Chapter 02 『100円ライター』
マユたちの嘲笑も、悲鳴も、走り去る足音も、すべてが嘘のように夜の路地に吸い込まれていった。
後に残されたのは、耳元で鳴り続ける自分の心臓の音と、雨上がりのような、それでいてどこか金属的なオゾンの匂い。そして、圧倒的な静寂だけだった。
走り去る足音の奥で、誰かの声が震えていた。
「……今の、見た?」
「あれ……人間じゃないよ」
その断片だけが、雨の匂いに溶けて消えた。
(芽衣子……)
胸の奥で、その名がそっと形になった。
緑の炎よりも静かに、それでも確かに灯っていた。
ヒトミはノートを胸に抱え、さっきまで自分を守ってくれた少女
――”自称サソリ”こと芽衣子の背中を見上げる。
手足の震えが止まらない。それは恐怖か、安堵か、それとも生まれて初めて他人に“守られた”ことへの戸惑いか、自分でもわからなかった。
あまりに非現実的な光景に、これはまだ、あの薄暗いカラオケボックスで見る悪夢の続きなのではないかとすら思った。
彼女は何も言わず、ただ夜の闇に溶け込むように歩き去ろうとしていた。
その背中に声をかけなければ。
(お礼を言わなきゃ。でも、なんて言えば? あの緑の炎はなに? あなたは、いったい、誰?)
思考がまとまらないまま、喉が乾いて言葉にならない。
「……待って」
かろうじて絞り出した声に、芽衣子は振り向かなかった。
ただ、その肩がほんの少しだけ揺れたのを、ヒトミは見逃さなかった。
代わりに、彼女の足元で乾いた音がした。
カラン。
街灯に照らされたアスファルトの上に、安っぽいプラスチックのライターが転がっていた。
透明な緑色のボディ。
百円ショップのワゴンに山積みされているような、ありふれた使い捨てライター。
ヒトミは吸い寄せられるようにそれを拾い上げた。
指先に触れたプラスチックはひんやりと冷たく、成形時のバリが微かに残っているのがわかるほどチープな作りだ。
ただの安物のはずなのに、なぜか、自分の空っぽの人生すべてを合わせたよりも、ずっしりと重い質量を感じた。
「……それ、あげる」
ようやく振り向いた芽衣子が短くそう告げた。
表情は暗がりに隠れて見えない。
けれどその声には、ただの親切ではない、これは“お前”の物語だ、と突きつけるような響きがあった。
「ただの100円ライターよ。……でも、アンタが“あんた”でいるための、最初の武器」
「……武器?」
「使い方くらい、自分で考えなさい」
次の瞬間、彼女の姿は本当に、影に溶けるように消えていた。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、あまりにもあっけなく。
家までの帰り道、ヒトミは何度もポケットの中のライターに触れた。硬くて、角張った感触。遠くを走る電車の音も、すれ違う人々の話し声も、すべてが遠い世界の出来事のように聞こえる。自分の掌の中に、先ほどの非日常がまだ続いている。
誰かが見ている、でも誰に見られても何も気にならない。
さっきまでの自分と、今の自分は、もう違う人間なのではないか。そんな気さえした。
自室に戻ったヒトミは、ドアに鍵をかける。カチリ、という小さな金属音が、外界との断絶を告げた。
ベッドに倒れ込みながら、震える手でライターを握りしめる。
(武器……これが?)
訳が分からないまま、お守りのように、あるいは呪いのようにそれを見つめる。
そして、確かめるように、親指でヤスリを弾いた。
――カチッ。
部屋の静寂の中で、その音だけがやけに大きく響いた。
予想していたオレンジ色の炎ではなかった。
ライターから現れたのは、あの路地で見たものと寸分違わぬ、静かに揺らめく緑色の炎だった。
音は、ない。ガスが燃える微かな音さえ聞こえない。
熱も、ない。恐る恐る手をかざしても、温度の変化は一切感じられなかった。それどころか、炎の周りの空気だけが、シンと冷えていくような錯覚さえ覚える。
部屋の明かりを消したわけでもないのに、その小さな炎はまるで闇を喰らうように、周囲の光を吸い込んで輝いている。
美しく、そしてどこまでも冷たい光。
自分の部屋の壁に映る影が、その緑光に照らされて奇妙にねじれ、まるで生き物のように蠢いている。
ヒトミは息をのんだ。
これは、火種などという生易しいものではない。
手渡されたのは、地獄の業火の一欠片。
あるいは、この理不尽な世界に反撃するための、たった一つの燐光。
そのどちらであるのかも、まだ彼女は知らない。
ただ、この小さな緑の炎が、自分の“本当の歌”の始まりになるだろうと、予感だけが胸を焦がしていた。
(to be continued...)




