Chapter 06 『Distorted Reverberation』
ヒトミは、深い水底から引き上げられるように、夢から落ちて目を覚ました。
頬に触れるのは、ひんやりとした木の机の感触。鼻をつくのは、古い紙とインクの匂い。
――ここは、竜胆学園の図書館。
さっきまで見ていた、蛍光灯が爆ぜ、教室が歪むあの悪夢は、本当にただの夢だったのだろうか。
だが、制服のポケットに忍ばせた緑のライターは、まるで今も悪夢の熱を宿しているかのように、じんわりと温もりを放っていた。
ページをめくる、乾いた音。誰かの静かな呼吸。ここは、あの殺伐とした教室とは違う、時間の流れが澱んだ聖域だ。
ヒトミは視線を落とす。
目の前に開かれているのは、読みかけの『銀河鉄道の夜』。
主人公のジョバンニは孤独だった。誰も隣にいないまま、ただ星々の間を走る列車に揺られていた。
(……私みたい)
ヒトミはそっと、活字で描かれた天の川の挿絵を撫でる。もし自分もあの列車に乗れたなら、終着駅で誰かを待つことができるだろうか。誰が、私のために苹果を差し出してくれるだろうか。
ふと視線を上げると、窓際に座る少女の姿が目に入った。
植物が光を求めるように、自然とそちらに目が吸い寄せられた。
反町芽衣子
彼女は、この図書館の静寂そのものを体現したかのように、そこに座っていた。
(反町さんも……図書館、来るんだ)
教室での、まるで世界そのものに喧嘩を売っているかのような彼女の姿とは、あまりにかけ離れている。
芽衣子が読んでいたのは、分厚いハードカバーの本だった。
背表紙には、金色の文字で『罪と罰』と刻まれている。
ラスコーリニコフ
――正義のために人を殺し、その罪の意識に永遠に苛まれる男の物語。
芽衣子の目は、その活字の一文字一文字を射抜くように追っていた。彼女は本を読んでいるのではない。まるで、作者であるドストエフスキー本人と、無言の対話でもしているかのようだった。
「正義と暴力は、コインの裏表の共犯。問題は……誰がそれを投げる権利を持つのか」
小さく、しかし確信に満ちた呟きが、ヒトミの耳に届いた。
ハッとして顔を上げる。芽衣子は本から目を離していない。独り言。だが、まるでヒトミの心を見透かし、語りかけているかのようだった。
芽衣子の瞳の奥に、一瞬だけ緑の炎が灯ったように見えた。
パタン、と彼女は本を閉じる。その音だけが、やけに大きく響いた。
そして初めてヒトミの方を見て、薄く笑みを浮かべる。
「――罪を罰する者は、果たして自分より清いのかね」
ヒトミは息をのむ。答えられない。
『銀河鉄道の夜』が語る自己犠牲の答えと、『罪と罰』が突きつける罪の問いが、頭の中で混じり合う。夢の残滓が、現実の輪郭を揺らし始めていた。
――その時。
ガアンッ!と、鉄の扉が壁に叩きつけられる轟音が響いた。
図書館の静寂が、無残に踏み荒らされる。
「いたいた、ここだわ」
プリン色のツートンカラーの髪をしたカオルが、下品な笑い声をあげる。その後ろから、理知的な眼鏡の奥で冷たい目を光らせるユリナが、まるでデータを確認するように二人を見定めていた。マユの忠実な“牙”たちだ。
「おいコラ地味女! マユさんがお呼びだっつってんのに、こんなとこで油売ってんのか!」
カオルはわざと本の背表紙を床に叩きつけながら歩いてくる。その音に、数少ない利用者の肩がびくりと震えた。
ユリナは、スマホを操作しながら、ヒトミの前で立ち止まる。そして、画面から目を離さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「宮沢ヒトミさん。昨夜のカラオケの履歴、拝見しましたよ。『銀の龍の背に乗って』…92.5点。なかなかお上手ですね。…ああ、検索履歴も興味深かったです。『孤独 紛らわす方法』…ふふっ、答えは見つかりましたか?」
全身の血が凍り付く。なぜ、そんなことまで。
「本はいいですよね。紙は燃やせば灰になりますが、デジタルデータは一度ネットの海に放てば永遠に消えません。あなたのその恥ずかしいポエムノートも、スキャンして学園の裏サイトにアップすれば、きっと多くの人が“楽しんで”くれますよ」
ユリナの言葉は、物理的な暴力よりも深く、ヒトミの聖域を抉った。
カオルが、ニタニタと笑いながら机をバンッと叩いた。
「聞いてんのか、コラ! マユ先輩が、転校生とつるんで調子乗んなって、そう伝えてこいってよ!」
その衝撃で、ヒトミの読んでいた『銀河鉄道の夜』が床に落ちる。
ヒトミは震える指で本を拾い上げ、ぎゅっと抱きしめた。
その時、芽衣子がゆっくりと顔を上げた。
何の感情も浮かんでいない、ガラス玉のような瞳。
その視線が、まずカオルを射抜いた。
「ひっ…!」
カオルは一瞬、蛇に睨まれた蛙のように怯み、ユリナの背後に隠れるように半歩下がる。
だが、すぐに虚勢を取り戻し、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あァ!?んだよ、テメェ! 一人じゃ何もできねえくせにイキってんじゃねぇぞ! こっちは二人だぞ、わかってんのか!?」
芽衣子の視線が、次にユリナへと移る。
ユリナは臆することなく、冷ややかに微笑んだ。
「反町芽衣子さん。あなたの前の学校での“記録”、まだロックが固くて面白いデータが引き出せません。ですが、時間の問題です。あまり私たちを“刺激”しない方が、ご自身のためかと思いますが?」
芽衣子は何も答えない。ただ、静かに二人を見つめているだけだ。
その沈黙に苛立ったカオルが、再びヒトミに向き直る。
「おい、まずはお前からだ! ちょっとツラ貸せや!」
ヒトミのポケットの中で、緑のライターが再び熱を帯び始める。
夢か、現実か。悪夢の続きが、今、目の前で始まろうとしていた。
次の瞬間、カオルの手がヒトミの肩を掴むために、乱暴に伸ばされた。
――そして、世界は再び、歪み始めた。
(to be continued…)




