第1話 白霧坂殺人事件 第15章 旧診療所の真相
旧診療所跡地は、白霧坂のさらに奥、
街灯も届かない薄暗い場所にひっそりと佇んでいた。
かつて地域医療を支えた建物は、今では廃墟同然で、
窓は割れ、壁は剥がれ、風が吹くたびに軋む音が響く。
藤井は息を呑んだ。
「……こんな場所に、佐伯さんが……?」
「高梨の言葉が本当なら、ここにいる」
矢代は懐中電灯を構え、ゆっくりと敷地内へ足を踏み入れた。
風が吹き抜け、枯れ葉が舞う。
その音が、まるで誰かの囁きのように聞こえる。
建物の入口は半開きになっていた。
藤井が震える声で言う。
「……誰かが入った跡ですね」
「そうだ。
そして、まだ中にいる」
矢代は扉を押し開けた。
---
中は暗く、湿った空気が漂っていた。
古い薬品棚、倒れたストレッチャー、散乱したカルテ。
かつての医療の痕跡が、今はただの影となって残っている。
その奥から——
微かな声が聞こえた。
藤井が身を固くする。
「今の……佐伯さん……?」
矢代は手で制し、慎重に進んだ。
廊下の突き当たり、
かつて処置室だった部屋の前で、
扉がわずかに揺れている。
矢代は静かにノブを回した。
---
部屋の中には、
古い診察台の上に座り込む佐伯美咲の姿があった。
その隣には——
白い看護服の女性が立っていた。
佐伯の肩に手を置き、
優しく微笑んでいる。
だが、その微笑みはどこか歪んでいた。
藤井が叫んだ。
「佐伯さん!」
佐伯は顔を上げ、涙を浮かべた。
「藤井さん……矢代さん……!」
看護師はゆっくりと振り返った。
その瞳は、静かで、深く、そして——
どこか壊れていた。
矢代は名を呼んだ。
「……白川玲奈 さんですね」
白川は微笑んだまま言った。
「ええ。
どうしてここに?」
矢代は淡々と答えた。
「あなたが佐伯美咲を連れ出したからです」
白川は首を傾げた。
「連れ出した……?
違いますよ。
私はただ、美咲ちゃんを守っているだけです」
藤井は息を呑んだ。
「守る……?」
白川は優しく佐伯の髪を撫でた。
「美咲ちゃんは優しい子。
でも、周りには危険が多すぎる。
だから私が守らなきゃいけないの。
ずっと……ずっとね」
佐伯は震える声で言った。
「玲奈さん……もうやめて……
私は……あなたに守られなくても……」
白川の表情が一瞬だけ歪んだ。
「美咲ちゃんは、私がいないとダメなの。
ねえ……そうでしょう?」
矢代は静かに言った。
「白川さん。
あなたは三宅浩一を殺した」
白川は微笑んだまま、ゆっくりと首を振った。
「違いますよ。
あの人は……勝手に倒れただけです」
藤井が叫んだ。
「嘘だ!
あなたが刺したんだ!」
白川は淡々と答えた。
「刺してなんかいません。
ただ……
“美咲ちゃんに近づかないように”言っただけ」
矢代は目を細めた。
「三宅はあなたの執着に気づき、佐伯に警告した。
あなたはそれを“奪われる”と感じた。
だから——
白霧坂で待ち伏せした」
白川の微笑みが消えた。
「……美咲ちゃんを守るためなら、
何だってするわ」
佐伯が叫んだ。
「玲奈さん、やめて!
私は……あなたに守られたいなんて思ってない!」
白川の瞳が揺れた。
「……どうして……?
どうしてそんなこと言うの……?
私は……美咲ちゃんのために……」
矢代は一歩前に出た。
「白川さん。
あなたの“守る”は、守るではない。
“支配”だ」
白川の顔から血の気が引いた。
「違う……違う……
私は……美咲ちゃんを……!」
その瞬間、白川は佐伯の腕を掴んだ。
「美咲ちゃんは……私と一緒じゃないと……!」
藤井が叫んだ。
「やめろ!」
矢代は素早く動き、白川の手首を掴んだ。
「白川さん。
あなたはもう終わりだ」
白川は崩れ落ちるように膝をつき、
涙を流しながら呟いた。
「……どうして……
どうして……美咲ちゃんは……
私だけを見てくれないの……?」
佐伯は泣きながら言った。
「玲奈さん……
私は……あなたの友達でいたかった……
でも……あなたの“守り方”は……怖かった……」
白川は顔を覆い、嗚咽した。
矢代は静かに言った。
「藤井。
連行だ」
藤井は頷き、白川に手錠をかけた。
白川は抵抗しなかった。
ただ、泣き続けていた。
---
外に出ると、霧が少しだけ晴れていた。
夜空には、かすかな星が見える。
佐伯は震える声で言った。
「……三宅さん……
私を守ろうとしてくれていたんですね……」
矢代は頷いた。
「そうだ。
彼はあなたを救おうとした。
その行動が、結果的に命を奪われることになったが……
彼の“選択”は間違っていなかった」
佐伯は涙を拭った。
「……ありがとうございます」
矢代は爽やかに微笑んだ。
「事件は重い。
だが、真実は軽やかだ。
そして——
必ず光の方へ向かう」
霧の向こうで、夜明け前の空がわずかに白み始めていた。




