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第二話「選ばれし者、選ばれざる者」Aパート

SONG#2「選ばれし者、選ばれざる者」


 ドクトルに言われるままに秋原灯介がついて歩いてきた先は、喫茶店が建つ商店街の外れ。

 商店街からはみ出したかのようにぽつんと外れたところに居を構える、骨董品屋のようなたたずまいの彼のオフィス――『ウィルヘルム時計店』だった。

 店内自体には秋原も幾度か入ったことある。狭いながらも無駄なく配置された買取鑑定用のブースや商品見本、年季の入った柱時計。カウンターの背にはショーケースが立ち並ぶ、極めて現代的な内装だ。

しかし秋原も、ドクトルに案内された地下室の存在には目を剥いた。

「……なんだ、ここ……」

 床に据え付けられた地下入口の蓋をずらした先、梯子から折りた秋原は思わず身震いした。

 肌に当たる弱い風は今の季節が冬であることを差し引いてもなお冷たく、その原因は何だと探しているうちに、箪笥めいた大きさの黒い塊が目に入る。

 コンピュータの筐体だ。冷房はこれの排熱を中和するためのものか。

 それから作業机の上に整然と並べられた工具類、製作途中と思しき何らかの機械。乱雑に数式や化学式が書かれたホワイトボード。

 壁に吊られたラックには秋原が持つものと似たような円盤とそれを載せるためと思しきソケットが並べられ、ソケットからはPCに向かって幾つものコード類が床を這っている。

 また奥の衣装棚と思しきスペースには、ウェットスーツに装甲を付加したような防護服が幾つも吊り下げられていた。

「まあ、掛けたまえ」

 部屋の隅から丸椅子を差し出すドクトルに従って、秋原は作業机の傍に腰掛けた。

 珍しいものばかりの室内を見回していると、天井の小さな穴から黒い鳥のようなメカが飛来して、そのまま近くに吊られた止まり木に両足を乗せた。

「……あれは?」

「ああ、それは財団のロードウィングだな。このシュヴァルツはそれを個人的に改良したものだ。ほれ、おいで」

 秋原が指さすとドクトルはなぜか得意気に顔をほころばせ、止まり木のメカに対して手招きをしてみせる。

 すると鳥型であったそれは空中で自らを折りたたむように変形し、手のひら大の円盤となってドクトルの手に収まった。

「どうだ?賢い子だろう。先ほどの君の戦いも、この子でモニターしていたんだ」

「どうって……すごい、としか」

 ドクトルの自慢気な顔には申し訳ないが、現時点ではわからない単語ばかりの話だ。

『ロードウィング』と『シュヴァルツ』は文脈から察しがつく。

 秋原が先刻の学校で見た赤い鳥が『ロードウィング』、そして今ここにある黒鳥が「シュヴァルツ」とやらだろう。

 だとすれば、あの赤い鳥の持ち主が『財団』ということになるのだろうか。

「正直、何もかも知らないことばかりでわからないよ……いや、わかりませんよ」

 キメラであることを知られてやぶれかぶれになっているのか、どうにも言葉が乱れがちだ。

「普通に話してくれてかまわんよ。 君があの喫茶店で、ある程度自分を演じていたことには気付いていた」

「俺がキメラだってことにも?」

「いや。一般人でない可能性があるとして、てっきりマギウスだとばかり思っていた」

 ――マギウス。

 またわからない単語が出てくる。秋原は心中で降参のポーズをとった。

「あの、ドクトル。さっきから財団とかマギウスとか言われても、ちょっとさっぱりすぎて……」

「知らないのかね?」

 そう尋ねるドクトルの顔は心底意外そうだった。一般的なキメラというやつなら、知っていても当然の話なのだろうか。

「……ふむ。こちらも聞きたいことは山ほどあるが……どうやら、説明しながらはっきりさせたほうが良さそうだな」

ドクトルは顎鬚を撫で付けながら、作業机の傍のホワイトボードを裏返す。

そして現れたまっさらな面に「chimera」と書き付け、その下に人間の五体の輪郭を描いた。

「キメラについては?どれくらい知っている?」

「目で見たものだけ」

「そうか。なら、基本的な定義から」

 ドクトルはやおらホワイトボード上の人型に悪魔のような翼を描き加え、その隣に流れるような平仮名で「しるえっと」と付記する。

「キメラとは、人間に鎧肢シルエットと呼ばれる特異な生体金属が融合した存在を指す。特定の融合者を指して、『シルエッター』とも呼ぶな」

 そう言いながら、ドクトルはホワイトボードの人型にさらに頑強な脚部や刃のような腕などを描き加え始める。

「シルエットは人間と融合すると、腕や脚、時には翼など、特定の生物を模した身体部位のカタチとなるわけだ。まるで他の生物の部位を移植されたように」

 秋原は自分の右手を見た。この右手も、変身するとなぜか生えてくる角も、何か他の生物を模したモノなのだろうか。

「時折、竜やユニコーンなど、伝説上の幻獣の特徴を発現する場合もあると聞く。君の姿はさしずめ、日本の鬼か」

 ドクトルはホワイトボードの人型に、今度は角を描き加える。その楽しげな様子は黒板に落書きをする子供のようだ。

「まあ、あれら自体がそもそも一種のキメラ的概念だがな」

 ドクトルは方向を見失いかけた話を修正するように、ズリ落ちかけた眼鏡を上げ直す。次の話題には、秋原にも思い当たるところがあった。

「あと、なんだかよくわからない超能力?」

「そうだ。シルエットによる身体強化と合わせ、それに付随する三つの超能力。ひとつはキメラによって様々だが、もうふたつは一定している」

「……『命を吸う』力か」

 先刻倒した蜘蛛男が、夏目実音から何かを吸い取り昏倒させたことを思い出す。

 そして、もう一つ。

 脳内の映写機が、秋原の意志に反して勝手に回り出す。

 ――炎に呑まれた白い世界。

 ――血まみれの右手を握る、あの女性ひと。その唇が秋原を見下ろしながら、何かを語りかける。

『ありが――』

「――ッッ!!」

 自らの頭を殴りつけて、無理矢理脳内の映写機を叩き壊した。

 これは思い出してはいけない記憶だ。思い出しては、何もできなくなる呪いだ。

 秋原は話題を変えるべく記憶の中を探した。幸いにして、先程からもうひとつ引っ掛かっていた疑問が見つかった。

「連中が、いや、俺もだけど……目の敵にされるのはどういうわけなんだ? 良いキメラだって、そのへん探しゃ隠れてるんじゃ……」

「そう上手くはいかない。シルエットは諸刃の剣だ。力を与える一方で、使い続ければ使用者を精神的肉体的に蝕む」

 秋原は反射的に己の右手を見た。そのまま手を開き、そして閉じる。

 ――それでも、大丈夫であるはずだ。今は、まだ。

「ま、今の君を見る限りその兆候は殆どない。もうしばらくはシルエッターを続けても支障ないだろう」

 秋原は詰まりかけた息を吐き出した。

「でも、その兆候とやらを無視して、戦い続けたらどうなる?」

 眼鏡の向こう側にあるドクトルの瞳が、秋原の目を見た。その本質を見通すかのように。

「最悪の場合、君はシルエットに飲み込まれ、人間としての自分を喪失する」

ドクトルはもう一度眼鏡を上げた。

「キメラの力の源は何かを成そうとする意志の力だ。それが暴走した時、シルエットの力もまた暴走して融合者を飲み込み、一個の怪物を生み出す」

「――ああ、わかった。あの黒服と、水着鎧の女の目的はそういうことか」

「ああ、彼らか。彼らはは『アースガルズ財団』。有り体に言って――――正義の味方ということになっている」

「……だと思った」

 秋原灯介はドクトルに顔を見せずに済むように頭を垂れて、何かに反吐を吐き捨てるような歪んだ笑顔を浮かべた。

 それが運命だとか正義だとか真理だとか、そういった動かしようのないものを嘲笑えないことはわかりきった上で。



「アースガルズ、財団……?」

 白い壁、天井は嫌味のない間接照明、そして床には隙間なく敷かれたフロアマット。

 まるで学校の相談室のような、もしくはテレビで見る企業の商談室のような、一対一に適した狭めの一室。水鏡蓮は長方形の会議テーブルを挟むソファの上座に腰掛け、一条小春と名乗る謎の女と向かい合っていた。

 事の次第は、秋原と小春の交戦直後にまでさかのぼる。

 蓮の前に突如として現れた一条小春と名乗る謎の女、そして防護服を脱いだ黒スーツたち。

 彼らによって「事情聴取」という名目で車に載せられた水鏡蓮が連れて来られたのは、御伽市駅近辺の地下駐車場だった。

 そこから平時はシャッターで封鎖されている最下階まで降り、コンクリートの壁に設えられた隔壁を通って進んだ先が、この企業オフィスのような奇妙な地下空間だった。

 広いロビーで受付の女性と二言三言の言葉を交わした小春とともに通されたのが、『聴取室』というプレートがドアに据えられた、この小さな部屋だ。

「そう。元々は中世の錬金術士のギルドを起源として、紡績・製鉄・製薬など、さまざまな系列企業が手を結んだ財団ファウンデーション

 そして小春が語ったのは、今御伽市に跋扈しているキメラという存在の真実と、それと戦う彼女たちの組織についての事だった。

蓮が自分の身に起こったことを正しく理解できるように、というのが説明の理由らしい。

「要するに、秘密結社……みたいなものですか?」

 蓮が想像したのは、兄から借り読んだ小説の中身だ。

 各国の企業が相互の利益のために手を結び、世の中の政治や経済を裏から動かしている秘密結社。もっとも物語の中でのその組織はもっぱら悪役で、最後には主人公の探偵によって陰謀を暴かれ、壊滅してしまったのだが。

「そう呼ばれると、何か悪いことをしているみたいね」

 蓮の言葉を冗談のように受け取ったのか、小春は口に手をやりながら苦笑する。綺麗な仕草だった。

 上着を脱いで傍らに置いたその姿は、絹のような長髪に純白のブラウスとスカートの姿も相まって、まるで良家の令嬢のようだ。

「この活動は勿論秘密だけど、財団の存在自体は公にされているわ。ネットで検索すれば出てくるし、表立っても色々な支援活動を行っている」

 小春は髪を弄びながら宙を見る。それからしばしの間の迷うような表情を浮かべ、それを唐突に打ち切って口を開く。

「実を言うとね、わたしも財団が支援する孤児院で育ったの。それで戦う力を見出されて、この仕事を選んで――この街に来た」

 言い終えた小春は照れ臭そうな笑みを浮かべ、蓮もなんとなく打ち解けたような心地から微笑みを返した。

 「――そうだ」

 小春は何か思いついたような顔で手を胸の前で打ち合わせ、置いていた上着のポケットから紙製の小箱を取り出す。

「キャラメル。疲れがとれるわ」

 中を開き、小春が摘んでよこしたひと粒を、蓮は手のひらで受け取った。

 口に入れると強い甘みが広がって、疲弊した体と心に染みわたっていくようだった。

 「子供っぽいけれど、持ち歩いてるの。皆が疲れる仕事だから」

 小春は苦笑し、そして自分もひとつぶを口に含み――そして、ぎこちない、けれど純真な子供のような笑顔を浮かべた。

 しばし、優しい静寂の時間が流れた。小春が改めて口を開こうとしたとき、ゆっくりと部屋のドアが開き、新たな客が聴取室を訪れる。

 振り返る小春と蓮の視線の先に現れたのは、仕立ての良いスラックスとワイシャツの上から革製のフライトジャケットを羽織った初老の男。

 右目には瞼を跨いだ古い刃物傷が一本走り、フライトジャケットの左肩には小春の上着と同じ月に吠える狼のワッペンが貼られていた。

「存外に、仲良くやっているようじゃないか」

 男は歴戦の兵を思わせる険しい顔を笑みの形に歪ませながら、小春の隣にゆっくりと腰を下ろした。

「さて。私はここの責任者をしている、不動鷹正ふどうたかまさというものだ。気軽に『司令』と呼んでくれ」

「はあ……」

 自らの顔を親指で指すサムズアップに、蓮は困惑した。

 変身する女に、キメラと戦う組織に、あまつさえ「司令」とは。どれもこれも真面目すぎて、、逆にフィクションじみている気がする。

 そもそも最初から不思議だったのが、小春や不動――本人の言に従って言い直すなら不動司令――が、わざわざ蓮に接触してきたことだ。

 同じく襲われた実音は警察に保護されたというのに、この二人が蓮にだけ求めることとは何なのだろうか。

 話せることはすべて話したと思うし、正直なところを言えばそれさえも少なすぎて申し訳ないくらいだ。

「さて。実は、だいたいの話は外からモニターしていたんだが……直に顔を合わせて確認したいことがあってね」

 名前の通り、鷹のような不動のその目が蓮を射抜くように見据える。蓮は身構えた。

「君は、如月時彦の妹だな」

 それは、ここで聞くことになるとは思わなかった名だった。

 ここで話されるようなことに、関係していないはずの名だった。

 聞いて、蓮の身が思わず強張った。

 どうして、ここで如月時彦の――兄の名前が出てくるのか。

 考えるより先に、最悪の想像が脳裏で結ばれてゆく。

 キメラと戦う組織。

 行方不明の兄の名前。

「――あ、最初に言っておくと、お兄さんは無事だ」

「……はい?」

 予想外の言葉に、強張った全身から一瞬で力が抜けていく。

「いや、数日前に本人から連絡が入ってな。ご家族にどうやって伝えたものかと思っていたんだが……」

 腕を組み、中空を見つめながら呑気に首をひねる不動司令。小春はその隣で呆れたように額を抑えている。

 蓮の脳裏に、いつしか見失いかけていた兄の影がよぎりはじめていた。まるで手を伸ばせば届きそうな、鮮明な実像として。

「無事なんですかッ!?」

「無事だ。今は我々の管轄下で動いている。連絡が遅れて、まことに申し訳なかった」

 不動司令は一度立ち上がり、机に頭を打ち付けるように深い謝意の礼を蓮に向ける。

 隣の小春はなぜか、上司の表情を不安げな目で見つめていたけれど――蓮は、いつになく高揚している自分に気がついた、

 心のしこりが突然解けたようで、体が軽くなったような気さえする。

 ――兄に会えるのだ。きっと、そう遠くない先に。



 しかし。

 ウィルヘルム時計店の地下室において、秋原がドクトルより聞いた真実はまったく逆のものだった。

「――やっぱり、消えたきっかけはキメラがらみの事件……」

「そうだ。時彦は探偵であると同時に『魔術師マギウス』……キメラを始めとする、魔なる者と戦う戦士だった」

 ドクトルはホワイトボードのにもう一体の人形を描き、その上に「MAGIUS」の六文字を筆記体で書きつける。

 そして仕上げのように、隣のキメラ像に大きな✕の印を重ねた。

「やつの考え方は特殊でな。自分の正義と財団の正義を別個に扱い、従属はしなかった。その代わりに私が支援していたというわけだ」

「……つまり、連中の仲間じゃない?」

 尋ねながら、右目の下を撫でる。今やつけられた傷は完全に治癒していた。

「ああ。関与は常に最低限だった」

「消された、とかじゃないだろうな」

 最低最悪の想像は嫌でも湧いてきた。壊れた脳内映写機がまた蓮の泣き顔を写しかけ、その想像を今度こそ叩き壊す。

「それはない。財団はそこまでえげつない組織ではないし、やつの実力は最強クラスだ。相手になるマギウスなどそうそういるものではない」

「元々通信を好まない男ではあったが、完全に途切れたのが昨年の十二月中頃。何かがあったのだ。だが、その何かがわからない……」

 秋原は静かに丸椅子に座り直し、頭を抱えた。

 如月時彦に会うためにこの街を訪れた、それまでの道筋は間違っていなかった。その後が問題だった。

 探偵の不在にはじまり、キメラであることを蓮たちに知られ、その後現れたのがあの鎧の女――そして、財団とかいう組織

 極めつけには探偵は何らかの事件に巻き込まれたことが発覚し、なのにそれによる失踪の理由はわからない、だ。

「あー……もう、どうすりゃいいんだろうな、俺……」


 それから一度日は落ち、また登り、南中を過ぎた。

 疑念を、謎を、因縁を、つかの間だけ置き去りにして。


一月十五日 午後三時三十五分 御伽市 白峰坂公園 


「あーもう!どうすりゃいいのかな、わたしたち!」

 そこは、奇しくも昨夜と同じ公園の丘を登った頂上。蓮たちが腰掛けているのは、秋原が飛び降りた展望台に設置されている古いベンチだった。

 隣でじたばたとしながら喚いている夏目実音は昨日のことが嘘のように回復していたが、蓮は隣で騒ぐハネ髪の少女ほど元気にはなれない。

 昨夜のことを覚えていない――肝心なところを目撃していないのをいいことに騒ぐ実音の声を聞こうとしても、昨夜にここで起こったことが頭から離れないのだ。

 キメラと呼ばれた秋原灯介と、カリバーンを名乗る一条小春の戦い。そして財団という組織。

 無事であると知らされたのは喜ばしくも、未だ連絡がつかない兄のこと。

 それらのうち、どれか一つを考えようとするたびに、他の何もかもが連鎖するように頭のなかを巡り始め、思い浮かべたことが霧散してしまう。

「足りないのは、メンバーでしょ、練習場所でしょ、曲でしょ……ぎゃー!要するに全部だ!」

 それに、あれから秋原灯介の顔を見ていないのも気がかりだ。

 キメラという存在についても、蓮は一条小春からの説明を受けていた。

 人がシルエットと呼ばれる異形を宿し、変化する怪異なる姿。蓮を助けたあの鬼が例外でないことも。

「キメラは人間に化けて社会に潜んでいる。何かに気付いたら、遠慮せず連絡して」

 あれから携帯番号を教えてくれた小春は、善意でそう言ってくれたけれど。

 命を助けてくれた人間を指差して、「怪物の正体はあの人です」などと、言えるわけがなかった。

(今、どうしてるんだろ……)

 あのとき負ってしまった怪我は大丈夫だろうか。病院には行ったのだろうか。

 どこか人気のないところで倒れて、そのままになったりはしていないだろうか。

 我ながらおかしなことだとは思うけれど、蓮には秋原灯介のことが妙に気にかかる時があった。

 特別な好意も抱いていないはずなのに、出会って一月も経っていないはずなのに。

 あるいは、そもそもの出会い方が危なっかしすぎたせいか。

 ――クリスマスを終わらせるように降ってきた大雪の翌日。街路を埋め尽くす白い絨毯に埋もれて行き倒れていた、あのときから。

「聞ーいーてーるー?」 

 聞き流しかけた矢先、脇腹に差し入れられる実音の指。そのままそれぞれが別の生き物であるようにうごめいて、蓮をくすぐりにかかる。

「ちょ、ちょ、ちょっと!」

 意志とは関係なく震える腹とそこから昇ってくるくすぐったさに耐え切れず、思わず抗議の声をあげる。

 隣の実音に向き直ると、怪訝そうな表情が蓮を出迎えた。

「うん、やっと反応した。ずっとぼーっとしてるからどうしたのかと思ったよ」

「ごめん。……なんの話だったっけ」

「コンクールの話でしょ。それから、あの教頭!」

 むくれる友人の声が蓮を現実に引き戻し、先程まで話していたことが順を追って蘇ってきた。

 ――そう、蓮たちはここで考えていたのだった。キメラや財団のことではなく。もっと身近で差し迫った、彼女たち自身の現実のことを。

 問題発生は半日前。舞台は蓮たちが通う高校――私立鳴光学園高校の、職員室でのことだった。

「ダメです」

 小奇麗な事務椅子に腰掛けながら、蓮たちに向かって腕を組む女性――合唱部の顧問でもある高丘教頭の第一声はそれだった。

 話題は勿論、合唱部のスノウコンクール出演……の、はずだったのだが。

「ダメって、なんでダメになるんですか」

 食い下がる実音に教頭は眉根を寄せながらも、相手の鼻先に人差し指を立てながら事情を説く。

「あれだけの問題が起こったからですよ。しかも二度」

 高丘教頭が言うのは、昨夜とそれ以前に二度起こった部室の破壊行為のことだ。

 元々蓮たち合唱部の部室は昨日の時点で何らかの理由によって荒らされていたのだが、昨夜起こった秋原と木村との戦闘によってその損傷は決定的になった。

 原因不明の破壊行為によって部員たちは気圧され士気を失い、校内では合唱部または部員への怨恨論も取り沙汰される中、学校側は事態を一刻も早く終息させるため、合唱部の活動は自粛とすることを決定した、というのが高丘教頭の話だった。

「だから、今。合唱部がコンクールに出ることは不可能なんです。こうなってまでやる気が残っている部員も少ない」

「やる気のある人達だけでも、出演するわけにはいかないんでしょうか」

 蓮が勇気を出して、数年来の挑戦に思い至ったのはつい昨日の話だ。

 まだ何もしていないのに、こんなところで挫折したくはない。

「確かに、それも選択肢の一つですが……」

「部を休止させておきながら、一部の部員だけがコンクールに出るというのはいささか筋が通りません」

「おかしな話ですが、我が子の発表の場を奪われたと感じる保護者もいるかもしれません」

「そんなぁ……」

 教頭の言葉に口を尖らせる実音だったが、しかし言い返す言葉はなく、話はそこで授業の予鈴に止められたのだった。


 そして、御伽市を一望する展望台のベンチから黄昏れている今に至るというわけだ。

「部として出られなくても、個人で出演するっていう道もあるけど……」

「その場合は、審査に出なくちゃいけないのよね」

 実音が言い、蓮がその先を引き取る。

 近年の急発展・急開発に伴う市内の人口増加に伴って、スノウコンクールには団体枠と個人枠の二種の枠が設けられた。

 前者は教育機関の部活動や名のある社内バンドなどによる、毎年顔ぶれが変わらない、市内の特定団体のメンバーでさえあれば間違いなく出演できる枠。

 後者の枠を利用する場合、一月末に前もって登録および審査を行ったうえで、一週間後のコンクールに出場するかたちになる。

 ただ、この枠から出演しようとするのは、芸大の教授や個人サークル等、実力でもって出演できると確信している団体や個人――言い換えれば、実力者ばかりなのだ。

 とても女子高生ふたりが通れる門だとは思えなかった。

「蓮のピアノにはあたしも太鼓判だけど、何かもっと他に武器がないと難しいよね」

 武器。他人に秀でたもの。そんなものが自分に――自分たちにあるのかどうか、蓮には自信がなかった。

 ただ――それを試してみたい、ということは思う。

 ふたりで、きっとそう遠くない日には兄もいて、高校生という自由な時間を過ごせるこの時に。

 自分に何があるのか。何が出来るのか。それを確かめてみたいという気持ちは、既に蓮の中にしっかりと灯っていた。

「……む?」

 隣で腕を組み、目をつむって考え込んでいた実音の耳が、何かに気付いたようにぴくりと動く。耳が動くのは彼女の数多い特技のひとつだ。

「ね、ちょっと、蓮。耳、すませてみて」

 蓮は面食らいながらも、言われたとおりに周囲の音に注意を払ってみる。

「この、何か、図書館とか歯医者さんの雰囲気みたいな…」

 実音が言いたいのは、おそらくはクラシックの音色ということだろう。

 弓と弦とが擦れ合って、時代を経た木材の胴の中で響き渡る、その味わいに時間を含んだ音。

 展望台を囲む丘の木々やうっすらと降りた霜の中、その音はまるで冬の草花に溶けこむように調和していた。

 言われて澄ませた耳にも、かろうじて引っかかるような形でようやく聞き取れるその音は、周囲と調和している反面「ここにある」という主張がないようにも蓮には思えた。

 蓮たちはベンチをそっと降りて、音のする方角へ――舗装された展望台区画から、森がそのまま残る未整備の区画へと入る。

 樹木の間を通り抜け、霜を被った草花や融け残りの雪を踏みしめて進んでいくと、程なくして木々の植わりが途切れる。その中心は乗用車ほどもある苔むした大岩だ。

 そしてその大岩を背に、ひとりの少年が音を奏でていた。

 瞑想するように目を閉じながら、蓮たちと同じ鳴光学園の制服――緑のチェック模様をしたネクタイは一年生の証だ――の肩に当てるのはバイオリン。足元には乱暴に置かれた学生鞄と、岩に立てかけられたバイオリンケース。

 『威風堂々』。

 行進曲として作られたはずのその雄々しい調べには、しかしどこか儚げな響きがあった。

 そして曲が終わり、少年は目を開ける。そしてその直後、思い切りのけぞって岩に頭をぶつける。

「あいたッ!……な、なにするんですか!」

 少年の反応は無理もない。なにせ目を開けた彼の前には、曲が終わるのを待ち構えるように立っていた夏目実音がいたのだから。

当の実音はといえば、慌ててバイオリンをケースにしまう少年の前で両の拳を握りしめながら感動している。

「これだ……!」

 そしてバイオリンをしまい終えた少年の両手を乱暴に掴んで、満面の笑顔を浮かべながら上下にぶんぶんと振る。

「ホント、なんなんですかァこの人!」

「あの、多分、握手のつもりなんだと思う……」

 助けを求めるような視線でこちらを見る少年に、取り敢えず苦笑しながらフォローを入れる連であったけれど、親友の意味不明な奇行にこれだけのフォローで足りるかと考えると、やはり頭が痛かった。

「これ……これだ!ホントときめいたもん!これだよ!!」

「だから、何なんです!?」

「何なの!?」

 要領を得ない叫び方をする実音に、期せずしてふたりの声が同調する。

 そして実音が目を輝かせながら蓮を振り向いてよこした答えは、蓮をしばし唖然とさせた。

「――――『合奏』だよ!!」



「先輩方の話は、わかりました」

 一時間後。

 シーリングファンが回る天井の下、薄暗い照明の中にコーヒーの薫りが立ち込める喫茶店内。

 バイオリンの少年――高宮啓一と名乗った一年生だ――を加えた蓮たち三人は、探偵事務所下階の喫茶店『シンデレラ』の一卓を囲んでいた。

 ちなみに半ば無理矢理に高宮を引っ張ってきた実音はといえば、何ら悪びれる様子のないニコニコ顔で後輩に相対している。

「じゃあさ、私たちと一緒に審査会に出てくれる!?」

「それは無理です」

 即答だった。

 同年代の男子と比べても幼く愛嬌が残るその顔が、しっかりと眉根を寄せて拒否の表情を作っている。 

「そもそも合奏って言いますけど、具体的にはどんな楽器でやるつもりなんですか?」

 その質問に、実音の表情が固まった。思いつきで動いていたツケだ、と蓮は思いつつも、代わりに答えた。

「今のところは思いつきだから、ピアノと……できればバイオリンってことになるかな」

「ぼくが言うのも何ですが、仮に入ったとしても、その二重奏で審査会を通過するのは難しいと思います」

 それは単なる拒否だけではなく、蓮たちのその後も見据えた上での真摯な否定だった。

 蓮は心中で深く頷いた。楽器が二つ揃っても、逆に言えばそれ以外の全てが足りない。

 演奏する曲、合唱にするのならば複数人のボーカル。そしてできれば、他の演奏者。

「二人のピアノとバイオリンがあれば楽勝だと思うんだけどな」

「水鏡先輩が、ピアノを?」

 実音の言葉に従うように、高宮の視線が興味ありげにこちらを向く。奏者として表に出ることは少なかったから、少し恥ずかしい。

「と、時々だけど……」

「あっ――いや、それはいいんです。とにかく、僕はできません」

 高宮は興味を打ち消すように蓮に向けた目を宙に反らし、膝に乗せていたバイオリンケースを携えて立ち上がる。

 その右腕に夏目実音が抱きつくように縋りついた。

「なんです――」

「私たちとじゃ……イ・ヤ?」

 見るからにわざとらしく科を作る実音に、しかし高宮は顔を真赤にして、中指に指輪をはめた右手を引き抜くようにして飛び退いた。きっと真面目な性分なのだろう。

「そ、そそ、そういうのじゃないです!」

 そして、高宮の表情は何かを思い出したかのように曇る。彼は蓮たちの顔からも卓からも目を背け、自分の足元を見ながら言い添えた。

「……バイオリンを弾いていることを、人に知られたくないから」

「えっ……」

 その声は微かに震えていて。

 よく見れば、バイオリンケースを握るその手も。

「ごめんなさい。両親が待ってるので」

 高宮啓一は素早くふたりに頭を下げてから卓上に千円札を置き、早々とドアを押し開けて店内から去っていく。

 蓮が見たその背中は、まるで何かから――追ってくる誰かから逃げるようだった。

 追うべきか、追わざるべきか。迷っていると、ふいに頑強な男の手が卓上に差し入れられる。

「前途多難ねェ」

 手は迷わずに千円札を掴みとり、それから呑まれるべき客を失ったコーヒーカップとソーサーを取っていく。

 蓮が顔を上げると、そこには刈った頭に筆めいた髪を残し、上から頭巾風にバンダナを巻いて艶やかな化粧を施したひとりの男がいた。

「――ごめんなさい、サクラさん」

 軽く頭を下げる蓮に、筆頭の巨漢――サクラは笑顔で応じて肩をすくめる。

「いいのいいの。あんたたちが青春するなら、大人として応援しちゃうわ」

「それに私は、ご両親が出かけてる間の、あんたとトッキーの親代わりみたいなもんだしね」

 太陽のように微笑むその顔は蓮に安堵をもたらしてくれるけれど、初対面なら間違いなく面食らうだろう。性別と容貌に似合わぬ女言葉――いや、オネエ言葉というやつか。

 けれどそれは、蓮や馴染みの客にとっては逆に愛嬌のひとつだった。サクラは本人が言うとおり、蓮にとってはまるで親戚の叔母さんのような人物だ。

 トッキーというのは、言わずもがな蓮の兄・時彦の愛称だ。

 本人はこの冗談めいた響きが気に食わないらしいのだが、しかしそれがまたサクラを面白がらせ、「トッキー」呼びはなかなか治まらない。

「って、ああ゛――ッ!!」

 たった今微笑んだばかりのサクラは突然驚愕の表情を浮かべ、店外を指差して叫んだかと思いきや、その方角めがけて猛然と駆け出していく。

「ぎゃああああああ!」

 そしてサクラがドアを破らんばかりの勢いで飛び出した一瞬あと、どこか聞き覚えのある野太い悲鳴が店外から響いた。

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