第2話 召喚
最近、俺こと赤桐冬斗はよく不思議な夢を見る。
白く靄のかかった世界の中、俺はいつもそこに一人立っている。周囲は白色で覆われていて、誰がいるわけでもなく何もない世界。
奇妙な印象を受けながらもとりあえず歩いてみると、ふわふわと覚束ない地面が広がっている。
そして、10分くらい歩いたところで勝手に目が覚める。
そして、今日も今日とて同じ夢を見ていたのだが、今回は少しばかり違っていた。
いつものように白い景色が視界を埋め尽くしている。
またか、と思いながら歩き出した。もうすっかり慣れているせいか、感慨も恐怖もない。ただただ面倒臭さがあるだけだ。
馴染んだ覚束ない地面……のはずが、今日は少しばかりしっかりとした感触がある。それに心なしかゆっくりとだが、視界が晴れてきている気もする。
前へ歩き続ける。この先に何かがあるというのか。少しずつ晴れてゆく白い靄の中、その先に俺はありえない光景を見た。
眼前には蒼穹の広がる無限の空に、まばらに浮かぶ白雲たち。その間を縫うようにしていくつもの光が飛び交っている。
そこまで見て、自分がようやく空に浮かんでいることに気が付いた。しかし、不思議なことに俺の体は重力に従うことなく、宙に浮いたままだ。さすがは夢だといったところか。
自分の夢のご都合主義っぷりに感心しながらも、今度は余裕をもって眼下を見下ろした。
視界に映り込んだのは壮大としか言えない景色。広大な草原と森とが広がり、その左側を大きく囲むように砂漠が広がっている。その砂漠の下には海が広がり、船のようなものが行き来している。さらにその下には、水晶のごとき塔が天高くそびえ、時折チカリと光を反射する。
遥か遠くに見えるのは剣山であるかのような険しい山。その勾配は並大抵ではなく、文字通り垂直に等しい。その周囲は何物をも寄せ付けぬがごとく、白い雪原が埋め尽くしている。
初めて見る光景だ。自分はいつの間にこんな世界を夢で見るようになったのか? ファンタジーなどあまり触れることはなかったというのに、それは随分と鮮明だった。
「……綺麗だ」
思わずそんな言葉が口から漏れる。
普段絶対に見ることのない景色に俺はいつの間にか圧倒されていた。空からの視点というのはもちろんのこと、このようなファンタジーチックな世界は現実のどこにも存在するはずがない。
それに見とれていると、いきなり俺の真横を後ろからものすごい勢いで風が通り過ぎて行った。
「え……?」
驚く暇もなく、風に流され、吹き飛ばされる。反射的に両手で顔を覆い、風に身を任せた。重力には従わなかったというのに、風には従うとは随分と滑稽な設定もあったもんだ。
数十メートルほど吹き飛ばされてようやく静止する。一体今のはなんだったのか? その疑問を氷解すべく腕をどけると、目の前には後光のごとき光を纏う竜の姿があった。
そのシルエットは中国で知られている細身で翼のない龍ではない。巨大な二対の翼を有する西洋の竜だ。
光のせいですべてを見ることは叶わない。俺がわかるのは、光に照らし出されているその身体が黒色だということ。そして、紅蓮の瞳が鋭くこちらを射抜き、静かにそこにあるということ。
「あ……ぅ………」
乾いた喉から呻きが漏れる。俺の姿はまるで蛇に睨まれた蛙。指を動かすことすら許されない。
まざまざと格の違いを見せられる。コイツは駄目だ。敵うはずがない。いや、もはやそう思うことすらもおこがましい。
それほどの威厳を彼の竜は纏っていた。
『…………!』
駄目だ…、殺られる。相対して分かる。人間などという矮小な存在に抗う手段は存在しない。
『……ん!』
こんな時であるというのに、脳裏に何かが響く。次第にそれは大きくなっていく。
それと同時に視界がだんだんとぼやけ始める。外側からゆっくりと……、全てが巻き戻るようにまたあの靄が視界を覆っていく。彼の竜がこちらを見つめたまま、幻想のような世界は遠ざかり……、
「兄さん!」
「え……?」
気が付けば俺は教室の机で肘をついていた。目の前には、心配した顔で覗き込む俺の妹の顔がある。
授業はとうの昔に終わっていたらしく、空はすっかりと茜色に染まっていた。
部活ももう終わる時刻のようで、野球部の最後のランニングのかけ声が聞こえてくる。
「大丈夫ですか、兄さん?」
心配そうな声音で尋ねる妹こと、赤桐沙耶。いつも下ろしている栗色の髪は、珍しくポニーテールになっている。
才色兼備、運動万能、何事にも真摯にやり遂げる志、と神から三物も与えられた妹は生徒先生共々人気があるらしい。以前、担任に沙耶の爪の垢をもらって煎じて飲んだらどうだと言われたほどだ。
「あれ……、俺ひょっとして寝てた?」
「はい、それはもうぐっすりと。下駄箱で待ってても全然来ないから迎えに来たんです」
拗ねたような沙耶の声。俺がごめんと謝ると、彼女ははぁとため息を吐いた。
「ひとまず行きましょう。買い物に行くんでしょう?」
「あ、ああ……。ってお前部活は?」
沙耶は帰宅部の俺と違い、剣道部に所属している。というのも、俺の母さんが剣道をしていたのに影響を受けたらしく、小学校の頃から真面目に続けていた。今では部内でも有数の実力者と耳にしたことがある。
「剣道部の練習なら兄さんが寝てる間に終わりました。だから校門で待ってたんじゃないんですか。今日は買い出しの手伝いをしてくれ、なんて頼んだのは兄さんでしょう? そうだっていうのに、肝心の兄さんは……、はぁ」
「だから悪かったって。今度なんかおごるから」
大仰にため息をついて見せる沙耶。しかも手を頬に当てるというオプション付き。
これは相当拗ねている様子。しばらく謝り倒した結果、彼女の返答は「……駅前の『フルーツ・パンナ』の『メガストロベリーパフェ』」である。ちなみに、それは一つで2000円もする高級品なのだった。
「そういえば兄さん、なんであんなところで寝てたんですか? 家ならともかく学校でも眠りこけるなんて珍しいですけど」
無人になった教室の鍵を返し、下駄箱に向かっている途中。沙耶は随分と不思議そうに首を傾げていた。
「そんな、まるで俺が家ではぐうたらしてるみたいなことを……」
「事実ですから」
沙耶は俺の懸命の抵抗を一瞬で切り捨てた。随分とそっけないものだ。
だけど、確かに今回のは珍しい。
自慢じゃないが、今まで学校で眠ったことなど一度もない――無論、合宿とかそういう学校行事とかは除く――。そもそも眠くなることすらないから、寝るなんて失態も犯したりしない。
まぁ、今日は疲れていたんだろう。寝る以前の記憶もはっきりしてないし、過去の自分は相当に眠かったんだろうと容易に予想がつく。
「んー、なんでだったかな? 気付いてたら寝てたみたいな?」
「寝るのは別にかまいませんが、せめて約束の時間までには起きれるように努力してくださいね」
またも沙耶からぐさりと心に刺さる一言が飛んでくる。渇いた笑いで誤魔化すと、沙耶は再びため息を吐いた。
そうこうしているうちにいつの間にか下駄箱に着く。
上靴とスニーカーを変え、外へ。空に浮かぶ太陽はもう山の斜面に差し掛かっており、もう1時間と経たず町は夜に包まれるだろう。
少し遅れて沙耶が俺に追いついた。そこで、沙耶が眉根を寄せているのに気づく。
「どうした、沙耶?」
「……いえ、なんでもありません。ただの気のせいでした」
「…………? そうか、なら早く買い物に行って終わらせてしまおう」
「遅れたのは兄さんでしょうに……。まったく、兄さんはすぐに調子に乗るんですから」
「そう言わずに、ほら!」
「あ、待ってください兄さん!」
不満を言う沙耶の手を取り、不意に走り出す。
振り返ると、沙耶は頬を膨らませていた。思い切り笑ってやると、キュッと引き締められていた口は徐々に解け、彼女はクスリと笑った。
緩やかに夜の帳が落ち始める広い空。走る俺たちの影はもうじき消えるだろう。だけど何故か、俺の影はもう消えているような気がした。
§
俺たちの住む大場市に存在する赤富という町に大型スーパーはたった3つしかない。
その中でも自宅に最も近いのが、スーパーツバキだ。食料品から服、雑貨まである程度が揃っているので、たいていはここだけでも買い物は十分事足りる。
だが、今日は生憎売り切れになっていたものが多かった。まぁ、時間も結構遅いしそうなってるのも仕方ないだろう。
「こんなに売り切れが出てるなんて、私思いもしませんでした」
店舗の外に出た途端、沙耶はそう呟いた。それに関しては全くの同感だ。
本当ならここで調達できたものを他で調達しなくてはならない。ここから最寄りのスーパーとなると、歩いて20分はかかる距離にある。
「兄さん、あと何が足りないんですか?」
「そうだな……、野菜と肉は調達できたし、あとは調味料ってところか」
俺と沙耶の手には無事に調達できた食材の入った袋がある。
このまま二人で次のスーパーに向かってもいいんだが、時間もかなり遅い。沙耶を先に帰したいところだが、俺が一人で行くとなれば必ず着いてくるだろうし、何より一人で夜道を歩かせるのは危険だ。
治安が悪いというほど大場市は物騒なわけではないが、世の中何があるか分かったものではない。幸い、調味料はあと数日は持つ。その間にまた買いに行けば問題ないだろう。
そう結論を出した俺は、家に帰る旨を沙耶に伝える。沙耶はコクリと頷くと、鞄を肩に掛け直した。
「もう8時ですか……。時間が経つのは早いですね」
「スーパーには入ったのが7時だから……、うわっ、1時間もいたことになるのか」
「早く帰りましょう。お母さんとお父さんが心配してます」
「そうだな。ちょっと急ぐか」
歩く足を少し早め、早歩きになる。歩幅は俺の方が大きいが、沙耶は難なく俺に着いてきた。
電柱に付けられた白い電灯は暗い夜道を照らす。月は出ているものの、その大半が欠け、光も少ない。
夜道を歩く俺たちは他愛もない話をした。友人がまた馬鹿をやって担任に叱られていたこと、その担任がついこの間恋人らしき人物と街を歩いていたこと、次にある剣道部の大会のこと。
話のネタを振るのは俺だが、その話に沙耶はやけに積極的に乗ってくる。おまけにちょっとした物音にもビクリと肩を震わせ、まるで何かに怖がっているような様子だった。
「沙耶?」
「な、なんですか兄さん?」
「いや、随分とびくびくしている様子だったから……。怖いのか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか! もう、兄さんの馬鹿!」
図星らしい。頬を真っ赤に染め、拳を振り上げる沙耶。とはいっても、軽く小突く程度の威力だ。
沙耶はフイと顔を背けると、ツンとしたまま先に行き始めた。慌てて俺が追いつこうとした矢先、道脇の茂みがガサリと揺れ、沙耶はまた身を強張らせた。
にゃーぉ。
茂みから姿を現したのは黒い猫。飼い猫なのか、首には鈴がつけられている。
「どこかの飼い猫か?」
ひょいと抱き上げ、まじまじと顔を見る。黒猫はナーゥと鳴くと、大きく欠伸をした。
「兄さん……?」
後ろで俺を見る沙耶の顔は青い。何か見てはいけなかったものを見てしまったかのように。
そして、彼女が口にした言葉は俺の精神を大きく揺すぶるものだった。
「一体、何を見てるんですか? そこには何もいないですよ」
「え?」
思わず声が漏れる。
何もないはずがない。ここには紛れもなく、黒い猫がいる。鳴き声だって確かに聞いたし、沙耶だってこいつの登場に驚いていた。
もう一度、その猫を見て俺は少し違和感を抱く。見た目はまるきり猫である。白い髭も、きらりと光る瞳も、普通の猫と違いはない。だが、果たして……、
猫に尾が二つもあっただろうか?
「…………!?」
警戒レベルが一気に最大まで引き上げられる。
一瞬にしてこれが俺たちの関わってはいけないものだと理解する。そうなれば俺の行動は早かった。
荷物を投げ出し、困惑する沙耶の手を取ろうと振り返り、手を伸ばす。その手はしっかりと沙耶の手を握った……かに見えた。
「なっ!?」
沙耶がいたはずの場所には誰もいない。いや、違う。沙耶がいなくなったんじゃない。
あそこから俺が消えたんだ。
俺がいたのはあの暗い夜道ではない。いつの間にか、俺は白が支配する空間にいた。
周囲には白い靄がかかり、1メートル先どころか、目の前すら見えやしない。そして、この光景には見覚えがある。
「おいおい……、冗談じゃないぞ」
そう言って、俺は後ろを振り返る。もしも、これがあれと同じだというのなら、前へ進めば絶対に戻れない。
振り返った先にあるモノを見て、俺は自分の目を疑った。
「なんだよ……、これ……?」
そこにあったのは荘厳な雰囲気を纏う扉だった。
それはあまりにも巨大すぎる鉛色の扉。靄がかかっているせいもあるのか、上端は見えない。扉にはいくつもの歯車がついており、重音を響かせながらゆっくりと動いている。
時々、カチリと時計の指針が動くような音が聞こえ、その度にズゥゥンと何かが落ちるような振動が足元から響いてくる。
扉に触れてみる。
その瞬間、紫電がまき散らされ俺の全身に電流が駆け巡った。
「がっ……!?」
全身が跳ねるような衝撃に襲われ、体が軽く痙攣する。触れていた手は弾き飛ばされ、バウンドして背中から地面に転がった。
背中の痛みと全身の痺れに歯を食いしばって耐えきり、ぎこちないながらも立ち上がる。
扉は俺が触れたことなど気にすることもなく、動き続けている。
これがなんなのかはわからない。ただ一つ分かったとすれば……、
「進むしかないってことか…」
ひとりごち、巨大な扉に背を向ける。通ることも、戻ることもできないと言うのなら、前に進むしかない。ここで留まっていても、それは時間の無駄でしかないのだから。
あれほど存在感を放っていた扉は、少し進むだけで霧に消えるように消えて行った。
ままならない視界の中、ただ前へと進み続ける。次第に風が吹き始める。白い靄がだんだんと消え始め、光があふれだしてくる。
同じだ。この靄も、光も。何もかもが。
晴れてゆく視界は次第にそのあるべき姿を映し始める。
『勇者様、私たちの世界をお救いくださいませ』
「え?」
そして、俺は靄が晴れる寸前に誰かの声を聞いた。
「ここは……?」
靄が完全に晴れ、光が否応なく目に突き刺さる。腕で影を作りながらも、前を向き、それを見た。
蒼穹の広がる無限の空に、まばらに浮かぶ白雲たち。その間を縫うようにして飛び交ういくつもの光。
広大な草原と森とが広がり、その左側を大きく囲むように広がる砂漠。その砂漠の下に広がるのは澄んだ青色の海。遥か遠くに見えるのは剣山であるかのような険しい山。その周囲に何物をも寄せ付けぬがごとく、白い雪原が埋め尽くしている。
「何だってんだよ……!」
奇しくもその光景は俺が今朝見た夢の景色と同じだった。唯一違うとすれば、これが夢ではなく、現実であること。そして、幻想だった世界に俺は入り込んでしまったことだった。
赤桐冬斗…異世界に紛れ込んでしまった少年。料理がそれなりに得意で、そつなくこなす。
赤桐沙耶…冬斗の妹。成績優秀、運動万能、品行方正と高スペックな少女。かなりの怖がりでホラーが苦手。
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