Chapter 05 『CHAΩS ― 歪の火』
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。だが、その音は鼓膜に届いた瞬間、神経を直接削るような金属音と共に逆回転を始める。時計の針が狂ったように高速で逆回りし、教室の空気が肺から強制的に吸い出されていくような感覚。
時間は進むのではない。世界の法則が、巨大な爪で乱暴に引き裂かれていく。
「……え?」
ヒトミが呟くと、窓ガラスに映った自分が三秒遅れて、無音で嘲笑い返す。その唇は、笑うというより、左右に醜く裂けているように見えた。
黒板の文字が蠢き、ざわめき始める。チョークの粉が意思を持った虫のように集まり、文章を形成していく。
「Whispers in the Concrete… コンクリートがお前の孤独を啜る」
誰の声だ? いや、声ではない。教室そのものが、地鳴りのような重低音でラップを刻んでいる。地獄の釜の底から響くような、不吉なビート。
机と椅子が、ギチギチと音を立てて足を変形させ、捕食者のようにヒトミを包囲し始める。
そして、その包囲網の中から、四拍子の呪いが物理的な衝撃となってヒトミを襲った。
Bang / Slang / Chain / Stain
(叩き壊し/罵り/鎖に繋ぎ/汚してやる)
それはもはや言葉ではなく、魂に直接焼き付けられる烙印だった。
レイナの影が、ピクセルノイズを撒き散らしながら三重に重なる。まるでグリッチを起こしたゲームキャラクターだ。その口から発せられる声は、何百もの悪意あるSNSコメントが合成されたかのような、耳障りな合成音声だった。
アヤネの笑い声は、骨が砕ける乾いた音だけをサンプリングして、無限にループしている。
そして玉座に座るマユの姿は、冷たい大理石の彫像のように微動だにしない。ただ、その見開かれた瞳だけが、ヒトミの心を隅々まで検閲するように、じっとりと見つめていた。
「「「ヒトミ、お前の歌は昭和のレクイエム」」」
三人の声が、歪んだハーモニーとなって空間を圧迫する。
「「「私達はネオンで燃える瓦礫のストロング」」」
彼女たちが嘲笑と共に口ずさんでいるのは、ヒトミがノートに書き溜めた、誰にも見せたことのないはずの歌詞の断片だった。聖域を、土足で踏み荒らされる感覚。
「『堕ちて、落ちて、墜ちて』?――ダサすぎ!」
「そんなスタイルじゃ、この瓦礫じゃ笑えない!」
――その瞬間、天井の蛍光灯がガラスの絶叫をあげて爆ぜ、絶対的な暗闇が落ちてきた。
いや、違う。
暗闇の中から、一体の怪物が現れた。
それは、レイナの姿をしていた。だが、その顔は捕食者のように歪み、背後には彼女自身の巨大な影が、まるで悪意そのものが実体化したかのように聳え立っている。
そして、その影が握っていたのは……
――バチバチと青白い火花を散らす、剥き出しの蛍光灯。鈍器のように、光る棍棒のように。
絶望がヒトミを飲み込もうとした、その時。
彼女の手が、意思とは関係なく動いた。ポケットを探り、あのライターを握りしめる。それは祈りであり、たった一筋の反逆だった。
緑の炎が、その狂気を切り裂いた。
ヒトミの手から、意思を持ったようにライターが飛び出し、空中で火を灯す。
熱はない。ただ空間を焼き、悪夢の法則そのものを燃やしていく、原初の光。
炎の中から現れたのは、芽衣子だった。
だが、普段の彼女ではない。瞳は感情のないエメラルドの光を放つだけで、その口元は全てを拒絶するように固く結ばれている。髪は、まるで燃え盛る海藻のように、静かに、しかし激しく逆立っていた。
悪夢のどこかから、囁きが聞こえた。
「……冥子」
それは、冥府の神に与えられるべき名前。
冥子の緑の炎が、レイナの影ごと蛍光灯を焼き尽くす。
壁が溶け落ち、教室は夜の街へと変貌した。錆びた廃墟、川面に滲むネオン、墓石のように立ち並ぶ無数のビル群。
だが次の瞬間、世界は安っぽい折り紙のようにくしゃりと畳まれ、再び同じ教室の、同じ机の前に引き戻される。ループ。ループ。ループ。景色が、音が、思考が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
視界が二重、三重にブレて、ヒトミの精神は悲鳴をあげる。
だが、そのノイズの奥から、はっきりと一つの声を聞いた。
それは、冥子の声。いや、昨夜、路地裏で聞いた芽衣子の声。
「いいえ……私は」
それは、この混沌に対する拒絶か。あるいは、ここからの誕生の宣言か。
ヒトミのポケットの中で、いつの間にか戻っていた緑のライターが、火傷しそうなほどに熱を帯びる。それは、この悪夢がただの夢ではないことを証明する、確かな感触だった。
これは、誰かが自分に見せている、“啓示”なのか。
次に瞼を開ければ、またあの教室か。
それとも……
――全く知らない、静まり返った図書館の本棚の間か。
そして映像は
――まるで腐敗したフィルムが映写機で焼き切れるように、白い光点だけを残して
――ブツリと途切れた。
(to be continued…)




