第四章 ”シェフ”
ルーベルトの隣の家には、三階建ての家が建っている。
ここには、ルーベルトの、アイミーやエリーとも教室を同じくするクラスメイトが住んでいる。女の子で、名前をチェノゥラと言った。
学期の初めの方は来ていたのだが、最近はめっきり姿を見せない。彼女は、病弱なのだ。近頃はほとんど外に出ることもなく、よくチェノゥラの部屋のある三階の窓から、街を眺めているという。
ルーベルトも、たまに窓から顔を出す彼女を見かけては、目線で挨拶して、たまに眼が合うと、何事か言葉を交わしたりしていた。
木箱に付いた旅行タグには、そんなチェノゥラの家の住所が書かれていた。
住所を見ただけで、その家が分かるほど、ルーベルトはこの街のことを知っているわけはないが、”旅行タグ”を見た瞬間、それが自分の家の隣のことに気づいて、とても驚いた。
ルーベルトは三人兄弟の末っ子だ。
雑用や家事の手伝いと言えば、いつもたらい回しに自分まで回される。だからルーベルトは、手足を働かせるのに慣れている。
明るい家庭ではあった。親は顔も広く、よくホームパーティを庭で開いては楽しむのだ。
中兄はいじわるく、すでに大人び始めた長兄は、たびたび仲裁に入って調停する。父はおおらかで、母は厳しく優しい。
しかしその反面、家族は自分を、どこか疎かにする傾向がある。
自分の主張することが、家族に受け入れられることが少ないのだ。
そんなことがたびたびあると、家族は自分を疎かに扱っているのではないか、顔が広いだけに周りの人間ばかりに気がいってしまって、ルーベルトのことをあまり考えてくれていないのではないかと思ってしまうことがある。
だからルーベルトは、近頃になってよく黙るようになってしまった。
感情的になって泣きわめけば、兄弟にそのことを女々しいとなじられてからかわれる。意見を言っても、どうせなかったようなことになってしまう。それならば、話しても黙しても、何も変わらないと思いついたのだ。
一方で、ルーベルトは自分に回された仕事に、力を入れるようになっていた。仕事に、輝きにも似た喜びを見出せるようになっていた。
その理由はきっと、家族との一体感。自分がこの家族の一員であるということを、色濃く感じることができるからだと、ルーベルトはなんとなく感じていた。
もともと黙しやすいルーベルトには、友達が少ない。
繋がり、というのを、ルーベルトは感じる時がある。少ない繋がりの中で、それは手渡される瞬間だ。
触れ合うようで触れ合わず、また、触れ合う瞬間。
大げさな話をすれば、手渡された道具は使命やお願い。それを報いるために、ルーベルトはそれを握る。いつも鞄を握るのとは別に、それよりもしっかりと、ルーベルトは握る。
手渡された道具は、実際にはバケツだったり、スポンジとお皿だったりする。
そんな調子で、ルーベルトは今晩もスコップを握っていた。
そんな時ルーベルトは少しだけ、手渡された使命に燃えたりするものなのだ。
今晩の街は、まるで驚きの連続だった。
大きさから言って、自分しか履けない長靴を履いて雪掻きを始めたはいいものの、数少ない友達であるアイミーと出会ってからというもの、不良と戦ったりスノウ・マンと遭遇したり目まぐるしく、そしてとても信じられない異様な体験だった。
そして真夜中を駆ける木箱の届け先が、自分の隣の家であったことに、大きな興味を抱いていた。
アイミーにはそこへ行く、ということを叩いて示したのだが、伝わっただろうかとルーベルトは少し不安に思った。別にルーベルトは、アイミーに怒ったわけではなかった。
スノウ・マンが怪しいというようなことを言ったのをまるで否定されたのは、家族の中での自分を思い出し悲しかったが、そんな合図が少し曖昧になってしまったのは、少しアイミーにイラついたからである。
友達であるアイミーも、また自分の意見を聞いてくれないのかと、思ってしまった。
スノウ・マンは、少し、怪しいと、ルーベルトは思うのだ。
夜道を走るルーベルトは、未だ仕事をやりのける使命感でいた。スコップは重たくなる。寒い夜でも、身体は火照っていた。
ルーベルトは自分の家に辿り着く。
途中まで進んでいた面の雪掻きはうっすらまた積もった以外はそのままだった。家から灯りは消えている。鍵は郵便受けの下にあるので、閉め出される心配はないのだが、何かさみしさを感じた。
街の決まりで誰も外には出られないので、探すこともなく、先に家族も寝てしまうだろう。むしろ帰った時に怒られないかが、ルーベルトはだんだんと不安になって来た。
しかし仕事はまだ途中である。放り出すことはしない。
ルーベルトは隣の家に歩んだ。三階建ての屋根には勾配があり、裏部屋がありそうな白い家だった。
整然とアーチ型の窓がならんで講堂のようでもあった。雪のおかげで白さが増していた。むしろ白いと思っていた建物が、本当はそんなに白くないのだと気付かされるほどだ。
庭先にはヒマラヤスギやシマトネリコが植わって、広げた腕にたくさん雪を乗せていた。ふいに枝がしなって、雪が雪を打ち鳴らす。
ルーベルトはチェノゥラの屋敷を見上げた。
ふてきされたのもあったが、ここに来れば、あのペレッ帽を被ったおじさんに出会える気がした。
予想は外れて、足跡すらそこにはない。
あるいは、ここで待っていれば現れるだろうか。
そう思っていると、見上げた窓の端で、何か動いた気がした。灯りはともっていないが、それは三階の窓である。
彼女が起きているのかもしれないと思い、ルーベルトにいたずら心がくすぶった。
スコップを足下に、両手のひらで雪を掬う。
固めて球にすると、三階へ向かって勢いよく投げつけた。ルーベルトははしこさをそなえた少年だ。ルーベルトの狙い通り、球はアーチ窓に当たってはじけた。
窓を揺らす、控えめな音がして、雪に溶け消えていった。部屋のヒトしか気づかないような静かな音だ。すると窓に、チェノゥラの顔が映った。
ルーベルトはスコップを手に取ると、振った。
窓が両開きにされて開いた。
「ルーベルト、」
蒼白な顔がのぞいて、驚きをたたえた。
ブロンドよりも赤毛よりの髪が、衣服に巻き付いている。しかしまなざしは弱く、澄んだ声も小さく、今晩のような静けさでなければ、聞き取れないくらいだった。
「今晩は、チェノゥラ、」
ルーベルトは挨拶を投げた。
「こんな真夜中に、あなた何やっているの、」
「きみこそ、なんでまた起きているの、」
「質問を、質問で返すな、」
チェノゥラは叫んで、ルーベルトは口を噤むと、チェノゥラは笑った。
ルーベルトをじっとのぞき込んで、チェノゥラは細い声で言った。
「あなた、”長靴”を持っているのね、」
ルーベルトは黙って頷いた。
「今晩は、いい夜だわ。こんなに雪が積もった街、初めて」
乗り出すと、彼女の白い額を、街灯がほんのり下から照らした。
「寝ていたら、ふと眼が覚めたわ。寝ている時ってね一番音に敏感になるのよ。私はいつも眠っているふうだから、なおさらね。むしろだんだんと、音を感じるようになっているようなの。だから今日は、音がないことにびっくりしたの。音がないことが、逆に私の眼を開けさせたのね。静かだったわ。白の匂いがした。冷たい雨がすだれにかかって霧になって、私の部屋に漂っているようだった。それから、ずっと眺めていたの、」
チェノゥラは感動にも似たため息をした。ルーベルトにはそのため息が、幾らか鬱屈したように見えた。ルーベルトは考えて言った。
「ぼくの長靴を、貸してあげる。降りて来てよ」
「何を言ってるの、」
「外へ出て、歩き回りたいんだろう、」
するとチェノゥラは、幾分肩を竦めて言った。
「歩き回るも何も、今晩に限ったことぢゃないのよ、」
そんな自嘲するような動作の反面、チェノゥラの表情はまるで澄んでいた。
「私はもう、ずっと外に出てなんていないわ、」
ルーベルトは驚いた。
「ずっとって、どれくらい、」
「ずっとは、ずっとよ」
チェノゥラは曖昧にして、ずっと保った。チェノゥラは、うらやんでいるか、あきらめていた。それでも、やはり望んでいるのだろう。弱さの奥にあるような芯は、湿って燃えないマッチのようなものだった。
何せ彼女はほのめかした。雪の世界に憧れを。口を閉ざしかけて、ルーベルトは自分のことを話した。
「街にね、長靴を履いたおじさんがいた。腕に木箱を抱いてた。木箱に、旅行タグがついていた。旅行タグに、住所が書かれてた。この家の住所だった。
「うちにお荷物?」
「分からない、」
「おじさんは郵便屋さん?」
「分からない、」
「何それ、」
チェノゥラは笑う。ルーベルトは続けて言った。
「街には、スノウ・マンがいた。陽気に笑ってる。賑やかに散歩してる。そんな中で、おじさんは笑いながら、大事そうに木箱を抱えて走ってた。静かな街。誰もいない街。だけど寝息が聞こえる街。雪の街。真夜中の、明るい街。その中で、わざわざ届けようとした荷物、」
ルーベルトは、何故だかぎゅっとショベルの柄を握りしめた。
「ねえ、チェノゥラは、一体中身はなんだと思う、」
するとチェノゥラの弱く細いまなざしが少しだけ輝く。
「きっと届くよ、きみ宛に、」
「ルーベルト、今晩のあなたって、ちょっと違う。冗談が、上手なのね、」
「冗談ぢゃない、」
「そのスノウ・マンの中に、私が昔つくった子も、いるといいわ、」
チェノウラは手を翳した。
「楽しみにしてる、」
それを聞くと、ルーベルトも手を振って、走り出した。
みんなでごちそうさまを一度する。
した後も、残った食事何かをつついて会話は続いた。
エリーは楽しい会食、胸を躍らせ表情を緩ませ切っていた。
スノウ・マンたちはエリーを”お客さん”として歓迎してくれていた。
テーブルマナーが多少汚くても注意が飛ぶこともないし、日々のつまらないことで咎められることも、頭を抱えて悩ますこともない。
エリーが話せば、みんな愛想良く、そしてまるで未知の世界だというような具合で、興味深そうに聞き入ってくれる。
そんなふうにしていたので、たびたびエリーの独壇場になりもしたのだが、逆にスノウ・マンたちの話に耳を傾けることも、面白かった。
何せ彼らは、世界中を見て回ったような話をするのだ。そうなると同じように耳を傾けるのは、エリーの番だった。
裏から生え渡って枝を伸ばしていたエゴノキが、雪解け水をしたたらせた。
ふとエリーは、自分が肌寒さを感じていないことに気づいた。話すことに熱くなって、体温が上がったのかと思えば、触れてみた自分の頬は、冷たかった。
頬の冷たさが指やてのひらに移って、てのひらまで冷たくなっていくと、やがて手は冷たさを感じなくなった。
エリーは奇妙に感じた。自分の温度を感じる感覚が、狂ったように思った。
すると焦げ茶のマフラーをしたスノウ・マンが、そんなてのひらを見つめるエリーの様子を見つめていた。談笑の中視線を感じて、ぼんやりとエリーはスノウ・マンに眼を移した。スノウ・マンの眼は微笑んでいた。そのどこか不自然な眼に、エリーが疑念を感じた時、そのスノウ・マンが口を開いた。
「さて、この街の素晴らしい夜も溶けてきました。ディナーはここらで、お開きにしましょう。」
エリーが少しのさみしさを感じた時、焦げ茶マフラーのスノウ・マンは続けて言った。
「と、その前に、今夜の食卓の”シェフ”をご紹介いたします」
「”シェフ”?」
エリーは首を傾げて繰り返す。
食卓があるなら、それを用意したスノウ・マンも、必ずどこかにいるのいだ。
エリーはあまりにもおいしくてお皿に片鱗ひとつ残さずにたいらげてしまった。そのディナーをつくった”シェフ”がいるなら、ぜひ会ってお礼といかに雪の料理がおいしかったかを伝えたいとエリーは思った。
「さあ、どうぞこちらへ、ジェイムス、」
すると、階段のある扉が開いた。鈍く湿った音を立ててゆっくりと回っていこ、やがて奥から、ひとりのスノウ・マンが現れた。
オレンジ色のマフラーを、首に幾重にも暖かそうに巻きつけて、繊細で今にも折れてしまいそうな枝の腕には、赤色の手袋がはまっていた。
眼には碧色の硝子があり、果実の皮で、口がかたどられる。
エリーはまるでそのスノウ・マンをヒトにように思った。現実味がない中に、どこか現実味がある。
エリーが口を開くのを忘れていると、スノウ・マンの赤い唇が開かれた。
「今宵のディナーは、いかがだったでしょうか、」
きりりとした、小鹿のような敏捷さをそなえた少年の声だった。
またもスノウ・マンたちから、歓声が飛ぶ。感嘆や褒め称える言葉が投げ交わされた。間を取って、少年はお辞儀をする。最後に我に返ったエリーが、感想を述べた。
「とても、とてもおいしかったわ、ごちそうさま、どうも、ありがとう、」
ふと静まった雰囲気の中で、エリーの高い声が響いた。
律儀な、あるいはそれが儀礼なのか、少年は深いお辞儀を保っていた。
すると、スノウ・マンの頬の雪が、ぼちりと落ちた気がした。
エリーは眉をしかめた。身体の一部が、くずれたように見えたのだ。
少年が、お辞儀から直って、顔を上げた。
「この街での、数年に一度の“Sleigh Bells”での食卓も、もう終わりを迎えます」
少年はレストランのオーナーのように、腰元で手を広げて続ける。そんなスノウ・マンの様子に、エリーはさらに眼を疑って見入っていた。
頬に加えて額や頭、丸いお腹まで、次々に欠け落ちていく。
例えば、エリーは昔海へ行ったことがある。浜辺では、波が寄せては帰る。砂は渇き、あるいは水に近付くほど湿っていた。砂は海に洗われている。その幼い手で、エリーは山のような丘と、その上にお城をつくった。しかし、じょじょに潮が満ちていくと、丘や城が水に浸され始める。必死に崩されまいと堤防をつくったりするものだが、砂が湿って潤い、礎がプリンのようになっていくと、砂は丁度通りの桜が散るように、城はぼろぼろとこぼれ出して、ついには水の下に消えていった。
スノウ・マンはそんな砂のお城のように、表面がこぼれ落ちていく。
「“スノウ・アリス”」
スノウ・マンの唇が、艶を帯びて言葉を紡ぐ。
「こちらこそ、ありがとう」
“シェフ”のジェイムスは、こぼれそげ落ち、残った雪が、形をなしていく。
長い外套などの衣服をそのままに、スノウ・マンは見る間にヒトの形になる。
薄茶色の髪も現れて、ついにジェイムスは、ただひとりの少年となった。
「どうなっているの、」
眼の前で突然少年になったスノウ・マンに、エリーは心の底から不思議に思うしかなかった。
愕然とするエリーに、少年は碧色の眼で微笑みながら、もう一度お辞儀をした。
「スノウ・マンも、悪くないサ、」
ふとそう言って、オレンジマフラーに赤い手袋をしたジェイムスは踵を返した。
言葉の意味を計りかねたエリーは訝しみながらも、戻って階段を下っていくジェイムスを見つめていた。
ヒトへと、化けるように変貌したスノウ・マン。この夜、エリーはまたひとつ、街の秘密を見つけた。
「今のが、“シェフ”? 今のは、なんだったの、」
エリーは席のスノウ・マンたちに、呆けたふうに訊ねる。
「食卓の、“なりかわり”さ。食卓で、“スノウ・アリス”を喜ばせることができれば、スノウ・マンはヒトになることもできる」
司会を務めていたスノウ・マンが応えた。
「よく分からないわ、あなたたちって、」
「そう難しい顔をしないでいい、ほら、食卓を見てごらん」
促されて、席を立っていたエリーが見ると、また新しくお皿がならんでいる。
真ん中が溝になっているもので、粒になった球が大小様々に実って、白い姿を際立たせていた。
またそれが魅力的で、エリーは手を伸ばさずにはいられなかった。頬張って実に歯を立てると。これが果物のように弾け、果汁のかわりに雪の蜜が溢れ出た。
しかしそれで、また改めて自分の感覚の変化を思い出した。
ディナーを食べたとき、その冷たさに、凍てついたように味覚以外の、温感が、忘れ去られたようにマヒしたが、それがまた、未だに続いている。
周りのスノウ・マンも、実をとって口へ放り、また談笑を始めた。
果実を噛み締めながら、しかし噛み締めるたびに、エリーは眉をひそめていった。
甘さの反面、何か罪悪感にも似たうしろめたさと焦燥感を感じていた。
自分はここでこのまま食べていていいのかという疑問が、胸に警鐘を鳴らしていた。左隣の子が果実を頬張りながら、エリーに笑いかけた。
「楽しかったね、“スノウ・アリス”、」
エリーは、はっとして駆け出した。
驚いたスノウ・マンから声がかかるが、振り切って螺旋階段を下りた。
自分は自分で、エリーはエリーだ。
しかし今、エリーはそれが揺らいでいることに気付いた。
彼らにとってのエリーは、おそらくエリーではなくて、“スノウ・アリス”なのだ。
そこにどんな違いがあるのか、エリーにはよく分からないが、しかし知らないことこそ、彼らとの壁だった。
スノウ・マンが少年になり変わってしまうような場所で、ヒトとスノウ・マンとの違いが曖昧であったような食卓で、エリーと雪だるまとの壁は、そこにあった。
エリーはもっと、そこを早く疑って突き詰めるべきだった。
エリーはイライラした。
自分にイライラした。
焦燥感がそのままイライラになっていた。
階段の下に、自分が脱いで置いたはずの、エリーの長靴がなかった。エリーは驚いた。
「なんてこと、」
これでは、外に出られない。
エリーはそのまま一階へ下る。酒場には、誰もいない。
長靴が消えていることについて、エリーは察していた。
おそらく食卓の“シェフ”である、ジェイムスといったあの少年だ。
外へ続く玄関扉を、エリーは開いた。
新しい足跡が連なって、路地の奥へと続いていた。
「私の長靴を、履いていくなんて、」
エリーは紫の室内履きで、二階へと戻る。足取りが荒くなる。
エリーの長靴が盗られたことについて、文句を言いたくなった。
加えてジェイムスについてのことや、分からないこと全部を証言者に詰問するように問い質してやりたいと思った。
ティブルには、つくられた鈴がならんだり、繰り糸でくくられて連なったりしていた。
ふと壁にかけられた鏡に自分の姿が映って、端目に見やった。
眼に留まって、立ち止まって、じっと見た。
自分の頬は、こんなに白かったかと不思議に思った。