Chapter 04 『Green Flame Rising』
竜胆学園女子高等部の空気は、朝から錆と安い香水の匂いがした。
チョークの粉が舞う教室、誰かのけたたましい笑い声、机に彫られた無数の傷。そんなありふれた風景の一つ一つが、ここは“楽園”ではなく“檻”なのだと物語っている。
ヒトミは机に肘をつき、ポケットに収めたプラスチックの感触を確かめていた。
(あれは……幻じゃなかった)
昨夜、指先で灯した緑色の炎。熱を感じさせず、ただ静かに闇を吸込むように輝いていた冷たい光。その残像が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
あれは、武器だと彼女は言った。
この、弱肉強食が唯一のルールである竜胆学園で、自分に何と戦えというのだろう。
「――マジかよ、この竜胆に転校生?」
「好んで地獄に来るとか、イカれてんじゃねえの」
「それとも、よっぽど腕に自信があんだろ」
そんな囁きが、教室という名の縄張りの中を、血の匂いに気づいた獣のように駆け巡っていた。ヒトミはその輪にはいない。いつも通り、誰の縄張りにも触れないよう、ただ息を殺しているだけだ。
カラリ、と教室のドアが開く。
人生に諦めきった顔をした担任が、死んだ魚のような目で言った。
「はい、席つけー。どうせ聞いてもいねえだろうが、HR始めるぞ。その前に、紹介する。今日から新しい仲間だ。……入れ。自己紹介しろ」
――足音。
静かで、一定のリズムを刻む、迷いのない音。
その音だけで、教室中の獣たちが一斉に口を閉じ、獲物を見定める目になった。
現れた少女を見て、ヒトミは息をのんだ。
竜胆学園の制服に刺繍された“竜胆”の花。その紫が色褪せて見えるほど、彼女の髪は鮮烈な緑だった。まるで静止した炎。その奥で揺れる瞳は、昨夜、自分の指先で灯った火種そのものだった。
彼女がそこに立つだけで、教室の序列が、空気が、一瞬にしてリセットされる。温度が数度下がり、代わりに肌を刺すような闘争心と好奇が満ちていく。
「……反町芽衣子、です」
短く、低く、しかし教室の隅々まで染み渡るような声。
そう名乗った瞬間、教室の時間が止まった。
まるで、この学園の絶対的な女王であるマユですら、その存在を測りかねて息を潜めているかのようだった。
その静寂を破ったのは、無言の反応だった。
窓際で腕を組んでいたレイナが、初めてスマホから顔を上げた。その口角が、解析不能なバグを見つけたハッカーのように、僅かに吊り上がる。
マユは隣の席のアヤネにだけ聞こえるように「……へえ」と呟き、その目は新しい玩具を見つけたように愉悦に細められた。
そして、一番後ろの席で机に肘をついていたアヤネが、初めて獰猛な笑みを消し、
真顔で芽衣子を、その首筋を、体幹を、拳を握る指の長さを、値踏みするように見つめている。
ヒトミだけが、動くこともできずに固まっていた。
昨夜の路地裏。緑の炎。そして、今目の前に立つ少女の姿。
バラバラだったピースが、脳内で強制的に一つの絵を完成させる。
胸の奥が、あの冷たいはずの炎で焼かれるように、熱くなった。
「じゃあ、反町の席は……」
担任が面倒臭そうに教室を見渡す。空いている席は一つしかない。
「ああ、あそこだ。宮沢の隣」
宮沢。
それは、ヒトミの苗字だった。
教室中の視線が、一斉にヒトミへと突き刺さる。
“なぜ、あいつの隣に?”
“マユたちが目を付けてる雑魚だろ?” “面白いことになりそうじゃん”
好奇、侮蔑、愉悦。様々な感情の視線が、槍のように降り注ぐ。
その集中砲火の中、芽衣子は再び静かに歩き出した。
誰と目を合わせるでもなく、まっすぐにヒトミの隣の空席へ向かう。
ガタリ、と芽衣子の椅子が床を擦る音。
それは偶然か、必然か。
もはや、ヒトミにそれを考える余裕はなかった。
隣に座った芽衣子から、消毒液のような、それでいてどこか甘い、不思議な匂いがした。
「その沈黙、燃やしてあげる」
耳元で、囁くような、しかし燃えるマグマのような熱を帯びた声が聞こえた。
ヒトミが驚いて隣を見ると、芽衣子はまっすぐ前を向いたまま、唇の端だけで続けた。
「……あんたの“本当の歌”にするために」
ヒトミは、はい、とも、いいえ、とも答えられない。
声が、鼓膜を通り越して脳に直接焼き付く。
隣に座る少女は、何事もなかったかのように教科書を開いている。その横顔を、見ることができない。視線を少しでも動かせば、あの緑の瞳と目が合ってしまいそうで、全身が硬直する。
消毒液と甘い匂い。静かな呼吸音。すぐ隣にある圧倒的な“異物”。
『沈黙を燃やす』?
『本当の歌』?
私の、あの誰にも見せたことのないノートの中身を、この人は知っているとでもいうのか?
思考がまとまらない。心臓の音だけがうるさい。
何とか平静を装って、鞄から教科書を取り出そうとする。けれど、指先が言うことを聞かない。震える手で掴んだ教科書が、ガタ、と音を立てて机の角にぶつかった。
小さな音。
なのに、教室中の視線がその音源に集中したのが、肌でわかった。
マユの嘲笑う気配。
レイナの冷たい視線。
アヤネの面白がる気配。
ポケットの中のライターが、まるで心臓と共鳴するように、熱を帯びていく気がした。
逃げられない。
もう、隅で息を潜めているだけの『宮沢ヒトミ』ではいられない。
緑の炎は、私のすぐ隣で、静かに燃え上がってしまったのだから。
(to be continued…)




