第1話 白霧坂殺人事件 第2章 防犯カメラと沈黙する坂
藤井が鑑識班を連れて戻ってきたのは、通報から三十分ほど経った頃だった。
霧は少しずつ薄くなり、坂の輪郭がようやく見え始めていた。
「矢代さん、白い粉の採取終わりました。鑑識が急いで分析に回します」
「助かる」
矢代は短く答え、坂の上を見上げた。
霧の向こうに、街灯と電柱がぼんやりと浮かんでいる。
「藤井。防犯カメラを確認しに行くぞ」
「はい」
二人は坂を上り始めた。
霧が薄くなったとはいえ、まだ視界は悪い。
足元の砂利が小さく音を立てるたび、藤井は無意識に緊張していた。
「……しかし、変な事件ですね」
「変じゃない事件なんて、滅多にないさ」
矢代は軽く笑った。
その声は、まるで散歩でもしているかのように軽やかだった。
「被害者は坂を上っていた。
犯人は足跡を残していない。
凶器は消えている。
白い粉は謎。
そして——」
矢代は歩みを止め、霧の向こうを指差した。
「この坂には、逃げ場がない」
藤井は息を呑んだ。
「……つまり、犯人は“消えた”?」
「そう。
だが、消える人間なんていない。
いるのは——」
矢代は楽しげに目を細めた。
「“消えたように見せる方法”だ」
藤井は苦笑した。
「矢代さん、やっぱり楽しんでますよね」
「事件は悲劇だ。
だが、謎は楽しい。
それは別の話だ」
その言葉は、矢代の捜査哲学そのものだった。
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坂の上にある防犯カメラは、古いアパートの外壁に取り付けられていた。
管理人の老人が鍵を開け、録画データを提供してくれた。
「この時間帯は、ほとんど人が通らんよ。
霧が濃いからねえ」
管理人はそう言って肩をすくめた。
藤井がノートパソコンにデータを読み込み、再生する。
画面には、霧の中を歩く人影が映っていた。
「これ……被害者ですね」
三宅浩一が、ゆっくりと坂を上っていく。
足取りは重く、何度も後ろを振り返っている。
「追われていたのかもしれませんね」
藤井が言うと、矢代は首を振った。
「違うな。
追われている人間は、もっと速く歩く。
これは……迷っている歩き方だ」
「迷っている?」
「そう。
目的地が曖昧な時の歩き方だ。
行くべき場所があるのに、行きたくない時の歩き方でもある」
藤井は画面を見つめた。
「じゃあ、犯人は?」
「映っていない」
矢代は即答した。
「このカメラの死角を通ったんだろう。
だが——」
矢代は画面を指差した。
「藤井、ここを見ろ」
「え?」
「被害者の背後。
霧の濃さが、一瞬だけ変わっている」
藤井は目を凝らした。
確かに、三宅が通り過ぎた直後、霧がわずかに揺れたように見える。
人影は映っていない。
だが、霧の“動き”だけが不自然だった。
「……誰か、いた?」
「いた。
だが、映っていない。
つまり——」
矢代は、まるで宝物を見つけた子どものように微笑んだ。
「犯人は“映らない方法”でここを通った」
藤井は思わず声を上げた。
「映らない方法なんて……あるんですか?」
「あるさ。
この坂なら、なおさらね」
矢代は坂の下を見下ろした。
霧がゆっくりと流れ、白い海のように揺れている。
「藤井。
この事件は、まだ始まったばかりだ」
その声は、重苦しい事件の中にあって、
なぜか爽やかで、明るかった。




