第二話「選ばれし者、選ばれざる者」アバンタイトル
一月十四日 午後七時二十二分
――いつか、現れるのではないかと思っていた。
人ならざる姿と異能、そして人の命を喰う力を持ち、社会に潜みながら誰かの平穏を侵し、日常を壊す魔物――『キメラ』。
秋原灯介がキメラとなりこの御伽市を訪れ、水鏡蓮と出会ってから、彼は人知れず幾人の同類と戦い、遭遇した暴虐を砕き屠ってきた。
けれど、わざわざ魔物が出向いて同じ魔物を倒すなど、考えてみれば不自然すぎる話ではないか。
日本は法治国家だ。警察、公安、自衛隊。怪物を倒すとは言わずとも、彼らに対処すべき組織はいくらでもある。
けれど、彼らが動いている気配は全くと言っていいほど感じられなかった。精々警察が事件の隠蔽に加担しているくらいだ。
不穏な霧のような疑念を抱えて戦い続けるうち、ひとつの突拍子もない考えが脳裏をよぎった。
警察も、公安も、自衛隊も動かないこと――それは逆に、彼ら以外のキメラと戦う組織の存在を意味するのではないかと。
秋原のような怪物ではなく、怪物を倒すにふさわしい英雄が、どこかにいるのではないかと。
そう思っていた矢先、秋原の前にひとりの女が現れた。
迷子に手を差し伸べるつもりが逆に親から風貌を怪しまれて助けそこなったばかりの秋原の前で、女はいとも簡単に別の迷子を助けてみせた。
優しい声、流れるような髪に凛とした目鼻立ち。そして目の前の人間に迷いなく手を差し伸べる勇気。
女の容貌にも行動にも欠点などは何一つ無く、それを目にした秋原は、まるで己が持ち得ないものを見せつけられているような惨めさに襲われた。
あの時感じたものは正しかった。
その女はまるで悪い冗談のように、ふたたび秋原灯介の前に現れたのだから。
身体のシルエットを崩さずなお美しい装束と、その上から装者を覆い守護する輝く鎧に身を包んだ、白銀の閃姫として。
奇妙な音叉で秋原の正体を暴き出し、鬼と化したその身に己の身の丈ほどもある白銀の両刃剣を突きつけるその女の出で立ちは。
キメラとなってしまった秋原が決してなれない者。
キメラを倒し、人を救うことができる者。
いつか現れるかもしれないと、秋原がずっと思っていたもの。
――――正義の味方、そのものだった。
「そのカッコ、抑えてくれないかな。眼のやり場に困るんだよ」
戦意と決意とが燃えるように輝く閃姫の目を睨み返しながら、秋原はあえて軽口を叩く。
「時間稼ぎのつもり?」
秋原は「そのとおりだよ」と心中でせせら笑う
『冗句は緊迫した場面でこそ役に立つ』――相手の言葉を完全に無視する構えでもないかぎり、言葉を投げれば必ず隙が生まれるものだ――と、秋原は『彼女』に教えられた。
言葉を聞き届ける時間、対応を考える時間、そして相手の反応を伺う時間。生まれた一秒弱の隙の間に、秋原は周囲に素早く目を走らせる。
赤い二本角に白髪、刃と棘に彩られた赤銀の腕を持つ鬼に――キメラとしての姿に変身している秋原の視力は、人間状態から飛躍的に向上しているのだ。
先程公園内の各所からサーチライトで照らしつけられ、視界を封じられたのもつかの間のこと。
早くも鬼の目は投げかけらていれる光量に適応し、公園内に潜む敵の姿と数を把握し始めていた。
周囲に合計五台の攻撃的照明を操作するのは、葬儀屋のような黒スーツの上から防護服とヘルメット、そして機械化した篭手のような装備を右腕に着用した一団。
加えて、そこかしこの茂みにも人の気配。おそらくは同様の装備でもって、秋原に襲いかかる機会を伺っているのだろう。
先程奇襲し、勢いに任せて倒した高校教師とは違う。はなから秋原を狙ってきているようだ。相手をしなければならない。
(ホントなら、逃げの一手なんだがな……!)
閃姫に対し指を広げ爪を突きつける右手の構えを崩さず、後方のベンチに座する二人の少女を一瞥する。
二人のうち、トレンチコートの少女――水鏡蓮はこの状況に困惑し、前髪がハネたセミロングの少女――夏目実音は眠ったままだ。
わざわざ秋原を狙いにくるということは、彼女らを守るのが目的か。
「相手をしてやるよ。俺の地獄に付き合ってもらう!」
「地獄とは。まるで本物の悪鬼(Demon)にでもなったつもりかしら」
嘲るような言葉に、しかし油断なく挑むような視線。それが秋原の視線と交差した直後。
まるで互いに示し合わせたかのように、鬼と姫とはどちらが先ともなく互いに疾風めいて地を蹴り跳んだ。
閃く翠炎の爪と、煌めく白銀の剣とが交錯した直後、鬼の右腕と閃姫の剣が奏でるは甲高い激突音!
白銀の剣と赤銀の魔手は鍔迫り合いめいて拮抗しながら火花を散らし、閃姫は輝きで射抜くように、殲鬼は焔で焼き殺すように互いの瞳へ己を映して睨み合う。
「誉めてあげる。少女を誘い込むような外道とはいえ、挑まれた戦から逃げない程度の度胸はあるようね」
「はっ!そっちこそ、大人数で囲んでおいてよく言いやがる…!」
悪者扱いされるのは、キメラとなる前から慣れていた。
余裕を見せつける閃姫の誤解を嘲笑うように吼える秋原の背中がずきりと痛む。そこは先の戦闘で刺された傷だ。
先刻、蓮に強がったのは半分が嘘で半分が真実だ。キメラ化した人間の治癒力を持ってすれば完全治癒とはいかなくとも、数時間で平常を取り戻す筈だった。
それがまさか、こんなところで、こんな相手に戦闘を挑まれるとは。
(そいつは言い訳だな)
秋原は己の弱気を容赦なく切り捨てた。この戦場で必要なのは状況を見極めること、そして生き延びる覚悟だ。
閃姫の視線が不穏に動く。一瞬反応が遅れ、秋原の右腕が剣に跳ね上げられる。
(――やばいッ!)
次の瞬間、秋原の胴を薙ぎ払ったのは台風めいた廻し蹴り! 決して小さくはないはずの己が身が、小石のように蹴り飛ばされる!
梢に蹴りこまれた秋原は木々の枝を次々に折りながら、赤銀の右腕を地面めがけて突き伸ばす。
砂利混じりの地面に突き立った爪はブレーキだ。秋原は減速しつつ、最後に残った慣性を使ってその両足を地に復帰させる。
しかし安堵の息をつく暇もなく、閃姫は樹の幹を蹴り上がった梢の狭間、秋原の上空にて剣を弓めいて引き絞っている!
秋原は反射的に右腕を掲げ、その装甲で以って切っ先を反らすが、しかし白銀の剣は火花を散らしながら容赦なく右腕を抉り取っていく。
瞬間、秋原の脳神経を正体不明の痛みが突き抜ける。まるで右腕の先、存在しない部位までもが壊されたかのような、神経を暴れまわる幻肢痛。
秋原は本能的な危険を感じ、閃姫から飛び離れて慎重に右腕を見た。その破壊された傷口には、銀を散らしたような白い光が滞留している。
そしてひとりでに盛り上がり自己修復しようとする装甲はしかし、ぎしぎしと悲鳴を上げながら血の滴めいた欠片として足元に落ちていく。
「こいつは……」
睨む秋原に答えるかのように、閃姫はその凛々しい貌に余裕を湛えて語ってみせる。
「そう。これが私たちが持つ『カリバーン』の力。お前たちが身に宿す禍の鋼を、致命的に砕いて封じる事ができる」
秋原は一瞬、右腕をばらばらに砕かれて地面に横たわる己の姿を想像した。己の意志に関係なく、背筋を冷たいものが走る。
「終わりよ、ワイルドワン」
今感じているそれを裏付けるように冷たい目で言い放つ閃姫。胸に恐怖が滞留し、心臓を掴まれたかのような一筋の絶望が背筋を走る。しかし。そうはならない。
「――いや」
秋原は静かに後ずさりながら、精神的な視線を背後に、この林を囲む植え込みの陰へと向ける。聞こえるのは静かな、しかしそこに人がいる限りは消しきれない擦過音。
秋原を囲むがごとく戦闘員が潜んでいることは先刻から見抜いていた。配置がさほど変わっていないのならば、逆転の目はそこにある――!
「それは、どうかなッ!」
右腕に目一杯の力を込め、その内部から翠色の焔を噴出させる。
異能力を焼き消す焔が白い光を焼き消し吹き飛ばす様に閃姫は身構えた。攻撃の兆候だと思ったのだ。秋原の狙い通りに!
「見ィつけた、だ!」
秋原が鬼の脚力で跳躍するのは、見定めた気配の先。黒スーツの上から防護衣を着こみゴーグル一体型のヘルメットを被った、敵の一員のもと。
この相手を鬼の膂力で制圧し、人質として使うことで鎧の女を躊躇わせ、この場の主導権を握る――はずだった。
しかし。
『――――ハウリング!』
響いたのは電子音声。
スーツの戦闘員は、左腕に装着していた篭手状を構えた。機械的な篭手を。
秋原がそこに狼と月の意匠が込められたエンブレムを見て取った直後、その全身を感電のごとき痺れと壁に激突したかのような衝撃が遅い、秋原はゴムボールのように弾き返される自分を他人ごとのめいて俯瞰した。
おそらくは何らかの防護兵器か。跳ね飛ばされた勢いで全身をしこたま煉瓦の地面に打ち付け、人肌が残る左腕や顔面に擦り傷を刻む。体勢を立て直した先に見たのは、こちらへ向かって駆けてくる閃姫の姿だ。
「くそッ!」
怪我を負ってなお体を酷使したせいで、背の傷口が本格的に開いてきた。そんな秋原の事情など知らず、閃姫は処刑人めいて剣を振り上げる。
「どこまでも卑しいことをッ!」
怒りに満ちた表情。防禦るか、回避すか。判断が遅れ、剣が振り下ろされる。
右の肩口を狙ったのであろうその一撃は、先と同じく右腕を狙った、制圧のみを目的としたものだった。
だが、秋原は無自覚のうちに血を流しすぎていた。
先のキメラとの戦闘、そして今の交戦。一度は閉じた傷口が流した血が、いつの間にかヘンゼルとグレーテルの寓話のように血痕の道を作りつつあった。
血液を失い、供給される酸素と糖に飢えた秋原灯介の意識が、一瞬のみ断絶する。
力が抜けた膝は主の体を数センチ下の世界に引き込み、閃姫の一撃は頭部と同じ高さへ。
秋原の右目近くを、空気を切るような滑らかさで刃が通り過ぎていく。
そして、視界が痛みに塞がれる。
「あ――あ゛あ゛ああああああああッ!!」
持って行かれたのは皮か、肉か、あるいは骨までか。
視覚を奪われたのではないかという喪失感と怒りが脳を塗りつぶし、体を必死に立て直しながら残る左目で襲撃者の姿を捉える。
そこにいたのは、先程までの余裕を一転させ、躊躇するような表情を浮かべる一人の女だった。秋原はその表情になんらかの感情を覚え、それを捨てた。今はその隙だけを捉えた。
右目から流れ出る血液を手に取り、秋原は女の顔めがけて投擲!
「――――ッ!」
鼻筋を中心とした白い肌に鬼の血が弾ける。女は不意を点かれながらも、両目を食いしばるように閉じながら異物の侵入に耐えた。
しかし、各所に配置されていた黒スーツたちはそうはいかない。頭目が受けた思わぬ反撃に、数瞬その統率を乱してしまう。――ここが好機か!
ベンチの前に取り残し、分断されつつあった蓮を見る。その前には、まるで彼女を護るかのように一人の黒スーツが立って秋原を警戒している。
彼らの正体――キメラを倒すということ以外の目的も、巻き込まれた人間に対する対応も不明ではあったが、
秋原の頭の中にはすでに仮説が組み上がりつつあった。
黒スーツの包囲が切れつつある地点を強引に駆け抜け、坂道に丸太を敷いて作られた山道のような階段を駆け上がる。
目と背中の傷から血がとめどなく流れ出ていくが、あとで取り戻せばいいと切り捨てる。
足裏を苛む痛みは無視し、靴が壊れないことだけを祈って階段を、あるいは土のけものみちを駆け登る。その先は崖のように切り立った展望台だ。
後ろからがちがちと響く金属音めいた靴音。振り向けば、目潰しから復帰した閃姫が秋原を追ってきていた。
その走力は手負いの秋原をはるかに凌駕していたが、階段を登り切るのは秋原のほうが早い。
秋原は錆びついた双眼鏡の間を駆け抜け、丸太を模した樹脂製手すりに足をかける。下に見えるのは闇。それと幽かな光。
「逃がすものかッ!」
顔を拭い、目元に赤い血痕の筋を残しながら、鎧の女は秋原を追走してくる。
彼女が今振り上げたその刃はあと一瞬あれば秋原に届き、この腕を容易く砕くだろう。
だから、これは賭けだ。
息を大きく吸い、そして吐く。そして秋原は鎧の女へと不敵な笑顔を見せつけた。
「…………悪いな。今日はさよならだ」
蓮は見た。
圧倒的な力。迷いのない暴力。ぶつかり合う殲鬼と閃姫の姿を。
初めて秋原の戦いを目にしてからまだ一時間も経っていないはずなのに、それさえも遠い昔出来事のようにも感じてしまうほど、目の前の戦いは凄絶だった。
戦い、血を流す秋原灯介。
その秋原を「怪物」と断定し、傷つけることを厭わなかった鎧の姫。
確かに蓮を助けに現れたはずの彼女が、同じく蓮を蜘蛛男から助けてくれた秋原を傷つける。
そこには、何か深刻な矛盾がある。
言い様のない何かが、確かにおかしいはずなのに、秋原も鎧の女も、何の抵抗もなくそれを受け入れている。
それとも彼らが正しくて、蓮の考えが間違っているのだろうか。
黒服の制止を振り切り、秋原たちを追って一心不乱に坂道を登り越えた。その先で、かろうじて彼らの姿が蓮の視界に現れる。
遂に追い詰められ、展望台の崖に背を向けて女と相対する秋原。右の目尻から流れる血は、その顔を獰猛に彩っている。
既に鎧の女は剣を振り上げ、その刃は一瞬あれば秋原に届く。
何かをしなければいけないと、蓮は思った。
「――やめてくださいッ!」
心の底から勇気と一緒に絞り出した声に、両者の動きが止まる。
秋原は一瞬、信じられないものを見るような目で蓮を見た。蓮も自分が信じられない。こんな常識離れした、緊迫した状況に抗った自分が。
秋原は誰に向けるともない笑みを浮かべ、まるでその先に地面があるかのような気軽な動きで――手すりを飛び越え、闇の中へとその身を投げ込んだ。
あたかも高所から滑空して風をつかむ鷹のように広げた両手で空を切り裂き、千切れかけたマフラーとライダースジャケットの裾を悪魔の翼めいてはためかせながら、秋原はその先の虚空へと吸い込まれるように落ちていった。
「しまった……!」
鎧の女は手すりから身を乗り出しながら視線を巡らせ、そしてようやく鬼の姿を認めたのか、舌打ちする。
蓮も静かに展望台へと駆け、崖下へ目をやってみた。
そこには道路、通行するトラックの荷台。そこに寝転がるように身を預けながら、鬼は街灯に彩られる道路の先に消えていった。
――無事、だった。
(よかった…)
秋原はなんとか戦闘から逃れ、そして目の前の不条理な戦いも、とりあえずは終息の目を見た。
それらを思うと、一時的に心の奥に押しやっていた色々なものが急に戻ってきたような気がして、思わず安堵の溜息が漏れた。
そして、隣からも同じ安堵の息がひとつ漏れ聞こえる。
思わず向いた隣、そこにいた溜め息の主は、既に鎧の戦姫ではなかった。スカートにブラウスの姿、背まで伸びる薄桃色の髪。整った目鼻立ちのどこかに少女の面影を残す女。
彼女が上から羽織っているのは、何かのユニフォームのような黒いジャケット。左肩には三日月と遠吠えする狼を意匠化したワッペンが縫い付けられている。
女は蓮の方を振り向いて膝に手を当てながら屈み、目線を合わせるように蓮の顔を見た。
優しい目だった。本気で蓮の身を案じてくれていることを確信させ、自然とあたたかい信頼の情が湧いてくるような。
「――大丈夫だった?」
「……はい」
「不自然な脱力感とか、倦怠感は?少しでも心当たりがあるなら、無理をしないですぐに申し出て」
「ないと、思います」
女が蓮を案じる言葉は、ほんの一時間前に鬼の姿をした青年が発したそれとほぼ同じだった。
――どうして、戦わねばならなかったのだろうか。
「そう。よかった」
女は顔を上げて、警戒するように周囲を見回す。いつの間にか、周囲の黒服たちも展望台に集まってきていた。
「さて――」
女は突然蓮へ駆け寄って目線を合わせるように屈み、それから体のところどころにぽんぽんと手を当ててくる。傷の有無を確認しているのだろうか。
「大丈夫?不自然な脱力感や倦怠感はない?」
その言葉に、蓮は直感的に思った。先に彼女があれほど激しく戦うところを見たにも関わらず――この人は良いひとだな、と。
「はい、大丈夫です。あのひとが、助けてくれましたから」
それでも、これだけは言っておかなければならないと思った。
キメラを倒し、蓮を助けてくれた秋原。同じくキメラを倒しに――蓮を助けに現れた彼女。目的は同じはずだ。あの戦いが、これから先に何度も続くとは思いたくない。
「『助けた』――?」
女は顎に手をやりながら数秒思案して、それから何か思いついたかのようにその手を蓮へ差し出す。
「何にせよ、こういう時は、まず自己紹介からね」
蓮がおずおずと右手を差し出すと、女はその両手でぎゅっと蓮の手を握り返した。
「一条小春。そう呼ばれているわ。よろしく」
道ですれ違えば振り向かずにはいられないような、その容貌。
耳に心地よく、安らぎをもたらしてくれる優しい声。
躊躇なくその手を差し伸べ、握ることができる勇気。
それらを兼ね備えているこのひとは、まるでほんものの正義の味方みたいだ――そう蓮は思って、先の戦いにまた胸が痛んだ。
「――ああ、くそ……なんなんだ、あいつら……」
人気のない高架下のトンネル。秋原はコンクリートの壁にもたれ、背中を擦りながら歩道に尻をつき、中身が詰め込まれ目いっぱいに膨らんだコンビニ袋を隣に置いた。
辛くも鎧の女の追撃から逃れ、人目がないタイミングを見計らってトラックから飛び降りたのは良かったものの、兎に角それまでの体力の消耗が甚大だった。
秋原は仕方なく変身を解いてから朦朧とする意識を乗りこなしつつ手近なコンビニに寄り、寿司やおにぎり、ホットスナック類を手当たりしだいに購入する。
費用は先に倒した蜘蛛男――あの教師から抜き取った財布だ。
財布の中身は三万二千円。これと日払いのバイト代を合わせればまた数日はビジネスホテルに滞在できるし、また何かしらの武器も買えるだろう。
秋原自身の資金もないわけではなかったが、如月時彦の帰還がどれだけ先になるかわからない状況では、取れるものは何でも取り、使えるものは何でも使っておきたかった。
ネギトロの巻き寿司にパックの山葵を少しずつ盛って醤油をたらし、イクラのおにぎりの袋を開け、シーチキンの巻き寿司の包装を剥いですぐにもかじりつけるようにしておく。
盆とテーブルの代りはコンビニの袋だ。若干不衛生ではあるが、もう慣れたものだ。
「とにもかくにも……いただきます」
ぱん、と手を合わせ、幾つかに寸断されたネギトロ巻きを口に放り込む。
醤油と米と魚肉のペーストの滋養が口の中を満たし、嚥下すればそのまま体に染み渡っていく。業務用らしい大雑把な味ながら、嫌味なく味付けされた酢飯も口に優しい。
「うん、うまい……!」
塩分、炭水化物、動物性蛋白質。どれもこれも、今の秋原には必要極まる栄養分だ。
冷茶を喉に流して勢いをつけ、イクラのおにぎりに噛み付く。
「うん、うん」
これも上々だ。柔らかい米にさりげなく混ぜられた塩味が有難い。いくらの旨味と白米とを咀嚼して飲み込んでいくだけで、すぐにも傷が治っていくかのようだ。
シーチキンの巻き寿司にかじりつく。マヨネーズと粉砕されたツナフレークの混合物は間違いなくハイカロリーだが、今しがた戦闘を終えたばかりの秋原にはこれでも足りないほどだった。
食事のおいしさを――生きている実感のようなものをもぐもぐと噛み砕いて胃に流し込むうち、秋原はなぜか笑っている自分に気がついた。
人から何かを――おそらくは命の力ともいうべき何かを吸い取り、自らの糧にする怪物、キメラ。
けれど秋原灯介はそれらと同じ存在でありながらコンビニの弁当類に舌鼓を打ち、心の底からそれを「美味しい」などと思っている。
化け物でありながら、まだ人間らしさを噛み締めている。そんな自分が、妙に滑稽な存在のように思えた。
「――まだ、人間でいいのかねえ」
暗闇の中、その問いに答えを返してくれる者はいなかった。
ひょっとすれば、答えられる人間はもうこの星のどこにもいないのかもしれないが。
「さて、と――ごちそうさまでした」
再び両の手を目の前に合わせ、散らばるゴミをコンビニの袋に手早くまとめる。
「よし――――」
そして秋原がジャケットの内ポケットから取り出して語りかけるのは、手のひら大の大きさに爬虫類の鱗のような意匠を持つ円盤状のエンブレム。
「これだけ食えば、うまく効いてくれるよな」
秋原はそれを右手に握りしめて目の前に掲げ、覚えている限りの呪言を呟き重ねていく。
「『己が尾を噛む無間の蛇の、鱗は朽ちず砕けない。 それは天つを巡る黄金の環なり』――だっけか」
言葉と同時にイメージするのは、『魔力』とかいうものを――概念的なエネルギーを、手の中のエンブレムと共有する感覚。
エンブレムが身体の延長であり、秋原の身体を巡る生命力のサイクルの一部であると、故意に錯覚する。
目を閉じ、想像に体を委ねていると、傷を負った箇所が――キメラの治癒力でも治りきっていない箇所が、だんだんと熱を帯びてくる。
右の目元の傷、背中の穴。熱を持ったそれらの傷は、まるで人外の治癒力を得たかのように――否、本当に『蛇鱗』の力が封じられたエンブレムの治癒力を借り受けて、次第に塞がっていく。
「……よし。まあまあ上手くいったな」
今や傷は殆どが治癒し、その上には薄皮が張り始めた。
背中の内部にはまだ痛みが残っているが、それもキメラの治癒力があれば長いことではないだろう。
「――上手いものだな」
トンネルの外の闇の中、嗄れた男の声が響いた。
弾かれたように立ち上がり、いつでもその爪をガントレットのそれに変化させて襲いかかれるように右手を向ける。
敵か。
先刻の戦闘からは脱せたと思っていたが、完全に振り切ったとは言い切れない。
「イグニッ――」
そして鬼の姿に変わろうとしたとき、闇の中の男は焦ったような声を上げた。
「待て!待て待て、敵じゃあない!私だ、私!」
「――?」
とりあえず鬼の姿には変わり、右手から翠の炎を人魂のように飛ばす。
そうして照らされた闇の先にいたのは――
「ドクトル……?」
人魂のように宙に漂う翠の火球に照らされたその姿は、禿頭に眼鏡をかけ、痩せた顔に髭を生やした白人男性。
成り行きで働くことになった喫茶店で、いつしか馴染みかけていた顔の客。
「そう、私だ。やっとこの眼で確認できたな。君のもう一つの姿を」
ドクトルは仰々しく両手を開きながら、秋原に歩み寄ってくる。武器を持っていないことのアピールだろうか。
顔見知りとはいえ、秋原がキメラであることを見逃すとは思えない。まだ油断はできなかった。
「あんたも、連中の仲間?」
「ふむ。それは半分合っていて半分正しいが……敢えて言うなら、君寄りの人間だな」
「どういう意味です?」
「アマチュアの人助けが専門ということさ」
言い終えて、ドクトルは破顔した。