第1話 白霧坂殺人事件 第6章 霧の中の影
白霧坂に戻る頃には、午後の光が傾き始めていた。
朝より霧は薄いが、坂の上にはまだ白い膜が残っている。
その静けさは、まるで事件そのものが息を潜めているようだった。
「鑑識から連絡がありました」
車を降りながら藤井が言った。
「例の白い粉、石灰じゃありませんでした。
成分は……“炭酸カルシウム”だそうです」
矢代は歩みを止め、わずかに目を細めた。
「炭酸カルシウム……チョークの粉か」
「チョーク……?
学校関係者ってことですか?」
「まだ断定はできない。
だが、チョークを日常的に扱う職業は限られている」
矢代は坂の上を見上げた。
霧の向こうに、街灯がぼんやりと浮かんでいる。
「藤井。
三宅が“見られている”と感じたのは、公園だ。
そして、犯人は白霧坂で三宅を刺した。
この二つの地点を結ぶ線上に——」
「犯人がいた?」
「そうだ」
二人は坂を上り、事件現場へ向かった。
朝の騒然とした空気は消え、今はただ冷たい風だけが吹いている。
「矢代さん、ここ……」
藤井が指差したのは、坂の脇にある古い倉庫だった。
錆びた鉄扉が半開きになっている。
「朝は閉まってましたよね?」
「閉まっていた。
つまり——誰かが開けた」
矢代は扉に近づき、手袋越しに触れた。
金属の表面には、細い傷が走っている。
「藤井。
この傷……公園で見つけた金属片と一致する可能性が高い」
「じゃあ、犯人はここをこじ開けた……?」
「あるいは、閉じようとした。
どちらにせよ、ここに“何かを隠した”か、“何かを取り出した”」
矢代は扉を押し開け、中を覗いた。
倉庫の中は薄暗く、古い工具や資材が雑然と積まれている。
しかし、その中に——
「矢代さん、これ……!」
藤井が震える声で呼んだ。
倉庫の奥、木箱の隙間に、黒い布が落ちていた。
矢代が拾い上げると、それは手袋だった。
ただの手袋ではない。
「……軍手じゃない。
“滑り止め付きの作業用手袋”だ」
藤井は息を呑んだ。
「犯人の……?」
「可能性は高い。
しかも——」
矢代は手袋の指先を指で押した。
「ここに、白い粉が付着している」
藤井は目を見開いた。
「チョークの粉……!」
「そうだ。
つまり、犯人は“チョークを扱う人物”であり、
“倉庫に出入りできる人物”でもある」
矢代は手袋を袋に入れ、倉庫の外へ出た。
「藤井。
犯人像が少しずつ見えてきた」
「どんな人物ですか?」
矢代は坂の上を見つめ、静かに言った。
「この坂をよく知っていて、
公園からの視線にも気づくほど警戒心が強く、
チョークを扱う職業で、
倉庫に自由に出入りできる人物——」
藤井は息を呑んだ。
「……教師?」
矢代は微笑んだ。
「可能性はある。
だが、まだ決めつけるには早い」
風が吹き、霧がわずかに揺れた。
その揺れの中に、矢代は“影”を感じ取っていた。
「藤井。
犯人は、まだこの坂のどこかにいる」
藤井は背筋を伸ばした。
「じゃあ……次はどうします?」
矢代は爽やかに笑った。
「決まっている。
“チョークを扱う人物”を洗う。
そして——」
霧の向こうを見つめながら、静かに言った。
「三宅浩一が恐れた“危険な人物”を見つける」
坂の上から、冷たい風が吹き降りてきた。
その風は、まるで犯人の気配を運んでくるかのようだった。




