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第一話「御伽の街のフリークス」Aパート

PAGE#1『御伽の街のフリークス』


 教室の窓からに見えるのは、いつも通りのビル群と時計塔。

 そういえば、去年はもう少しビルの数が少なかったかな。

 背中まで伸びる黒の長髪を、薄緑のリボンと丸い紋章型の髪飾りで一本結びにしなおし、肩から下ろしてその少女――水鏡蓮は思い出す。

 この街――御伽市は、数年前からの再開発で急発展を遂げた街だ。

 元々はどこにでもあるような地方都市だったのが、誰やらという政治家の主導で駅前の再開発が始まったのをきっかけに、

企業の誘致や観光施設、ショッピングセンターなどの展開が波紋のように広がり、ちょっとした大都会という様相にまでなってしまった。

 蓮の想い出の中の御伽市は、今ではもうその面影が各所に飛び石めいて点在するのみだ。

 そうして、次に始まる三時間目を待ちながら回想にふけっていると、ブレザーの制服を来た少女が一人、蓮の机に近寄ってくる。

「ビル、いつの間にかだいぶ増えたよね」

 エサをねだる子犬のような人懐こい笑みを浮かべ、特徴的にハネた前髪を揺らしながら蓮に話しかけてくるセミロングの少女の名前は、夏目実音。蓮のクラスメイトで、小学生の頃からの友人だ。

 裏表なく快活な性格と愛嬌のある整った顔立ちで男女を問わない人気者で、背が低いながら起伏がはっきりしたそのスタイルは、同性の蓮でも時折ドキリとするほどだ。

「もうすぐ授業だよ、みお」

「それがさ、今日は早く終わるかもってハナシだよ」

 実音は訝しげな表情で首を傾げてみせる。

「え、どうして?」

「さーね。なんか先生たち、急に集まって会議してるんだよね」

 肩をすくめるジェスチャーの実音に言われて壁の時計を見てみると、すでに三時間目の開始時刻はとうに過ぎていた。

「どうしたんだろ――」

 口を開きかけた実音の代わり、教室前部の引き戸が勢いよく開けられる音がその問いに答えた。

「おっ、木村ちゃんだ……」

 実音は見慣れた担任の顔を認めるや、蓮の後ろ――窓際の一番後ろにさっと着席する。

「えーーと。急な話だが、今日は午前で終業になった」

 教師の話を吉報と受けてか凶報と受けてか、教室がやにわにざわつき始める。

「最近、ちょっと痩せてない?」

「静かにしなさいって」

 後ろから語りかけてくる実音を制して、蓮は教壇に向き直る。

 眼鏡をかけた体格のいい男性担任は、言われてみると確かにどこか肉が落ちて血色が悪くなっているように思えた。

「ちょっと、ウチの学校で事件があったとかで……詳細は言えないんだが、今日のところは、帰ってもらうことになった」

 期せずして学業から解放される幸運に、教室の各所から歓喜の声が上がる。

しかし蓮は眉根を寄せ、訝しんだ。

 木村先生の言い方はどこか不透明で、喉に何かがつかえたかのようだ。

事件。

 生徒に詳細を言えないような。

 それは、つまり。

 蓮の心臓が、少しずつ鼓動の数を増し始める。

(――だいじょうぶ)

 制服の胸元を握りしめ、自分に強く言い聞かせる。

 仮に「そう」であっても、きっと蓮には関係ないはずだ。

 歓喜の声と担任の語りに混じって、どこからともなく囁き声が響き、蓮の意志に関係なくその耳へと入り込む。

 ――行方不明。

 ――どこかで誰かが、いなくなる。

 ――都市伝説。

 ――――『キメラ』のしわざ。

 心臓に流れる折れた針のように、じわじわと胸を苛む言葉たち。

 蓮がそれらを胸の奥から消し去ることは、しばらくできそうになかった。



 帰り支度を整えていると、制服姿にひょいと鞄を担いだ実音が後ろからやってくる。

 冬の最中であっても余程のことがない限り上着を着ないのは、小学生の頃から変わらない。

「ね、今日もお店行くの?」

「うん。もう日課みたいなものだから。部活も中止だし」

 蓮と実音は合唱部に所属している。

 とはいえ、人数やタレント、部員間のコネクション等の理由から、どちらかと言えば看板の端に名を連ねるタイプ部員なのだが。

「さすがのブラコンだね、蓮は」

「違います」

 ぴしゃりと言って否定する。蓮は普通だ。自分を客観的に見ることはできている。

「でも普通、お兄ちゃんの服を直してまで着ますかなぁ」

 蓮がブレザーの上から羽織っているモスグリーンのトレンチコートは、兄が着古したものを蓮に合わせて女物らしく直したものだ。

 元は高級品であったことを伺わせるデザインに加えて作りがしっかりしていることもあり、蓮自身はとても気に入っている。

 蓮はほんの少しだけ自慢気に微笑んで、自らの仕立て直したコートの片裾を、ドレス姿の令嬢がそうするようにつまんでみせた。

「捨てるのが勿体ないしね。けっこう高かったんだよ、これ」

「ほう?」

 実音の顔が猫じゃらしを見つけた子猫のようにイタズラっぽく思った次の瞬間、実音の手が蓮の胸元に伸びて――そのまま抱きついて、顔を埋めてくる!

「おー、これはいい生地だ!ほれ!ほれほれ!」

「あっ、ちょっと!……やめてよ、もう!」

 軽く頭を叩いて肩を掴むと、抱きついてきた実音はあっけなく引き離せた。

「ゴメン、ゴメン……」

「もう、ホントに」

「なんか、元気注入したくなっちゃってさ」

 屈託のない笑顔でそう言われて、先程までのとらえどころのない不安が薄まっていることに気づく。

 実音なりの励ましだったのだということに気付いて、ほんの少しだけ元気が湧いた。

「方法が間違ってるよ」

ふたりで苦笑する。

「――でも、ありがとう」


 昼食時を前にして買い物客が数を減らした、どこかつかみどころのない空気の中。蓮たちが少し早めの「日課」に向かうのは、市街の中心部からは少し外れた商店街だ。

 駅周辺の繁華街のように若者向けの新興店舗が集まるエリアとは違い、この竜の木商店街に立ち並ぶのは再開発以前から街の人々に親しまれてきた、所謂「おなじみ」の店ばかりだ。

 かつての御伽市にあった落ち着いた空気と、緩やかな時間の流れが未だに残る時静域。

 それがこの竜の木商店街であり、蓮たちが向かう喫茶店『シンデレラ』が建つ場所だった。

 昼食と間食を買うためにベーカリーに寄って、それから数ブロック先の喫茶店へ向かう。

 蓮は道の所々に貼られているポスターから目を逸らしながら伏し目がちに歩き、そして顔を上げた。

 目に入るのは、レンガ造りを模したレトロな建物。

 一階部分は古道具屋を改修した喫茶店で、掲げる看板には流れるような字体で『喫茶 Cinderella』と書かれている。

 建物の袖から螺旋階段が伸びてつながる二階部分には、白地に黒の明朝体が印刷された袖看板。

 ――『如月探偵事務所』。蓮の兄が経営する探偵事務所だ。

 けれど今、肝心の探偵は不在だった。

 視線を下ろし、喫茶店のドアを押し開けると、店内に満ちていた暖気が蓮の頬を優しく撫でた。

 紅茶やコーヒーと、アンティーク趣味の机や椅子と、半ばインテリアとして置かれた古書類と、それからパンやケーキの焦げる臭いが天井のシーリングファンでかき混ぜられて、ゆっくりと降りてくる雑然とした空気。

 蓮は昔から、不思議とこの空気が好きだった。

 それから、この雑多な店内で和やかに過ごす馴染みの客達も。

「――しかし秋原、本当に怪物の仕業と思うかね?」

 椅子に腰掛け卓上のiPadを覗き込みながら話すのは、こめかみより上を思い切り良く剃られた禿頭に、黒いセルフレームの眼鏡をかけた老年の白人男性。

 ストライプのワイシャツと仕立ての良いスラックスの組み合わせは、まさに老紳士といった風情の格好だ。

 卓越しに彼と対するのは、赤い薄手のパーカーの上から黒いエプロンを纏い、眉間に皺を寄せながら画面を睨む青年。

「ドクトル先生に講釈申し上げるのもアレですけど。自作自演をネットに上げて構ってもらうってのが相場ですよ、こういうのは」

 その髪は申し訳程度に整ってはいるが、一部が犬耳じみたおかしな垂れ方をして、奇妙な残念さを醸し出している。

 タブレットPCを前にしてああだこうだと論じているうち、眼鏡の男性が新たな来店者に気づき、扉の方へ振り向いた。

「ああ――おかえり、蓮くん」

「いらっしゃいませ、ドクトル先生」

 客席のひとつに腰掛けていた馴染みの顔が、蓮の帰りを認めて柔和に微笑んだ。

 彼と知り合い、ドクトルという呼び名を知ってからもう八年になる。しかし蓮は、未だにこの老紳士の本名を知らない。

 職業は時計屋の修理工を自称しているのだが、ドクトルが仕事に励んでいる場面など見たことがない。謎の人物である。

 そもそも、修理工ならば『ドクトル』よりも「マイスター」が相応しいのでは、と思うのだが。

「ハカセー、私は?」

「ああ、実音くんもな」

 そして、朗らかに応ずるドクトルとは真逆にぶっきらぼうな顔の青年。

 彼もまた、軋む歯車のようなぎこちない声で、蓮を迎えた。

「……よお」

「うん、秋原さん」

――秋原灯介。

 蓮よりいくつか年上の、自称大学生だ。

 とある理由で三週間前――確か、クリスマスの頃だ――にこの街を訪れ、今は親戚の元に居候しながらこの店で働いている。

 それで大学生が務まるのかと蓮は疑問に思うのだが、本人曰く「単位が取れる程度には顔を出している」らしい。

 そんな秋原に対し、実音は警戒の視線を向けながら、じりじりと一定の距離を保っている。

 まるで人に慣れない小動物だ、と蓮は思う。実音には気さくなくせに変に人見知りなところがある。

「紅茶とフレンチトースト、だったっけ?」

 そんな実音の様子を知ってか知らずか、秋原は慣れた動きと手つきで壁際の一卓――蓮たちの指定席を整える。

「今日は自前で買ってきました」

「本当はダメなんだけどな」

 蓮が見せたベーカリーの紙袋を、秋原は店員らしからぬ怪訝な顔で睨む。けれど、それが否定を意味しないことを蓮は知っている。

「今、サクラさんいないけど、俺が淹れたのでもいいかな」

「うん」

「……お願いします」

 卓に冷水を置いてキッチンへ向かう秋原の背中を未だ睨む実音に、蓮はそれとなく問を投げかけた。

「秋原さんのこと、まだ苦手?」

「うーん……なんかあの人、何考えてるかわかんないトコない?」

 実音はキッチンで紅茶の準備を始める秋原に聞かれないように警戒しながら、声を潜めてそう答える。

 確かにそうだ、と蓮は心の中で頷いた。

 秋原灯介は、あまり笑わない。

 ポットに茶葉を計り入れるときも、店内を掃除している時も、時折街中ですれ違うときも、その顔はいつも眉根を寄せた仏頂面だ。

 あとはコーヒーを淹れ終わった時にほんの少し、思い出したように表情が緩む程度。

 そもそも出会ってもう2週間は経っているのに、秋原は未だに自分のことを名前以外に殆ど話そうとしない。

 まるで、本当に話すことが何もないようだと――秋原灯介という人間がそこにいないようだと蓮は思う。

 聞いてまともに答えてくれたのは、唯一この街に来た目的くらいだ。

 けれど。

「でも、悪い人じゃないから」

 秋原がこの街に来た目的を知っている蓮には、それだけは確かなことだ。

 蓮の脳裏に去来するのは、大雪に見舞われたクリスマスの日の景色。

 行き倒れていた黒い服の旅行者。

 『大事な人の、大事な用事』と、哀しげに笑う青年。

「だって――」

 思わず口を滑らせかけ、慌ててその口を抑えて噤む。

 この話は秘密なのだ。本来ならば、探偵と依頼人の間で交わされる守秘義務。そして今の蓮は探偵の代理だ。

「あ、いや、ほら、ドクトル先生とも仲がいいし!」

 代わりに、もう一つの材料で秋原を弁護する。

 理由としてはやはり無理があったのか、実音は心なしか怪訝な視線を蓮に向ける。

「ふーん……そういえば、さっきは何をお話してたんスか?」

「ん――ああ、これだよ」

 はじめから蓮たちの話に耳を傾けていたのか、ドクトルは卓上に載せていたiPadを蓮たちの卓まで持ってきてみせる。

 表示されているのは、インターネットブラウザ画面。

 内容は、ネット上や雑誌、新聞などから拝借した記事をまとめた体の――所謂「まとめサイト」だった。

「最近、君たち若者の間で、俗に『キメラ』と言われる都市伝説が流行っているらしいな」

 蓮は実音と顔を見合わせ、無言で頷き合う。

 それを認めたドクトルは学生に講義を行う教授のように人差し指を立ててみせ、早口気味に語り始めた。

「怪物じみた腕を持つ人間。空を飛ぶ人型の何か。はたまた、二本角の生えた鬼に出くわした話――など、など、形態は様々だが――」

「総合すると、『体の一部が人間ではない』怪物の目撃談、ということになる。「キメラ」と呼ばれるのは、おそらくこれが転じてだな」

「『SNSで構ってもらうための自作自演』というのが秋原説だが、それでは面白くない」

「私の調査によると、御伽市内でいくつか、正体不明の行方不明事件がな――」

『行方不明』。その単語がまるで背筋に差し入れられた氷でもあるかのように、蓮の身体に冷感が染み渡る。

 次いで、こころに不安がわだかまっていく。関係ないと――大丈夫だと、あたまでは解っているはずなのに。

 しかし、不安の滞留はそこで打ち切られた。

「――ドクトル」

 いつの間にかうつむいていた顔を上げると、銀色の盆にティーポットとカップを載せ、呆れたような顔でドクトルを見る秋原がそこに立っていた。

 ドクトルは言われてようやく思い至ったという様子で、言ってしまった言葉について詫びた。

「ああ、すまん。調子に乗りすぎた…」

「いえ」

 好きなことになると、ついつい話しすぎるのはこの老紳士のいつもの癖だ。

 決して悪気がないということは、蓮もよくわかっている。

「上で飲む?」

「うん」

 秋原が差し出した盆を受け取り、実音とともに二階の探偵事務所へ向かう。

 そうして紅茶を飲みながら夕方まで過ごすのが、いつもの蓮の日課だ。

 ――クリスマスの前に、兄が忽然と姿を消してからの。



「……すまんな。若者を前にすると、どうにも話しすぎてしまう。悪い癖だ」

「いいえ。俺もちょっと過敏になってました」

 蓮たちが二階へ上がるのを見届けた秋原は、ドクトルの手招きに応じて再びその卓の向かいに腰掛ける。

「考えてみれば君も依頼人。時彦の帰りを待っているのは蓮くんと同じだものな」

「つっても、俺の依頼ではないんですけどね」

 そう言いながら、秋原はエプロンのポケットから一枚の封筒を取り出した。

所々に血が滲みて、下手に扱えば今にも破れそうな封筒に記された宛名。秋原は、今一度その名を確かめるように指を這わせる。

 ――如月時彦。

 探偵。

 蓮の兄。

 ここで働き初めてから、その男に関する伝聞ばかりが少しずつ耳に入るけれど、彼は未だ秋原にとってまったく未知の人物だ。

「どういう人なんですか?蓮ちゃんのお兄さんって」

「そうだな」

 ドクトルは眼鏡を上げながら中空を見つめ、しばしの間、彼の想い出を反芻するように目を閉じる。

 話は長くなりそうだ。秋原はエプロンからお気に入りのゼリー飲料を取り出し、蓋を開けて少しだけ中身を吸った。

「まず、一言で言うなら――」

 語られるドクトルの言葉に、次第にピアノの音色が混じってゆく。二階の蓮が弾いているのだろう。

 秋原はその両方を――兄の物語と妹の思いを余さず聞き取れるように、落ち着いて耳を澄ませた。


 一言で言うなら、不思議な人だ。

 いつかの想い出を振り返りながら、蓮は白と黒と鍵盤の上に両手の指を躍らせる。

 そうして奏でられるのは、世界中のどの楽譜にも載らない曲。

 厳密に言えば、それは曲ですらない。頭に浮かぶ情景を音と繋げ、自由に並べて奏でていく――音に乗せて語られる、カタチを変えた蓮の想い出。

 蓮が如月時彦――義理の兄とはじめて出会ったのは、八年前の、ちょうど今頃だった。

 ちょうどその日は、蓮が習い事として修めていたピアノのコンクールだった。

 スノウコンクール。

 御伽市の冬が深まりきった時に開かれる、この街の名物音楽会。

 あの日の蓮は幸運にも、同じくピアノを習う同年代の子供達の中から会での奏者として選ばれて――そして、ちょっとした失敗をした。楽譜を1段、読み間違えたのだ。

 ざわめく客席の様子から自分のミスに気がついた幼い蓮は演奏を続けようとしたけれど、その時弾いた鍵盤の音は、もう音楽にはならなかった。

 演奏が終わり、音だけの拍手から追い立てられるように会場を抜け出して、蓮は近くの公園のベンチの上で泣きじゃくっていた。

 大好きだったのに。一生懸命に頑張ったのに、こんなことしかできなかった。

 今となってはむずがゆい話だけれど、あの頃の蓮にとって、ピアノは人生そのものだった。

 自分は将来ピアニストになり、皆を笑顔にして毎日を過ごす――子供特有の無邪気さで、本気でそう考えていたのだ。

 夢は敗れた。もう何も叶わない。何もできない。自己否定ばかりが胸の内を巡って、淀んで、そうして何もかもを嫌いになりかけた時。

 ――学ラン姿のその少年は、ひょっこりと蓮の目の前に現れた。

 まるでずっと昔から彼女を知っていたかのような気安さで、少年は蓮の隣に座り。

「どうしたの?」

 少年が何を言ったのか、何をしてくれたのか。細かなことは今の蓮の記憶に残っていない。


 ただ――隣りに座ったその少年が、楽しげに手品を始めたたことは覚えている。

 命を吹き込まれたかのように空を舞うトランプ、空手の中から咲き乱れる花々、地面に棒で書かれた文字を、かざすと入れ替える不思議なハンカチ。

「すごい…!」

 いつの間にか、涙も悔しさも泣き顔もウソのように吹き飛んで、蓮は自然と笑顔を取り戻していた。

「不思議、ほんとうに不思議!どうしてこんなことができるの!?」

「そりゃ、僕は魔法使いだからね」

 少年は得意気に腕組みをしてみせ、それから思いついたようにポケットに手を突っ込んで、円形のエンブレムを取り出す。

「最後にもうひとつ。すごいもの、見せようか」

 少年はエンブレムを上向きに構え、口の中で小さく何事かを呟く。

 すると、エンブレムの中から虹色の翼や羽や宝石の幻像が――光の影絵とでも言うべき、形を持った輝きが溢れ出す。

「わぁ……!」

 あの日の蓮は同じ輝きをその目に映しながら、この最後の手品にずっと目を奪われていた。

 ――これだけは、今にしてもタネがわからないけれど、それもやはり手品のひとつだったのだと思う。

 無邪気に微笑んだあの頃の蓮に少年は苦笑して、その頭をひと撫でした。

「蓮はいい子だね」

 少年はなぜか知らないはずの蓮の名を呼び、それからエンブレムに思いを込めるように握りしめて、蓮のちいさな手へそっと手渡した。

「あげるよ。お守りだ」

「えっ…!でも…その、いいの?」

 遠慮の言葉を口にしかける蓮の前に少年は人差し指を立てて、その言葉を遮った。

「ああ、いいんだよ。なぜかと言うとね……」

 そうして眼鏡の少年は立ち上がり、蓮にその手を差し出した。

「今日から僕は――どうやら、君のお兄ちゃんになるらしいから」

 そして如月時彦は、蓮が伸ばし返した手をやさしく握って、ぎこちなく――そして、どこか哀しげに微笑んだのだった。



 そして、演奏と言う名の回想が終わる。

 探偵事務所には不似合いなアップライトピアノの蓋をゆっくりと下ろし、それから腕木に薄く残る埃の跡に合わせて、丁寧にカバーを掛け戻す。

 ぱちぱちと遠慮がちに聞こえてくる拍手の源は、依頼人用のソファに腰掛けながら満足気な表情で微笑む実音だ。

「やっぱりいいなー、蓮のピアノ」

「お粗末さまでした」

「いやいや、お粗末じゃないって……」

 実音は蓮から視線を外し、しばし窓の外の夕暮れを見ていた。息を吸い、吐いて、そしてもう一度蓮を見た。真摯な目だった。

「……やっぱさ。スノウコンクール、出てみない?」

 その名前を聞くと、未だに胸がほんの少し締め付けられる。

 いろいろなものが複雑に絡み合って、蓮の心を縛っているからだ。

 失敗の記憶がもたらす痛み。

 未だ戻らない兄への心配。

 自分の実力への疑い。

 それらに圧し負けて――結局、合唱部員としての出演を辞退しようとしていること。

「蓮が昔、やらかしちゃって、それを気にしてるのはわかってる」

 実音の視線は蓮の眼だけでなく、その奥までもを見通していた。

 蓮を見透かすのではなく、そのまっすぐな視線にのせて、思いを伝えようとするように。

「時々さ。蓮がピアノ弾いてるのを聞いて、見て、思うんだ」

「この音や、この曲は、この時間は、あたしにとって大事なものだけど……そのうち、卒業して、大学に行くなりなんなりで、二人が離れたりしてさ」

「大人になっていったら、この『今』もいつか、『何でもないもの』になって、忘れちゃうんじゃないかって」

 実音はもう一度、外の夕暮れに視線を戻す。その先にあるのは、変わり続ける街の姿。まるで想い出をすり減らしていくかのように。

「だから。あたしは、この『今』を、ずっと覚えていられるような『想い出』にしたい」

「それって――きっと、今じゃないとできない、いや、違うな。今できる中でも、いちばん素敵なことなんじゃないかってと思うから」

 そう言い終わるとともに真剣だった表情は次第緩み始め、いつもの明るい夏目実音の顔に戻った。

「おねがい! 考えるだけ考えといて。受付締め切りまではまだ二週間あるし」

 蓮の目の前に手を合わせて、それから頭を下げ過ぎなくらいに下げる実音。

 その仕草にはどこか冗談めいた愛嬌が感じられたけれど、これが実音なりの真剣であることを蓮は知っている。

「――想い出、か」

 胸に去来するのは、いつかの同じコンクール。

 あの時過ごした時間は、今でもかけがえのない想い出となって、蓮の心を支えてくれている。

 同じような宝物が、もうひとつ出来るとするのなら。

「……わかった。考えとく」

「――ありがとう!それとさ……」

 顔を上げたその表情の笑顔にはどこか言い訳じみた緊張があった。蓮は一転して、頼みを聞くべきでない面倒事を予感した。

「もう一つだけ、お願い聞いてくれる?」


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