第二話「選ばれし者、選ばれざる者」Cパート
一月十六日 午前十時二十七分
一夜を挟み、土曜日の朝。この日の蓮と秋原は探偵事務所にて顔を合わせ、応接テーブルを挟んで依頼人――大村と向かい合っていた。
昨夜における高宮家の住所確認、それから啓一との接触についての事後報告というやつだ。
「そうですか。息子はまだ、バイオリンを」
蓮の報告を聞いた大村は一気に息を吐きだし、感慨深げに頷いた。
現状で手に入れられた情報はふたつ。高宮家の住所と、啓一がバイオリンを弾いているという情報のみ。
これでよかったのだろうか。思えば蓮は兄のことをずっと見てきて、何でも識っている気でいたけれど、こと探偵の仕事というものに関しては自信がなかった。
「……あの、これからはどうされますか?」
依頼人からして得られた情報が不十分だった場合、調査継続、ということになる。そうなれば今度こそ蓮たちには不可能な領域だ。
昨日は秋原が前に出て道筋を示してくれたけれど、次は蓮が責任を持って断らなければならない。
「いや、もう結構。 知りたかったこと以上のことを教えてもらいました。やはりこういうのは、専門家に頼むべきですね」
そういって大村はにっこりと微笑み、蓮と隣の秋原を見た。
「ありがとう。探偵さん」
大村はそう言いながら秋原に右手を差し出した。包帯が巻かれた右手を。
「あ、いや。僕は下のバイトですから」
秋原は一瞬目を丸くして、苦笑しながら平手で蓮を指した。しかし、蓮も蓮で探偵の妹というだけなのだが。
「では、ありがとう。小さな探偵さん」
大村の微笑みが蓮に向き、今度こそふたりは握手を交わす。
請求した依頼料はサクラと相談の上(こころざし程度だけ貰っときなさい、というのが彼女の言だ)、五千円ということにしておいた。
元々素人仕事であったし、仕事らしい仕事をしたわけではなかったから、受け取る蓮としても少ないほうが気が楽だ。
けれど秋原には、何か引っかかるものがあるようだった。
去ってゆく大村の背中をなぜか最後まで訝しげに見つめていた秋原は、事務所内に戻るなり重々しげに口を開いた。
「……あのおっさん、手に怪我してたな。高宮が言ってた古傷じゃなく、新しい傷」
「確かに、してましたけど……」
蓮の返答に秋原は何かを迷うような表情を浮かべたが、彼はしばしの逡巡を経て、決然と言い切った。
「一条小春だったっけ? あの女が昨晩のヤツに手傷を負わせた部分と同じだ」
ヤツ、とはあの犀じみたキメラのことか。
しかし、それが意味するのは。
「高宮くんのお父さんが、あの怪物だって言うんですか?」
「可能性としてはな。自分が喪ったものを息子が未だに持っている。妬ましく思うことはあるだろうさ」
秋原は何かを嘲るような苦々しい笑みを浮かべながらそう言った。蓮にはわからなかった。
「――どうして」
秋原の考えがわからなかったわけではない。そういった逆恨みめいた動機で犯罪を起こす人間は、きっと世界中に沢山いるだろう。
しかし、それを当然のことであるかのように語る秋原が、蓮の知っている秋原ではないように思えたのだ。
「どうして、そんな風に、わざとひねくれて、悪ぶろうとするんですか?」
秋原の表情が一瞬だけ凍り、そしてすぐに苛立たしげな眉根を寄せた表情を作る。
「……何がわかるんだよ、君に」
「だって。秋原さん――」
――わたしを、助けてくれたから。
蓮はそう言おうとした。けれど。
「助けてくれたから、とでも言うつもりか?」
それは蓮が思う感謝や嬉しさと同じものを指す言葉なのに、目の前の青年にとって、蓮を助けたことが間違いであるような言い方だった。
「いいかげんに解れよ。俺のせいで腕にケガまでさせられて、ピアノが弾けなくなるかもしれなかったんだぞ!?」
それは蓮を責めることばだったのかもしれない。けれど蓮には、これがなぜか秋原自身を痛めつけるように聞こえた。
悪ぶってなどいないと。自分は悪いものなのだと。まるで秋原とは関係ない、彼を憎み責め苛む第三者のことばを代弁するように。
「――いや。何なら今ここでねじ切ってやることもできる!」
秋原はやおら蓮の腕を掴み、力を込めた。骨が軋むような痛みが一瞬だけ走り、秋原はすぐに手を離した。
「……勘違いするなよ。それをしないのも、結果的に君を守ったのも、君を思ってのことじゃない。全部如月時彦に逢うためだ」
そう言った秋原の目は、蓮を見ていなかった。蓮ではない誰かを見ていた。
何故か蓮は、秋原と初めて出会った大雪の日を思い出した。
秋原が、面識もない蓮の兄――時彦に何かの助けを求め、探偵事務所を目指す途中で行き倒れていたあの日。
蓮には秋原が、未だにあの大雪のなかにいるような気がした。
「俺にはそれしかないんだ。誰かを助けようなんて思えるヤツじゃないし、そんな資格もない」
「そんなのは……あいつみたいな、本物のヒーローがやればいいんだ」
秋原はそう言って、迷いのない淡々とした足取りで探偵事務所の戸をくぐった。
ばたん、と。ドアが閉じると同時に、繋がりかけていた何かも消えた気がした。
ソファへと戻り、身を投げ出すように腰掛けた蓮の目に、窓際に置いておいた紙袋が映る。
それはささやかな依頼完遂祝いとお礼の気持ちとして、秋原と食べようと買っておいた人気店の揚げあんパン。
それに今手をつける気には、とてもなれそうになかった。
もう空は橙に染まり、あとは夕闇を待つばかりの黄昏前。
キメラの力を扱う訓練がてらよじ登った雑居ビルの屋上にて、秋原灯介はコンビニのあんパンをむしゃりと咀嚼した。
牛乳で流し込むパンと餡の味は、なぜかいつもより薄いような気がした。
「どいつも、こいつも……勝手にわかったふりしやがって……」
誰にともなく呟きながら、コンクリートで覆われた屋根にごろりと大の字に寝転がる。
なぜ秋原は、あの少女にあそこまで取り乱してしまったのか。
いつもそうしてきたように、誰にでも都合のいい嘘をつけばいい話だったのに。
「俺だってわかってねえもんが、お前らにわかるものかよ……」
冷たいコンクリートの上、ごろりと寝返りを打ちながら、秋原はまた呟いた。
自分は何をしたいのだろうか。
誰かを助けたいなどとは思わない。すべては目的のためでいい。けれど。
「――いいや、やめだ。休憩だよ、休憩……」
そのまま日が落ちるまで、何も考えず寝転んでいよう。そう思って目を閉じた矢先、秋原の耳に声が届いた。
硬質の何かを引っ掻く音。否、それと聞き間違うような人の声。悲鳴だ。
「ッ――!」
起き上がり、屋上の手すりから身を乗り出すように声の方向を見る。
悲鳴の源は秋原が立つ雑居ビルの直下、ビル街の狭間に築かれた小さな広場だ。
鋭利な嘴を生やした金属質が上半身を覆い、と烏めいた黒い翼を生やしたその姿は、間違いなくキメラのそれだ。
だが、様子がおかしい。
ふらふらと酔っ払いのような歩調で歩くばかりか、その体躯すら安定せず、風船めいて膨らむのと縮むのを繰り返している。
だが、見逃せないのはその足が確実に、今しがた悲鳴をあげたであろう人物を目指していることだ。
すなわち、地面に尻餅をついて泣きじゃくる子どもと、それを抱えて逃げようとする母親――親子の姿。
その光景を見て、秋原の胸に一瞬だけ砂粒めいたわだかまりの粒が浮かんだ。秋原はそれを振り払った。
「やるしかねえよな……イグニッションッ!!」
秋原は迷わなかった。一瞬で鬼の姿へと変わり、マフラーを翼めいてはためかせながら、屋上を囲う鉄柵を飛び降りる。あたかも鷹のように。
両手両足を使って衝撃を吸収し、猫のように着地する。四階程度の高さならもう慣れたものだ。
「さあ……」
眼前には出来損ないのような不格好なキメラ。背後には親子。やることは決まっている。
「俺の地獄に付き合ってもらう」
だが。
秋原の眼前のアスファルトにヒビが入る。警戒し、跳び退がった秋原の前に、もう一つの影がアスファルトを突き破って現れる!
「ああ……いたいた。手間かけさせるなよ」
まるで人間同士の待ち合わせのような気軽さで不格好な怪物に話しかけるその姿には見覚えがあった。
昨夜に交戦した、犀のキメラだ。
「二体目かよ……!」
秋原は舌打ちし、現れた二体のキメラに向かって構え直す。こうなっては武器がないのが心許ないが、やるしかない。
「昨日の雑魚か。 中途半端な格好のくせに、俺達に刃向かう気か?ん?」
秋原は挑発を無視した。右手に意識を集中させ、キメラの能力と鋼体を灼き壊す翠の焔を灯す。
秋原も、己のキメラ化が中途半端な状態であることは理解していた。おそらくは通常のキメラに対して能力が劣っていることも。
だが、ないものねだりをしても始まらない。今はこの力で戦うのみ!
「――おッらああああああッ!!」
先手必勝!秋原は身を屈めながら地を蹴り飛ばし急激に間合いを詰め、翠光に輝く爪を犀のキメラへ振りかざす。
一撃でシルエットを砕き、能力を消滅させんとその胸部を狙う!
「学習しろよ」
昨日と同じく、犀のキメラは相撲の四股のごとくに地を踏みしめる。次の瞬間、巻き上げられた泥が壁となって秋原の視界と攻撃の道を塞ぐ。
泥壁は秋原の攻撃が沈むのを待たず固化し、盾としてその爪を弾き返さんとする。秋原はその壁を蹴った。
三角飛びめいた方向転換で、進行方向を直前から右方へ急変更する。先にあるのは未だ不気味な動きを続ける不格好なキメラ!
爪が一閃する。鬼の爪は確かにシルエットを切り裂き、その内部が一瞬のみ顕となる。秋原灯介はそこにあるはずのないものを見た。
「おまえ……!」
秋原はそこにあった真実に硬直し、一瞬、否、二瞬を喪った。
藻に絡め取られる船のように、次なる行動を見失ってしまっていた。
その隙、切り裂かれたシルエットを修復させたキメラの翼が、秋原を扇ぐように高速で振り抜かれる。
秋原の腹部に無数の痛みが走った。同時に、その痛みが体の動きを麻痺させる。
腹に刺さるのは、鳥の羽めいた無数の矢状武器だった。これだけでも致命傷だ。しかし。
「とりま、目撃者は今のうちに消しておくか」
地面に膝をつく秋原の隣を、犀のキメラが悠々と通り抜けてゆく。目的は先程悲鳴を上げた子とその親か。
足を殺すつもりで鞭を打った。その甲斐があってか、走ることができた。
振り上げられた、犀のキメラの腕。ショベルカーを連想させるその爪。
「くそったれぇええええええッ!!!」
秋原は走った。犀のキメラが振り向く。振り上げた腕は秋原へ。地を滑るようなスライディングで回避し、腕は電柱を、そして建物を砕く。
「逃げろ!」
目の前の怪異にへたり込んでいた子供を、母親を無理やりに立ち上がらせ、半ば投げ飛ばすように走り出させる。
だが、秋原が逃げる時間はなかった。
重力と筋力に任せて振り下ろされた腕は、死刑を決定づける木槌のごとく。
秋原はアスファルトに広がる瓦礫の上に叩きつけられ、その身を中心に蜘蛛の巣の如きヒビ割れが広がる。
「……あ――――」
動けなかった。
全身を満たすのは、神経か、腱か、なにか決定的なものがちぎれてしまった感覚。
片足はコンクリートの瓦礫に埋もれ、たとえ体が動いても立ち上がることはできないだろう。
だが、猛然と魔獣が迫る。犀と人との合いの子のような姿をした、金属質の魔獣が。
秋原は赤銀の装甲に包まれた右腕を、獰猛なる刃の爪を、震わせながら天へと伸ばした。神以外の何かにすがるように。
だが、その手から、秋原の体全体から、急激に力が抜けてゆく。程なくして、右腕はぱたりと地に倒れた。
秋原は薄れゆく意識と視界の中で、目の前に誰かひとりの女性が立つのを見た。秋原は彼女の名前を呼び、その意識は遂に途切れた。
「かえで、せん、せい――――」
第二話「選ばれし者、選ばれざる者」了
第三話「アンダー・ドッグの逆襲」へ続く
というわけで、第二話です。
次回予告と内容が大きく食い違うのは、予告投稿時点での僕のプロットの組み方が甘かったからに他ならないことです。申し訳ありません。
プロットの構成ペースと密度、投稿のタイミングなど、勉強を続けていく所存であります。