第8話 森に住む少女
トントンと何か作業をするとような音を聞いてふと目が覚めた。眠い目を擦り、きょろきょろと辺りを見回すと見慣れないリビング。木造建築の家のようでほんのりとした温かみが感じられる。
眩しい朝日の差し込む窓は光のせいかうっすらと黄色く染まり、その外からは心地よい鳥の囀りが聞こえる。
はて、自分の家はこんなもんだっただろうかと少々首を傾げ、ふぁぁと欠伸を漏らした。
机に突っ伏したまま寝たようで身体の節々が痛い。何かをやりながらいつの間にか寝てしまったのだろうと見当をつける。
キッチンでは誰かが朝ごはんを作っているらしく、一定のリズムでトントンと聞こえてくる。その後ろ姿が見慣れないような気もしたが、俺はかまわず声をかけた。
「かあさーん、飯まだかー?」
すると、キッチンに立つ人物はぴくりとその獣耳を動かした。ん? 獣耳?
ゆっくりと振り向いた少女は俺を見ると、少しだけ強張った顔でにっこりと笑った。
「お、おはようございます、フユトさん」
その笑顔を見て、一瞬で意識が覚醒する。そして、次の瞬間には先程の発言に顔が羞恥で赤く染まった。
「あ、ああ、お、おはよう」
ぎこちない返事にもレンはクスリと笑うだけで、「すぐにできますから」と自分の作業に戻っていった。
コホンと咳払い。失態による恥ずかしさを吹き飛ばして冷静になる。改めて自分の状況を確認して、俺は近くの椅子に腰掛けた。
そうだ、忘れていたがここは俺のいた世界とは違う異世界。そして、俺は何故かこちらへと呼ばれた。
今考えても随分と非科学的な事態だ。なんとまぁファンタジー。世の科学者が見れば発狂ものだろう。
ふと、一つの想いが頭を過る。
もしもこれが夢だったのだとしたらどんなにいいことだっただろう? 俺は実はまだ教室で寝ていて、目が覚めたら隣で沙耶が困った顔で笑っている。心の何処かでそんなことを望んでいた。
しかし、現実はずいぶんと無情なようで、一晩経って目が覚めようが、俺のおかれた現状は全く変わっていない。
連れてこられた家の中で、ぼんやりともの思いしながら、人間ではない少女の作る朝食を待っている。
だが、帰る手段がないわけじゃないとニーナは言っていた。なら、俺の何としてでもそれを見つけ出し、元の世界へと帰らなければならない。向こうに置いてきてしまった沙耶のことが心配だし、それにこんな訳の分からない場所で一生を過ごすのもごめんだ。
その時、ガチャリとドアが開き青白い顔をしたニーナが、のそりと顔を出した。
「レン…、いつもの……」
幽鬼のような雰囲気を纏い、ゆらりゆらりと揺れながら彼女はキッチンにいるレンのもとへと向かう。誰かに見られれば一発で通報されそうなものだが、レンは笑って何かを差し出していた。
ニーナはそれを奪い取るようにして、それを一瞬で飲み干す。すると、先程までの様子が嘘のように、きりりと締まった昨日の彼女に戻っていた。
「ふぅ……。やはり朝にはカーディのミルクで迎えなければな」
「あの後徹夜でもしたんですか、マスター?」
「なに、調べ物のほかにやることがあったのでな。それをしていたまでだよ」
そう言いながらコップをレンに渡し、こちらに歩いてくる。その目が俺を捉えた瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。首を傾げたり考え込むようなふりをしばらくした後に…、
「君は誰だ?」
そう言い放った。
呆れた表情を面に出さなかったのは懸命の努力だったと言えるだろう。レンに至っては驚きの表情を張り付けたまま、自らの主人を見つめていた。
「マスター、自分で連れてきた人のこと忘れてどうするんですか!」
「ん? ああ、そうか。そういえばそんなこともあったな」
自分の記憶の中に該当する部分があったのか、思いだしたかのように彼女は手を叩いた。
「いや失礼、すっかり失念していたよ。えー、おはようユート」
「フユトだ……」
訂正してやると、これまた失礼と短く告げた。
向かい側に座り、机の端に置いてあった紙束――何が書いてあるのかは分からなかったが、恐らく新聞か何かだろう――を手に取り、ぱらぱらと読み始める。
この世界の文字は俺のいた文化のものとは大きく異なっていた。筆で何かを殴り書きしたかのような文字が、本にも新聞と思しきものにも書かれている。
向こうの世界で言うならば、それはそう、ルーンというのが一番しっくりくる。
あのみみずののたくる様な字。この世界ではそれが標準の言語となっているようだ。
しかし、不思議なことに俺はその文字が読めないにも関わらず、彼女らと言葉を交わし、意思を通わせることができている。
そのあたりも随分と不可思議な話だが、理由はさっぱり分からない。これも召喚とやらの影響なのだろうと自己完結する。
突然、紙束に目を落としていたニーナの顔が上がり、こちらを見る。
「私の顔に何かついてるか?」
「え、いや、何も…」
「そうか」
そうしてまた彼女は紙束に視線を落とした。
どうやら考え事をしている間も俺は彼女を見ていたらしい。じっと見られていれば何かあったのか気になるのは当然だ。
反省をしつつ、俺は視線を窓の外の森にやった。
窓の外では太陽の日差しですくすくと育つ森の木々たちと、その幹の上に止まる鳥たちの姿が見られる。
現代の日本ではあまり見られない景色だろう。確かに森のイメージを取り入れた公園だとか施設だとかは見たことあるが、ここまで純粋な森は見たこともない。
「朝ごはんできましたよー」
その声を聞きながら、俺はこの世界が自分のいた世界とは違う場所なのだということを再認識したのだった。
§
ざわざわと風に揺れる頭上の枝葉。どこか不気味でいて、それでも尚癒しを与える森の木々。時折木々の隙間を通りぬける風が頬に心地よい。
足元は凸凹で人が快適に通れるような道ではなく、まさに獣道と呼ぶにふさわしい。人の手の入った場所ではないらしく、人工物は一つも見当たらない。周囲は木だらけ、さすがは森といったところか。
歩きなれない道は予想以上に体力を削るようで、額からつと汗が流れ落ちた。袖で拭うも次から次へと汗は湧いてくる。もう体内の半分くらい水が抜け出て行ったんじゃないかというぐらいに感じる。
それ対して、隣を――きっちり距離を空けて――歩く俺よりも幼いレンはグロッキー寸前の俺と違って平気で歩き続けている。汗など一滴もかいている様子はなく、息も上がっていない。
慣れている…のだろうか? 自分より年少の少女に負けるわけにもいかず、何とか気力で歩き続けるが、その意思もものの数分で瓦解した。
「ちょ…無理…、タンマ…」
足を止め、思わず最寄りの木に背を預けて座り込む。足がパンパンになるのを通り過ぎて、鈍い痛みと熱を発し始めていた。
数歩だけレンは俺より先を行くと、そこでくるりとUターンする。振り向いた顔にはしょうがないなぁとばかりの表情。
はぁとため息を吐いて、俺の木から数本離れた木の元に座った。
さすがのレンも今回の休憩には呆れているらしく、ちょっとだけ表情に怒りが見え隠れしていた。
それもそうだ。ニーナ達の家を出発してから2時間程度、ここに来るまでの休憩の回数は10回を超えている。最初の数回はレンも笑って許してくれたのだが、仏の顔も何とやら。4回目になると何も言わないようになり、7回目を超えた辺りで顔に怒りが見え始めた。そして今回で呆れが見え始めたというわけだ。
俺たちの向かう先は、この森の奥地にあるらしいユグ湖という場所。そこの水を3つの小瓶に入れてくるのがニーナに頼まれた仕事だ。
ニーナ曰く、「研究に必要なんだ。すぐ近くだし、ちょっととってきてくれないか?」
確かに手伝いはするとは言ったし、頼まれたことはちゃんと完遂するつもりだ。だけど……、
「これのどこが近くだよ……」
歩いて2時間以上かかる場所は近くとは言わないのではなかろうか?
彼女の感覚やら基準やらが気になるところだが、今はそれは些末事。今の最重要事項はこれからいかに休憩をなくし、そしてかつ…。
「…………」
レンの機嫌を損ねずにいられるかということ。
これ以上の休憩はさすがにまずいだろう。もういつ彼女の怒りが爆発してもおかしくはない。
足を揉み、固まっている筋肉を解す。できれば早めに着いてほしいが、あまり期待はできない。だが、着実に進んでいるはずだ。
すっくと立ち上がり、もう一度体を伸ばしパチンと頬を叩いて気合を入れる。
俺の様子を見てレンも立ち上がる。何も言わず、俺の方を見ると軽くうなずいて歩き始めた。
疲労で動こうとしない足を無理やり動かして前へと進む。頑張るしかない。それが今の俺にできる最善のことだから。
§
結果から言おう。湖に着いたとき、俺は俯せになって地面にぶっ倒れていた。
レンにも少しだけ顔に疲労が見えていた。にも関わらず倒れている俺を介抱してくれているのは、彼女の優しさ故だろう。手が身体に触れるたびにビクッとなるのは気になるところだが。
最後の休憩から歩きに歩いて実に1時間。1度も休憩を挟まず、気力と根気で乗り切った俺を誰か褒めてほしい。視界が霞み始めた時にはさすがにやばいかと思ったが、それでもようやくここに辿り着くことができた。
「体調が悪いなら悪いと言ってください。ちゃんと言ってくれれば休憩にも文句は言いません」
「……の割には道中不機嫌だった気がするけど」
「あれはフユトさんの体力のなさに呆れてただけです。別に怒ってなんかないです」
彼女は怒ってなかったらしい。途中で眉根を寄せていたのはなんだったのかと問うと、俺の予想外の答えが彼女の口から飛び出してきた。
「フユトさんをどうやって鍛えようかと思いまして。今のままじゃろくにお手伝いもできそうにないですし…」
ずばりと言われて心がズキッと痛む。確かに、こんなので疲れてるくらいじゃ他の仕事はこなせそうにはない。
「そういえばレンは平気そうだな。俺よりも早くばてると思ったけど…」
「何年もマスターにお仕えしてるんです。これくらいへっちゃらですよ!」
えっへんと胸を張ってレンは告げた。しかし、それは言外にレンに与えられたニーナの要求がこれ以上にきついものだということを言っていた。
「それに…、この森には慣れてますから」
「へぇ……」
「マスターがマスターですから、ここには何度も来たんです。『研究の材料を取ってこーい』みたいな感じで」
クスッと笑ってレンは湖を見つめた。一瞬だけ、それこそコンマ1秒にも満たない時間。その時だけレンはどこか遠い場所を見るような目をしていた。
が、すぐにいつものレンに戻り、少しぎこちない笑顔をこちらに向けた。
「最初は私も時間がかかるし疲れるしで嫌だったんですけど、いつの間にか嫌が普通になっちゃいました」
「なぁ、レン」
「何ですか?」
「君はどうして俺に……」
その時一際強い風が俺たちの間を通りぬけた。まるで聞くなと言うように、まるで触れるなと言うように、風が声を掻き消した。
まだ聞くべき時じゃない。何故か根拠のない思いが胸を満たしていく。不思議そうにこちらを見るレンに、俺は何でもないと告げた。
「ちょっと水を取ってきますね。フユトさんはここで休んでてください」
「すまないな、レン」
「いえ、大丈夫です。今度からはフユトさん一人で来てもらうつもりですから」
にっこりと笑いながら死刑判決を下す天使のごとき少女レン。その恐ろしさの片鱗を感じつつ、レンが湖に向かうのを見送った。
水を汲むこと自体は大した作業じゃない。すぐに終わってここに戻ってくるだろう。それまで俺は待っていよう。
またあの道を戻るのかと思うと憂鬱になる。ため息を吐いて俺は背を預けている木に頭を――――、
「きゃあああぁぁぁ!!」
「レン!?」
レンの悲鳴が耳をつんざいた。すぐさま立ち上がり、声のする方へと走る。
急な運動に肺が悲鳴を上げる。それをねじ伏せて俺は走り続けた。
「レン!!」
「フユトさん、来ちゃダメです!!」
レンの静止に応じず俺は走り続け、そしてようやくレンを発見する。
その時、俺は大きく目を見開かずにはいられなかった。
「――――――――――――」
黒い巨体。それがレンの前に存在していた。背中にびっしりと生え揃った無数の棘。串刺しになどされれば一たまりもない。
コォォと息を吐く口の中には、黒く鋭い牙。てらてらと輝く紅色の歯茎が更に不気味さに拍車をかける。黒い牙には所々赤黒い染みが見えていた。
凶星。脳裏でその言葉が駆け抜ける。
そう、その名が一番しっくりとくる。白い光の中で一点光を飲み込む黒き闇の塊。
敵うわけがない。いや、そう思うことすらおこがましい。
動くことも委縮するほどの存在感。頭で早く逃げろと警鐘を鳴らしているというのに、身体はそれを拒否している。恐怖? それともこれは畏怖?
黒の存在はギロリと辺りを睨み回すと、その目にレンを捉えた。
それは大きく頭を反らしたかと思った時、周囲に爆音が響き渡った。
木々がざわざわと揺れ、湖面で山ほどの波が立つ。音の威力とは思えないそれに俺はまたも驚くこととなる。
「……レ…ン……」
かろうじて絞り出せた声。掠れた情けないそれは、きっとレンには届いていないだろう。
しかし、レンはその声が聞こえたようにこちらを向いてあのぎこちない笑顔を浮かべた。
「諦めるにゃ、ちと早いんじゃねえの?」
どこから聞こえたのだろう。何かの破裂した音がしたかと思うと、あの黒いモノは宙を飛んでいた。
ありえないその状況に頭が混乱を始める。今声がして、それで黒いやつが吹っ飛んで、それで……。
そこには一人の男が立っていた。海よりも深い青の髪、そしてその手に握られているのは1本の槍。
その男は、こちらを見るとニヤリと不敵な笑みを浮かべたのだった。