第一話「御伽の街のフリークス」Bパート
「……もう、お店でやろうとしてればすぐ取りにいけたのに!」
夜の帳はいつの間にか降りて、気温も落ち込み始めた午後五時半の住宅街。
にもかかわらず、水鏡蓮と夏目実音はなぜか今にして遅すぎる登校の只中にあった。
事情は数日前にさかのぼる。
蓮たちのクラスには、数日前から数学の課題として問題集を数ページ解くことが義務付けられていた。
しかし、実音は提出前日の今日になっても課題に手をつけておらず、そのうえ問題集を教室に置きっぱなしにしていたのだ。
蓮に問題集を借りるという手は、彼女がとうに課題をクリアして教室の机に入れておいたことで封じられていた。
そういった事情からなんとしても授業中の公開処刑を回避したい実音に、蓮がしぶしぶ付き合ったかたちになる。
六時の施錠時刻に遅れないよう、蓮の足取りは早い。一方、当の実音はちゃっかり途中のコンビニで買った肉まんを頬張っている。
「半分食べる?」
蓮の横に並んで小走りを続けながら、半分にちぎった肉まんを差し出す実音。
「食べるけど、もっと緊張してくれないかな…」
蓮は貰った半分の肉まんの半分をかじり、目線を上げて道路の先を見る。
学校まではもう三百メートルもない。この分ならまだ残っている教師に事情を話して、それから忘れ物を取りに行く程度の余裕はありそうだ。
安堵して少しペースを落とし、足を休ませ始めたとき。
ちょうど蓮たちの進行方向とは逆方向、学校の方角から同じ歩道を歩いてくる男の姿が目に入った。
「……やだ、ビジュアル系?」
実音がどこか歓喜の色を含んだ声を上げ、蓮はその例えに心中で同意した。
肩までかかる銀髪、凹凸がはっきりしながらも、均整がとれた目鼻立ち。
その身をくるむ黒いハーフコートの下には、黒いスーツと青のシャツ。
蓮たちを事も無げに一瞥するその目は、虚無を思わせるほどに澄み渡って青かった。
男は蓮たちの目があることも気にせず、懐から煙草を取り出してライターで火をつけ、あろうことか蓮たちを避けようとせずぶつかるように歩いてくる。
仕方なく2人が左右に割れてすれ違う瞬間、蓮には煙草を口に運ぶ彼のコートの右袖から、藍色の鳥の紋章を象った腕輪が垣間見えた。
「いや、カッコよかったねー……」
再び声が聞こえない程度に離れてから、実音ははしゃいでいるような調子で蓮に語りかける。
けれど蓮ははしゃぐどころか、逆に胸の中に何かが引っかかったような正体不明の違和感に襲われていた。
「蓮、どうした?」
「……なんだろう。知ってる人かと思ったんだけど」
それからようやく学校前の交差点に差し掛かり、退屈げに足踏みをする実音を横目に信号を待っている時に、蓮はようやく気がついた。
あの銀髪の外国人のたたずまいは、他人の目を前にしながらも、その視線が届かない別世界に存在しているかのようなものだった。
自分を表現することを好まないように――世界と関わろうとしないように。
それが蓮にはどこか――自分がどこにもいないかのように振る舞う、秋原灯介と重なって見えたのだ。
整然と手入れがされたベッド、絨毯、机の上には備え付けの聖書と、乱雑に図形と文字の相関表が描かれた大学ノート。
それらをぼんやりと照らす照明の下で、秋原灯介はゼリー飲料をまた一本飲み干した。
飲み終わったチューブ状の容器をぐるぐると巻いて、机下のゴミ箱にめがけて投げ込むが、ゴミは外れて絨毯の床に落ちる。
秋原は一度それを拾おうとしたが、ベッドの傍に備え付けのデジタル時計を一瞥して、途中にしていた作業に戻った。
――どうせ、あとで清掃員が片付けるだろ。
メッセンジャーバッグに詰め込むのは、まるでこれから遠足に向かうかのような雑多な品々。
スプレー、チョコバー、それと今しがた飲んでいた買い置きのゼリー飲料を数本詰め込んで、ジッパーを閉じる。
それから一度目を閉じ、息を大きく吸い、そして一度に吐き出す。
息を吐き出しきった秋原はゆっくりとその目を開き、バッグを背負う。
ベッドの下に隠しておいた玩具を引っ張り出してその手に携えて、秋原灯介はその部屋を後にした。
この街を訪れた三週間前から滞在している、ビジネスホテルの一室を。
「ホントに大丈夫なの?」
「大丈夫だって。ほら、ここの鍵。壊れてるでしょ」
実音が手を掛けているのは、部室棟一階端の窓。鍵がかけられているにも関わらず、窓枠を揺らす手の動きに従ってがたがたと唸る。教員による杜撰な応急処置のまま捨て置かれているのだ。
そこに実音が両手をかけて力を込めると鍵が嫌な音を立てて外れ、窓枠の間に十数センチの隙間ができる。
「……で、ここだ!」
そこに右腕を突っ込んで、器用にストッパーを外して鍵を開けてみせる。実音の鮮やかな手口により、見事に校内への進入路が拓かれた。
「上手すぎる……」
半ば呆れて言う蓮に、なぜか実音は誇らしげな様子で胸を張る。
「あたしは蓮の相方だからね。美少女探偵、水鏡蓮と夏目実音。どう?」
それからまるでどこかのアイドルのような猫手のポーズを決めた。
「どっちかというと泥棒だと思うけど」
そもそも私は探偵の妹であって探偵じゃない、という言葉を蓮は飲み込んだ。
さすがにこのスカートで窓枠に足をかけるのはどうなのだろうか。そう思って躊躇する蓮の前で実音は平然と大股を開いて足をかけ、部室棟の一室に降り立った。女子高生らしからぬその大胆に馬鹿らしくなって、実音に習って物置と化した部室の床を踏む。
「ところで、帰りはどうするの?壊したまま?」
「そうだね。鍵は……明日ここに来て直すしかないか」
午前中の「事件」の発覚を受けてか正門は閉じられ、当然のごとく教室棟の昇降口にも鍵がかけられていた。
だからといって、小難しい数学教師を相手に言い訳が通じるわけでもない。こういう場合は「数日前から予告していたでしょう」と責められるのが関の山だ。
蓮たちは携帯電話の懐中電灯機能を光源にし、暗い廊下に足音を響かせて目的の教室へと進んだ。
部室棟は長い廊下を三段重ねにしたような構造になっており、廊下の左右にはマンションやホテルめいていくつもの部室が並んでいる。
漫画やアニメのキャラクターを表札に盛り込んだ美術部、部員が思い思いの写真を貼り付けたコルクボードを展示する写真部。
それから、一番奥で一際広い一室を専有しているのは、蓮たちが所属する合唱部だ。それがあるべき暗闇にライトを向けると、
そこに部室はなかった。
「――――えっ?」
思わず駆け寄って、そこが一階の端――合唱部室があるべき場所だということを確認する。
けれど見えるのはただ、めちゃくちゃに破壊されて大穴と化した戸口と、同じく荒らされた室内のみ。ピアノは足を折られ、机や椅子はめちゃくちゃに転がっている。
「ちょっと、何よコレ!?」
蓮に続いてその破壊の跡に駆けてきた実音は、足元に転がる硬質の何かに気付き、緊張した面持ちでそれを拾い上げる。
「ウソ……」
それは白地に黒で「合唱部」と書かれたプレートだった。
一瞬後、プレートは空虚な音を立ててリノリウムの床に落ちた。
数分前。
映画館のスクリーンのごとく据えられた巨大なモニターが据えられた司令室のような空間で、ひとつの非公式通信が行われていた。
「カリバー1、聞こえるか?」
モニターと一体化したデスクに両手をつき、襟元のマイクに語りかけるのは、白髪を後ろに撫で付けた初老の男だ。
その右目には古い刃物傷が一本、瞼を通って頬骨にまで浅く走り、スーツの腰にはリボルバーが吊られている。
カリバー1と呼ばれた通話相手は男の発言に対し一拍置いてから、慎重な声で応答する。
『はい、感度良好。手筈通り、「厩舎」にて待機しています』
「よし。悪いが作戦開始が早まった」
『何か問題が?』
「いたずらっ子のお客様が2人、ターゲットに近づいてしまっているようだ」
『……まさか、学生ですか?』
「そうだ。二人組の少女。両手に花というわけだ」
白髪の男は通話先の相手・カリバー1をからかうように笑んでみせる。
が、届かない。この通信は必要時でないかぎり、音声のみを送受信するものだ。
『……司令』
「ふざけているわけじゃない。言うまでもないが、どちらかの花を手折られた瞬間が我々の新たな敗北だ」
『変身許可は』
「即応できるよう、許可自体は出しておく。だが例のワイルドワンのこともある。まずは警戒がてらロードウィングを飛ばすといい」
『了解』
通話先から響く金属音と、それに次いで受信される鳥の鳴き声。
それらを合図にするように初老の男は事務的に「オーバー」とだけ呟き、通信を終了させた。
――再び、部室棟。
合唱部室のプレートを手にしていたはずの実音は、なぜかそれを取り落とし、
現実が信じられないかのような蒼白な顔で右手を前に――滅茶苦茶に荒らされた合唱部室の中へ突き出している。
「ど……どうしたの?」
何かが起こっている。
午前での終業、部室の崩壊、それらと繋がるであろう、何か得体の知れない恐ろしい出来事が。
実音が蓮の方を向いて何事か口にしようとしたその時、下に降りていた左手までもが跳ね上がるように前を向く。
「これ、何よ……なんか、蜘蛛の巣が……」
「蜘蛛?」
実音の言葉に、蓮は目を凝らした。実音が伸ばす腕、その手首。
何か白い靄のようなものが、そこにまとわり付いている。
それを認めた時、更に幾つかの靄が実音の腹部に絡まり付いた。
そして無数の靄が実音の足首に、太腿に襲いかかり――彼女の体を、合唱 部室の中へ引きずり込む!
「実音!みお!実音ッ!!」
暗闇の中、ライト代わりの携帯電話も取り落とし、
蓮は半ば泣き叫ぶように実音の名を呼ぶ。しかし返事はない。蓮は意を決し、破壊された入り口から合唱部室に飛び込んだ。
その先が地獄であっても、どんな怪物が潜んでいても。蓮は友達を失うことへの恐怖で、目の前の異常がもたらす恐怖を振りきった。
けれど、そこにあったのは、呆気無いほどに見慣れた顔。
「なんだ、水鏡も来ていたのか。言ってくれればよかったのに」
そこにいたのは、見知った眼鏡の男。毎日顔を合わせて、明日からもそうあるはずの、大切な日常の一部。
「――きむら、せんせい」
「どうして」
「先生は学校にいるものだろう」
夏目実音は――蓮の友達は、もうひとつの日常の一部は木村のすぐ傍にいた。
木村に後ろから覆い被さられるように、乱暴に抱きすくめられている。
そしてその二人を、不気味な白い靄が包んでいる。両者を縛りつける鎖、あるいは木村の意思による、蜘蛛の節足のように。
蓮は不意に、お気に入りの恋愛映画――「ガラス越しのキス」のラストシーンを思い出した。
若くして老年の富豪に娶られたドレス姿の少女と、何の変哲もない学生の少年とが抱き合い、別れを惜しみ合うシーン。
けれど目の前にあるこれは、あの映画の――蓮の想い出の、質の悪いイミテーションだ。冒涜的なまでの。
「なあ、夏目は彼氏とかいるのかな? キスしたことは?」
まるで純な少年のような台詞を吐きながら、教師はシャツの中に手を差し入れ、乳房を乱暴に揉みしだく。
その手と白い靄とに挟まれて、実音は懸命にもがき、悲鳴を上げて抗う。蓮はその光景に、自分の存在そのものを陵辱されているように感じた。
しかし実音が相手を押しのけるべく突っ張られる手も、踏みつけ蹴り飛ばそうとする脚も、
まるで見えない水の中で溺れているかのように力を失っていく。
そして、代わりに彼女を包む靄が、だんだんと白い色を得ていく。
「なるほど、そうか、こういうことか……」
それは蓮の気のせいなのか。
白く染まる靄と呼応するように、実音を弄ぶ木村の顔にも歓喜の色と血色が満ちていく。
「いい。すごくいい。まさに弱肉強食だ」
蓮は直感的に、実音の生命の危機を感じた。
実際、実音の体はだらりと四肢を垂れ下げており、その先が時折思い出したように動くのみで、今は殆どされるがままだ。
まるで何かを吸い取られているかのように。
「――やめて、ください」
どこをも見ず、自らの中しか見ていなかった木村の眼球がぎょろりと動き、その声に呼ばれたように蓮を射抜いた。
どろりと濁ったような瞳、麻薬中毒者のようにだらしなく垂れ下がった瞼。とても尋常の様子ではない。
目の前の男は無言だ。蓮は震える手を胸に当てながら、息を肺いっぱいに吸い込む。
それから自分の中の爆薬に、先程から胃の下あたりに溜まりきっていた怒りや勇気や恐れの混合物に、友を思う気持ちに火をつけた。
「――やめなさいッ!!」
あるいはその声が何かの引き金となったのか。
蓮の後方、合唱部室の窓が割れる破砕音。
その音と舞い散る硝子片とを追い抜くように、赤い輝晶質の物体が飛来する。
蛍火のようにぼんやりと赤く光る、刃物のような翼。尖鋭な嘴。――鳥だ。赤いクリスタルの鳥。
鳥は蓮を守ろうとするかのようにその周囲を旋回し、未だ彼女を睨めつける木村を牽制するように、窓ガラスを擦ったような声で哭いた。
「うるさい…!」
木村の足元からさらに白い靄が湧き出で、蓮もろとも鳥を黙らせようと鞭めいて襲いかかる。
赤い輝鳥はいっそう強い輝きをまといながら、その中に飛び込み――靄を掻い潜りながら、翼を男の顔へ叩き込む!
血飛沫が噴き上がり、木村は顔の左半分を押さえ、悲鳴を上げる。床に落ち、濡れたパンのように貼り付いた皮膚らしきものを蓮は見た。
悲鳴は嗚咽へと、怒りの咆哮へと代わり――赤い鳥は見えない腕に殴られたかのように、弾き飛ばされて壁へと激突した。
鳥は空中でもがきながら地に落ち、二、三度ぴくぴくと悶え、それから動かなくなった。
それから木村は、ゆっくりと蓮へと振り向いて向き直る。その眼は――まだ残っている片目は――血走り、狂気に彩られたかのようだ。
「お前か……お前か、これは!」
左半分を血に染め、怒りに満ちた男性教師の表情。それを認めた瞬間、蓮の視界が回転する。足を払われた。見えない何か。
仰向けに倒れた蓮の上に、地面を這う芋虫めいて白色がのしかかってくる。蓮は足払いの正体に気がついた。
靄だ。質量を持った靄。
靄は、あるいは不可視の手は蓮の身からトレンチコートを剥ぎ取り、不要なものだとばかりに投げ捨てる。
「やッ――!」
反射的にコートへ手を伸ばそうとする蓮を白い靄は床に組み伏せ、その主たる木村は実音の体を床に転がし、傷ついたコアの左半分を押さえながら蓮へと迫る。
「今のは実験だったが、今度は本番だ」
――その異常に、蓮は目を見張った。
いつからそうなっていたのだろうか。
顔を押さえる左手が、隠された左半分の顔が。白い靄を固化したような、白と銀のマーブル模様の金属質へと変わっている。
左手の金属質は袖全体を多い、二の腕の半ばからは服を突き破り、蜘蛛の節足のごとき硬質の爪と腕が生え出づる。
顔を覆う金属質は仮面のように顔面全体へ、そして頭部全体へ広がり、複数の目が蠢く毒虫めいた顔面を形作る。
「キメラ」
無意識に蓮の口をついて出たその単語に、木村――もはや蜘蛛の怪物だ――は狂気のスイッチを押されたかのように笑い出す。
「ああ!そう、そうだ。都市伝説の怪物!それが私、いや、僕……!」
蜘蛛男は高らかに笑いながら、踊るように蓮へと進み来る。
無遠慮にその靴が、あるいはそれに爪と甲殻が付加された片足が、床に落ちたトレンチコートの上に踏み降ろされそうになった時――
一振りの槍が、その直前に突き刺さった。
蓮のトレンチコートの傍に。まるでその持ち主が、蓮を護る者であることを象徴するかのように。
室外の階段から、強い足音が響く。
踏み降りる階段の一段一段に、持て余した感情をぶつけているかのように。
「そううまくはいかない」
崩壊した入り口から垣間見えるのは、重々しく語る声の主の姿。
それが窓から差し込む月明かりに照らされて、下半身から次第に顕になってゆく。
視界に入ったその容貌に、特に黒いジャケットと赤いパーカーに包まれたその体のさまに、蓮は目を見張った。
死装束よりも白い、死の色に満ち満ちた白髪。
額の前部を覆う白髪を左右から突き破る、赤い二本角。
鈍い緑色に輝く瞳。
鼻から下を覆面のように隠すギザギザ模様のマフラーは、まるで牙をむき出しにした鬼の顎。
そして、最も異質なのはその右腕だ。
銀色の金属と、染みわたる返り血のようにそれを彩る真紅の装甲が、獰猛なガントレットじみて肘から下を覆っている。
刃のように鋭利な爪、棘の如き悪意を生やした赤き装甲。そして手の甲の部分に脈打つ、緑色の光。
階段を下りきり、壊された合唱部室の入り口に立つ、それは。
蓮が見たそれは鬼だった。
鬼は倒れる実音を抱えて無造作に蓮の方へと転がし、コートの傍へ突き刺さった槍を引き抜き、蜘蛛男と対峙する。
よく見れば鬼が携えるそれは槍ではなく、どこのホームセンターにも置いて有りそうなスコップだ。
「勉強になったよ。こういうのは実際に見るとドン引くな」
戯れるようにそう言いながら、鬼はスコップを上段に構える。その刃先は 油断なくクモ男の喉元へと向けられている。
「……あの玩具はお前の仕業か」
蜘蛛男が壁際の鳥を顎で指すが、鬼はそれに答えない。代わりに蓮目掛けて右手のメッセンジャーバッグを投げた。
「なんでもいいから中身を食わせろ。運が良ければ助かる」
助かる、という言葉から蓮は察する。実音のことだ。
「その子は命みたいなものを吸われた。食わせるのが一番早い」
蓮はバッグの中からどこか見覚えのあるゼリー飲料を取り出し、半開きになっている実音の口にあてがう。
幸いにも意識はあったようで、実音はチューブ状容器の口に赤ん坊じみて吸い付き、中身を嚥下していく。蓮は心中で胸を撫で下ろした。
鬼も蓮と同じく安堵したか、もしくは呆れたように息を吐き出し、対峙する蜘蛛男を睨みつける。
「さあ――」
鬼は構えを解き、あたかも決闘を申し込む騎士のように、スコップの刃先を蜘蛛男の喉元へと突きつけた。
「俺の地獄に付き合ってもらう」
言い終わるなり、鬼は床を蹴り壊す勢いで跳躍!蜘蛛男の脳天目掛けてスコップを斧じみて振り下ろす!
甲高い金属音が響き、火花が散る。スコップをすんでのところで受け止めるのは、蜘蛛男の左半身が生やした怪腕だ。
そして――
「ぐ、うッ!?」
鬼の腹部に衝撃が走る。
鬼は体をくの字に折り曲げて苦悶の声を上げ、さらに時代劇の切られ役めいて、ひとりでに地面へその身を押し付けた。
蓮の目に映るのは、鬼の体へ粘土のように覆い被さる白い靄だ。
鬼は未だ靄に押さえられぬ床と体との隙間を使い、必死に抜け出ようとするが、動くたび、もがくたびにその隙間さえもが靄に満たされていく。
「いい格好だな」
這いつくばらされて身動きのとれない鬼に向かって蜘蛛男は悠然と近寄り、その頭にサッカー選手めいた蹴りを入れた。
鬼の首が不気味に回転する。口内が切れたのか、その口から赤黒い血液が漏れる。
「怖がらせやがって!」
さらに、もう一発。
「雑魚じゃないか!」
何発も、何発も。
「カスめ!」
更にもう一発。ぐったりとして動かない鬼の顔には痛々しい痣が浮かび始めていた。蜘蛛男はその様を見て満足気に微笑む。
そして、その背中に――
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
突き立てられたのは、蜘蛛の足めいた怪腕の爪。噴き出るのは、鬼の角と同色の鮮血。
筋繊維を千切り、内臓を掻き回すように、蜘蛛男の悪意が鬼を苛み始める。
鬼が時折弾かれたように首を持ち上げるのは彼の意思ではなく、痛みによる反射運動だ。
背の傷より漏れでた血液は血溜まりとなり、鬼の苦悶の声が上がるたび、白い床を赤に染めながら広がっていく。
眼前で繰り広げられる凄惨なる光景に、蓮は気が遠くなってゆくのを他人ごとのように感じていた。
しかし。
「……おい」
満身創痍、今や肉の玩具にされていたかと思われた鬼が、か細い声で抗った。
蜘蛛男は弾かれるように飛び退いた。本能的に危険を察知したかのように。
「調子に、乗んなよ……」
声は強まる。彼の右腕に灯る翠色の光が形を得て、蛍火となるように。
そして今、蛍火が鬼の血溜まりに燃え移り、白い靄を覆い尽くし焼き払う、業火となっていくように――!
靄を焼き払う、翠の焔。
鬼はふらつきながら立ち上がり、未だ部屋の端々に浮かぶ靄を憎々しげに見回す。
鬼は目を閉じ、その喉の底から唸り声を絞り出す。
「アアアアアア……」
右腕を翠炎が包み、次いでその全身も焔をまとう。
「アアアアアアアアアアアアッ!!」
鬼が咆哮する。焔が吹き荒れる。
教室じゅうに浮かんでいた靄が、そして蜘蛛男の全身が、翠の業火に包まれる――!
目の前に広がる火炎地獄に蓮は思わず身を強張らせ、自分と倒れる実音とを守ろうと、その身を抱きかかえようとした。
しかし、そこで彼女は違和感に気づく。
(熱く、ない……?)
鬼は吼え猛り、焔に包まれた蜘蛛男は両目と腹を押さえてくずおれる。それを彩るのは部屋全体を満たす翠の獄炎だ。
しかし、その焔は蓮たちを襲わない。あたたかな熱が伝わる程度で、焔の温度を感じさせない。
まるで彼女たちだけが別の世界にいるかのように、その地獄は2人を拒絶していた。
鬼が吼え終わるにしたがって、焔が少しずつ沈静化してゆく。蜘蛛男は床に手をついて立ち上がり、目の前の油断ならぬ怪物に相対する
「言ったろ、そううまくはいかないってよ」
鬼は口元の血を拭い、素手で構えた獰猛な右手の甲を相手に向け、挑発的な手招きの仕草を決める。
「どうだろうな?」
蜘蛛男が蓮を一瞥した次の瞬間、蜘蛛男の怪腕が、蓮目掛けて鞭めいて襲いかかる!
「糞ッ!」
鬼はスコップを拾って跳躍、木製の柄と己の体を蓮と怪腕の間にねじ込んで盾とする。スコップの柄は中途から折れ、鬼の覆面が破られる。
背中から着地して傷の痛みに悶える鬼を尻目に、蜘蛛男は割れた窓に手をかけていた。
「はなから逃げるのが…!」
「じゃあな」
蜘蛛男は窓から脱出し、闇に飲まれるようにその姿を消してしまう。
「待てッ!ああ……くそ!」
鬼は地面を殴りつけて悔しがり、すぐさま追いすがろうとした。
だが、蓮がそれを阻んだ。
正確には、蓮が無意識に呟いた言葉が。彼女の日常の一部になりかけていた名前が。
「――あきはら、さん?」
そう呼ばれて、鬼は凍りついたかのように動きを止める。
それは鬼ではなかった。
よく見れば、彼の面影がちゃんと残っていた。
白く染まりところどころが逆立ちながらも、やはり犬耳じみて垂れた髪型。
傷ついたライダースジャケットの下、赤いパーカー。
渡されたゼリー飲料。
――秋原、灯介。
蓮の依頼人。
喫茶店のアルバイト。
鬼はゆっくりと、震える手で顔の下半分に、覆面が外れて顕となった部分に両手を当てる。
それから怪訝な顔を作り、蓮に向き直って言った。
「人違いだ」
両手で鼻から下を隠したままの間抜けな姿でその場を繕おうとする鬼ではあったが、もう遅かった。
「いえ、あの、顔も声も、どう見ても灯介さん……」
その戦いは凄惨で、恐ろしい姿ではあったけれど、言わずにはいられなかった。
この身の毛もよだつ局面で会えたのが知っている人間だと、頼りにできる人だと確認したかった。
「ああ、もう……」
観念したのか、鬼は蓮に目線を合わせるように屈みこんで悪態をつく。
「そうだよ、俺だよ!悪いか!」
そうすると、その容貌がビデオの早送り、いや、巻き戻しじみて変わり始める。
白髪には根本から毛管現象じみて黒い色素が上り、角は砂の塊が風化するように掻き消えていき、
甲殻のような装甲に覆われていた右腕も、丸みを帯びながら肌色の皮膚へと戻る。
十秒もかからない短い変化のあと、そこにいたのは蓮が知っている姿そのままの秋原灯介だった。
鬼は――ほんの少し前までは確かに鬼だった秋原は、蓮を見つめるうちに何かに思い至ったのか、ばつの悪そうな顔を急に心配気な表情へと変える。
「……っていうか、俺のことはいい! 大丈夫かッ!? ケガは!? 酷いこと、されてないかッ!?」
先ほどの怪物を前にしての落ち着いた態度とは裏腹に、今の秋原は取り乱した様子で蓮の肩をつかみ、乱暴に揺すっている。
心配してくれていたのだろうか。昼間はあれほど素っ気なかった秋原が。
やはり、秋原は蓮の思っていた通りの人間だったのかもしれない。
恐怖で冷えきった胸が温まっていくような、帰るべき家の明かりを見つけたような感覚が、蓮の心を落ち着かせていった。
「は、はい……大丈夫。それより、秋原さんは?」
蓮が負ったのは擦り傷ぐらいなものだ。それよりも、鋭利な爪で背を抉られた秋原のほうが心配だ。
「見た目よりは軽いよ、大丈夫」
秋原は蓮の目を見つめながらそう答え、それから床に横たわる実音を一瞥した。
体力を著しく失った所に栄養を摂ったせいか実音はいつのまにか寝入って、うなされるような寝息を立てていた。
「素人判断だけど、たぶんあの子も大丈夫……さて」
秋原は蓮の目の前に人差し指を立て、囁くように静かな声で言った。
「いいか、俺はあいつを始末してくる。近くに公園あるだろ、まずは一人で逃げて、そこで合流しよう。そいつは俺が拾っていく」
蓮は素直に頷く。秋原は人差し指と中指を立てて、もう一つ言い添える。
「ヤツは多分駐車場の自分の車に向かった。公園方面に向かうなら、鉢合わせることもない」
それから三本指を立て、さらにもう一言。
「駐車場の車はあらかじめ壊しておいた。そう遠くには逃げられない」
秋原は立ち上がって蓮に背を向け、最後に呟いた。
「今だけでいい。俺を信じてくれ」
それから蜘蛛男が通った窓枠をくぐり、夜の闇へ消えた。
捻れた音が響く。
車が内燃機関の始動を拒む、行き詰まった音だけが響く。
キーを何度捻っても、車が返す答えは同じだ。
「くそ…!」
木村優作はたまらなくなってハンドルを殴りつけた。
クラクションが鳴り、思わず周囲を見回すが、鬼の姿はない。
この車が壊されていたのは、間違いなくあの男の仕業だ。
鬼のような角、悪魔じみた腕、おぞましい業火の男。
思い出し、思わず爪を噛む。
あの業火に焼かれた感覚ときたら、全身が痺れ、体じゅうから何もかもを絞り出されるかのようだった。
木村優作は教師だ。
教師であり、それ以上になることを、『彼』から許されたはずだった。
近隣の学生や若者を見初め、瑞々しい肉体から若い生命を吸い上げるあの快感を許された、絶対的上位たる存在の筈だった。
それが、昨日の襲撃――自分の学校の生徒に手を出したことをきっかけに、得体の知れない男によって追い詰められたことで、全てが逆転してしまった。
数時間前、あの銀髪の男に受けた警告は遅すぎた。
お前はやりすぎた、身を隠せ、と。
だが、能力を使ってこの局面を切り抜けるには、木村は昨晩の戦いで疲弊しすぎていた。そして今も。
夏目実音から吸った生命の力は、もはや八割方を使い果たしてしまった。
あの鬼は恐らく、いや、間違いなく木村を追跡してくる。一刻も早い補給が必要だ。
――そこまで考えたところで、木村は思考を打ち切り、邪悪な笑みを浮かべた。
この時間帯、この区域で――駐車場の先、歩道を無防備に歩く獲物がいたのだ。
それは黒い髪の、どこか大型犬のような印象の青年だった。
人間の姿に戻っていたのであろうその男は、肉を見つけた捕食者の笑みを浮かべて車から降りた。承知の上だ。
秋原灯介はツツジの垣根を飛び越え、学内の駐車場へと着地する。
それを見て、対する捕食者の笑みが敵意のそれへと変わった。
――上等だ。秋原は心中で牙を剥いた。
狩る側がどちらで、狩られる側がどちらか。それを思い知らせてやる。
秋原灯介は狩るべき敵を一分の隙もなく見据え、狩人の呪言を唱える。
「業火錬銀……!」
――そして、ふたたび、鬼が来る!
その黒髪は死に染められていくかのように色素を奪われて白髪へと変わり、
額の左右からはそれぞれ異なる黒い刻印をなされた二本の赤角が屹立する。
黒い闇に満たされていたその瞳は、魂を取り戻したかのように翠の輝きを宿す。
そして、右腕。右腕を構成する細胞の一つ一つが赤と銀の金属へと変わり、その指先から肘までは獰猛なる赤銀の金属に覆われる。
それらが秋原の右肘から先に形成するのは、爪と刺と刃による悪魔の手。破壊の腕。獰猛なるガントレットだ。
「――さァて」
両者の距離は15メートル程か。鬼はその口を笑みのカタチに歪め、一歩一歩をゆっくりと刻むような足取りで進む。
変じた蜘蛛男は顕になった顔の半分を蒼白に染めて後ずさり、そして何かに思い至り、熱に浮かされたかのように呟いた。
「そうか。そういうことか……お前も、お前も同じ……!」
鬼に気圧される蜘蛛男の背中は車にぶつかり、それ以上の後退を阻まれる。
「見りゃわかるだろ」
残り10メートル。吐き捨てた鬼は腰を落とし、蜘蛛男めがけて右手を構えた。
「そうか……残念だったな。ようやく仲間が見つかったのに」
「俺も自分と似たような奴を殺したくはなかったよ」
秋原の心に、哀しみに似た何かがよぎった。
だがそれは、眼前の怪物の狂笑によってすぐさま打ち消される。
「勘違いしていないか?」
「――あ?」
「仲間を失うのは私の方だ」
そして秋原は気づく。
蜘蛛男が左半身に備えていた怪腕。それが見当たらない。
否、目を凝らせばそこにある。蜘蛛男が背にする車体の下に、まるで梃子の棒めいて。
秋原の全身から血の気が引いていく。
「私の勝ちだァッ!」
蜘蛛男が車の下に差し入れていた幾本もの怪腕が、その鉄塊を抱えて主の背中越しに投げつけた!
「死ねェェェェッ!!!」
そしてミシンの針めいて鉄塊を突き刺す怪腕!車体に穿たれる無数の穴!
貫かれたタンクからガソリンが漏れ出で、怪腕と車体が放つ火花に引火する!
秋原の視界が白いハレーションに染まった。
その一瞬を以って、木村優作は勝利に酔い、生存の喜びを噛み締めた。
奇妙なことではあったが、彼はこの喜びに心から感謝した。
これまで若き果実たちを蹂躙し、その生命を奪ってきたことを反省し、人生を改める考えさえ産まれたのだ。
だが。
それが現実化したとして。その身勝手な贖罪を、果たして認めるものがいただろうか。
――鬼は、来た。
焔をまとい、荒れ狂う火炎地獄をその背に。
投げつけられた鉄塊を飛び越え、焔の中を突き抜けて、鬼は木村優作を殺さんと襲い来た。
振り上げられたその爪は、燃え盛る焔を背にしてなお、それを塗りつぶすほどの翠光に輝いた。
殺意に燃えるその眼が、木村優作に、彼の根本にある絶望的な何か――『死』の原風景のようなものを思い起こさせ、自らの行く末を納得させた。
ああ、なんのことはない。
この男は最初から地獄にいたのだ。
地獄から来たものを、生きているものが殺せるはずがない。
だから、鬼は最初に言ったのではないか。俺の地獄に付き合ってもらう、と。
――おまえも地獄に引きずり込んでやる、と。
そして爪は蜘蛛男の、木村優作の身体を袈裟懸けに引き裂き、その輝きが砕かれる。
白い靄が、金属質の異形が爆散し、木村優作の意識もまた、眼前に広がる焔の中に飲み込まれるように消失した。
――びちゃり、と。噴き出た血液が鬼の横顔を赤く染め、間をおかず翠の焔となってかき消える。
足元に倒れたのは、情けなくも気絶した元・怪物の体。
傷は浅くないが、すぐに死ぬほどでもないだろう。
秋原は鬼から人間の姿へと戻りながら、今しがた通り抜けた爆発を一瞥した。
翠の焔。それが鬼の姿とともに、秋原灯介に与えられた能力だ。
これはいかなる理屈か、秋原に襲いかかるエネルギーの猛威を軽減する。
爆発を通り抜けておきながらところどころに軽いやけどを負うだけで済んだのは、この翠炎を全身にまとっていたからだ。
試してはいないが、電気や暴風にも同様の効果があるのかもしれない。
そして、何よりも効果的なのが、得体の知れない超自然の力――すなわち、キメラと呼ばれる怪物や、その能力への防御。
ただ、これ単体を攻撃に使うことは極めて難しい。
先ほど役に立ったのは、あくまで目眩ましや不意打ちとしての部分が大きい。
この能力を攻撃として活用するには、物理的な衝撃と同時に用いる必要がある。
だからこそ秋原は、手に入りやすく攻撃力の高い武器として、スコップを選択したのだが…
(また買ってこなきゃあな……)
財布の中身を思い返し、かさみ続けるここ三週間の出費に頭を抱えたところで、遠くから響くサイレンが秋原の耳に届いた。
おそらくはこの爆発を察知してきたのだろう。
秋原はひとつだけ野暮用を済ませてから、踵を返して待ち合わせの場へと向かった。
街灯の下、ベンチに腰掛ける蓮の頭の中では、今しがた眼にしたものがぐるぐると回り続けていた。
担任教師が変じた怪物。
そして同じく、鬼へと変わった蓮の依頼人。
教師である木村も、喫茶店のアルバイトである秋原も、蓮の日常の一部に違いなかった。
それが、ああも簡単に逆転してしまった。
今までずっと変わらないと、けして揺らがないと思っていた日常という地盤が、急に揺らぎ始めたかのようだ。
「――にいさん」
髪飾りに触れながら、頼るべき人の名前を呼ぶけれど、不安はどこにも消えてくれなかった。
その代わり、缶コーヒーが目の前に現れた。
顔を上げると、そこには実音を背負いながら缶コーヒーを差し出す秋原灯介の姿。
「ほら、あったかいものどうぞ、ッってな」
「はぁ、あったかいものどうも…」
秋原の手から受け取った缶飲料は暖かく、その熱は冷えきった手と心に有難かった。
「こいつ、胸デカイよな……」
秋原は忌々しげにそう言いながら蓮の隣に実音を寝かせ、自分はベンチから離れた街灯に背をもたれて陣取った。
「実際、何から話したもんかな」
秋原は暗闇に目をやりながら、言葉を探すようにしばしコーヒーを飲んだ。そして口を開いた。
「ドクトルにはああ言ったけど、キメラの噂ってのは、たぶんマジだ」
「自分たちがキメラです、なんて言われたことはないけどな」
秋原の口調は、前にも同じことがあったかのようだ。
これまでも、戦っていたのだろうか。蓮の知らないところで。誰かを守るために。
「灯介さんがこの街に来たのは、あの人達と戦うために?」
「違う、違う。あんなヤバイ連中がいるなんて知らなかったよ」
秋原は慌てたように蓮へと向き直って、そして自分の滑稽さに気が付いたように苦笑する。
「でもさ、今回はホントに危なかったんだぜ? 俺が元々行く気だったからいいようなものの、少しでも遅かったら何されてたかわかんないんだから」
言い終えて、秋原はコーヒーの缶を振る。水音を聞いて、残りを一気に飲み干した。
「まあ、こんなのを聞いたところで、何ができるってわけでもないんだけど」
「危ない目には遭わないでくれ。頼む」
秋原は蓮に目を合わせることなく、暗闇に向かって、蓮以外の誰かに呼び かけるようにそう言った。
語り終えた秋原は街灯から離れ、そして振り返ってもう一言付け加えた。
「たとえ怪我ですんでも、帰ってきたお兄さんはきっと悲しむ」
秋原はそう言いながらほんの一瞬だけ蓮を見て、また視線を虚空に返した。優しげな目だった。
「家まで送るよ。もしくは、サクラさんとこ」
――この日、蓮は色々な秋原灯介を目にした。
ぶっきらぼうで、自分を見せない喫茶店の秋原。
人間ならざる姿に変わり、理性が消え去って猛獣になったかのように戦う秋原。
かと思えば人の姿で、蓮をぎこちなくも本気で心配してくれた秋原。
果たして、どの秋原が本物なのか――秋原灯介がどんな人間なのか、これまでの水鏡蓮にはわからなかったし、今日になって謎が増え、増々わからなくなった。
けれど、それでも秋原灯介について、、また明らかになったことがひとつだけある。
それは、彼が蓮を助けに来てくれたことだ。
「――秋原さん」
蓮の言葉に、秋原は街灯の光と影との境目で歩を止める。
「――わたし、正直言うとちょっと怖かったんです」
キメラの噂を聞くたび、蓮の胸は痛んだ。
「兄さんがいなくなって、怖い噂が流れ始めて」
ひとりでいる不安に。家族を失う恐怖に。
「本当は、兄さんはもういなくなってて、もう戻ってこないんじゃないかって」
――けれど。
「でも、兄さんは大丈夫だって、信じてみようって思えるようになったんです」
秋原灯介が現れた。
蓮を不安にしていた噂を。それが真実になって現れた怪物を。秋原が退け、助けてくれた。
「秋原さんが来てくれたから。助けてくれたから。だから、兄さんもわたしと同じように大丈夫だって」
秋原は立ち止まったまま、黙って蓮の言葉を背中で聞いていた。
「助けてくれる、ヒーローがきっといるから」
気のせいだろうか。蓮には一瞬、秋原が震えたように見えた。
けれど、いや、だからこそ。蓮は秋原に言うべきことを、自分の中に芽生えたあたたかな気持ちを届けようと、その言葉を口にした。
「だから、秋原さん。助けてくれて、本当にありがとう……!」
秋原の背が、また震えた。
秋原はゆっくりと息を吸い、そしてまた一度に、溜息のように吐き出した。
「……ゴメンな」
口を開いたその声は落ち着いていた。けれど、なぜ謝るのだろう。
蓮は一瞬、秋原が泣いているのかと錯覚した。
「……俺はさ。キミが思ってるような、ヒーローなんかじゃ……絶対に、ないんだ」
それは勘違いだった。
彼は振り向き、蓮に向けて笑いかけたのだから。
ただ、それは。その笑みは。
毒に、あるいは病に。逃れようのない哀しみに侵された花が、最後に咲かせる儚い一輪のような。
そんな、寂しすぎる笑顔だった。
――あるいは。この言葉が、すべてを決定づけたのかもしれない。
「――そうね」
闇を切り裂くように、凛とした女の声が響いた。
美しい声だと蓮は思った。大人らしい低さの中に、どこか少女のような純粋な響きが交じる声。
その声が合図にするように、がちゃり、と多重の機械音が響き、同時に蓮の視界が光に満ちた。
眩しさに瞼を閉じてもう一度開き、そしてようやく状況がわかる。
暗闇だと思っていた公園の各所にはサーチライトのような強烈な照明が設置されており、それらが総じて秋原を狙って照らしているのだ。
秋原は右手を目の前にかざし、照りつける光にじっと耐えている。
その秋原が、驚いたような声を漏らす。
「あんたは……!」
影の中から女が迫る。
腰まで届く淡桃色の長髪。猫の耳じみて髪飾りでまとめられた頭頂部は、どこか秋原の髪型と似ている。
年の頃も近いだろう。ただその容貌は、凡人を絵に描いたような秋原とは対極だと感じられるほど、凛として美しかった。
その手には音叉のような器具が握られている。女はその先を指ではじき、 震える音叉を秋原の眼前へと突きつけた。
音叉が奏でる音を蓮は知っていた。ハ長調ラ音だ。
「……アア゛ッ!」
音叉の音が響き始めて数瞬、秋原が突如をして悲鳴を上げて地面に膝をつき、頭を抱えて苦しみ出す。
その腕は赤銀の鎧の、頭は白髪と赤角の戦う姿と変わっていく。しかしこの変貌が秋原の意に反していることは明白だ。
まるで見えざる手を無理矢理に突っ込まれ、強制的に何かのスイッチを入れられたかのように、彼は人の姿を奪われていく。
「――やはり」
女は今や完全に鬼の姿へ変わった秋原を睨めつけながら音叉を腰のホルスターに戻し、そして上着の懐から手のひら大の円盤を取り出す。
「てめえ……ッ!」
苦しみながら吼える秋原に構わず、女は手にした円盤を突き出すように前方へと構え、そして唱えた。
「クロッシング!カリバーンッ!!」
その神秘的な誓言に呼応するように、円盤が輝き出す。
女の体が光に包まれて数瞬、そこにいたのは閃姫だった。
白銀の両刃剣をその手に、罪人を裁かんとする白銀の閃姫。
蓮は息を呑んだ。その装いの、尋常ならざる美しさに。
一見すると水着のようなアンダーウェアの女性的なフォルム。
アンダーウェアの上から彼女を防護する、一片の曇りもない鎧。
それは見るもの全てにその正しさを納得させる、聖性に満ちた佇まいだった。
閃姫は未だ苦しむ鬼の喉元へ剣を突きつけ、迷いのないその瞳で相手を射抜くかのように見据えて、高らかに宣言した。
「闇に潜み、人の営みを侵す邪悪なキメラ……わたしが砕くッ!!」
対峙する白銀の閃姫と、赤黒の殲鬼。
その光景を人知れず見守る、黒曜に光る烏がいた。
烏は主人の命でその光景を見守りながら、なおかつ己が見る景色をも主に届け続けている。
「――ほう?」
暗い部屋。
棚の上には用途不明の機械類や円盤状の記録メディアらしき物が置かれ、 中心にはタブレットPCを持ちながら歩きまわるこの部屋の主――白人の老紳士。
「誰かと思えば。中々面白くなってきた……」
カメラの向こうの秋原灯介は呆然と彼女を、眼前の戦姫を見つめている。
うつむき、そして黙りこみ、かと思えば突然肩を震わせて笑い出す。
「うふ、ふっふ…ふふふ…ははは、はぁっはっはっは!!!」
それは地獄の底から響いてくるような哄笑だった。
「そうか、そうだ、そうだよな……」
秋原は顔を上げた。
目の前の女を。
己を否定しに現れた正義を、まっすぐにその目で見据えて。
その問いで、世界すべてに呪いをかけるように。
「――――――どうせ、俺が悪いんだろ?」
今にして思えば、その言葉は神様の前で許しを請う人がするような、懺悔の祈りに近いものだったのかもしれない。
けれど、やはり、この時のわたしは、そんなことを思うほど秋原灯介を知らなかった。
そして今のわたしにも、彼がいなくなった今となってはもう解らないのだ。
――そう。わたしはまだ知らなかった。
この先に待ち受ける苦難を。彼らが負うことになる、数えきれないほどの傷を。
わたしはまだ知らなかった。
白銀の戦姫が背負った、正義という十字架の重さを。
わたしはまだ知らなかった。
赤い角の鬼の、その眼の闇を。
わたしたちはまだ知らない。
――それでもいつか灯る、ちいさな希望を。
第一話「御伽の街のフリークス」了