこと、今どうしているのかということ、そしてさっき語ってくれた覚悟。彼が話し終えるまで、横で同じ姿勢を続けていた。
すっと彼が立ち上がるのを感じて、俺も同じように立ち上がった。
「付き合ってくれてありがとう」
彼は分かっていたのだろう。
「なんでそんなに人の気持ちがわかるのに女性の気持ちは分からないんだろうね」
「女性の気持ちほど難しいものはないんだよな」
「・・・確かに」車に向かいながら話していた。
陽が沈みだしてきれいな夕焼け空だった。車に乗り込んだあとさっきの話の続きをしだした。
「母は僕の前では決して弱音を吐かなかった。想像もできないほど大変なことがあっただろうに」
「母親って、そういうものなんだよな」
「本当に凄いと思った。でも不思議で仕方なかった。だって普通恨んでもおかしくないはずなのに、母がその人のことを悪く言っているのを聞いたことがないんだ。そういう運命だったのかもしれないってよく言っていたし。現実を受け入れようとしている母にそれ以上何も聞けなかったんだ」
彼が何のことを、そして誰のことを言っているのかすぐに察しがついた。だが、そこに関してはまだ何と言っていいのか分からなかった。
「それに母は今日話したいことがあるって言っていたんだけど、結局何だったんだろう?」とつぶやくと「ぐーっ」と彼のお腹が鳴った。
「確かにいい時間だしな」
「・・・」
「どっかで食べていく?」
「独りで食べるのも飽きてきたんだよね」
その言葉を待っていましたと言わんばかりに彼は言った。
そして近くのファミレスに車を止めた。ファミレスはその名の通り、家族連れで賑わっていた。一〇分ほど待った後テーブル席に案内された。それぞれ注文を済まし、二人にとって久々の一人でない夕飯の時間だった。
「お兄さんって友達もいないの?」
「『も』ってなんだよ」
「だって彼女はいないじゃん」
「そんなにさびしい人間じゃないからな。友達ぐらいいるさ。君の父さんじゃないけど、学生時代の友達とゴールデンウィークだったり、お盆だったり、年末だったりは集まって、朝まで飲み明かしたりするし、ちょっとした旅行に行ったりとか」
「よかった。安心したよ」
「なんで君に心配されなきゃいないんだよ」
それぞれ注文した互いの大好物を食べながら会話のある夕飯の時間を過ごした。
「でもやっぱり、友達っていいよな。小学校・中学校・高校・大学といろんな人に会って仲良くなってきたけど、本当に何でも話せるっていうか、一緒にバカできる友達はそれぞれ数人ぐらいなんだよ。君が言っていた、気を遣う必要もない関係ってやつ」オムライスを食べながら昔のことをふと思い出していた。
「学生の頃って何していたの?」
「普通の学生をしていた。勉強して部活してって生活」
「何の部活?」
「俺は野球部だった。小学校三年生から、中学・高校と一〇年間続けたかな」
「へー。高校球児ってやつなんだ。それは意外だったな。じゃ、小さい頃の将来の夢はプロ野球選手だったとか?」
「まあな」少し浮かない顔で答えていた。
「将来の夢は何ですか?」
小さい頃から俺の苦手な質問だった。小学校のクラス替えでの自己紹介や卒業文集などでよくある質問だ。でも俺には明確な夢なんてなかった。書くことに困ってありがちなプロ野球選手といった、いかにも子どもらしい夢を書いていた。
内心は分かっていた。どんなに頑張っても本当に自分の好きなことを職業にできる人なんてほんの一握りだということを。そんな大人びた考えを持ちながら、叶いもしない、いや叶えようともしない夢を、空欄を避けるためのその場凌ぎの自分の夢として書いていた。
だが、野球に必死に取り組んでいたのは事実だ。本当に野球は好きだったし、だからあんなに辛い練習も続けてこられたのだと思う。でもそれを職業にできるかどうかは自分がよく分かっていた。いくら自分が市内の選抜チームに選ばれようと自分より才能のある人はたくさんいたからだ。
いくら自分が努力したって彼らには敵わなかった。彼らが才能だけの人間だけでなく、俺以上に努力しているのを知っていたからだ。そう、今目の前にいる彼のように。
しかし、その中でもプロの野球選手になれるのはきっとごくわずかなはずだ。そうやってプロ選手になった人達は、みんな俺では想像もできないほどの努力をし、困難に打ち勝ってきたのだろう。いろんな我慢もしてきただろう。でも俺はそんな彼らの過去の努力も知らずに、テレビの中で自分の好きなことを職業にできて、大金をもらえているのを羨ましいと思ってしまっている。
俺は途中で現実を受け入れるという逃げ道に誘い込まれ、自己満足程度の努力しかせず、彼らが必死に努力している間に遊んで楽しい時間を過ごしてきたはずなのにだ。
野球選手といったら聞こえはいいが、野球選手になった人がみんな一流の選手として活躍できるわけじゃない。チーム内での激しい競争に、怪我だってある。活躍したとしてもその活躍がいつまで続くか分からないし、活躍できなければ当然バッシングされてしまう。良い成績を残さないといけないプレッシャーと闘い続けなければいけない。そしていつまで野球選手を続けられるのかも分からない。そんな厳しい世界だということを分かっているはずなのに、活躍している人の年俸を見て、将来の自分の給料の何倍だとかそんな意味のない比較をしてしまう。
そんなことを野球を続けながら思ってしまっていた。そんなひねくれた気持ちを持ちながらそれなりの努力をしていたと思っていた自分が馬鹿らしく思えた。それなりの努力とは何なのだろうか。
『努力は必ず報われる』
と言う人もいるが、それは本当に報われた人だから言えることだ。その人がどんな努力をしてきたのかは分からないし、仮に同じ努力をしたとしても報われるとは限らない。結局は俺のしてきた努力はそれだけの努力に過ぎないということだ。
だから『夢』について語るのは嫌だった。だから彼にも同じ質問をしてみた。
「夢ってあるの?」彼は少し恥ずかしそうに答えてくれた。
「明確な夢はないけど、せっかく僕の実力を買って高校もいろいろしてくれているし、そういう恵まれた環境にいさせてもらっているからこそ、その期待に応えるためにも高校記録を塗り替える。そしてインターハイで絶対に優勝する。夢というより、目標かな。母も期待してくれていたし」
恵まれた環境と言い切れる彼の強さが凄かった。
「オリンピックに出るとかそういう夢はまだ現実には思えないけど、でもいつか日本代表として走れたらなって」
大人のようにしっかりしたことを言いながら、口いっぱいにハンバーグを頬張っている姿は子どものようで、そのギャップが面白かった。
だがそんな彼の目はいい目をしていた。
才能だけじゃなく、努力だけじゃない。周りの人への感謝・期待も背負って夢を語る彼の目は真剣だった。彼は高校記録を塗り替えたいとかインターハイで優勝したいとは言っていない。彼が凄いのは高校記録を塗り替える、インターハイで優勝すると、願望ではなく言い切っていることだ。彼の中では達成したいのではなく、もうすでに達成することになっている。そのためにどんな練習をしたらいいのかを考えている。今さらながら後悔していた。俺もこんな風に考えればよかったのだと。
そんな話をしながら食事を終え、二人分の食事代を払って車で彼の家に向かった。
「今日はありがとう。今日の食事代は出世払いってことで」そう言って車のドアを開けた。
「ああ。それまでは付き合わせてもらうよ」
彼なら本当にそうなりそうだと思いながら俺は手を軽く上げた。
「うん。何かあったら遠慮なく連絡させてもらいます」
彼も軽く手を挙げ、左右に振った。俺が車を発車させるのを待ってから、灯りの点いていない家に入っていくのをルームミラーで確認した。
灯りの点いていない部屋に戻ってきたのは二〇時頃だった。今日は思いもよらない展開になったが、久々に充実した休日を過ごした気がする。明日も休みだ。さすがに彼も続けて連絡してくることはないだろう。明日はいつも通りの休日になる。俺は明日することを決めていた。
俺はシャワーを浴びて冷蔵庫からビールと迷いつつ発泡酒を取り出す。家で酒を飲む場合は会社の休日だけで、普段は発泡酒だが特別な日だけはビールを飲んでもいいというルールを自分に課している。そのため冷蔵庫には発泡酒とビールが数本ずつストックしてあるのがお決まりで、偶然にも俺がストックしている好きなビールは、今日供えてあったビールと同じだ。買っておいたチーズをあてに一気にビールもどきを飲み干した。
いつかは冷凍庫で冷やしておいたジョッキにキンキンに冷やした瓶ビールをついで飲むのを夢見ていたりする。正直言えば今にでも叶う夢なのだが、そんな贅沢をする心境ではないから実行する気にはならない。今の俺には発泡酒が飲めるだけで十分だ。
普段外出などしないためか、少し疲れてしまったようだ。今日はすぐに部屋の灯りを消しベッドに入った。基本的に休みの日はスーパーへの買い物以外は外出しないインドア派だ。普段つるんでいる人は同世代の会社の同僚ぐらいだが、自分からわざわざ誘ってどこかに遊びに行くということもしない。どちらかというと誘ってもらう側だが、面倒くさいときは何かと理由をつけて適当に断ってしまう。
彼に話したような、気を遣う必要のない気を許せる友達というのはそんな簡単にできるわけではない。だが彼は違った。少ししか一緒の時間は過ごしていないけれど、彼と一緒にいる時間は居心地がよかった。そして何よりも俺自身が彼の強さに惹かれている。
自分と彼は共通点が多いように思っていた。性格や考え方、一緒にいることの違和感の無さ。だがそれは勘違いだったのかも知れない。今日半日一緒にいて改めて大きな違いがあることに気付いた。
今日の彼の目はまっすぐ前だけを見つめていた。これからの不安ではなく将来への期待。そんな眼差しが羨ましかった。それは今の俺にはないものだ。彼と一体何が違うのだろうか。
自分の将来をハキハキと話す彼。口を開ければ今置かれている環境に愚痴を言い、何かを変える勇気もないくせに、幸せな将来だけを想像して終わる俺。
しばらく考え込んだ、本当にこのままでいいのかと。目を閉じて、顔を両手で覆いながら自問自答した。俺は一体何をしたいのだろうか。
彼みたいに具体的にやりたいことは出てこない。だが、今していることが本当に俺のしたいことではないことだけははっきりしていた。
彼は俺に救ってくれたと言った。俺のことをヒーローだと言った。いやそうじゃない。もしかしたら彼こそが俺のヒーローなのかもしれない。俺に救いの手を差し伸べてくれたのかもしれない。
自分の進むべき道が見えた気がした。ベッドの中で明日しなければいけないことを改めて思い返していると、いつのまにか眠りについていた。明日の休日を終えるとまた新しい月の始まりだ。
ブラインドの隙間から差し込む光で目を覚ました。
休日は炊飯器の予約や、テレビのタイマー機能を設定していない。炊飯器の予約設定は、朝起きてから会社に行く前に米を研ぐのが面倒だから寝る前にすべて済ませてしまうのだが、休日はそんなことはしない。たまの休日くらいは何かの音で起こされるのではなく、自然と目を覚ましたいからだ。それに体はいつも通り七時過ぎには起きる習慣がついている。いつも通りしばらくベッドの上でグダグダしていた。
今日は珍しくそのまま寝てしまったようだ。嫌な予感がして、携帯電話を見た。八月三一日一二時一五分。
「やってしまった」せっかくの休日の半分を寝て過ごしてしまった。
「やっぱり九時ぐらいにはアラームをセットしておくのだった」と思いながら、すっきりした寝起きを後悔していた。お腹もすいていないため、本当は午前中に済ませてしまいたかった、溜まった洗濯物を洗濯機にかけ、その間に部屋の掃除と風呂掃除、トイレ掃除を一気に片づけた。
一通りの掃除が終わったと同時に、洗濯完了を知らせる音が鳴った。洗濯機から洗濯物をカゴに取り出し、外に干そうとブラインドを上げたが、朝一度目を覚ました時とはうって変わって、空は雲に覆われて太陽の陽は閉ざされ、雨が降りそうな気配がしていた。そのためベランダに干すのをあきらめ、部屋干しにすることにした。
「休日の日くらい、いい気分で過ごしたいんだけどな」と思い通りにいかなかった午前の過ごし方と天気の悪さに嘆いていた。
「ふーっ」
洗濯物を干し終え、一息ついたのがちょうど一三時頃だった。
「ピンポーン」
すると部屋のインターホンが鳴った。
「こんな時間に誰だろう?」と思いながらのぞき穴から外を見た。そこに人影はなかった。もしかしたら彼が来たのかと思ったが、マンションの場所までは伝えていないから来られるはずもない。また何かの勧誘が回ってきたのかと思っていると、「トントントン」次はドアをノックする音だ。
チェーンロックは外さずに鍵を開け、ドアを少しだけ開けた。すると少し開いたドアの隙間に人影が現れた。
その人にはどこかで見たことのある面影があった。突然現れた人物は開いたドアの隙間からこう言ってきた。
「ありがとう。あなたのおかげで素晴らしい人生を送ることができました」
俺はしばらくこの人が何を言っているのか分からず、呆気にとられて突っ立っていた。突然訪れた老人の年齢を想像するのはある意味容易ではなかった。どこからどう見ても老人。ただそれだけ。七〇歳いや八〇歳か。
「あの、失礼ですがどちら様でしょうか?」
きっと認知症の老人が徘徊しているのか、何か間違ってこの部屋にやってきたのだろうと思い、面倒なことになってしまったと頭を掻きむしった。
「私はあなたがよく知っている人です」
老人は優しい笑顔で答えた。白髪混じりの老人はこうして話ができているのが不思議なくらいで、腰は曲がり失礼だがもうすぐ死んでしまうのではないかと思うほどやせ細っていた。しかしその見た目とは裏腹に顔色は良く、耳も遠くないようで、何故か元気そうだった。どことなくその老人は昨日見た遺影の写真に似ているような気がした。
そのとき夢を見ているのだと悟った。俺はあまりに現実とはかけ離れている夢を見ているとき、「これは夢だな」と分かることがある。だからその夢の中で現実ではできない数々のことをやってきた。そして「やっぱりな」と思いながら目を覚まし、夢から現実に引き戻されることを何度か経験してきた。だからこれもきっと夢なのだと思った。何故なら俺が昼過ぎまで寝るなんてことをするはずがなし、こんな老人に感謝されるどころか、そもそもこんな老人のことをよく知っているはずもなかったからだ。
ただ一つ違和感があったのは誰かに似ているという面影を感じてしまったこと。
「本当に分からないですか?」
一瞬老人の目が変わった。俺は背筋が凍った。
「あなたはいったい?」
「あなたがよく知っている人です」
老人はもう一度同じ言葉を使った。
「もしかして・・・?」
「あなたのおかげで素晴らしい人生を送ることができました。本当にありがとう。今日はこの感謝の気持ちを伝えるためにやってきました」
老人はそう言うと、手に持っていたスーパーの袋を差し出した。その袋は見覚えのあるスーパーの袋で、中には缶ビールが三本入っているのが透けて見えた。思い当たる節は十二分にあった。
最近はおかしな夢ばかり見るなと思いながら、「どうせ夢なんだし」と心でつぶやき、扉のチェーンロックを外して「狭いところですが、どうぞ」と初対面の老人を部屋に招き入れた。
「お邪魔します」
老人は靴をしっかり並べて、部屋に入ってきた。歩く足取りもしっかりしていた。自分の部屋に人をあげたのは久しぶりのことだ。俺の部屋は一Kで、独り暮らしでも少し狭いくらいの部屋によく知らない老人と二人という、いかにも夢だという空間だ。「いつこの夢から覚めるのだろうか」と心の中で思っていた。
老人は気を遣っているようで「適当に座ってください」と机の前を指さして声をかけた。
「ありがとうございます」老人は腰を下ろした。
夢なのに何か気を遣う変な気分だ。何か飲み物でもだそうかと冷蔵庫を開けていると、「お気遣いなく」と俺を気にして声をかけてきた。
二つのコップにお茶をいれて、老人の向かいに座った。片方のコップを老人の前に差し出した。
「ありがとうございます」
しばらくの沈黙の後、俺から問いかけた。
「あなたは一体誰ですか?」
老人は再度目を変えて答えた。
「薄々と分かっていらっしゃるようですが?」
その目はあまり見たくないあの目だ。
老人はすぐに目を元に戻し「あなたは私のヒーローですから」そう付け加えた。
「私はあなたがよく御存じの未来です」そう言って笑っていた。
何と言っていいのかも分からなかったのだが、逆に気を遣うこともないなと安心した。
夢なのだからどうでもいいことなのだが、どうせなら夢でも気を遣うのは避けたかった。何となくだが、この人が誰なのかということに検討はついていた。
「未来って、まさか?」
「そうです。そのまさかです。あなたが一番知っている未来です」
「ええ、よくとは言えませんが知ってはいます。ですが、私の知っている未来はそんなに年を取ってはいません。失礼ですが、何歳ですか?」
初対面の人に対する基本的な質問をしていた。さすがに相手の年齢が年齢だけにあまり得意ではない敬語を自然と使っていた。
「年齢だけはお答えすることができません。私が老人なのは今日が私の最期の日だからです」
「最期の日?」
「そうです。だから私は今日あなたにどうしても会いたかった」俺は完全に聞き入ってしまっていた。
「私の人生はいろいろなことがありました。楽しかったこと、辛かったこと、そして自らを傷つけようとしたこと。あなたはよくご存じのはずだ」
「ええ。そうですね」目をそらしながら答えた。
「生きていればいろいろ悩むことはありますよね」どこかで聞いた言葉だった。
「だけどそれも今日で終わりです。もう悩むこともできません」
「それは今日が最期の日だから?」
「そうです。私にはもう明日が来ないことを知っています」一体この老人は俺に何を伝えに来たのだろうか。
「いきなり現れたのに、あまり驚いておられないようですね」
「いや。正直頭は混乱しています。何が何だかさっぱり」
「あっ」老人は忘れていましたという顔をして言った。
「これ、どうぞ」先ほどドア越しに見えたビールだった。
「お好きですよね?」
「ええ。ありがとうございます」じっとその三本のビールを見ていた。
「見覚えがありますか?」
「なんかそんな気がします」
昨日彼の家に供えてあったもの、お墓に供えてあったものと同じビールだった。
「そうですか」老人はニコッと笑っていた。
「すみません。話が逸れてしまいました」そう言って、先ほどの話の続きを話し出した。
「あなたは私の人生を大きく変えました。あの時あなたが止めていなければ、私がこうしてあなたに会いに来ることはなかった」
「あの時は咄嗟でしたから。でも後から考えました。あの時私がしたことは正しかったのかって。止めてしまって本当によかったのかと」
「そうですか。やはりあなたはいろいろ考えてくれていたのですね。本当に真剣に」
「仕方ないでしょ」
「あなたは本当に優しい人ですからね。でもそういう人に限って自分に厳しく追い込んでしまいます。責任感が強いあなたは中々そこから逃げることもできない」
完全に俺のことを見透かされているような気がした。
「ちょっと尋ねてもいいですか?」
「答えられないこともありますが、支障のない範囲でお答えします」
「あなたの人生はどうでしたか?」
老人は目を瞑りながら答えてくれた。
「いいことばかりではなかったのは事実です。大変なこともたくさんありました」
幼い時に父親を、高校生の時に母親を亡くして人生の大半を両親抜きで生きてきたのだから当然のことだろう。
「でも今となって思い返すことは、そんな苦しかったことよりもやっぱり楽しかったことなのです。数少ないかもしれませんが、いい思い出ばかりが蘇ってきます。だって明日は来ないのですから。その時はもの凄く辛かったかもしれませんが、今思えばそれはその一時のもの。怒られるかもしれませんが、今の私にとってそれはちっぽけなことなのです」
「いい人生だったと言うことはできますか?」
「はい、いい人生でした。少なくとも私はあの時自分で自分の未来を終わらせてしまっていたら、きっと後悔しています」
「後悔はありませんか?」
「後悔がないと言ったらきっとそれは嘘になります。自分の死に際が近づいたとき、どんな人にだってあの時ああしておけばよかったと後悔することはあるでしょう。でも私は途中でそれに気付くことができました。少し気付くのに遅れていれば、もっとたくさんのものを犠牲にしてきたことでしょうが、気付いてから毎日を後悔しないようにと、生きてきたつもりです」
「それが聞けて本当によかったです」俺はニコッと笑った。
「それは本当にあなたのおかげなのです」まっすぐ目を見つめながら言われてしまい少し照れてしまった。
意外にも話はスムーズに進んでいった。部屋の中でしばらく話を続けた後、「すみませんが、少し連れて行っていただきたいところがあるのですが」と老人が遠慮気味にお願いをしてきた。
「どちらですか?」
自然と場所を尋ねたが、何故かどこを言われたとしても断る気持ちはなかった。
「お墓参りに行きたいのです」
老人はまっすぐな目をして言った。
「あなたは昨日そこに行ったはずです」
「ええ。確かに昨日行きました」
「最後にそこに行っておきたいのです」
私は小さく何度も頷きながら「分かりました。行きましょう」そう答えていた。
老人からいただいたビールを一本だけ冷蔵庫にしまい、残り二本はスーパーの袋に入れたまま手に持って部屋を出て行った。
まさかこんな老人とドライブをする日がくることになるとは思わなかった。昨日は最近知り合ったばかりの高校生、今日はいきなり訪ねてきた老人。いくら夢の中とはいえ、二日連続の二人きりのドライブは妙な気分だ。おそらく、後にも先にも老人とこうしてドライブをするのはこの夢の中だけだろうと思って、ハンドルを握っていた。
「お墓に行ってどうするんですか?」
聞きたいことは山ほどあった。
「最後にあなたとお墓に行ってお参りをしたいだけです」
「どうして?」
「あの日お墓参りをしたことは私にとって非常に重要なことだったのです」
「そうだったんですか」
「あなたはそこで何かを感じ取ったはずですが?」
「何となくですかね」
「あれから何度お墓参りをしたことでしょうか」
きっと数えられないほどお墓参りに来ていたのだろうと思った。もしかしたら死ぬ直前まで来ていたんじゃないだろうか。だって彼は幼い頃から母親と二人でお墓参りに行っていて、行くことが特別なことではなく、普通のことだと習慣づいている。そして彼はそういうことを大切にしているのだと昨日感じたばかりだ。
そのまま車を進めていくとある看板が目に入ってきた。
「あっ」と思ったと同時に、「あそこのスーパーに寄ってもらってもいいですか?」と想像通りの言葉が老人から発せられた。
「ええ、もちろん」
スーパーの駐車場に車を止めた。俺も一緒に降りようとすると、「私一人で大丈夫ですから」そう言って助手席から降りて、店内に入っていった。お金はどうするのだろうと、夢なのに現実的なことを考えながら、老人が何を買ってくるかは予想がついていた。店内から出てきた老人を見て思わず笑ってしまう。
予想通り、まっすぐに伸びた向日葵が一際目立つ、お供え用の花束を持って車に戻ってきた。そして花と一緒に買ってきたコーヒーを私に渡してくれた。
「ありがとうございます」
そう言って、缶コーヒーの蓋を開けて飲んだ。老人も同じように蓋を開けて飲み物を飲んでいたが、それは予想外れの俺と同じ缶コーヒーだった。大人になったのだから嗜好も変わるし、いまさら健康を気にしたって仕方ないのだろうと思いながら、車を発進させた。
そしてあの坂にさしかかった。改めて見てもその威圧感は凄かった。その坂をアクセルを踏み込んで上りきると、目的地が見えてきた。昨日と同じように近くの駐車場に車を止めて二人で車を降りた。二人で昨日と同じお墓の前に行った。
俺は手に持っていた缶ビールを二本取り出して、一本を老人に差し出した。何も言わずに二人同時に蓋を開けてお墓にかけた。そして老人は買ってきた花を供えていた。まっすぐ伸びた向日葵が一際目立つ。老人は昨日見た光景の再現のようにろうそくに火をつけて線香に火をつけた。そしてしゃがんで手を合わせた。俺も昨日と同じように、老人の横にしゃがんで手を合わせた。老人は昨日と同じように丁寧に拝んでいる。何かを話しているかのように少し口を動かしながら。
老人が立ち上がったのと同時に俺も立ち上がった。
「昨日と全く同じですね」老人は話しかけてきた。
「私も同じことを思っていました。これでやりたいことはできましたか?」
「はい。おかげさまで」
「それはよかった。もう思い残すことはありませんか?」
「思い残しですか。確かに後悔していることはあります。しかし、これ以上贅沢は言えません。それをやり直すために戻ってきたのではありません。だってそうでしょう。人生は一度きりなのですから。
あの時できなかったからといって、あの時に戻って人生をやり直すなんて、そんな都合のいい話があっていいわけがない。なるべく後悔しないように生きてきたつもりです」
「確かにそうですね。人生は一度きりなのですから、過去のやり直しがきかないのが人生ですよね」
「そうなのです。だからやれることをやっておかないといけないのです。死ぬ間際になって思い出す後悔は、自分からやって失敗した後悔よりも、自分から諦めてしまった、やらなかった後悔のほうなのです。たとえ自分からやって失敗したとしても、あの時ああしておけばよかったと思うよりいいじゃないですか。死ぬ直前になって、ああしておいたらどうなっていただろうと、後悔するよりはいいと思います。むしろ自分からやって失敗した後悔こそいい思い出だったりするのですよ」
さすがに説得力があった。死ぬ間際の老人が今思っていることなのだから。
「だから私はあなたに会いに来たのです。あなたでなければこんなことにも気づかないまま死んでしまったのですから。そして後悔だけが残る人生になってしまっていたのでしょう。いろんなことができましたし、想像もしていなかった人との出会いもありました。驚くようなこともありました。そして運命というものも実感しました」老人は笑いながら話している。
老人の話にすごく興味がわいた。今後の彼の人生は一体どんなものになっていくのだろう。
老人にどんなことが起こったのか尋ねたかったが、それは彼の人生のネタバレになってしまう。それに老人は教えてくれないだろう。
「詳しくは教えてもらえないですよね?」
老人は黙ってうなずいた。
「あなたの目で確かめてください」想像通りの返事だった。
そうだ、この夢が覚めたら現実に戻る。自分が生き続けさえすれば老人の言う彼の人生を見届けるとことはできるのだ。
「自分の目で確かめてみます。どんな生き方をしていくのか」
「お願いします」
老人は丁寧にお辞儀をした。それは今まで見てきたどんなお辞儀よりも深く、心がこもっているように感じた。彼らしいとも思った。
立っている二人の影が来た時よりもずいぶん長く伸びていた。
二人で車に乗ってあの坂道を今度は下りだした。
「後はこの上ってきた坂を下っていくだけですね」
助手席の老人が不意に言ったので、「ええ、そうですね」とだけ答えた。
「ただ私達が歩む人生では上ってきた坂道を下るということはできないのですが」
老人は理解に苦しむことを言う。
「何のことですか?」
「さっき少し話した人生のお話です」
老人は自身の人生は語ってくれなかったが、人生とは何かについて語り出した。
「人生は長い長い道を歩んでいくことなのです。今自分の歩いている道が険しく感じることがあるでしょう。そのまま歩いていくと何本かに枝分かれした道に出くわします。今まで歩いてきた険しく感じた道をそのまままっすぐ歩き続けるのか、右に伸びる負担が少なく見える平坦な道を進むのか、左に伸びる今まで以上に過酷に見える上り坂になった道に進むのかを決めるのはあなた自身なのです。時には誰かと一緒に道を選ぶこともあるでしょう。
誰かが「こっちの道が安全そうだ」と言って、その道を選んでしまうこともあるでしょう。でもその道にはもう二度と戻ってくることはできません。
誰もが安全に思える、あの時右に見えた平坦な道に突然落とし穴が現れるかもしれません。辛そうに見えた、左の上り坂は頂上のない永遠の上り坂になっているかもしれませんし、坂の頂上についたら素晴らしい景色が見えるかもしれません。あとは見えなかった坂の向こう側を下るだけです。どの道も進んでみないと分からないのです。あなたは何を基準に進む道を選びますか?」
話の途中で俺に質問してきた。老人が話していることはまるでこれまでの俺のことを言っているようで、黙り込んだ。
「これまで歩きいてきた道だから変化を恐れてそのまま歩き続けますか。楽そうに見えるから道を変えますか。誰かが案内するからその道を選びますか。先を歩く人の道がよく見えたからそれに続きますか。周りの人が危険だというからあなたが気になるその道をあきらめますか。
確かにその道は危険かもしれない。まだ誰も歩いたことのない未知の道かもしれない。けれどあなた自身はその道が気になって気になって仕方がない。そんな道に出くわしたときあなたはどうしますか。自分の気持ちに嘘をついて道を選びますか。それでもきっとあの道の続きが気になって仕方ないでしょう」
これは何度も経験してきたことだ。
「だったらあなたの気持ちに素直になるのです。自分の意思を信じるのです。選ぶのはあなた。進むのもあなた自身なのですから。選んだ道が周りの人が言った通り危険な無謀な道だったかもしれない。歯を食いしばり、涙を流しながら歩いて、周りの人に笑われるかもしれない。でもそれが後悔しないように自分の選んだ道。自分の意思に従って選んだ道なのだから。
でも、もしかしたらその先には素晴らしい景色が待っているかもしれない。何を迷うことがあるのでしょうか。自分の人生なのだから、自分の進みたい道を進んでいけばいいのです。歩き続けてきたその道のりがあなたの人生になるのです。これからずっとずっと続く長い道を、時には間違うこともあるかもしれませんが、それがあなたの意思に導かれて進んだ道ならその間違った道こそが正解なのです」
この話は俺の胸に響いていた。何故なら俺がこれまで避けてきたことを老人に言われたのだから。頭では理解していても行動に移せない俺自身を見透かされているようだ。
「時には黒い雲に覆われ、闇に導かれているように、豪雨で向かい風の中を歩くこともあるでしょう。でもその道の先にはすっきり晴れた虹が見えるかもしれない。今の苦しみは一瞬のことなのです。長い人生の中のほんの一瞬なのです。
今苦しくて辛くて自分を否定したくなって、楽に思える道を進んだとしても、その先には必ず何かしらの障害が待っています。その障害をどう乗り越えるかなのです。どんな道も決して安全だという保障はありません。ずっと伸びるこの道の先に何が待っているかを考えずに、今の目の前の道だけを見て進路を決めるのはあまりにももったいない。先が見えない道を怖いと思いやめるのか、楽しみだと思い突き進むかは人それぞれ。一つ言えることは、歩き続けた先に見えた新たな道が自分の人生の道標となっていくということです。
走って駆け抜けてもいい、慎重にゆっくり進んでもいい、疲れたら立ち止まってもいい。でも後ろを振り返ってはいけない。今まで歩いてきた道はもうなくなっています。後戻りできる道はないのだから。あるのは先に伸びた道だけです」
老人は俺の心境を察しているかのようだった。
突然老人の口調が変わる。
「今まで歩いてきた道を後悔するな、受け入れろ。自分が選んで歩いてきた道なのだから。後悔するなら何故その道を選んだ。後悔しないために考えるのだ。自分はどうしたいのかを」
それはまるで横にいる俺ではなく、老人自身に語りかけているようだった。
「後悔しない方法は簡単です。自分の意思に問いかけるだけ。気になる道を進めばいいのです。行ってみたい道を選べばいいのです。そうしないとその道を二度と歩くことができないのだから。自分の意思は知っているはずですよ、本当はどうしたいのかを」
老人の口調が元に戻った。
「今が良ければいいのですか。今が楽しければそれでいいのですか。ずっとずっと伸びるこの道を自分に嘘をついて歩き続けた結果どうなると思いますか?」
「後悔ばかりの人生になる」そう自然とつぶやいていた。
「それが嫌ならもう何も迷うことはないはずです。思いきり飛び込めばいい。変化を恐れず一歩踏み出す覚悟があるのなら、その道にあらわれる障害も怖くないはずだ。この先に何が起こるか分からないという恐怖に比べたら、そんな障害なんか怖くもなんともないはずです。
一番怖いのは決断する時なのだから。その道を歩む決断をした覚悟があるのなら大丈夫です。どんな道だって歩いて行ける。何が起ころうと歩き続ける強さをもっているのだから」
しばらくの沈黙が続く中、その沈黙を破ったのは「ぐーっ」。昨日も聞いたようなお腹の音が横から聞こえた。思わず笑ってしまった。何も言わずに昨日も寄ったファレスに車を止め、二人で店内に入っていった。
席に案内してくれたのは昨日と同じ店員だったが、二日続けての来店で、しかも今日は老人が一緒。店員は驚いているような顔をしていた。いつもの俺なら恥ずかしいと感じてしまうだろうが今はそんなことはどうでもよかった。どうせ夢なのだから。
運ばれてきたのは昨日と同じメニューだったが、違うのは置かれた場所だった。
「いただきます」
タイミングを合わせたわけではなく、自然と同時に手を合わせて、小声で言った。
老人とは些細な仕草や所作が被るときがある。食べるペースや水を飲むタイミングが一緒だったり、話し方だったり。まるで鏡に映る自分を見ているかのようだった。だからだろうか、老人と一緒に過ごしていても居心地は悪い気がしなかった。本当に彼といるような感じだった。
「これが最後の晩餐です」
そう言って残り一口のオムライスを味わうように食べていた。俺は昨日と同じものを食べる気がしなかったので昨日彼が食べていたハンバークを食べた。
「ごちそう様でした」
レジの店員にそう言って二人分のお会計を渡して店を出た。
「出世払いは期待できないですよね」
俺は笑いながら老人のほうを見た。
「申し訳ございません」
そう言って俺に向かって手を合わせた。
そろそろこの夢も覚めるのだろうと何となく思いながら車に乗った。
「そろそろ私も戻らなければいけません」
そう言う老人に黙ってうなずいた。
「最後にあの場所に連れて行ってもらってもいいですか?私の人生が大きく変わったあの場所に」
思い当たる場所はあそこしかなかった。その場所に向かってアクセルを踏み込んだ。そうこの夢が中途半端な形で覚めないことを願って。
しばらくして車を止め、二人で車を降りて歩き出した。対向車も全く通らないためわずかな外灯と月明かりに照らされる老人の後について歩いた。そして老人は歩みを止めた。俺も老人の横に並んで手すりにもたれた。
「あなたは覚えていますか?この場所を」
「ええ、もちろん。忘れるはずなんてありません」
「そうですよね」
「では、あなたが話したことも覚えていますか?」何の話だろうと彼との会話を思い返していた。
「過去の偉人達は言っている。『あきらめてはいけない』、『挑戦し続けることが大切だ』など」
いつか彼に話したことがあるなと思い出していた。老人は続けた。
「あなたはこう言っていました。これは成功した者だから言える言葉なのだと」
あの帰り道、確かに彼にした話だった。自暴自棄だった当時に感じていたことを。
「でも、これは成功した者だから言える言葉ではありません。彼らはこの道が正しいと信じた道だからあきらめなかった。乗り越えた先にあるであろう素晴らしい景色を見るために彼らは挑戦し続けた。彼らはただ単に成功したのではありません。彼らは目の前に広がるいくつもの道を、自分の意思に従って選び、その道が正しいと信じ歩き続けてきた結果が成功につながったのです。
彼らにも間違った道を選んでしまったことはあったでしょう。だったら、後悔しないためにはどうするのか?」
老人は真面目な顔で話していた。
「それはその間違った道さえも成功への道のりに変えてしまうことだ。少しの遠回りだったと笑いごとにしたらいい。自分で選んだどんな道も正しかったと信じ続けたからこそ彼らは成功することができたのだ。あの言葉は成功したから言えるのではない。その道を信じたからこそ言えるのだ」
また老人の口調が変わった。再び自分自身に言っているかのように。
「彼らにできて私達にできない理由は何でしょうか。確かに彼らには生まれながらの才能はあったかもしれませんが、根底は同じ人間であることに違いはないのです。だから私達にできない理由などないのです。
一番の敵は他の誰でもない自分なのです。自分自身を信じられない自分こそが敵なのです。まずはためらうことをやめ、自分を信じることから始めましょう。今日まで歩いてきた道も、これから歩き出す道も信じ続けましょう。その先にこそ本当に自分の進みたい道が待っているのです。彼らにできて私達にできない理由など何もないのです」
最後はいつもの優しい口調に戻っていた。老人が話終えたとき少し雨が降り始めていた。何故だろうか。最近はどこか涙もろくなったようだ。涙が自然と溢れてきた。まるで自分の背中を押されているような気がして。
「あなたはすでに分かっているはずです。自分がどうしたいのかを」
昨日夢を語る彼の目を見て気付かされたこと。そして今日老人が『人生とは何か』を教えてくれたこと。そう昨日家に帰ってから自問自答したことだ。
「自分が何をしたいのか。これまでの俺は自分自身の気持ちを見て見ぬふりをしていたようです」
「そのようですね。私はずっとあなたを見てきましたから。でもそれも今日までです。あなたはそう誓ったはずだ。何かを変えようと決心したはずですよね」
老人はすべてを知っているかのように言った。老人は俺の目を見つめながら今日何度目かという言葉をつぶやいた。
「私はあなたに会いに来ました」
「はい。あなたはそう言って私の部屋の前に立っていました」
「私はあなたにどうしても伝えておきたかった」
「十分伝わりましたよ」
「あなたは何か勘違いしているようです。私は『人生とは何か』をわざわざ伝えにきたわけではありません」
俺はハッともう一つ思い出した。
老人は「感謝の気持ちを伝えに来た」と言ったことを。でもそれはあの夜、彼に偶然出会い彼を救ったことだと思っていた。そう今二人が立っているこの橋での出来事を言っているのだと思い込んでいた。
「あなたは何か勘違いしているようです。最初に会ったときから」
老人が何を言っているのか全く理解できなかった。
「私はあなたに会いに来たのです。あなたに感謝の気持ちを伝えに来たのです。あなたのおかげで私は素晴らしい人生を送ることができたのです」
今日一日を頭の中で振り返った。ドアの前に立っていた老人。その老人と部屋で会話したこと。車でお墓参りに行ったこと。一緒に食事をしたこと。そして老人が語ってくれたこと。それぞれが今頭の中で繋がってきた。
「あなたは一体?」
老人の目を見て言った。
「私はあなたがよく知っている未来です」
「・・・」
開いた口がふさがらないというのはこういうことを言うのだと思った。それほどまでに今自分が考えていることは信じ難いことだった。でもそれが真実なのだと思った。老人から感じた違和感や居心地のよさ。すべてに納得できる気がした。
「私は未来です」
老人は察したかのように再度自己紹介していた。そして俺に会いに来た本当の意味を教えてくれた。その言葉を深く胸に刻んでいた。
老人が話を終えたころ雨脚が少し強くなっていた。老人が空を見上げるのを見て、俺も真似して雨空を見上げた。
雨が目に入ったので、目をこすっていると「本当にありがとう」老人の優しい声が聞こえた。ゆっくりと目を開けるとそこにはもう老人の姿はなかった。
「ありがとう」そう心の中でつぶやいた。
車でマンションに帰る途中、雨がどしゃ降りになっていた。車の中では老人の言葉を思い返しながら、物思いにふけていた。駐車場から部屋まで走ったが、服もズボンも靴も濡れてしまった。部屋の扉を開けて、入り口ですぐに服とズボンを脱いで洗濯機に入れ、薄暗い部屋に電気をつけたとき、急に視界が明るくなり、眩しさのため一瞬目を閉じた。その閉じた目を再び開けたとき、俺はベッドで横になっていた。
しばらく今おかれている状況を考えていた。夢から目が覚めたのか。本当に長く不思議な夢だった。ゆっくりと体をお起こし、机の上の携帯電話を手にした。携帯に表示された日付は八月三一日。
「ふーっ」
ため息をついた。時刻は一二時一五分だった。夢の中と違ったのは「しまった」という感情がまったくなかったこと。むしろもっとあの夢の続きを見ていたかったという、夢から覚めた寂しさがどこかにあるのを感じた。
ブラインドからは太陽の光がまっすぐ差し込んでいた。
ゆっくりと洗面所に向かって顔を洗おうとしたとき自分の顔を見て気がついた。両目から一筋の跡がすっと伸びていることに。それが何の跡なのかすぐに分かった。すこし寝ぼけた頭をしっかり覚まそうといつもより念入りに顔を洗った。
頬を叩きながら机の前にゆっくり座った。掃除や洗濯よりも先にやらなければいけないことがあった。昨日寝る前にやったことと同じように、目を閉じ両手で顔を覆った。そして問いかけた。「自分はどうしたいのか」と。
両手に隠された顔は笑っていた。「よかった」心の中で安心していた。自分の決意は変わっていない。自分の気持ちに正直になる決心をした。
そう、俺は仕事を辞める決心をした。一年も前からずっと考えていたことをやっと決心できた。仕事用の鞄から取り出したのはいつか渡そう渡そうとしてずっとずっと渡せずにいた退職届。その渡しそびれた間に部署の異動もあり、そのたびに何度も書き直し続けてきた、日にちだけが記入されていない退職届。そこに辞める日と提出する明日の日にちだけを記入した。もう引き下がることはない。
よく俺らの世代はゆとり世代だと言われる。俺はドンピシャの年齢だった。仕事で怒られるとすぐに辞めてしまう。自分から進んでやろうとしない。指示されるのを待っているだけ。忍耐力がない。向上心がない。常に受け身の姿勢。そんな悪いイメージが『ゆとり』なのだろう。何かそういう仕草があったときは決まって「ゆとり世代か?」と、学生時代に身に付けた装備の欠点を言われてきた。そう言われる度に「そうです」と気にしていないように笑って答えてはいたのだが。
退職届を出したとき、どんな表情をされるのだろうか。何と言われるのだろうか。また、今まで幾度となく聞いてきた、それ以外装備する選択肢のなかった『ゆとり』の悪口を言われるのだろうか。でもそんなことは今となってはどうでもいいことだ。もう揺らぐことはない。むしろ『ゆとり』という装備を有効に使ってやろうじゃないか。これまで辞められずに働き続けた間、いやなくらい忍耐力はついた。今の仕事ではなく、自分のためになる本当にしたいことを探すという向上心がある。相手の望み通り受け身の姿勢をやめて、自ら進んで辞める。
今まで散々言われてきた『ゆとり』を武器にして思うまま生きていけばいいじゃないか。今辞めなければ、また将来後悔する自分に会うことになるだろう。本当に怖いのは仕事を辞めることなんかではない。このまま仕事を続けて、あの時辞めておけばよかったのにと後で思うことだ。そう、今でも後悔しているあの日を繰り返すことになる。
いつかテレビのCMで流行った言葉がある。
「いつやるの?今でしょ」
そうだ、やらなければいけないのは今なのだ。生きているのは今なのだ。過去に生きていてはダメだ。過去は変えられない。そんなことは分かっている。
科学の進歩を信じて、タイムマシンができるのを待つか。それは何十年後のことになるのか。きっとそれまで生きていないだろう。仮に生きていたとしても、それまで我慢して生き続けるのか。そんなことは耐えられない。もう過去は変えられない。
ただ一つ変えられるならそれは過去ではなく未来だ。明日は今日の未来であり、今日は明日の過去なのだから。だから大事なのは今日なのだ。今日変えないと明日にはまた過去になる。今日変えたならそれは明日につながるはずだから。だから今なのだ。明日ではない今なのだ。今を生きているのだから。それの繰り返しなのだから。
確かに選ぶ道はリスクがある、いばらの道かもしれないが、リスクを背負おうじゃないか。子どもの頃憧れていたプロ野球選手たちもそのリスク背負ってきたはずだから。彼らはちらつくそのリスクを強い意志と覚悟で振り払ってきたのだろう。いや、彼らは本当に好きなことをしているのだから、そんなリスクすら感じずに自分のしたいことを直感に従ってしていただけなのかもしれないが。
少なくとも自分のしたいことを始めたときにやっと彼らの苦悩を知ることができるのではないだろうか。彼らに少し近づけたとき、決して簡単に羨ましいの一言で彼らを羨望の眼差しで見ることはできないだろう。
自分から動き出さなくては何も変わらない。俺は今の仕事を辞めて何をしたいのだろうか。はっきりとしたことは分からない。でもそのヒントを彼が与えてくれた気がした。彼の話を聞き何か答えてあげると彼は嬉しそうに笑ってくれた。そしてその彼の笑顔を見るのがうれしかった。
「お兄さんは人の話を聞くのが上手だよね」
そう言ってくれた彼の言葉が少しの希望の光となった。自分と同じ気持ちの人もいるだろう。
あの日病院に行ったとき、待合室に座っているたくさんの人がいた。彼らも俺と同じように悩み苦しんでいるのだろう。その人達の苦しみを一番理解できるのは、同じ気持ちになったことのある自分自身なのではないだろうか。彼らに明確な答えを教えてあげられるわけではないのは分かっている。でも何か少しでも力になれるのではないだろうか。気持ちをやわらげてあげることができないだろうか。彼らの背負っている重荷を、少しでも軽くしてあげることができるのではないだろうか。そんな彼らを笑顔にしてあげたいと思った。
それからパソコンで少し気になっていたカウンセラーという言葉検索した。初めて自分自身と向き合った。就職活動のときでさえここまで未来について真剣に考えていなかっただろう。しばらくパソコンと向き合って固まった体をほぐすついでに、掃除と洗濯をしようと立ち上がった。洗濯機に洗剤を入れようとしたとき、少し濡れている服とズボンが入っていた。それはあの夢で着ていた服とズボンだった。すぐに靴を見た。同様に少し濡れていた。それがどういうことなのか。あれは本当に夢だったのか。深くは考えないことにした。
俺はそのまま洗濯し、靴も丁寧に風呂場で洗った。靴を洗い終わった頃、ちょうど選択が完了したのを知らせる音が鳴った。洗濯物を入れたカゴと靴を持ち、ブラインドを上げベランダに出た。
スカッとした太陽の光が清々しかった。
しばらく青空を見上げながら、洗濯物を干した。今の時間から干しても十分乾きそうないい天気だ。
それからまたカウンセラーについて調べていた。いつの間にか勢いよくブラインドから差し込んでいた太陽が弱くなっていた。
「こんな時間か」
そう思って、近くのコンビニに夕飯を買いに歩いて向かった。
一〇分ほどの道のりを、ゆっくりと歩いた。いつもなら車でスーパーに行くのだが、今日は歩きたい気分だった。弁当とつまみだけを買って、マンションに歩いて戻る。心地よい風に吹かれながら、きれいな夕焼け空の下をゆっくりと歩いた。しばらく立ち止まって空を見てしまうほどだった。鳥のさえずりも聞こえる。
普段は忙しさで自分の気持ちも下がっているためか、歩く時も俯き加減だった。そのため、この何でもない自然の光景に気付かなかった。ただ顔を上げるだけ、それだけで心が癒される。
部屋に戻ると買ってきたものを机の上に置き、普段はシャワーだけで済ます風呂を、今日は浴槽に湯をたっぷりため、ゆっくりとつかった。
「ふーっ」
ため息をつきながらここ最近起こった出来事が頭の中で自然と蘇っていた。偶然出会った彼と急にあらわれた老人と過ごした時間。初めて会った時の絶望に屈しそうになった彼の目。現実を受け入れる覚悟をし、これからの夢を語る彼の目。感謝を伝えに来てくれた老人の優しい目。ふと浴槽で立ち上がり、湯気で曇った鏡をこすりながら、自分の目をじっと見つめた。目というのは自分の心の内をそのまま表している。今の自分の目はどうなのか。鏡の目を見つめながら自分の心の内に話しかけていた。
ずいぶん長い風呂の後、買ってきた弁当をさっと食べ終え、ふと何を思ったか部屋の外に出た。もう陽は沈んでいる夜道を、今まで一度も行ったことのない田んぼ道のほうへ歩いていく。
どこに行きたい、何がしたいという明確な目的はない。この先に何があるかも知らない。どこに行きつくのかも知らない。ただただ歩いてみたかった。この月明かりだけの薄暗い道を誰かとすれ違うこともなくしばらく歩き続けた。
見えてきたのは閑静な住宅街。とある家からは子どもの笑う声が聞こえ、とある家の庭からは今年最後の花火を楽しむ家族の姿が見える。こんなごく普通の家庭をいつか持ちたいと思っていたが、今のままではそれはただの夢に終わってしまいそうだ。もうしばらく歩くと小さな公園についた。公園に来たのは何年振りだろうか。思い出すことができないくらい久しぶりだったのは確かだ。
二つあるブランコの片方に座りながら少しずつ勢いをつける。小学生の頃はよくブランコで靴飛ばしをしていた。小学校から帰ったらランドセルを置いてすぐに友達を誘いに行く。あの頃は何も考えずに母親が呼びに来るまで友達と遊んでいた。その無邪気さが子どもの特権のような気がした。
ブランコがギコギコと擦れて鳴る懐かしい音を聞きながら夕方とはまた違う風の心地よさを感じていた。子どもの頃のように勢いよくブランコから飛び降りて空を見上げると無数の星が輝いている。小さい星や大きい星。一際輝いている星や、少しくすんでいるような星。そんな星空の中を歩いて帰った。自分の存在は本当にちっぽけなんだと感じながら。
一時間ぐらいの散歩を終え、部屋に戻り買っておいたつまみの袋を開け、何も考えずに冷蔵庫からビールを一本取り出し、ふたを開ける。そのビールを味わいながら飲む。
あの老人が俺の心の中で再び語ってくれている気がした。あの優しい声で俺の決心を後押ししてくれている。明日の俺をちゃんと見届けてくれるだろうか。数時間後には明日になる。
そしていつもと同じ朝が来る。
それぞれの音が鳴り始める。
ただこの日は特別な音が鳴る。
「ウー」
俺の住む地域では毎月一日の朝に必ずサイレンが響き渡る。
登校する小学生の声が聞こえる。
いつもと同じ朝が来た。
そして運命の日がやって来た。今日、自分の意思をしっかり伝える日だ。そして自分の未来を変える日だ。確かにこれから進む道は長い上り坂のような気がする。でもその坂を上り切った時どんな景色が見えるのだろうか。
顔を洗いに洗面所に行く。鏡に映る自分の顔を見た。その目はあの目に似ていた。あの絶望感に満ちたあの目ではない。自分の夢を語るあの時の彼の目に似ていた。鏡の前でニコッと笑い顔を洗った。
ブラインドからは太陽の日差しが差し込んでいる。
ブラインドを上げてベランダに出て少し伸びをした。清々しい朝だ。まるで自分の背中を後押ししてくれているようだった。自分の気持ちは何も変わっていない。昨日干した、服とズボンそして靴を取り入れた。取り込んだ服とズボンに着替え、部屋を後にした。どうしても今日はこの服装で行きたい気分だった。車に乗って鞄にあるはずの自分の決意を記した封筒を確認した。封筒をあけ自分の決意を声にした。間違いなく今日の日付九月一日と記載されて、自分の意思が書かれてある。その文字をしっかり目に焼き付け、最後に自分に確認した。
「本当は何がしたいのか?」
自分の心から帰ってきた返答に深くうなずいて、会社に向かった。
会社まで車で一五分ほどの道のりを音楽を聴きながら向かっている。これまで何度も通ったこの道も今日で最後となる。あの日俺は自分の意思通りに動いた。上司は驚いた顔をしていたが、自分の決心を伝えた。何を提案してもらっても自分の意思は変わらないことを伝えた。それから何度も話を重ね辞める日を決めた。今日がその日である。自分がしたことが正しいかどうかは分からない。でも後悔はしていない。それだけで十分だった。
最後の一日はあっという間だった。最後の出勤を終え会社から出て、駐車場まで歩いていく。今日はいつも見てきた道ではなく、少し雲の浮かぶ空を見ながら車まで歩く。次第に雲は動き、隙間から眩しいほどに太陽の陽ざしが差し込んできた。まるで自分の心境を表しているかのようだった。自分の心にかすかに残っていた不安という雲を吹き払い、希望の光が差し込んでいるかのように。これから歩む道はどんな道になるのだろうか。
「先生、お願いします」
「やめてくださいよ。先生なんて」
女性の呼び出しに恥ずかしそうに答えていた。
会社を辞めると伝えてから転職活動を本格的に開始して、年明けの一月から今の職場に転職して働いている。今の会社というのはいわゆる、就職活動生が就活の際に登録して企業情報を得たり、面接の練習や自己分析の仕方、エントリーシートの書き方など就職活動の支援をする会社である。カウンセラーという職業について調べていた時、キャリアカウンセラーという職業があることを知った。
元々は自分のことを傷つけたり、精神的に追い込まれている人のカウンセリングということを考えていたのだが、学生達に後悔しない人生を送ってほしいという気持ちからこの仕事をしたいと思うようになった。自分の経験はここに訪れる学生達には、ある意味参考になるだろう。就活を早く終わらせたいという気持ちに惑わされて、自分が本当にしたいことを犠牲にはしてほしくないという気持ちがあった。
何人かの就活生の悩みを聞いていると、いつからか絶えず相談者が訪れるようになり、相談窓口のようになっていたので、先輩社員から冷やかしのように『先生』と呼ばれるようになっていた。「圧迫面接だった」「またお祈りメールが来た」「集団面接の横にいた人、東大生だった」などなど。
就活がうまくいかない愚痴を吐き出しに来る学生も少なくない。中には涙ながらに話し出す学生もいる。でも俺はそんな話を聞くのが好きだった。彼らは必死に自分の進路と向き合っているのが嬉しかったからだ。俺はそんな経験をしていない。大して悩むこともなくスムーズに内定までこぎつけていた。だから誰かに相談することもなかった。でも結局俺も悩むことになってしまったのだ。あの時の俺も、目の前にいる彼らのように真剣に悩んでいれば、ああはならなかったのかもしれない。
でもそれを今考えても仕方がない。だって、過去に戻ることはできないのだから。それにその過去があるから今の自分がいるのは紛れもない事実である。少し皮肉な気がしないでもないが、人生はどこでどう変わるかなんて、誰にも想像することはできないのだと改めて気付かされることになったのがこの仕事だった。
六月頃になると内定者が増えていき、ここを訪れる学生は少しずつ減っていった。だがそれまでと変わらず、ここを訪れる人数は変わらない。ここに来るのは何も学生だけとは限らない。俺のように転職しようとしている人や、子育てがひと段落して働きだそうとしている人。中でも印象的だったのが、四〇代の男性だった。
男性が初めて訪ねてきたのは三月のこと。相談に来たはずなのに自分から一向に話そうとせず、表情も暗い。俺は男性のことを知ろうと質問していくうちに男性もだんだん重い口を開くようになっていた。
「入院することになって、仕事を辞めたんです」
それは今の俺くらいの年齢の時らしい。
「生きていくのも辛くなってしまって」
その言葉を聞いたとき、男性からその後出てくるのであろう言葉が想像ついた。そしてその通りの言葉が出てきた。だが男性もまた今こうして生きている。男性がこれまで歩んできた道はきっと険しい道だったのだろうと察しがついた。男性の目がそう語っていたからだ。
「私も同じように考えていたことがありました」
俺はここで働きだしてから、一度も自ら生きる道を断とうとした話はしてはいない。これからの進路を考える学生達には少し話が重すぎる気がしていたからだ。だがこの男性には話してもいいような気がした。
初めて彼に出会ったあの夜、彼を家に送る車の中で話したことをこの男性にもしていた。男性は黙って聞いていた。
「すみません。関係ない話をしてしまいました」
「若いのにしっかりされておられますね。自分が恥ずかしい」
「いいえ。そんなことありません」
ふと過去に似たようなことがあったなと思った。
「私もあなたと同じように感じた日がありました。それもあなたと同じように私よりもっと若い少年に気付かされたのです」
「そうなのですか。その少年はどのような方なのですか?」男性は彼のことについて尋ねてきた。
「私よりも大変な道を歩み続けることを決心した、強い心を持った人間です」
彼のことについて話すのは違うような気がしたため、濁すようにした。
「でも彼にも、私たちと共通点がありますが」
何故か最後に余計な一言を付け足してしまっていた。
男性は少し考えているようだったが俺の言葉の意味は理解できていないのだろう。
「私はその少年に救われました。彼が私の人生を大きく変えるきっかけになってくれました。だから私は今ここにいるのです」
「私も変えられますかね?」
男性の顔は不安気だった。
「そればかりは、あなたの意思だと思います」正直に伝えた。
「そうですよね」低い声がかすかに聞こえた。
男性はきっと優しい言葉を期待していたのだろうか。でもそれが男性のためにならないことは分かっていた。しかし今の俺なら手を差し伸べることができることも分かっていた。
「でも協力ならさせていただきます」俯いていた男性の顔がゆっくりと上がっていった。
「だから私はここに来たのです。私と同じような気持ちの人がいるのなら少しでも力になりたいと思っています」
男性はずっと俺の目を見つめていた。
「ありがとうございます。あなたに会えたおかげで少し変われそうな気がします。私もその少年に救われたかもしれません」先ほどよりは少し高い声だった。
「あなたに出会えたということはそういうことなのですから」
「確かに。そうかもしれませんね」
男性の決心した目を見ながら深くうなずいた。
それから男性は頻繁に私を訪ねてきた。いろいろ気になることはあったのだが、男性の過去のことは聞かないようにしていた。四〇歳を超えての就職活動。周りはもっと若い人ばかりで、周りの目も気になるだろうが、男性の覚悟の強さは人一倍伝わってきた。
俺は今の会社に転職するにあたって引っ越しをした。マンションの近くには小川が流れ、少し歩くと緑が茂っている、都会の中では珍しく自然のある場所だ。
最近になって蝉がよく鳴いている。当然家賃は高くなったが四季を感じる非常に住みやすい場所だ。あれから一年経って夏がやってきた。これまでの夏とは違い、今の空のように心もすっきりしている。あの思い悩んでいた夏も、今となっては大事な過去の話。ここから新たな道を歩みだすことに決めた。
彼とは今でもたまに会っていて、最近では高校最後のインターハイ出場を決めたと彼から連絡があって一緒に食事に行った。彼は自分の人生をきちんと歩んでいる。自分の目標に向けてしっかりと前だけを見ている様子だった。怪我をして思うように練習できないこともあったようだが、病院でのリハビリ期間中に夢で両親が会いにきてくれたらしい。夢の中でいろんな話をしてくれたとも言っていた。その期待と覚悟を背負って生きていかなければいけないのだと、あの羨ましいと感じた目で話してくれた。
そんな八月の初旬、会社に行くと一通の封筒が机の上に置いてあった。
「封筒が届いていましたので、置いておきました」
同僚が伝えてくれた。
「俺宛に?」
「ええ。先生宛です」
同僚は笑っていた。そんなことはこの会社に来てから初めてのことだった。封筒の表面は確かに俺宛に間違いない。達筆な字で書かれた俺の名前を見たとき、差出人が分かった。封筒の裏面を確認すると、想像した通りの差出人の名前が書かれていた。
その封筒は会社では開けなかった。
「読まないのですか?あの方からですよね」
「ええ」
何故なのかは分からないが、開けないでおこうと思った。仕事が終わり、家に帰ってから鞄の中の封筒を取り出した。この達筆の字は何度も添削してきた、あの男性の字だ。封筒にはさみを入れ、一通の手紙を取り出した。
「拝啓 蝉の声が聞こえる季節となりましたが、先生は益々ご活躍のこととお慶び申し上げます。
三月頃から先生を伺うようになりまして、早五ヵ月が経とうとしております。この間、辛いこともありましたが、今までの自分から少しずつ変わっていくのを感じております。先生よりも一回り以上も年上の私に真摯に向き合っていただきましたおかげで、やっと新たな職に就くことが決まりました。私はこの新たな道を再び歩みだすことに決意致しました。私は先生に救っていただきました。そして、先生に話していただきました、あの少年にも救っていただきました。
『報われない努力はない』と思いながら今後の人生を生きて参ります。
本来なら直接お伺いして感謝の気持ちをお伝えすべきですが、新たな道を進む準備に追われておりますのと、先生にお褒めいただきましたこの字で、感謝の気持ちをお伝えしたく手紙にて失礼させていただきます。ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。
暑さきびしき折柄、くれぐれもご自愛ください。」
男性は自分を変えようと必死だったが、その努力が報われたようだ。これからこの男性は自分で選んだ道を歩くことになる。少しはその手助けができたのだろうか。
「努力は必ず報われる」
と言われることがあるが、本当のことを言うと決してそんなことはない。努力していない人間なんてこの世にはいないだろうし、そうだとしたらこの世には報われてきた人ばかりになる。
現実、多くの人は今に満足していないことだろう。報われるというのはその人自身のとらえ方で大きく変わる。目標としていたことに対して努力し続けても、その目標に手が届かなかったら努力は報われなかったことになるのだろうか。でもその努力は別のどこかで実を結ぶことだってあるかもしれない。
『必ず』という一言にはすごい重みがある。誰しも努力は報われてほしいと思うものだ。ただ、これも人間の勝手でしかない。
人間は勝手な生き物だ。
その努力が報われなかったとき、自分には運がなかったなどと言って別のせいにしてしまう。努力をしたのだからこそ、報われたいと思うのは当然のことかもしれない。
では一体、どれほどの努力をしてきたのだろうか。自分が目標としてきたことに相当するほどの努力をしてきたと言えるのだろうか。それは一体どれほどの努力なのだろうか。努力の度合いを測る明確なものさしはない。時間で決まるわけではないし、内容で決まるわけでもない。他人と比べても仕方のないことだ。それは自分の自己満足にすぎない。努力というのはこれだけのことをしてきたのだから大丈夫だという自分自身の安定剤なのだ。
『努力は必ず報われる』
というのは人間の願望だ。そうではないことをどこかで認めながら、そうであることを期待している。その目標に相当する努力をしてきたと胸を張って言える人間はどれぐらいいるのだろうか。
俺自身もそれなりの努力はしてきたし、それに報われたことも、そうでないことも経験してきた。でもある日突然、あの時の努力が今役立っていると思うことがある。
『努力は必ず報われる』
とそう違わないのかもしれないが、
『報われない努力はない』
と今は思って生きている。
目標に対して努力をし続けても、その目標が叶わないことはたくさんある。だから努力は報われなかったと思うのは、自分の努力を否定することになる。それはあんまりだ。
目標としていたものに、あの時の努力は報われなかったかもしれないが、いつかの未来で別の形としてあの努力が実を結ぶはずだと、報われるのではないかと信じている。そんな思いで『報われない努力はない』と男性に話したことがあった。
だがこうして改まって感謝の言葉をもらうのはあのとき以来だ。
そう、自分のことを『未来』と語る老人以来だ。
そう思いながら、手紙の最終行に書かれた俺の名前を見た。そこには達筆な字で俺の名前が書かれている。
『羽田 未来 様』
俺は子どもの頃から自分の名前が好きではなかった。親が自分の将来をしっかり考えられるようにと名付けたらしい。今となっては違うかもしれないが、俺が子どもの頃は未来という名前は珍しい名前でもあった。女の子にも間違えられることもあった。
ただそれ以上に、何か荷が重い気がしていた。しっかりとした人生を歩まなければいけない義務みたいなものを一生背負った気がしていた。だから友達にも名前で呼ばれるのを嫌がり、苗字で呼んでもらうようにしていた。そのときから俺は自分自身と『未来』と向き合うことから逃げていたのである。
自分の名前を見ながら、あの時の老人の最後の言葉を思い出していた。
「やっと勘違いに気付いてくれましたか。
私が未来からあなたに会いに来た本当の理由は、これまで何度も言ってきたとおり、今のあなたに会いたかったから、感謝の気持ちを伝えたかったからです。
私はあなたが一番よく知っている『未来』なのです。あなたの未来なのです。
あなたは未来のことを、つまり私のことを考えて、いっぱい、いっぱい悩んでくれてありがとう。いっぱい、いっぱい苦しんでくれてありがとう。あの日あなたがどれほど苦しんでいたか私は知っている。あなたの辛さは他でもない、未来の私が一番分かっている。
今こうして死に際になって、この感謝の気持ちをどうしても伝えておきたかったのです。辛いこともありましたが、あなたはそれを受け入れる覚悟をした。
昨日の少年の目に教えられたのも知っています。そしてあなたがどのようにしようとしているのかも知っています。
どんな道を選んでもまだまだ辛いことはたくさんありますが、大丈夫です。あなたは人生がどういうものなのか分かっている。人生楽しんだ者勝ちです。苦しいことがあるのなら逃げてもいいのです。無理して戦う必要もないのです。
ただし、それが後悔しない選択だということが前提です。時期を逃せば後悔につながるかもしれません。だから自分の意思を信じて、進むべき道を選んでください。
この世から逃げたいくらい悩んだのを今でも思い返します。でもあのとき進む道を間違えなくて本当に良かった。生き続ける道を選んでくれてありがとう。これからも悩み苦しむ道を選んでくれてありがとう。
だから私は今こうして生きていることができるのです。こうして死んでいくことができるのです。こんなにも幸せな気持ちで死んでいくことができるのです。
自分の名前と向き合ってくれて、本当にありがとう。過去の未来へ」
これまでは逃げ道ばかり探して歩いてきたが、これからは違う。あの日俺はそう自分に誓ったのだから。これからは正々堂々と生きると誓ったのだ。未来の自分が「ありがとう」と言いに来てくれた。恥ずべき人生を歩んではいなかったと。俺のこれから進もうとしている道は間違いではないはずだ。最期まで生き続けた未来の自分が幸せだと感じられたのだから。未来の自分にありがとうと感謝されたのだ。だからその感謝に応えられるよう、精一杯生きようじゃないか。それは義務や責任などという重荷ではなく、自分の直感を信じて、一日一日を後悔しないように今できることをする、したいことをする。そんな毎日を送ることがきっと未来への道標になっているのだと信じながら。
自分と同じ名を持つ少年との出会いが『未来』を変える運命だったようだ。
手紙を封筒に戻して、さっとシャワーを浴び終える。鏡をみながらドライヤーで髪を乾かした。そして自然とため息をついた。
「ふーっ」
あの頃とは違うため息だ。男性の力になれたこと、あの日未来の自分に誓った、自分のしたいことができているという安堵感。その思いがおもわずこぼれてしまった。鏡に映る自分の顔は充実感で溢れている。鏡の目はすでに明日という未来に向け輝いているのを感じ取った。
テレビをつけニュースを聞きながら、冷蔵庫からキンキンに冷やした瓶ビールを冷凍庫からは凍らせておいたジョッキを取り出し、ビールを注ぐ。過去を振り返りながら、ビールは一気に喉を通っていった。半額のシールなど張っていないあてをつまみながら一人、晩酌を楽しんだ。
ジョッキを片手にベランダに出た。きれいな夕焼け空が広がっていた。鳥が飛び、蝉は鳴き、緑が茂っている。この瞬間が好きだ。この自然の中で自分がいかにちっぽけな存在なのかが分かる。そして、無限の可能性も感じる。これからも顔を上げて人生を歩んでいこうと思える、この瞬間が好きなのだ。
ベランダにもテレビのニュースが聞こえていた。インターハイで外国人留学生を差し置いて、五〇〇〇メートルの高校新記録を出して優勝した選手がインタビューを受けているようだ。
「これからの目標を教えてください。やっぱりオリンピック出場ですか?」
期待のランナーにそう言わせたいインタビュアーのようだが、彼の答えは違った。
「毎日毎日を後悔なく生きることです。名付けてもらった自分の名前を大切にして、自分を信じて生きることです」
すっかり大人口調な彼の予想外の返答にインタビュアーは呆気にとられているようだ。
空になったジョッキにビールを注ごうと部屋に戻ってみると、テレビの中のその選手の首元には銀色のチェーンがかかっていて、胸元には十字架のついたペンダントがぶら下がっている。
テレビの中の彼と目が合ったとき、彼はギュッとその十字架のペンダントを握りしめていた。彼の目はあの日の目をしている。あの日夢を語ってくれた、未来をしっかり見据えたあの目だった。
ビールを注ぎながら明日はどんな天気になるのかと、再びベランダに出て空を見上げる。遠くの空にはきれいな虹が架かっている。きっと明日もいい天気になることだろう。そして彼の両親は天国から息子のことを見守ってあげていたに違いない。本当に彼は俺のヒーローだ。
今日はいつもより少し早く眠ることにする。
この仕事を始めてから、寝る際はあの老人にまた会えないだろうかと思っている自分がいる。あの日の出来事は今でも夢だったのか何だったのか分かっていない。ただ夢で会えるなら、伝えておきたいことがある。
もう、目覚めたとき過去の楽しかったあの時に戻れていたらなんて思いは一切なくなったこと。そんなこと考えていても未来は変わらないし、実際そんなことが起きてしまったら、今は後悔してしまうぐらい、今を後悔なく生きているということ。
そして今度は俺がそっくり言い返してみたい。
「あなたに会いたかったから、感謝の気持ちを伝えたかったから、今度はこちらから夢の中であなたに会いにきました」と。
最後には「ありがとう。未来の未来へ」と。
いつかそう伝えられる日が来ることを願いながら眠りにつく。
今日もいつもと同じように目が覚めた。結局夢の中で老人に会うことはできなかった。
いつもと同じ朝が来た。
登校する小学生の元気な声が聞こえる。
何も代わり映えのない朝が来た。
ブラインドからは太陽の光がまっすぐ差し込んでいた。
初めての小説となります。