第七章 雪どけ
アイミーは息を白く、凍てついた空気を荒げながら、酒場へと駆け寄った。
長靴は水溜りを跳ねかすばかりで、雪化粧していた屋根も、周りと比べると異様なことに雪が落ちきっていた。
水だけが垂れて、または波紋をつくる。
軒先から吊る下がる看板を見やると、“Sleigh Bells”と白の下地に書かれていた水色の文字がふやけたようにどろどろに崩れてて、渇かないうちにペンキが流れたように下へと文字が這っていた。
アイミーはそんな酒場に驚きながらも、急いで樹造りの玄関を入っていった。
灯りがうっすらとしている。
扉を開けた瞬間に、熱気が飛び出る。
しかしそこまで熱くもない、ただ過ごすのに適した温度だった。
その空気がすでに酒場の中一体に広がっている。
席や乱雑に食器やグラス、スパイスの置かれた机の置くに、スノウ・マンの言う“ストーヴ”はあった。
この“ストーヴ”が、スノウ・マンを溶かしているのだから、アイミーは焦って急いだ。
カウンターに入って、下の棚から扱いやすそうな水汲みバケツを取り出す。
洗い場で水を汲み入れる。
間仕切りをくぐって“ストーヴ”へ向かうと、蓋を開けてバケツのを一気に放置入れた。
一斉に、水が上蒸気に変わる音と薪の火が鎮まる音が激しくあいまって、アイミーの眼の前が白く煙った。
それを終えると、バケツを放って、アイミーは二階へ向かった。
こちらに残った、スノウ・マンがいるはずである。
アイミーは階段を駆け上る。
しかし二階はがらんとして誰もいなかった。
しかし足元が妙に水で湿っていて、アイミーは悲しくなった。
「そうだ、エリーは、」
アイミーはエリーのことを思い出して見回した。
しかし、エリーは二階にもいなかった。
何か、エリーを心配するような口ぶりだったスノウ・マンを思い出して、アイミーは急に不安を覚えた。
アイミーは駆け回る。
机の下や、掃除用具入れの扉や荷物置きの扉を開けて探ったりしたが、見当たらない。焦って検討もつかずにアイミーは探すが、ふと屋外席のあることを思い出した。
するとアイミーはすぐに今までなかったようなその扉を見つけ、中へとくぐった。
現れた螺旋階段を、荒く駆け上がる。
「エリー、」
嫌な感覚を振り切って、アイミーは呟いた。
エリーはアイミーにとって、いつもイライラして、それをアイミーにいつもあてつけてくるような女の子だった。
冗談めかして仲の良さそうな会話をするわけでもないし、付き合いだってそんなに長くはない。
それでもエリーはクラスメイトで、アイミーは友だちだと思っていた。
エリーと会うと、アイミーはいつだって嫌な気持ちになるが、アイミーは彼女に消えて欲しくないのだと気付いていた。
スノウ・マンのように、いなくなって欲しくない。
ただそれだけだった。
アイミーは階段の終わりに扉を開いた。歪むような強さで、大きな音がする。
「エリーっ」
アイミーは思わず叫んだ。
屋外席の食卓の向こうに、エリーを見つけ出した。
エリーは小さく座る縮こまった姿で、ひっそりと膝を抱えていた。
アイミーは驚いた。
ここにも、もう雪が残っていない。
踏み出した先は水はけの良いフローリングデッキであったし、先に見られる食卓の上には何もなかった。
アイミーの大きな声に、エリーはさすがに気付いて目じりを向けて額を向けた。
「アイミー、」
エリーは、今にも消え入りそうなか細い声で呟いた。
エリーのそんな声を、アイミーは初めて聞いた。
エリーはこちらを見て、大きく眼を見開いていた。
エリーの頬は、蒼白だった。
それこそまさしく雪のようだと、アイミーは思った。
しかし雪溶けの中で、凍えているふうではなく、くちびるなんかはしっかりと真っ赤なのだ。
そんないつもと違う様子のエリーを見て、アイミーはますます不安になった。
アイミーは、エリーが雪になってしまって、溶けているように感じてしまった。
「エリー、」
アイミーは、もう一度大きく名前を呼んで駆け寄った。
食卓をすり抜けて、アイミーはエリーを抱きしめた。
「アイミー、」
エリーが、本当に驚いたという様子で呟いた。
「エリー、なんでこんなに冷たいの、どうしてこんなに湿っているの、」
抱きしめたエリーの身体は、凍っているように冷たく、身体が水で満たされているのではないかと言うくらい濡れていた。
それを感じて、アイミーはより一層力をこめて抱きしめた。
「溶けちゃいやだよ、エリー」
長靴を履いたチェノゥラと、長靴を履いたジェイムスは、そろって雪路を歩いていた。
手をつないで、外を散歩していた。
ジェイムスは、チェノゥラに言ったのだった。
自分が雪だるま(スノウ・マン)であることを、自分をつくったのは、チェノゥラ自身であることを、ジェイムスはその、お礼をしに来たということを。
しかしチェノゥラは、それを全部、自分を元気付けるための、少年の冗談だと思って、チェノゥラは笑って聞いていた。
二人は街を回っていた。
チェノゥラの思い馳せた街を、確かめて、回っていた。
チェノゥラは、もっと子どもだった頃のようにはしゃいで、雪の街に感動した。
やがて、自分を連れ出してくれた少年に、チェノゥラはひとつ、キスを上げた。
さらに加えてこう言った。
ルーベルトにも、あげなきゃね。
彼らの通った雪路に、小さな足跡が尾を引いた。
しかしふいに少年は、小さな声で呟いた。
「“スノウ・アリス”が愛された。ぼくよりずっと、愛された、」
そして数歩、家へ着き、チェノゥラはふっと振り返る。
そこに少年の姿はなく、雪と長靴がただあった。
ルーベルトの眼の前で、“スノウ・マン”が溶けて崩れてしまうと、下のが、うごめき始めた。
雪に半分くらい埋もれていた、青年たちが起き出したのだ。
それを見たルーベルトは驚いて、ショベルを握って身構えた。
それぞれ悪態をついて、汚い言葉を吐きながら、雪を払っていくと、すぐにルーベルトがいるのに気付いた。
「お前は、あのガキの仲間か、」
最後に立ち上がった、肌色のニット帽の青年が言って、ルーベルトを睨みつけた。
ルーベルトは、再び危機を感じていた。
今はアイミーも行ってしまい、エリーもいない。
少しばかり残っていたスノウ・マンも消えてしまった。
青年たちが迫り来るその時、ルーベルトの横に、ヒトが姿を現した。
ルーベルトは振り向くと、それは、あのペレット帽を被ったおじさんだった。
木箱もなく、背もぴんとして立っていたが、相変わらず口元は笑顔に歪んでいる。
「ああ、なんだよ、おじさん、」と、青年が威勢を張る。
するとおじさんは、突然ペレット帽を脱ぎ、続けて羽織っていたこげ茶のコートも袖を外した。
うちから出てきたのは、青い制服だった。
ペレット帽の内側から、さらに帽子を取り出してそれをおじさんは被り直した。
途端、口元が変わって引き締まった。
現れた眼はブラウンの、粛々としたものだった。
ルーベルトも、青年たちも、唖然とした。
内から現れたのは、街の規律を守る職務に就いたヒトだった。
おじさんはポケットから何か取り出して、口にくわえた。
勢い良く、大きく高い音が鳴る。
ホイッスルだった。
それとともにおじさんは青年たちをてのひらで指し示し、これまた大声で言った。
「きみたちを、交番まで連行する」
青年たちは、打ってかわって弾き出したように逃げ出すが、おじさんは手馴れた素早い動きで、すぐに青年たちを取り押さえてしまった。
「警官だったんだ、」
始終を呆然と見ていたルーベルトは、片頬を上げて呟いた。
三人はなんだか雪まみれになってしまったので、エリーの姉の家に向かっていった。
その間で、なんだかいつもどおりだと、ルーベルトは思っていた。
バスタブとシャワーを借りて、最後にルーベルトが浴びて出ると、張り出しの、窓が四つならんだ部屋で、二人は背中合わせにもたれあって、寝ていたのだった。
ルーベルトはそんな二人に驚いて、しかしそんな傍らで、朝までその家で、眠っていた。
結局、アイミーに対しての不満は、なんだか途中でどうでも良くなったか、もしくは、アイミーにお願いされたことで、仕事で繋がれて、自分はまたそれで満足したのかもしれないと、そう思った。
それはそれとして一方で、雪掻きの仕事を、まだ半分しか終わらせていなかったことを、少し不安にも思っていた。
明日は休日、学校もない。
しかし三人は夜更かししたせいで、眼を覚ましたのは翌日の昼ごろだった。
アイミーは眼を覚ますと、その時間に気付き、また、窓から漏れ出る光に驚いた。
「エリー、ルーベルト、もうこんな時間だよ、」
背中合わせに壁にもたれていたエリーを揺さぶり、起こした。
うっとうしそうな顔をして二人が起き始めた頃には、アイミーは外のことが気になって、階段を駆け下りていた。
家族が心配していないかも気にかかったが、外がどうなっているかが気にかかって仕方がなかった。
アイミーは息をすることも忘れて、玄関扉を開いた。
「あれ、何これ、」
強い陽ざしだった。
表通りは、いつもの表通りで、雪は溶けてしまっていた。
もはや湿ってすらいない。
屋根からも、すでに雪が落ちきっていて、残った雪は、陰にあるものや、端に寄せ集められたものくらいであった。陰に残るものも、足跡が絶えず、雪は押し固められて路地に張り付いていた。
昨夜のおもかげは、見渡す街にはどこにもなく、夢だったのではないかと、アイミーは思うほどだった。