Chapter 07 『ザクオン』
図書館の午後の光は、まるで埃を可視化するためだけに存在しているようだった。
ヒトミは『銀河鉄道の夜』に視線を落とし、指先で活字をなぞる。カムパネルラ、ジョバンニ…その名前を心の中で繰り返すだけで、ほんの少しだけ、この息苦しい現実から逃れられる気がした。
ページの向こうに銀河の夢を見ようとした、その矢先
――背中に粘着質な声が降ってきた。
カオルが、ヒトミの椅子の背もたれに汚れたスニーカーの裏を擦り付けながら、鼻で笑った。
「ヒトミさぁ、そんな暗い顔して、また本読んでんの? ウケる。“悲劇の文学少女”アピール?」
――ザクッ。
その言葉は、研ぎ澄まされたガラスの破片となって、ヒトミの胸に突き刺さる。
隣に立ったユリナが、眼鏡のブリッジを押し上げ、まるで検体でも分析するようにヒトミの頭のてっぺんから爪先までを見下ろし、静かに追撃する。
「プロファイリングは完了しています。あなたは、受動的攻撃性を内包した自己愛の塊。結局のところ、誰かに『可哀想だね』『本当は才能があるのにね』とチヤホヤされたいだけでしょう? “陰キャ”を演じながら、『私だけは特別』と信じて疑わない。その浅ましい自己顕示欲、ログに全部残っていますよ」
――ザクッ。
ヒトミの指先が小さく震え、ページの上に黒い影を落とす。
カオルは、ユリナの言葉でヒトミのガードが下がったのを見て、わざと図書館中に響き渡るような大声を出した。
「だいたいよぉ、お前、転校生が来てから調子乗ってんじゃねえの!? あいつを盾にして、自分も強くなったつもりか? ほんと、地味なくせに虎の威を借る狐とか、一番イタイんだよ!」
――ザクッ。
ヒトミの喉がひきつる。言い返したいのに、声帯が鉛のように固まって声にならない。
ただ、『銀河鉄道の夜』の活字が、堪えきれない涙でゆっくりと滲んでいく。
ユリナはさらに、冷酷な未来予測を告げる。
「あなたの将来、予測してあげましょうか? あなたは必ず“職場で浮くタイプ”です。真面目なフリをして、内心では同僚を見下し、でも結局、誰からも理解されずに孤立する。そして、夢を追い続けた“つもり”のまま、誰の記憶にも残らない、取るに足らない“ノイズ”で終わる。……哀れですね」
――ザクッ。
「その歌もどきのポエムも、一生誰にも届かない。……無価値な雑音」
――ザクッ。
ヒトミは胸を押さえた。心臓を直接、何度も何度も刺されるような感覚。
だが、彼女たちの攻撃は止まらない。矛先は、静寂を守っていたもう一人へと向けられた。
カオルは、窓際で本を読んでいた芽衣子を、顎でしゃくりながら睨みつける。
「で、そこの転校生。その髪型なに?
ツインテール? チアリーダーのつもりか? なんの応援してんだよ、お前」
――ザクッ。
ユリナが、わざと両手をメガホンのようにして口元に当て、冷笑を浮かべる。
「フレー! フレー! “孤独な”自分? ぷっ…自己応援ですか。承認欲求の現れですね。見ていて痛々しい」
――ザクッ。
カオルは肩をすくめて大げさに笑った。
「ツインテなんかでイキっていいのは小学生までなんだよ。転校してきたばっかで“応援団長”気取りとか、マジで笑わせんな!」
――ザクッ。
ヒトミの目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
自分だけじゃない。芽衣子まで、容赦なく抉られていく。もう、耐えられない。
そのときだった――
――パタン。
机の上で、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』が閉じられた。
まるで、裁判官が判決を告げる前の、最後の静寂。
その重い音が図書館に響き渡り、空気が凍り付いた。
芽衣子が、ゆっくりと立ち上がる。
二つに結われた緑の髪が、まるで意思を持ったかのように、静かに揺らめいた。
彼女の声は、絶対零度の氷のように、低く、冷たく響いた。
「……雑音? 違うわ」
カオルとユリナが、その気配に息を呑む。
芽衣子は一歩、床を踏みしめる。それは宣告だった。
「お前らの声は――ザク、ザク、ザク、ザク…うるせえザクオンだな」
緑の燐光が、彼女の髪を舐めるように走る。
「――否。ただの雑魚」
図書館の空気が一変した。
本棚がざわめき、ページというページが一斉に震える。
芽衣子は拳を握りしめ、最後通告を刻んだ。
「雑魚は黙ってな」
ドクン。ドクン――。
空間そのものが、巨大な心臓のように脈打ち始める。
「爆音――」
緑の炎が、彼女の拳に凝縮されて、爆ぜた。
次の瞬間。
「バゴンーーーーーーーーッ!!!」
不可視の衝撃波が、机ごとカオルを吹き飛ばした。カオルの身体はラグドールのように宙を舞い、本棚に叩きつけられて崩れ落ちる。
衝撃で窓ガラスがビリビリと震え、本棚から無数の本が紙吹雪のように乱舞した。
ユリナは、自慢の分析能力が完全にフリーズし、口を開けたまま凍りついている。
周囲の生徒たちも、誰一人言葉を発せない。ただ、目の前のカタストロフを、唖然と見つめるだけだった。
緑の炎の残滓を纏った芽衣子だけが、静かに佇んでいた。
その背中を見つめるヒトミの胸は、恐怖と、安堵と、そして今まで感じたことのない種類の、凄まじい高揚感で、バクバクと激しく高鳴っていた。
(to be continued…)




