第5話 選択
異世界。そんなものが本当に存在するかどうかなんて、この世界に来るまで思いもしなかった。
いや、考え付きもしないだろう。たとえ、異世界があったとしても、それを証明する方法が存在しない。それを知る者がいくら知らない者に教えたところで、知らない者は実物を見ることができないのだから。
「ふむ、いつみても広い世界だ。む、ここにアトラスなんて国なんかあったかな?」
「マスターがここに引きこもってる間にできたらしいですよ。なんでも国を興してまだ数年だとか」
「ほぅ……。しかし、いつの間に新しいのに変えておいたんだ、レン? あそこのにあるのはてっきり数十年前のだと思っていたが」
「そんなものを出そうとしてたんですか……。地図なら何年かおきに変えてます。マスターは面倒くさがりだから」
「し、仕方ないだろう。私の研究には必要がないんだから」
呆然としている俺の隣で繰り広げられる二人の会話。しかし、その断片すらも頭に入ってこない。
俺はただ黙ってその地図を見つめていた。むしろそうすることしかできなかったと言うべきか。そのぐらいに今の俺はショックを受けていた。
これからどうするなどと考えられるはずもない。今はただせめてこの現状を受け入れられるように落ち着きを取り戻したかった。
「どうした、フユト? ずっと地図なんか見つめて。何かおかしなところでもあったか?」
「…………。おかしなところだらけだ……」
かろうじてその言葉を喉から絞り出す。ニーナは不思議そうな表情で少女を見、少女もまたニーナを見て首を傾げた。
「一応地図は一番新しいのを用意しているはずなんですけど……」
「私たちの知らない間に国が滅んだか?」
「違う……。この世界自体が俺の知らないものなんだ……!」
「へ? 世界が違う?」
訳が分からないとばかりに疑問符を頭上に浮かべる少女。だが、それに対してニーナは真剣な表情で俺のことを見ていた。
この世界の配置は俺の知るものと比べて明らかにおかしかった。
まず、元の世界では5つあった巨大大陸――ユーラシア、オセアニア、南北アメリカ、アフリカの5つだ――、それがこの世界では存在せず、ただ一つの大陸になっている。巨大な湖を囲うようにして存在する大陸。その周囲にいくつかの島が点在し、その中には火山島と思しきものも確認できる。
大陸の右下の辺りはぼかされたようにしてはっきりと描かれてはいないが、左上のあたりには俺も見覚えがある。
「幻惑の森……、それにこのクリスタルピラーとジェド砂漠って……」
森の左側を覆うようにして存在する砂漠、そしてその森の下には一つの塔。
それは俺が夢で見たもの、そしてあの崖で見た景色と同じだった。つまり、俺が見ていたあの景色はこの世界のごく一部でしかなかったようだ。俺が思っていた以上にこの世界は広い。
「なぁ、この地図の切れた先には何があるかってのは分かるか?」
「さあな。以前それを確かめに行ったアホが何人かいたそうだが……、全員戻っては来なかったらしい」
全く未知の領域だとニーナは告げた。だが、それは俺に一つの推測を打ち立てさせた。
もしも、この世界が地球と同じように球のようになっているというのなら、この世界地図の切れ目を超えた先に行けば、反対側へと出るはずだ。そして、いずれは大陸の反対側についてもおかしくない。
だが、戻ってこなかった。つまり、全く報告がなかったということは、この先にまだ何かが続いているかもしれないとも考えられる。
もちろん、何らかの原因で船が難破したり、船員が死んだりといったことも考えられる。
所詮は憶測の域を出ない。ここは一つ、そうあるかもしれないとだけ心にとどめておくとする。
「なぁ、フユト。君の知る世界とはどのような感じなんだ? 私は君の言う違和感が分からないんだが…」
「……まず大陸は一つなんかじゃない。俺の知る世界では5つに分かれているんだ。それにこれほど大きな湖もないし、こんなクリスタルピラーなんて塔もなかった」
「ふむ……」
「あと、俺の世界には竜なんていない。あれは空想上の生き物だ」
それを聞くと、ニーナは考え込むような素振りを見せたが、ものの数分で考えるのをやめたらしくやれやれと肩を竦めた。
「さっぱり分からんな。私にはそのような世界は全く思いつかん。だが、これで一つだけはっきりしたことがあるな」
「ああ、俺もたぶん同じ結論だ。この世界は俺のいた世界なんかじゃない。俺のいた世界とは異なる世界、強いて呼ぶなら異世界ってところか」
「君に何らかの因子が働き、この世界へと落ちてしまったのだろう」
その因子がなんなのかは分からない。だが少なくとも、それは俺にとって非常に迷惑なものであることだけは分かる。
帰る方法はあるのだろうか? そう考えて俺は急に足元が脆くなったように感じた。ぐらりと倒れそうになる身体を何とか押しとどめる。まだ帰れないと決まったわけじゃない。こちらの世界に来る因子があるのだというのなら、必ず元の世界に変えることのできる方法だってあるはずだ。
「君の世界からこちらに一方通行、というわけでもあるまい。こちら側からそちら側へアクションを取る方法も存在するはず」
「で、でもマスター。ひょっとしてフユトさんって……」
「そういえばレンの紹介がまだだったな。さ、レン」
何か言いかけた少女を遮るように言い、ニーナは少女の背を押した。少女は戸惑うようにニーナを見たが、すぐに俺のほうを向き、もじもじと恥ずかしげに顔を伏せた。
「れ、レンです。よ、よろしくお願いしま…す……」
「ああ、よろし…く……、あれ?」
自己紹介が終わるとすぐに彼女は姿を消してしまった。どこに行ってしまったのかと視線を巡らせると、彼女は若干うるんだ目で扉の影からこっそりとこちらの様子を伺っていた。そんなレンを見て、ニーナがからからと笑う。
「いや、すまんな少年。あれは少々人見知りでな。今ようやく君を意識したらしく、あんなふうに隠れてしまったというわけだ。悪い子ではないからな、よろしくしてやってくれ」
「まぁ、別にかまわないけど」
ただそれでも避けられるのは少し心に痛いものがある。できることなら、普通に話せるようになるまでは仲良くなりたいところだ。
「さて、これから君はどうする、フユト? 街へ出て情報を集めるもよし、こちらに慣れるまでここで過ごすもよし。ただ私としては後者を選んでほしいがな」
「その理由は?」
「手伝いが増えるから」
思い切りいい笑顔で話すニーナ。ずるっと思わず体勢が崩れてしまったのはご愛嬌。
ただ、こちらの世界のことが何も分かっていない以上俺に残された選択肢はたった一つだろう。竜などという馬鹿げた存在がいたのだ。こちらの世界にいる以上、命の危険にかかわることもありそうな気がした。早く戻りたいとは言っても、それで焦って命を無駄にしてしまっては元も子もない。
それならばいっそのこと、ここで何日間か過ごさせてもらうことが得策というべきか。
それに、仮にここにいさせてもらうのなら、何らかの形で借りを返さなくてはなるまい。悪くない、渡りに船といったところだ。
「その話、喜んで受けさせてもらうよ」
「そうか、それは私もとても喜ばしい。では、しばらくの間助手を頼むよフユト」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
目の前に差し出された右手。それを自分の右手で握ることで応える。
遠くで扉ごしにこちらを向くレンが不思議そうに俺たちを見つめていた。
§
パラリと本のページを捲る音が室内に響く。
その本を捲るのはニーナ・フォン・アレステーゼ。その視線は厳しく、睨みつけんばかりである。
また彼女はページを捲る。そこで、彼女の手は不意に止まった。
「…………」
――聖剣と女神
そのページのタイトルはそう綴られていた。
普段自分が読むようなものではないな、と女性は自嘲する。
彼女の研究の本分は魔法学であり、歴史学ではない。ある程度魔法の歴史の教養はあるが、それ以上はない。それ以前に知ろうと思う気も彼女にはない。
この本も、昔レンに読み聞かせをしてやろうと思って彼女がわざわざ街から買ってきたものだ。倉庫同然の部屋から埃を叩いて引っ張り出してくるのには、さすがの彼女も手を焼いた。
だが、その苦労も徒労となるかもしれないことに彼女は少なからず落胆した。
本を読み進めるが、全く手がかりとなりそうな文は出てこない。ただ、一般に伝わっているようなお伽話の解説が延々と続いているだけだ。それにさしたる意味があるとも思えず、彼女の手の動きは自然と早くなった。もしかしたらと思っていたが、残念ながらそれは悪い意味で裏切られることになりそうだ。
大きくため息を吐く。
異世界から人が来るなどお伽話以外では聞いたこともない。彼、フユトのことを言うことを全面的に信じているわけではないが、仮に彼の言うことが真実だとすればそれはとんでもないことだ。
何が起こるかは分からないが、少なくとも波乱を呼び起こすことになるのは間違いない。
その時、ちょうど彼女の捲ったページが『勇者』という小題に辿り着く。彼女は手を止め、その文章を読み始めた。
――曰く、勇者は異界より召喚される者である。
――曰く、勇者は世界の崩壊を招かん。
――曰く、勇者は聖なる剣をその手に宿す。
――曰く、勇者の結末を知る者はなし。
フユトは少なくとも、このうちの一つを満たしている。もっとも、それも彼の言うことが真実であると仮定すればの話だが。つまり、彼は……。
「アホらしい……、まだ彼がそうだと決まったわけではなかろうに」
そこまで考えて彼女は頭を振る。
そうだ、まだ彼が勇者だと決まったわけではない。何らかの偶然でここに来たことも否定できないのだ。結論を出すにはあまりにも早い。
彼女は本を閉じ、机の上に放り出すと大きく伸びをした。ボキボキとなる音が今は心地よい。
と、それと同時に控えめに扉を叩く音がした。それが誰かは十中八九分かっているので、入れと短く言うだけにとどめた。
扉からレンの顔がのぞく。邪魔をしてはならないと思ったのか、扉を開ける時も慎重にゆっくりと開いていた。
しかし、ニーナが休憩しているのを見るや否や、ほぅと息を吐いて遠慮することなく自らの主人に近づく。
「何か用か、レン?」
「あ、はい。紅茶をお持ちしました、マスター」
おずおずと差し出されたそれは、彼女が今まで嗅いだこともないような葉の香り。おそらく、街に出た時に買ってきたのだろうと、勝手に見当をつけそれに口をつける。
一方、カップを差し出したレンは机の上の本に気が付いた。タイトルは『勇者語り』、先程までニーナが格闘をしていた本だった。
「マスターって歴史の研究ってしてましたっけ?」
「いや、それはあの少年の手がかりになるのではないかと思って出してきただけだ。もっとも、有力な情報は全くなかったがな」
ずずと紅茶を啜るニーナが応える。その本のタイトル、そして少年という言葉からレンの頭に昼間の考えが過った。
「やはり、フユトさんは……」
レンの顔に影が差す。その考えを打ち消すかのようにニーナはポンとレンの頭を叩いた。
「……まだそうと決まったわけじゃない。彼が本当にそうなのかどうかはじきに分かるだろう。私たちは……私たちのすべきことをするまでだよ、レン」
「……はい……」
うつむきながら返事をするレンの表情はうかない。それは自らの役目を嘆いているのか、それともフユトという人間の意味に憂いを感じているのか。ニーナにはそれは分からない。
「それはそうと、フユトには部屋を割り当てたはずだが…今彼はどうしてる?」
「あぁ、それですけどあまりにも部屋が汚すぎるんで、今日はリビングで寝るって言ってましたよ。まぁ、あの部屋を見ればそれも賢明と言えば賢明ですが……」
部屋を案内した直後のフユトの引きつった笑みを思い出してレンはクスリと笑う。ニーナもそれにつられたように軽く鼻を鳴らした。
レン自身、彼をあの部屋に案内した時には乾いた笑いで彼の困惑した視線に答えたものだ。明日になったら彼はあの部屋を掃除するのだろうか? 彼がどちらを選ぶにしても掃除くらいはしておくつもりだった。彼に案内した部屋があの状態にあるのはさすがに申し訳がなさ過ぎる。
「たまにはマスターも掃除してくださいよ。今日できたんですから、明日もできますよね?」
「フッ……、そうしたいのは山々だ。しかし、残念ながら既に予定が入っていてな。ああ、そうだ。多分来客もあるだろうからな、屋敷は全体的にきれいにしておいてくれ」
「屋敷っていうほどここは広くないですけどねー。……って来客もあるんですか? お、お茶請けとか全然用意してないんですけど!」
「まぁ待て、レン」
慌ててパタパタと部屋を去ろうとするレンの肩を掴み、呼び止めた。レンは振り返り、焦りを浮かべた瞳を主人の瞳に映した。
「大した用事ではないはずだからな。そこまで丁寧に準備する必要はないさ」
「で、ですけど…」
ニーナの瞳を見た瞬間、レンの声は小さく消えていった。
レンの瞳に映るニーナの瞳はあくまで優しげだった。そう、彼女の瞳の奥底に眠る感情を除けば。