第二話 『テンプレートは優しい慰め』
私は、「小説家になろう」というWeb上のコミュニティーに登録し、そこに自作品を発表している。ここは、「テンプレに従わないと読んでもらえない」というイメージがもはや定着してしまっているサイトだ。事実がどうであるかという事はこの際、どうでもいい。
イメージが事実を覆い隠してしまうのだから。イメージが大事なのであって、事実はオマケだ。
断っておくが私は昨今流行りのテンプレート作品というものは書けない。そして、人の評価が怖い。出来れば言い訳が効く場所が良いというのは、実際のところ後付けの動機であるかも知れない。
最初はこの状況を覆すような作品を、ラノベ以外で書いてやろうという野心があったのかも知れない。だが、そこまでの才能は私にはなかったのだろう、私の作品は陽の目を見なかった。
いやいや、そんなカッコイイ事など考えちゃいない。たまたま。偶然。なんとなくネットサーフィンをしていたら、有名所のこのサイトに辿り着いたというだけだ。口元を歪めながら、私は私に問いかける事を止める。どちらが本当かなど、どうでも良いことなのだ。
私も例に漏れずで、当初は作品を読んでくれる読者などいなかった。
そういう時、このサイトの持つイメージはとても便利だったのだ。「テンプレでなかったから」という言い訳が立つ。しかも、それが荒唐無稽なまったくの言い抜けという訳でもない。確率の問題だ、もしテンプレで書いていたらウケたかも知れない、仄暗い希望。その薄暗さゆえに、これを卑怯と捉えて非難する者もあろう。だが、それは正解ではない。
IFという確率は絶対に数値にならない。その作者はテンプレを書かないからだ。どんなデータを持ってきても、それは無効だ。「テンプレでなかったからウケなかった、」それは事実であり、優しい慰めだ。
テンプレを書いてしまえば、厳しい現実に晒される。ゆえに、暗闇の中の僅かばかりの光明たりえるのだ。吐息一つで吹き消されるほどの希望なら、どこが卑怯に当たると言えるだろう。
翻って現在、私は小説を書こうと思っている。そう、思っているのだ。
たとえ、正体不明の佐藤裕子に悩まされ続けているとしても、私がどちらを優先すべきかを間違っていたとしても、この優しい慰めに縋るよりない。
佐藤裕子なる男性に酷似した声の主が、実際に男性であるか否かは可能性の問題。もし、万が一、佐藤裕子が男性であったとして、この男が私の娘とどのような関係性であるかが本当のところの隠された命題であるからだ。
集客率という言葉がある。数を頼りに目に付く回数を増やす事によって、人はたやすく、何の疑いもなく、AグループではなくBグループを選ぶ生き物だ。目当てはAであったにも関わらず、Aグループには目もくれず、膨大なBグループを仕分けするだけで精いっぱいとなるケースは幾らもある。囲い込みの手法だ。
詭弁であるかも知れない。そもそもデータは詭弁だ。どちらもどちらで卑怯なのだ。
テンプレを書かないと宣言した非テンプレ作者の嘆きは、どのようなデータを持ってしても、この嘆きを不当であるとは証明できない故である。事実、数値の上でテンプレは優位にあるという揺るぎない実例が、ランキングにおいても作品数比率においても、そこに如実に表れているのだから。テンプレを書かないからウケない、これは一面での事実を語っている。そして、本質の問題はその面にはないというだけだ。
そう、佐藤裕子が男か女かは実は表層であって核心ではない――