第二話「選ばれし者、選ばれざる者」Bパート
空気は冷え込み、空は藍色に染まりつつある夕刻の商店街。これくらいの時間になると、買い物客の賑わいも、日に何度かのピークを迎える。
秋原灯介が歩くのはいつも通りの街路ではあったが、その足取りは異国の街を歩くかのようにおぼつかないものだった。
「どんな顔して入ればいいのやら……」
足が惑う原因は、バイト先の喫茶店「シンデレラ」に入る決心がつかないこと。
あれから顔を合わせていない水鏡蓮――ついでに、夏目実音のことが気掛かりだったのもあるが、最大の理由は、秋原がこの街を訪れ、如月時彦を待ち続ける理由――「あのひと」から託された依頼状が入った封筒をロッカーの中に置き忘れていたことだ。
置き忘れてはおけない。かといって、行けば嫌でも知ることになる。彼女たちがあの場で財団という組織に保護され、それからどこまでの説明を受けたのかを。
キメラという存在について語られ、秋原の正体についても知らされているのだとすれば……
「居心地、悪いことになるだろうな」
悩み続けた甲斐はあったのか、秋原の中にはぼんやりとした覚悟のようなものが形を成しつつあった。
喫茶店で働くことを提案してくれたサクラの好意。そこで出会った蓮との関係性。
それらは今までの秋原にとって、いずれ出会う如月時彦からの信用になるはずのものだった。
正体を知られることでそれらを失ってしまったとしても、如月時彦を待つこと自体に支障はない。
ドクトルも彼が死亡することは絶対にないと言い切る。ならば単に、絶好の場を失うというだけだ。
「しょうがないか」
悟ったような自分の言葉とは裏腹に、胸には鈍い痛みが――傷以外の痛みが絶えず走っている。
その正体はわかっている。
結局、悪くはない気分ではあったのだ。自分以外の人間がいて、自分もそこにいる。それを許されていることが。居場所があることが。
とはいえ、それが長く続かないことも、秋原灯介にはわかっていた。
息を大きく吸って、そして吐く。
「よし、行くか!」
自分で自分にその行動を見せるように、決然とした表情をつくって歩き出す。目指すは数ブロック先のシンデレラだ。
どう思われようと、その時はその時。ダメならバイトを辞めて、待ち方を変えるまで。
前に進むごとに一歩一歩の距離が短くなっている気がするが、所詮気のせいだ。
そうして逡巡にも似た前進を続けていると、丁度目的地のシンデレラの扉をくぐって駆けてくる、蓮と似た制服の少年の姿が目に入った。
少年は幾度も振り返りながら、時には屋根の上にまで視線をやりながら、秋原の方へ走ってくる。
秋原が怪訝に思いながらさりげなく躱そうとすると、少年の進路もふらりと揺らいで――秋原に衝突する。
「ごご、ごめんなさい!」
「……危ないよ」
慌てて頭を下げる少年だが、ぶつかったくらいで腹を立てる秋原でもない。
秋原に追及する気がないのを認めると、少年は秋原に繰り返し頭を下げながら小走りに去っていった。
あの年頃には珍しく、真面目なやつだな――そう思いながら歩き出そうとすると、踏み出した足が何か軽く小さいものを蹴り飛ばした。
何の気なしに目で追い、しゃがみこんで手にとってみると、それは。
「キー、ホルダー……?」
おそらくは手製と思われる、バイオリンを象った木細工のキーホルダー。とはいえ、鍵はついていない。
作られてから相当の年月が経っているのか、各部にささくれや割れが目立っている。
あの少年のものだろうか?
ならば返すべきか、などと思ったが、振り返った先の少年の背中はもう遠くで、やがて人混みの中に消えた。
全速力で走れば、ひょっとしたら追いつくかもしれない。しかしそこまでやる義理があるか――?
もしも大切なものだとしたら、落としたことに気付いて交番に行くぐらいはするだろうし、警察に届けるべきでは――?
そうして思案を重ねていると、ふいに秋原の肩が――身長一七八センチの、けして小柄とはいえない肩が、野球のミットのような手でむんずと掴まれた。
「あーた……」
あんた、ではなく、あーた。特徴的なオネエ言葉。地獄の底から響くような低音の声。
秋原の背中を何か冷たいものが流れ落ちた。
振り向きたくない、いっそここから逃げたい。
だがしかし、振り向かねばならない。力任せに首を回されてその後一日顔が前を向かなかった時の痛みを、秋原は一度味わっている。
そうして振り向いたところにある顔は、端的に言って巨漢。顔は阿吽像の如き怒り面。しかしその衣装は、それらのいかめしさを補って余りあるほど落ち着いた装いだった。
エプロンとベストが一体になった店員服に、淡いピンク色のワイシャツ。彼こそは「シンデレラ」のマスター、通称サクラ。秋原の雇い主だ。
サクラは自分から振り返った秋原を見て一瞬微笑み、
「まったサボってたわね!おバカ!!」
次の一瞬でその腕を取って複雑に交差させ、華麗なるアームロックを極めた!
「ぎゃあああああ!」
背中側にねじり上げられる肩に走るのは、極太の針で刺されたような痛み。手加減など全くない。
秋原はそうして腕を極められたまま、シンデレラの店内にまで犬めいて引っ張り込まれ、そこでようやく痛みから解放される。
「休むのはいいけど、何かあったら連絡ぐらい入れなさいな、ホントにもう!」
肩をさする秋原の眼前に人差し指を突きつけながら叱るサクラのその言葉は、秋原が申し訳なくなるぐらいの正論だ。
「はい……すみません……」
頭を下げたついでに壁の鳩時計を見れば、時刻はもう四時過ぎ。逡巡しているうちに午後のバイトが始まる時間をすっかり過ぎていたようだ。
無駄にした時間を取り戻そうとバックヤードに入って、エプロン姿に着替えようとして――そこではたと気がついた。
片や、「私は面白がっています」というにやけ顔で。片や、目を丸くしながら、それでも安堵するような表情で。自分を見つめている、二人の少女の姿に。
「よ、よお」
口をついて出た言葉は、酷くぎこちなかった。
「ど、どうも!」
二人のうち、一本結びの長髪を肩から下ろした少女――水鏡蓮の挨拶も、秋原と同じくどこか声が上ずっている。
「こんちはー」
ハネ気味のセミロングの少女の挨拶だけは自然だ。
(……こいつ、覚えてないのか?)
心配事の半分は、ひょっとしたら杞憂であったかもしれない。秋原は心中で胸を撫で下ろす。
秋原はつかの間の安堵から蓮のことに考えを移そうとしたが、乱暴に鳴らされたドアベルの音がそれを遮った。
音は窓の外から響いている。つまり、シンデレラの入口ドアではない。けれどすぐ近くの――同じ建物のドアベルだ。
まさか、と思い、秋原は蓮を見た。蓮も秋原を見ていた。その目は何かの期待感に輝いていた。
探偵事務所というものがどういった「仕事」の場であるのか、これまで秋原がそれを知る機会はフィクションと伝聞だけだった。
何しろ実際の探偵事務所というものを訪れたのも、この如月探偵事務所が初めてだったのだ。
いつの事だったろうか。蓮は探偵業を「普通の人にはどうにもならないことを代わりに請け負って助ける仕事」と説明した。その後、「これも兄さんの受け売りなんですけど」と言ってはにかんだのを秋原はよく憶えている。
言うなれば、秋原の記憶の中のそれも受け売りの受け売りだ。だから、言葉だけではそれが指す意味がよくわからなかった。
けれど今――こうして実例を目にすれば、その言葉が驚くほど事実を明確に言い当てていることがわかる。
探偵事務所の応接ソファに憔悴した様子で腰掛けるのは、顎のラインに短く刈り込んだ白髭を這わせた、身奇麗な中年男性。
どうにもならないことを、どうにかしてほしいと頼ってきた人物。言うなれば、彼も秋原と同じだ。
――そして、彼が秋原の姿をひと目見るや、その肩を掴んで縋るように語ったこと。
「離婚した妻と息子の、身辺調査をお願いしたいんです……」
依頼内容は身辺調査。
御伽市で暮らしている――大村と名乗った依頼人自身もかつてはこの街にいたそうだが――妻子の居所と生活状態を把握し、できれば連絡を取るのが目的らしい。
さて、どうしてこうなったのか。
事務所には勿論、ドアノブに掛けるための「CLOSED」の看板がある。だが現在、それは蓮の意向――「兄が無事に帰ってくるように」との願掛けのようなもので、かけられていなかったのだ。
秋原もそれを見過ごしていた。依頼人なんてそうそう来ないだろう、来てもその頃には如月時彦も戻っているさ――と、高をくくっていたのだ。
それが、目の前にいる依頼人――残念なことに、彼は順番待ちの二人目なのだが――を呼び込んでしまった。
先ほどから隣で――風体からか、探偵と勘違いされた秋原がなりゆきで座っている依頼人の対面のソファで――言葉を探している蓮も、きっと同じようなことを考えているだろう。
――断るしかない。
見捨てるようで胸が痛むが、秋原たちにできることはきっとない。
それを隣の探偵代理(血縁上、そうなるはずだ)がどう切り出すものか待っていると、その蓮がそっと耳打ちしてくる。
シャンプーか何かの香りが鼻を撫で、無性に誰かに謝りたい気分になる。
「……わたしたちで、なんとか力になれないでしょうか」
小さな声が紡ぐその言葉は、秋原が思いつき、放棄し、その後恐れていたものだ。
「『たち』って、なんで俺入ってんだよ……いや、俺も入れたとしてさ。俺達になにができる?」
秋原自身、それを考えなかったわけではない。単純に、困っている人間を見捨てるのは気分が悪いのだ。
けれど、秋原たちになにが出来る?
水鏡蓮は、秋原が見る限りは普通の高校生だ。
秋原灯介は、キメラだが、それだけだ。変身後の身体能力を除けば、普通の人間と変わりない――普通以上である自信さえない。
「言いにくいけど、俺達にできるようなことなら、とっくに自分でやってると思うよ」
なるべく優しい言い方を選んだつもりだが、それを聞く蓮の表情は哀しげだった。探偵の妹としての責任感からだろうか。
「できないなら、俺が言うけど」
「いえ、わたしが」
秋原の提案に、しかし蓮は首を横に振った。律儀な子だと素直に思う。
そして蓮はおもむろに深呼吸を始める。心の準備が必要なのだろう。
吸う、吐く。吸う、吐く。
その繰り返しを聞きながら、秋原は一足先に申し訳ない気分で依頼人に向き直った。
改めて依頼人を見ると、人の良さそうな中年男性という印象だ。眼鏡をかけてワイシャツにカーディガンという装いは、大学かどこかの教師にも見える。
そうして観察していると、秋原の目は自然と彼がひざ上に乗せている鞄――その取っ手に付けられた、特徴的なアクセサリに惹きつけられた。
バイオリンを象った木細工。古いながらも大切に扱われているのか、所々に剥がれかけのニスが残っている。
それを目にした一瞬、思考が鋭敏化する。ほんの一瞬だけの、世界の全てを理解したような錯覚、時間感覚の鈍化。
脳を血液が巡っていることさえも、心臓の鼓動さえも、自分の感覚下にあるような気がする。
そうした覚醒感のなかでポケットに手を突っ込み、そこから先ほど拾った木細工を引っ張り出す。すべては直感だった。
「じ、じつは――」
「待った、蓮ちゃん」
ものは試しだ。蓮を一度制し、拾った木細工を――大村の鞄のそれと酷似した小さなバイオリンを、卓の上に置いてみる。
大村は目を丸くして驚き、それをつまみ上げて自らの目の前に掲げた――当たりだ。
「これは、どうしてあなたが――?」
「それにお答えする前に、ふたつ。申し上げなければいけないことがあります」
今度は秋原が覚悟を決める番だ。
何が何やらといった表情で二つの小バイオリンを見比べていた蓮を促し、ひとつめを言ってもらう。
「申し訳ありません。今、この事務所の探偵は出張中なんです」
立ち上がって一礼する蓮に従い、秋原も立ったのち頭を下げる。
「すみません、申し遅れましたが、僕たちは探偵ではありません。探偵の妹と、下の喫茶店のアルバイトなんです」
しかし、秋原は先程ポケットの中から、もうひとつの切り札を掴みとっていた。それが、ここに続く言葉となる。
「それでも、息子さんの居場所なら――わかるかもしれません」
それからまた、一時間後。
日はすでにとっぷりと暮れていて、秋原と蓮は街灯に照らされながら、黒く澄み渡った夜空の下を歩いていた。
夜が来れば空気も冷える。秋原は縫って直したマフラーを巻き、蓮は兄譲りのトレンチコートを着込んでいる。
「高宮啓一の住所がすぐにわかったのはラッキーだったな」
あれから先、蓮はすぐに下階に降りて実音の協力を取り付け、クラス中にバイオリン少年――高宮啓一の住所を聞いてもらった。
そうまで話が簡単に進んだのは、高宮啓一が店内で会っていたのが他ならぬ蓮たちだったからだ。
秋原には馴染みの薄いLINEとかいう通話アプリケーションを使うことで、運良く同じマンションに居住している生徒に行き当たったのだ。
「今は便利だよねえ。俺が小学生のころは、ギリギリ連絡網なんてのもあったけど」
それが残っていれば上々だったのだが、今の時代は個人情報の取り扱いにも色々と制約があるらしい。
そもそも秋原が生まれ育ったのは御伽市とはまるで違う地方の田舎町だったから、時代というよりは寧ろ文化の違いなのかもしれないが。
「よかったら、秋原さんも交換しませんか?」
白い息を吐きながらながら蓮が差し出すのは、薄紫色のカバーが掛けられた彼女のスマートフォンだ。
化粧用のコンパクトのような白い薄型の本体からは、控えめな飾り気が見て取れる。
交換しようというのは、まさか、番号のことだろうか。
蓮と秋原が――――女子高生で、かわいくて、控えめな、お年ごろの女の子と、自分が。
意に反して顔が熱くなり、それを見られないように明後日の方向を向く。
そうした普通の人間のような感傷に浸れるのは、悪くない気分だった。けれど。
「――やめとくよ」
これ以上、深く関わる必要はない。関わるべきではない。
「俺さ。出来るなら、早く依頼を託してこの街を出ていくつもりだから。その時に番号だけ残ってたら、お互い気まずいでしょ」
それは半分が言い訳で、半分が真実だった。
本来ならば探偵に依頼を託した後、秋原は早々に街を去っていた。それがひとつの決着になるはずだった。
けれど、如月時彦が不在であったばかりに、秋原は彼女と関わってしまった。関わるのみならず、キメラという正体さえも知られた。
同じようなことが続けば、秋原の戦いはいずれ蓮の日常を侵す。彼女を危険に晒せば、探偵が戻っても依頼どころではなくなるだろう。
「もう、迷惑かけ続けるわけにもいかないしさ」
ある意味、今のこの行動――探偵業の手伝いは、その償いのつもりだった。
偶然鬼に変わった己の姿を見られたばかりか、それが秋原灯介だと早々に知られ、
さらに財団と名乗るあの組織との戦闘にも巻き込んだ。
「俺の正体についても聞かされたんでしょ?」
傍を歩く蓮は秋原の言葉に顔を伏せ、重々しく頷いた。
「……はい」
そうであって、なぜ彼女は今、秋原と同じ道を歩いていられるのだろうか。
『――助けてくれる、ヒーローがきっといるから』
疑問が呼び起こすのは、昨夜から胸に引っかかる蓮の言葉。
蓮はまだ――あれほどの戦いを目にしても、財団から説明を受けてもまだ、秋原をまともな人間だと信じているのか。
思えば、蓮には一緒に何かを目指す友人がいる。彼女が心から慕う兄も、親代わりを自称する喫茶店のマスターもいる。
信じるべき人が、信じてよい人が多くいる蓮の中では、誰かを疑うことの意味が薄いのかもしれない。
――――俺とは、違うんだな。
誰かを信じることができる。信じてもらえている。まともな人間であればきっと、これは喜ぶべきことなのだろう。
しかし秋原の胸は、酸を注がれた傷口めいてずきずきと痛み続ける。
思えば信じられることに喜びをを見出すような心は、もうずっと昔に切って捨ててしまっていたのだ。
これは幻肢痛だ。
誰かと食事をするのが高宮啓一にとっての苦痛になったのは、いつからだったろうか。
味わうことは二の次で、相手に嫌われないように、当り障りのない話をして。
何かを口に出すと――「あの人」や、彼から学んだ大好きなことの話をすると、母は怒り、嘆き、悲しんだ。だから黙るしかなかった。
外でも誰かを困らせるのは嫌だったから、数少ない友人やクラスメイトの前でも同じように過ごした。
そうすると、皆が口を揃えて言った。「暗い」、「つまらない」。
そのうち、自分から啓一に近づこうとする者はいなくなった。自分は暗くてつまらないヤツなんだから、当然のことだと啓一は思う。
だが、時折水底から浮いては消えるあぶくめいて、啓一の頭には幾度か疑問が浮かんでいた。
果たしてこれは――――啓一が悪かったのだろうか?
そして今。苦痛の食卓には母と自分のほかに、もう一人の客人が増えている。
母とにこやかに会話をしながら今日の夕餉のシチューを上品に啜る、スーツ姿の中年男性。年齢は確か四十半ばだが、髪を嫌味のないブラウンに染めた外見と健康的な肌の張りは、三十代と言っても通じるほどに若々しかった。
最初、彼がたびたび食卓に加わることになると知った時、啓一は期待した。食器の音だけが響く食事よりはましになるだろうと。
けれど勘違いだった。
「啓一くんの趣味は、何だったっけ?」
「最近は、洋楽を聞くことです。クイーンとか……」
啓一は嘘をついた。これは啓一ではなく、別のクラスメイト――いつもクラスの中心にいる、模範的なだれかの人物像だ。
これを言うと、母は喜んでくれるから。
母は言う。このひとは素晴らしい人間で、このひとのようになるのが成功の道だと。
駅前再開発に一口噛んでいる大手アミューズメント会社のエリート。それが目の前の男性、水木の肩書きだ。
けれど啓一にはそれが素晴らしいとは思えなかったし、母がそれを言うのも、本心というよりはここにはいない誰かへの当て付けであるような気がしていた。
「いや、学生らしいね。僕も高校の頃はそういうの、ハマってたよ」
「そうですか。ちょっと嬉しいですね」
浮かべるのは心にもない愛想笑い。頭で考えたことを言葉にするたび、胸にわだかまった何かがきりきりと痛みを発する。
嘘をつくたび、当り障りのない自分を演じるたび、自分さえも自分を忘れていくような気がする。
「そうだ、啓一くんさ」
食器を卓に置いた手をぱん、と打って、水木が啓一に二枚の紙片を差し出す。
それは予約券だった。駅前近くのホテルに居を構えている、有名レストランの支店の。
「勝手な話なんだけどね。明後日、できればと思って食事を予約したんだ。よければ、どうかな?」
水木が啓一を見る視線は優しげで、言葉にも何ら嫌味はなく、啓一の意志を尊重しているのであろうことがわかった。
けれど、駄目だった。啓一は衝動的に、不安げな目で自分を見る母に謝りたくなった。
その日だけは、何がどうあっても行かねばならないところがある。
喉の奥から、心臓の近くから、絞り出すように次の嘘を重ねようとした時。玄関からチャイムが響き、会話をひとときだけ打ち切った。
「ぼくが出ます」
啓一は心中で胸を撫で下ろした。ほんの少しだけでも、嘘を考える時間が稼げる。席を立とうとした母を制して、3LDKの部屋の入口へと向かう。
賃貸マンションにしてはしっかりとした作りの金属ドアを開けると、そこには啓一と同じ鳴光学園の制服に身を包んだ少女の顔があった。
「水鏡せんぱい……?」
水鏡蓮。
昼間、啓一を合唱――もとい、合奏に誘ってくれた先輩。
「突然伺ってごめんなさい」
軽く頭を下げる水鏡の後ろには、どこか見覚えがあるような、大型犬の垂れ耳めいた髪の青年。
しかし彼は啓一と目が合うと、なぜかドアの陰にすっと隠れる。
「さっき、忘れ物を見つけたから……」
そう言いながら、蓮は小さな茶色のキーホルダーを差し出す。
それはいつか父から貰った、小さなバイオリンの木細工だった。
嬉しかった。けれど啓一は、それを余計なお節介だと思わずにはいられなかった。
今、ここでは。
啓一は早々に木細工を受け取ろうとしたが、それよりも背中に浴びせられた声のほうが早かった。
「あなた、まさか……!」
いつの間にか、卓を離れて玄関まで様子を見に来ていた母。
木細工を見たその顔がわなわなと震えながら、たちまち憤怒の色に染まる。息子である啓一を見る目が、何か汚いものを見るかのようなものへと変わっていく。
啓一はたまらなくなって水鏡の手から木細工を乱暴にもぎ取り、どこか母の目が届かない場所を目指して駆け出した。
「捨ててきます!」とだけ、謝るような言葉を言い残して。
高宮啓一は逃げるように駆け出し、蓮はそれを追った。
秋原は彼らに続く前に、一瞬だけ高宮家の室内を見た。
秋原を、そして戸口に立ちすくむ女性を異物のように見るその男の、ただただ冷たい目だけが印象に残った。
「――いた!?」
マンションの入り口まで来た秋原は蓮の背中めがけ全力疾走し、数十秒の間を置いてようやく追いついた。
人間の状態で出せる体力は普通の人間以下だ。競争すれば蓮に負けるかもしれない。
「あそこ、あの階段に入った!」
蓮が指差す先、住宅地のはずれ、小高い丘へと伸びる階段。その上には鳥居。
秋原たちが階段を登り終えると、そこは鬱蒼と茂る木々に囲まれた神社であった。
そして高宮啓一は、その草むらの中でスコップを両手に何やらを掘り返している。
その様子を見て、秋原は悟った。おそらくは彼が抱える事情も、おおむね。
高宮は掘り返した何かを手にとり、そして足音を聞き取ったのか、背後から近づきつつあった秋原たちにびくりと向き直る。
彼が抱え上げていたのは、土にまみれたバイオリンケースだった。
「どこから話したらいいでしょうか…」
秋原が蓮にくれたのは、ホットレモンのジュース。高宮には缶コーヒー。近くの自販機で買った飲料を高校生二人に差し出す代金は彼持ちだ。
そういえばつい昨日も同じような感じだったな、と思い至る。まるで秋原がもうひとりの兄になったようで、妙な気分だった。
「うちの親……離婚してて、今は母さんだけなんですけど。バイオリンが嫌いなんです」
「一緒にいた男の人は、そのうち僕の父親になる人。いい仲なんですけど、二人の前ではバイオリンを見せられなくて」
「どうして?」とは、蓮も秋原も訊かなかった。ふたりともその原因を既に目にしていたからだ。
――すなわち、高宮啓一の父親。それが今回の秋原たちの訪問の理由でもある。
それを蓮が言うべきかどうか迷っていると、秋原が口火を切った。
「探偵事務所――蓮ちゃんの兄貴の仕事場なんだけどさ。同じバイオリンの小物を持ってる人、来たよ。オヤジさんだろ」
高宮は一瞬驚いた表情で秋原を見て、次第にその顔を納得したような表情へと変えていった。
「父さんが!?」
少年の目が驚きに見開かれ、彼は言葉を探すように自らの胸に手を当てる。
「……元気、そうでした?」
「ああ」
秋原のそっけない返事に蓮は何事か付け加えるべきかと考えたが、高宮はにはそれで充分だったようだ。彼はおもむろにバイオリンケースを開き、その中身を愛おしそうに見た。
「……うちの父は、演奏家だったんです」
「子供の頃は、父さん、毎日のように僕に演奏を聞かせてくれてて」
「壊滅的にヘタクソな僕の音を好きになってくれて、一緒にふたりで音を奏でて」
高宮の口からは、抑圧されていたのであろう思いが漏れ出かけていた。まるで決壊し掛けた堤防のように。
「でも……去年、事故に遭っちゃって」
言葉と共に浮かぶ高宮の笑いは自嘲的だった。
「――事故?」
「はい。脇見運転のトラックとぶつかって、腕をやられて……」
演奏家が、事故に遭って、腕を痛める。
それは肉体的なそれ以上に、精神的な痛みをも伴うはずだ。
好きでいたことを、それから先も続くはずの日常を奪われるということは、どれほどの痛みなのだろうか。
蓮は思わず秋原を見た。
秋原は黙って自分の右掌を見つめていた。
「それからはもう、家の中、めちゃくちゃで」
「母さんも、耐え切れなくなって離婚して……受験するのも、音楽科のない鳴光学園にしなさいって」
「だから――人前でバイオリンが弾けなかった?」
蓮の言葉に、高宮は苦笑しながら頷いた。
なぜだろうか。蓮はその笑顔を、ほんの最近にもどこかで見ていた気がした。
「水木さん……母の恋人にも、前の父親の名残りなんて見せられないですから」
「辛いな」
秋原の口調は淡白だった。けれどそれは、高宮の気持ちを否定も肯定もしない、優しい言葉だった。
「辛くなんてないです。母さんも水木さんも、僕には良くしてくれてますし」
そうやって笑む高宮の言葉は、蓮には強がりにしか見えなかった。秋原はそこにまた言葉を重ねる。
「本当に苦しんでいるのは、誰も悪くないと思ってる人間だ」
高宮は呆気にとられたような表情で秋原を見た。秋原は淡い笑みを浮かべてそれに応じた。
「俺の先生が言ってた。 抱え込むしかない話だけどさ、無理するのはやめたほうがいいと思う」
「……ありがとうございます。でも、いいんです」
「決めてましたから。僕には次の演奏会が最後の音楽だって……これも、親に知られたらどうなるか、ですけどね」
バイオリンを眺める高宮を見て、蓮は気付いた。それは何かを覚悟するような目だと。昨夜の秋原が、一瞬だけ蓮に向けた目だと。
「そっか」
そう言いながらコーヒーをひとくち飲む秋原の顔は優しかった。
――やっぱり、このひとは思った通りのひとだ。
しかし、蓮の胸に暖かなものが広がったのは一瞬だった。その顔は急に歪み、林の中へ刺し殺すような視線を向ける。
「誰だ」
静かな神社の境内に、がさがさと草木が踏み折られられる音が響く。
秋原が油断ない目で睨みつける闇の中から響く足音は、ヒトのものだった。そうあるはずだった足音は、ある一瞬を境にして、地に槌を叩きつけるような重量感ある音に変わった。
そして現れたのは――二メートルはある岩のような体躯をごつごつとした金属質の肌に包み、額と鼻先から杭じみた一本角を生やした――犀のような怪物だった。
「ったく、よお――この街はいつから動物園になったんだか」
秋原は緊迫した表情で高宮のスコップを拾って犀のキメラの前に進み出、背後の高宮と蓮をそれぞれ見た。
「スコップ借りるぞ。蓮ちゃん、そいつと一緒に隠れてろ」
「――はい!」
蓮の決断は早かった。高宮を誘導するように、古びた手水舎の陰に隠れる。
「って、秋原さんはッ!?」
高宮の慌てた声はもっともだ。秋原を怪訝そうに睨む、犀のキメラの紫色の目も同じ。けれど蓮は知っている。
「大丈夫だから」
秋原灯介は、戦える。彼は彼らキメラと戦う、同じくも違う力を持っている者だということを――!
「ああ、ケンカ売った相手が悪かったな、キメラさんよ」
その身を盾にするように怪異と対峙する秋原は、右手の爪を正面の空に突き立てるように構える。
「こっちは昨夜から色々と鬱憤溜まってんだ。八つ当たらせてもらうぜ……!」
「イグニッションッ!」
秋原灯介が叫ぶその言葉は、一種の呪文だ。
炎の姿を胸の裡に浮かべ、そして我が身に呼び熾すための。
唱え叫ぶ秋原の全身を不可視のエネルギーが熱を伴って駆け巡り、右の肘から下と額の左右に熱が集中する。
そして全身を包む熱は翠色の不可思議な焔へと昇華し、秋原の姿は鬼へと変わる。
すなわち、右腕は赤銀の獰猛な装甲に包まれた手甲。
命を含めたすべてが抜け落ちたかのような白髪。
額の左右から刃のように屹立する、赤き人外の角。
そして鬼は全身の焔を振り払いながら、眼前の人獣へと飛びかかる!
振り下ろしたスコップの刃先を受け止める犀の腕、しかしその下を掻い潜るは、翠炎をまとった鬼の蹴り!
キメラはくぐもった苦悶の声を上げながら後ずさり、スコップを構え直す秋原から慎重に距離を取る。その目が秋原でない方に向く。
「――?」
次の瞬間、岩のような巨躯が土煙を放って地を蹴り飛ばし、明後日の方向へと突貫する。
秋原はその先を見た。置き忘れられたバイオリンケース。それを拾いに、手水舎から飛び出す少年。
(楽器が狙いッ!?)
秋原は駆け出しながら右腕を伸ばし、その赤銀の装甲に焔を宿す。しかし 怪物は秋原には目もくれず、線路を定められた機関車めいて迫る。少年の顔が恐怖と絶望の色に染まりかける。
「やめ――!」
しかし一瞬後、その足元が破砕した。白き閃光とともに!
キメラの巨躯が宙へ浮かび、高宮啓一もまた後方へ飛ばされて背中を打ち付けた。
「なにッ……!?」
現れたキメラ、対峙した自分、そしてキメラへと攻撃を加えるのは第三者。
――この状況は!
秋原の脳が解答らしきものを導き出しかけたとき、それがカタチを持ったものが空から飛び来たり、秋原の隣にひらりと着地した。
――すなわち、白銀の閃姫!
「おまえッ……!」
「昼間から先、あの子を尾行させてもらっていた」
鼻白む秋原に、隣に立つ薄桃色の髪の乙女は淡々と答えた。手に握られた白銀の両刃剣には、攻撃の余剰エネルギーか、ぱりぱりと鳴く電光が纏われている。
しかし、今攻撃を加えてこないのはどういう理由か。
「俺の首はいらないのかよ」
「事情はどうあれ、あなたがそこの二人を守るというのなら、優先順位はハッキリしている」
そう語る閃姫の目は秋原には向かず、眼前で体勢を立て直す犀のキメラだけを睨みつけている。その瞳に燃えるのは決意か、使命か、他の何かか。
「ああ、なるほどね」
――優先順位。言い換えれば、「次はおまえだ」ということか。
しかし、秋原は彼女を知らず、彼女にとっても秋原は同様。この状況ではこのシビアな言葉こそが、何よりも信用できる。
「なら――ぶっ倒してやるとするか……!」
閃姫に先んじて、秋原はスコップを片手で振り回しながら突撃!無論犀のキメラは頭部の角でそれを受ける、しかし秋原はとうに手を離している!
「なッ――」
そして閃くは閃姫の両刃剣。秋原の攻撃を偶然の囮に、身を低くしてキメラの眼下に飛び込んでいた彼女は、両手に握った両刃剣にて切り上げる。
両刃剣はキメラの金属皮膚との摩擦で火花を散らしながら、その硬質の身体を袈裟懸けに切り裂いた!
浴びせた袈裟懸けの一閃は、しかし浅い。振り上げた勢いで重ねられる横薙ぎの一撃は、丸太のような腕に深い傷を刻んだ。
キメラは砕け掛かる左腕を抑えて痛みに呻く。そこへ右爪を翠に光らせた秋原が分け入る。側面からの必殺攻撃だ――しかし!
どしん、と。犀のキメラの丸太めいた足が、まるで四股を踏むように地面を揺らす。
次の瞬間、秋原の前に現れたのは巻き上げられた土。それが一体化して大地から伸びる舌のように形成される、泥の壁!
秋原はそれに構わず、壁ごと敵を切り裂かんと爪を振り下ろす。しかし――右腕は何に遮られることもなく、泥塊の中へと沈み込んだ。
(なんだ!?)
そして秋原灯介の右腕は止まる。たった今、水を切り裂くように沈んだことが嘘であるかのように、泥は固化していた。
右腕は泥へ突き刺さったまま、そのまま大地に埋もれたかのように動かない。
秋原は危険を察知した。しかし遅かった。泥壁が破砕したのを目にして同時、秋原は向こう側から襲い来る丸太めいた腕と泥壁の破片とに打ち飛ばされる。
腹部か、胸部か、おそらくはその両方だろう。秋原は自分の体がぴしぴしと悲鳴を上げる音を聞きながら回転する景色を見て、そのまま蓮たちが隠れる手水舎の桶めいた石の水盤にしたたかに背を打ち付けた。
「があッ……!」
全身が痺れにも似た無力感を、心が喪失感と絶望感とを発し、秋原に「決して立ち上がるな」との警告を送る。
しかし秋原は必死に両足に力を込めた。水盤に押し付けた背中を支えに、ゆっくりと立ち上がる。
「こっちは雑魚か……しかし、さすがに二対一はな」
そして残った閃姫に対する犀のキメラは、呑気に後頭部をぼりぼりと掻きながら、誰もいない空中を見た。そこに誰かがいるかのように。
「ずいぶんと余裕の言い草ね」
閃姫は構えた。腰ほども太い両刃剣を、地に垂らすような脇構え。
刀身が纏っていた放電がしだいに消えてゆき、いつしかそれは刀身と一体化し、一本の光剣を形作る。
キメラの足が一歩後ろへ退き、秋原も同じ心地を覚えた。
(何か……来る!)
「ああああああぁああぁぁッ!!」
鎧の戦姫が咆吼する。煌めく剣が閃光を放つ。
閃姫が地面を掬い上げるように斬り上げる剣の残光は実体ある光の軌跡を形作り、それが冷えきった地面を、石畳を捲り上げながら破壊していく。その先にあるのキメラ、ただ一体を葬るために!
次の瞬間、その空間が青く光った。秋原と閃姫はそれに気付いた。
青い光が炸裂する。空気を裂く高音を発しながら、無数の何かが飛来する。
「まずい!」
この能力と、土の能力。キメラが有する能力は一体につきひとつ。つまりは新手。
反射的に対応した閃姫に対し、その思考が秋原の反応を遅れさせた。未だ悲鳴を上げ続ける体を押して右腕全体から翠炎を噴出させ、そのまま空を切り裂くように全力で振り下ろす。
焔が拡散する。空中に刻まれた不可視の傷跡を燃え広がるように広がった翠炎は壁を形作り、降り注ぐ無数の雹を燃やして防御していく。
焔の盾は手水舎とそこに隠れる蓮たちを防護するが、防げなかった雹は櫓を壊し、水盤を削り、蓮と高宮の傍を通りぬけていく。
「氷の、弾丸……!」
閃姫は斬光の残りで以って飛散する弾丸のいくらかを破壊し、振り終えた両刃剣の刀身を何かしらの機構で巨大化、盾代りとることでこれに抗した。
が、ついに雹が降り終わったとき、犀のキメラの姿はそこから消えていた。
「ちッ……!」
閃姫は苛立だしげに舌打ちし、秋原は水盤に背中を擦ってそのまま尻餅をつき、緊張が肺に溜め込んでいた息を一気に吐き出した。
秋原灯介には、これまで数体のキメラと戦ってきた経験があった。キメラは倒せるものだという前提があった。
先日の学校教師にしても、苦戦こそしたが何とか倒したのだ。
だが、今日は二体。犀のごとき重量級の一体と、視認できなかった雹の一体。
キメラというものが徒党を組むものだという認識は、これまでの秋原の中には存在しなかった。
今後、これが三体になれば、四体になればどうなる?
否、すでに秋原はこの街のキメラ全てを敵に回しているのかもしれない。
それは一体、どれほどの数なのか?
(俺、ひょっとして、相当ヤバイことに……ヤバイって覚悟していたよりもヤバイことに、首を突っ込んでるんじゃないのか……?)
今更ながら、自分の行動が恐ろしくなる。
思えば秋原は、今この街で起こっていることについて何も知らないのだ。
今まで無意識に目をそらしていた問題を真剣に考えようとすると、背筋に怖気が走った。だが秋原は首を横に振り、それを打ち消した。
――もとより、戻れない道なのはわかっていたことだ。
体に鞭を入れて、無理矢理に立ち上がる。
上げた視線の先では薄桃色の髪の女が鎧姿を解き、ブラウスにジャケットを羽織った姿へ戻っていた。
どうやら、ここで戦うつもりはないらしい。秋原もそれに合わせて鬼の姿を解いた。角が風化するようにかき消え、腕は人肌を取り戻す。
「その子を守るつもりだったの?」
女は冷たい感情のこもる目で秋原を見て、静かに問うた。
「好きに解釈すればいいさ」
目の前で蓮たちが傷つくのを見たかったわけではない。けれど、肯定すればそれは嘘になる。
昨夜も今夜も、結果的にそうなったと言うだけなのだ。秋原は誰かを助けに駆けつけるような英雄の器ではない。
それはきっと、目の前の女の役割だ。
「――そう。ならばきっと、守るつもりではなかったのでしょうね」
女は秋原を意に介さぬようにその隣をすり抜け、手水舎の裏手――蓮たちのところへ向かう。
秋原もそちらを見た。女は蓮の前で屈み込み、ジャケットの懐からガーゼと包帯を取り出している。
向かい合う蓮は、なぜかその左手で右腕を押さえていた。左手が押さえるコートから、赤い染みが広がっている。
「蓮ちゃん…!」
――また、巻き込んだ。
秋原の中に重くわだかまる何かが、臓腑をえぐるように身じろぎした。
「……だいじょうぶ。ちょっと切っただけだから」
蓮の言うとおり、血染みはそれほど広がっていなかった。けれど、その強がりを言う顔はどう見ても痛みを我慢している時のそれだ。
女の手がコートを脱がせた上から薬品を塗布し、ガーゼを当てて、包帯を巻いていく。
けれど、蓮はピアノを弾くのだ。彼女にとってそれが尊いものであることは、下階でそれを毎日聞いている秋原にはわかっていた。
先ほど高宮啓一に聞かされた話が、今は我が身のこととして秋原を苛む。
「大丈夫じゃねえって……!」
思わず駆け寄ろうとした秋原を、一筋の閃きが制した。その足が止まる。
「あなたの目的がどうあれ、中途半端な覚悟で戦えば、こうして誰かが傷つくだけ」
喉元に突きつけられているのは、女が何処からか瞬時に抜き放ったナイフの先だった。
「ひとつだけ警告する。今すぐにシルエットを放棄して、日常に戻りなさい」
「なんだよ……!」
今がそんなことを言っている場合なのか。
蓮が傷ついて、怪我をしているというのに――!
いや――「そういうこと」なのか、秋原はようやく理解した。
女はこう言いたいのだ。これは、おまえのせいなのだと。
「この子は、あなたの正体について何も言わなかった」
「だから解ったの。あの角付きのキメラの正体は、水鏡蓮に近しく、彼女に信用されている人間なのだとね」
秋原は反射的に唾を飲み込んだ。成程、そうして追ってきたと言うわけか。秋原灯介というキメラを狩るために。
「目的がどうあれ、あなたが水鏡蓮や彼女の周りの人々を守っていたのを私は見た」
「だから、この一度だけは警告で済ませてあげる。これ以上誰かを不幸にする前に、そのシルエットを差し出しなさい」
不幸。その言葉に命じられたかのように、秋原は女から蓮へ視線を戻した。
蓮は処置の済んだ腕を押さえながらも、不安げに秋原を見上げている。
「彼女の腕は大丈夫。今回はただの切り傷で済んだ」
秋原はその言葉の先を読み取った。
――けれど、これから先も同じようなことが続けば?
「あなたの戦いは、きっと必ず誰かを不幸にする」
それを言う女の目には、一切の迷いがなかった。誰かを不幸にする戦いというものを、間近で体験してきたかのように。
だが、そんなことは、秋原にとって何の意味もないことだった。何故なら秋原も識っているからだ。
誰かを不幸にするどころではない。あそこではきっと誰もが絶望よりも下の闇に沈んでいた、呪われた戦いの始まりを。
――焔。
――炎。
――ほのお。
白い病棟全体を炎が包み景色は揺れるそれは景色を見る俺自体がふらふらと歩いているからであの人はどこだ危ない目にはきっと大丈夫だから間に合うだって何かが起こるなら狙いはあの腕できっと彼女は平気血血血血血血血血――――――――
死んだ。(シャットダウン)
そして伸ばした自らの手からこぼれ落ちる血まみれの手を最後に、秋原の回想は強制的に終了する。まるで脳みそごとぐしゃりと潰されるように。
それから先の記憶は、すべて呪われたあとのものだ。もうここから前には戻れないのだ。なにがあっても。
シルエットを捨てて人間に戻ろうが、戦いをやめようが。秋原を縛る呪いは消えない。
「おまえに何がわかる…!」
思わず胸倉を、タイが結ばれたブラウスの襟を掴んでいた。ボタンを留める糸が、ひとつふたつ千切れる音が聞こえる。
相手が女であることなどどうでもよい。この女は今、触れてはならない傷口を土足で踏みにじったのだ。
秋原灯介はもうとっくに、誰かを不幸にしてしまっている。
「何がわかるってんだよッ!!」
気づけば熱に浮かされたように叫んでいた。
そうしなければ背負った呪いに、罪に、今ある自分の全てが押しつぶされそうだったから。