第二章 エリー
エリーは今晩もいらついていた。
何故かと言うに、今日も父と母が、家を空けているからだ。
母はツアーガイドの添乗員をやっていて、泊まりとなるとよく家を留守にする。
父も仕事の関係で出張し、同じようなものだった。
大抵が片方いないか、両方いない。
二人がそろっていることの方がまれである。
そんな時は、ひとりで生意気な妹の面倒を見て夜を過ごすか、一緒に少し離れたところにある姉の家へ行く。
エリーの姉ではなく、母の姉、つまりはおばさんである。
しかし、彼女は見た目も明るく気質も若々しいので、エリーは姉のように思っている。
しかし今日は、その姉も友人の結婚だとかで留守であった。妹も友達のお泊り会へ行っていない。
だから今晩は、余計にイライラしている。エリーはもうお姉ちゃんだから大丈夫と、子どもをひとりほったらかしにする親が信じられない。
エリーの部屋の窓からのぞける隣の家は、いつも家族そろって食事している。居心地良さそうに笑い合っている姿を眺めては、エリーは少し遠い眼をした。
それが毎日ないことが不満なのかどうかは、知らない。
たまに家族がそろうことで、自分は満足すればいいのだと思う。
それでも何かが満たされないのは、自分が家族に、放っておかれた夜を過ごさなくてはいけないからだ。
愛されているかどうか、そんな疑問はうちやっておく。
エリーはただきっと、そんな夜が気にくわないのだ。
エリーは内心いらいらしながら、アイミーとルーベルトを家に招き入れた。姉の家は、色使いの明るい装飾品で満たされている。二人が来て、何故だか少しだけ苛立ちが薄らいだ。
張り出しの部屋である。灯りを点けて、右から二番目の窓を思い切り開け放つと、気がすっと晴れた。路地や向かいの家に、白く雪が積もっている。cherry-(・)treeが寄り添うように、こちらに枝を伸ばして、雪を差し出していた。外気がつんとエリーの頬を撫でてゆくが、まるで拒むような感じではなかった。今晩の雪の街は、綺麗に澄んでいた。
「きれいだねえ」
隣の窓から、アイミーが同じように開け放って顔を出していた。エリーは左を向いて、明るい笑顔を街に向けて乗り出すアイミーを見た。そのまた向こうに、ルーベルトが無口に顔を出す。
「まあまあはしゃいぢゃって、子どもねえ」
エリーは意地の悪い笑顔を浮かべて、アイミーをからかった。
「エリーだって子どもぢゃないか」
むくれるアイミーの反論を無視して、エリーはカーテンのことを言った。
「そうだ、私、カーテンを掛けにいかなくちゃ。ここの寝室、寝室に、カーテンがなかったのよ、全く信じられないわ、カーテンなしに、一体どうやって寝ろって言うのよ」
「ふうん、あれ、ねえ、」
「今、何かそこを通ったような、」
「なに?」
「何か、白いものが」
「白い、もの、」
二人は何かはっとしたような顔をして見合わせた。
「なに、」
二人だけで理解しあったように見えて、エリーは訊ねた。
「ちょっとぼくたち、確かめに行ってくる!!」
声を張り上げて突然アイミーは木箱を取って階段の方に向かった。ルーベルトも頷いて続く。
「え、何よ、ちょっと、」
急に自分が、二人からのけものにされたように気になって、エリーは少し慌てた。
「ごめん、ここにずっといるのも悪いから、ぼくたち行ってくるよ」
「な、」
「お邪魔しました」
ルーベルトが律儀にお辞儀して、アイミーは元気良く手を振っていく。
「ありがとうね、エリー」
「ちょっと、待ちなさいっ」
帽子掛けに掛けておいたトレンチコートを引ったくって、玄関に向かった二人をエリーは追う。急いで着込みながら、舌打ちした。このまま二人とつるんで、今晩を過ごすつもりだったのだ。朝までではないにしろ、寝静まるまでは退屈をしのぐつもりだった。この家にいることを迷惑をかけるものだと思い込むアイミーの優しさが、エリーいらつかせる。
二人はまだ玄関で、長靴を履いて外に出るところだった。
「私も、行くわよ」
「危ないケド」
エリーはアイミーの背中に平手を打った。
「いつもいつも、何をそんなにいらいらしているのさ」
雪路を駆けながら、エリーはいらいらしていた。顔に出ていたらしく、アイミーに言われるが、いつもいつも顔に出している気はなかった。そんな愚鈍なアイミーの問いかけが、余計にエリーをいらつかせる。
「別に、何でもないわよ、」
「見て、」
ショベルを片手に、ルーベルトが指さした。cherryの樹から街の角へと、何か影が曲がるのが見えて、エリーは眉間をしかめた。確かに何かが動いていくのが見えた。
「あれは、誰なの、」
エリーは訊ねると、二人はそっと顔を見合わせた。またなのかと、エリーは思った。
「ふうん、私はのけものなんだ」
「ぼくたちもまだ、ちょっと疑ってるんだ」
「何を」
「それは、」
「行ってみれば分かる」
「あ、」
二人は駆けていく。エリーもそれを追う。「なんなのよ、」と心中で呟く。今度ははっきりしない二人にいらいらした。
角を幾つも曲がっていく。さっき二人と出会った十字路に出くわした。
「こっち。雪の中に消えてった。気がする」
「気が進まないなあ、こっちは」
「おじさんもいるかもしれない」
「そうだけどね」
十字路で立ち止まって、二人は話し合う。苛立つエリーは、二人の背を無理矢理押した。「はいはい、行きましょ」
大抵、路というのは奥まっていくほどに暗く、黒くなる。しかし、今通るこの路は、何か奥まっていくほどに白くなっていくようだった。
雪が舞い降りては重なり合う。空中で、路の奥へと焦点を伸ばせば、幾重にも幾重にも幾重にも重なって、重なり合うほどに白さが増していく、白さはやがて透視できる写幕のように垂れ下がる。空から伸びて、織り合わされたフランネルのように丁寧で優しく揺れて奥へ奥へと眼を奪われる。何かを映すのではなく、白さを映す。
白さが見たい、もっと白が見たい、白はこれほど魅力的だっただろうか。
こんな魅力的な白が、どこにあっただろうか。絵の具は白いだろうか、雲は、白鳥の羽、画用紙は、シャツの洗濯に使う漂白剤は、石灰の白は、石膏の白は、白亜の白は、どうだんつつじの星のような花は、ノースポールだって、こんなに白いだろうか。星はどう、分光器に透かす前の光は。
どんな銀幕よりも、興味をそそられた。奥へと続いているのが、まるで奇跡だ。今なら届く。
「エリー」
ふいにエリーは呼び止められた。
「ひとりでそんな進まないで、危ないよ、」
「え、あ、」
エリーはふと我に返って振り返った。追いついたアイミーが、エリーの腕を掴んでいた。
表情が追いつかずに、ぼうっとしてしまう。
「大丈夫? また不良たちがいるかもしれないから、気をつけて、」
「あ、うん、そうよね、」
「本当に大丈夫?」
エリーらしくない、とアイミーは言いたいのだろう。それを思うと、エリーは意識がはっきりしてきて、また苛立ちが沸き上がってきた。
「大丈夫って、言っているでしょう。ぼさぼさしないで、早く行きましょう」
エリーは長靴でずんずんと進んだ。二人はまた顔を見合わせていた。
家のうちからは灯りが消えていて、ところどころ雨戸や木戸が閉まったりしていた。街灯だけが、点々としてほんのり照らす。白が霞んでいる。さっきの感覚を、エリーは少しだけ忘れた。
やがて突き当たりが見えた。雪がちらつくほどになる。行き止まりは家となっている。その家の扉がふと開いて、閉じた。エリーも、二人も、それを目撃していた。何が入っていったかを見とめて、呆然とした。やがて三人で、目を丸くしながら顔を見合わせて呟いた。
「雪だるま、」
「見た、」
「見たよね、」
「見たわ、」
エリーたちはなんともなしに声をひそめていた。奥の家は、二階の上に屋根裏部屋と張り出しの屋上がついた、酒場になっていた。石畳から続く扉の横には、白い下地に水色の文字で”Sleigh Bells”と書かれた看板が吊る下がっていた。
「こんな看板、さっき吊る下がっていたっけ、」
近づくと、アイミーがぽつりと呟いた。三人は恐る恐る扉へと歩を進めていく。
エリーにしたところで、胸が早かった。だって、雪が動いていたのだ。
ずんぐりとしながら、赤のニット帽を被って、赤と緑の縞の襟巻を首元に巻いていた、二段のだるまだった。
酒場は窓から、ほんのりと灯りを漏らしていた。聞き耳を立てるのと、雑談の笑い声が聞こえてくる。ルーベルトは表情が少ないのだが、それにしたって強ばっているのが分かる。
「開けるよ、」
アイミーが先導して酒場の扉を開いた。
中はうっすらとした灯りに満ちていた。空気がひんやりとしている。
雑にならばった机やカウンター。そこに、大小様々な雪だるまがいた。みんなマフラーをしたりベイルを着込んだり、おしゃれなものばかりだった。
顔が整ったものや不格好なものもいる。いろんなもので形作られた顔は、まるで本物のヒトのように自然と調和しているように見えた。
樹の枝のあるものもいれば、ないものもいる。石ころの眼や硝子の眼、にんじんの鼻をしたもの。それもどれもこれもが、生き物のように動いている。
「おや、小さなお客さんだ」
話に興じていた一際大きなスノウ・マンが、エリーたち三人に気づいた。
「あら、かわいらしい、」
スノウ・マンたちがたびたび振り返って、三人を見やった。
「いらっしゃい、きみたちは。”招待客”かな」
いつのまにか隣に迫っていた、ピエロのような丸い赤鼻をしたスノウ・マンが問いかけた。
「”招待客”」
アイミーが反芻する。
「ええと、ぼくたち別に招かれたわけでは、」
ルーベルトが律儀に応じた。エリーはどうせだからはったりをきかせてやろうと思ったが、ピエロ鼻の背を伸ばしてのぞきこんでくるのが、顔と相まってとてもひょうきんなふうだったので、エリーは腰を据え損ねてしまった。
「いやいや持っていなくともこんな子どもを追い出すようなマネはしないよ。いや、そうでなくても、きみたちはちゃんと持っているようだね。カウンターへどうぞ」
何かホームパーティのような雰囲気だった。どん会話かというと、「また会えて嬉しいよ、石炭の」「お久しぶりね、にんじん鼻さん」「北国の方を回ってきたのですよ」「まあそれはよい旅で、うらやましい、私なにかは……」そこへ小さいのが跳ね回って(跳ね回るというよりも、引きずり回る感じだ)ちょっかいを出したりしている。
「あ、さっきの、」
入り口のところで見た、赤いニットを被って、赤と緑の縞のマフラーを巻いたスノウ・マンが丁度目の前を擦れ違う。
すると帽子を軽く取って紳士のようなお辞儀した。
「どうも、」
あ、さっきの、ではいささか失礼だったように思ったのか、アイミーはお辞儀し返した。
「どうも、」
「初めてかい? なら二階のカウンターに行くといい。きみたちなら、ドリンクをサービスしてくれるよ」
そしてスノウ・マンは帽子を被り直すと、奥の席へ向かっていった。
「二階だって、」
「行って見ましょう、」
階段を見つけ、アイミーは慣れない空気の中恐る恐る慎重に上っていく。ルーベルトもそわそわと続き、エリーはどしどしと我が家といったふうに、しかし好奇の目で、辺りを見回づことをやめられなかった。スノウ・マンが飲み交わしている。
“Ring”
二階に出ると、不思議な高く短く響く音が聞こえた。良く聞くと、それは鈴の音であった。
「調子調子、しゃんしゃんと、調子がいいとベルも鳴る。調子が悪いとベルも狂う。
そんな声が聞こえ、また“Ring”と鳴る。
二階には左手にカウンターがあり、その前に、大きな作業机が置かれていた。その傍らでは、ここでもスノウ・マンたちが談笑している。そこで、ひとりのこげ色の衣服に身を包んだスノウ・マンが、たくましい樹の枝の腕で、金槌を降り下ろしていた。
そのたびに、また鈴の音が響く。
“Ring”
ひやりとした冷たさを、感じさせる音だった。まるで雪の音だ。
なんだろうと、エリーは興味を抱いて向かっていった。
「何をしているの、」
「おやおや、これはこれは。鈴をつくっているんだよ。これは私の仕事なんだ」
「鈴づくりが、」
「大事な、大事なね。調子調子、しゃんしゃんと、雪の音なったら生まれてくれ、鈴の音なったら思い出せ、」
職人のようなスノウ・マンは、またこだわりもった調子で金槌を振り下ろした。鈴が鳴る。作業机には、大きな一点ものの鈴や、小さなものが幾つも連なってくくられたものが転がり、くりぬいたような金属片が、そこらに散らばったりもしていた。
「雪はまだ降っているかい、」
「うん、すこしだけ、」
「そうかい、」
それだけ聞くと、また独特の調子を口ずさみながら、スノウ・マンはリズミカルに金槌をお振り下ろしていった。
「ドリンクをどうぞ、」
面白くてしばらくみていると、背後のカウンターから声がかかった。カウンターの中の隅の方に、グラスと布巾を持ったスノウ・マンがおり、コップをカウンターにのせる。
しっかりとした樹の枝で腕ができている。しならせて、アルミ缶の大きなコップを3人分カウンターに流してくれた。
「ありがとう、」
それぞれお礼を言って、エリーたちは流れてきたコップを受け取った。このスノウ・マンはクールなようで、布巾をふって返事をした。
エリーは二階に来たところで、すでにいらいらすることを忘れてしまっていた。エリーは胸を躍らせていた。
雪の豊かに積もった夜。真夜中の路地の置くには、誰も知らない秘密の世界、スノウ・マンの集まる酒場があった。スノウ・マンは夜な夜な動き出して、お話や鈴づくりに興じている。
こんなに楽しいことが、あるだろうか。
エリーは手にしていたコップに口をつけて、一口飲み込む。濃くて甘い、ミルクの美味しさに驚く。中をのぞき込んで、その白さに、さらに驚いた。
「すごいわね、このホットミルク、雪を溶かしたみたい」
「雪は溶かしたら、透明になるよ、」
「それぢゃあホットミルクを溶かしたら、きっと透明になるのね、」
「わけが分からないよエリー」
アイミーはやれやれといった様子だったが、、エリーの興奮は冷めなかった。
「どうして雪は溶かしたら、白にはならないのかしら、だって雪の世界は、こんなに白いのに」
エリーがホットミルクと鈴に興味深々な間に、アイミーとルーベルトは一階へ下りた。
「あんなに楽しそうなエリー、初めて見た」
ルーベルトはこくりと頷く。いつもいらいらしかしていないために、エリーがあんな楽しげな表情ができることに、アイミーは驚いた。
「でもついていけないや」
ルーベルトはまた頷く。それくらいの興奮のしようだった。
すると気さくに身体を揺らしながらスノウ・マンが寄ってきて、二人に声をかけてきた。
「やあきみたち、外に散歩に行かないかい。遊んでもいい。ソリ遊びや雪合戦が定番さ。手は使えないがね」
ピエロ鼻は、その申し訳程度に刺された枝を示して見せた。
「それぢゃあ、どうやって遊ぶのさ、」
「”だるまさんが転んだ”」
そう言って、ピエロ鼻はにやりと笑った。
「さあさあ、外へ外へ、」
アイミーとルーベルトはスノウ・マンたちのずんとした下腹に押し流される。にんじん鼻や大きな三段重ねものまで押し寄せて、二人を扉へ促した。
「さあこっちこっち」
「雪は楽しいよ。」
木箱はちゃんと持っているが、エリーがいない。
「待って、エリーは、」
アイミーは飛び跳ねて言うが、壁のように迫るスノウ・マンたちに、声も姿もかき消された。
外へ出ると、また内とは別種の冷たい風が撫でた。雪がやんでいる。
「あの女の子は、鈴に興味があるみたいだよ。さあ、まずは街探検と行こうぢゃないか、いい場所を知っているんだ」
先導するピエロ鼻は、そんなことを言う。
スノウ・マンと雪の街の散歩とは、確かに魅力的なことだった。アイミーはエリーを酒場に置いてきていいものかと悩みながら、そちらに惹かれて歩を進めていた。ルーベルトも同じだ。
アゴに手をあてながら、ふと眼をやると、一本道の正面から、スノウ・マンが一人こちらへ向かって来て、そのまま合流するものかと思えば、アイミーたちの横を通り過ぎて行ってしまった。オレンジいろのマフラーに赤い手袋をしていた、眼に碧色の硝子玉をあてがわれたスノウ・マンだった。
そんな雪だるまに取り合うこともなく、取り巻く彼らは賑やかに話したり笑ったりしながら進んで行った。
「お嬢さん、もし良かったらディナーをどうかな」
「ディナー、? あなたたち、ディナーを食べるの」
「この日ばかりのごちそうなんだ。張り出しの屋上に、屋外席がある。みんなでいただくんだ」
右手にあった扉を開けると、そこにはさらに上へと続く樹の階段があった。
赤ニットのスノウ・マンが言うことはエリーの質問の答えに少しばかりなっていなかったが、それでも気さくなふうにエリーを誘う言葉を連ねた。
「そんなディナーに、私が加わってもいいのかしら、」
スノウ・マンがティブルを囲んで、何を食べて何を話すのだろうか、エリーはとてもスノウ・マンの食卓に興味が沸いてきた。
「もちろんさ。歓迎するよ。そんなかわいらしいお嬢さんが来てくれるなら、きっとみんなだって喜ぶよ」
言うとスノウ・マンは、少し照れたようにした。褒められたエリーは、あからさまなふうではあったが、悪い気はしなかった。「それぢゃあ私も、お邪魔しようかしら」という気になった。
そのことを伝えると、スノウ・マンは明るい顔をして、腕を広げて喜んだ。
「実はもう、みんな集まっているんだ、さあさあこちらへどうぞ、かわいらしいお嬢さん」
スノウ・マンはうやうやしく、上へと続く階段を示した。扉が開いて、露わになる。シックな色で、多少つくりが露骨なものである。エリーは、ふいに二人のことを思い出して気にかけた。
「あの二人も、出席していいかしら、」
エリーは当然いいものだと思っていた。
しかし、スノウ・マンは首を横に振った。
「残念だけど、それはいけない。屋外席は、あと一人分しか空いてないんだ。さあ、みんなきみを待っているよ」
スノウ・マンはしきりにディナーの出席を促す。まるでエリーが出席するのが、あらかじめ決まっていたかのようだ。
エリーは、階段へ歩を進め始めた。