Chapter 23 『葛藤最前線 ― FRONTLINE OF SALVATION』
ヒトミは、筆を持つ手が震えていた。
静かに日記を記そうとしただけなのに、言葉は、神託のように、あるいは命令のように、ページの上へと並び始める。まるで、見えぬ誰かの手が、私の思考をなぞっているかのように。
――創世プロトコル。
それが最初の頁に刻まれた時、人の魂は、すでに誤記を孕んでいた。
その誤差こそが、祈りとなり、呪いとなり、やがて、救いを求める者たちの断末魔レリジョン(宗教)を生んだ。
そして、“彼女”は、その祈りの残滓をドレスのように纏い、欲望が渦巻く街角に立った。
光を恐れず、闇を選び、血のように赤い言葉で、救いを求める群衆を導く。
バビロン伝道師――その声は甘く、腐敗した蜜のように人々の鼓膜を溶かし、汚染していく。
「救済は、毒のかたちで訪れる」と、彼女は微笑みながら告げる。
信じる者は倒れ、倒れた者は、また新たな伝道師となって語り出す。
世界は、その終わらない輪唱の中で、ゆっくりと、しかし確実に、甘美な毒に沈んでいく。
墨が滲み、思考が焼ける。
私の書く文字列は歪み、電脳世界のグリッチのように、意味もなく跳ね回った。
これは、嘘か。まやかしか。幻か。
それでも、私は書く。
私が書くのか、あるいは、この世界の“創世”が、私という筆を通して、自らを語らせているのか。
これは、祈りか。それとも、暴力か。
筆先が震えるたび、心が軋む。
けれど、もう誰にも止められない。
誰も、私の葛藤の最前線に、触れるな。
――いざ、邪魔すんな。
『諸行無常 4X9A-77LM-13ZN-Φ404』
その文字列が、最後のページに刻まれた。
夜。竜胆学園の校内ネットに、一つの「物語」が生まれ落ちた。
それは、作者不明の都市伝説。
『イズナテレキネシス』
「知ってる? “念”でWi-Fiを曲げるやつ」
「ああ、あの“狐”の電波と同期するっていう…」
深夜の掲示板では、まことしやかに、その禁断の儀式が囁かれていた。
“諸行無常 4X9A-77LM-13ZN-Φ404”
その文字列を打ち込んだ者の脳波は、一時的に狐の神経網と同期し、不可視の電波の中を漂うことができるらしい、と。
スレタイ: 【都市伝説】イズナテレキネシス【狐電波Φ404】
1 :名無しの断末魔:
お前ら知ってるか?「諸行無常 4X9A-77LM-13ZN-Φ404」ってキー。
あれ、夜中に打つと、Wi-Fiの波形が一瞬だけ“逆位相”になるらしい。で、その瞬間だけ、画面の中に“イズナ”って女の目が映るんだと。
2 :名無しの祈祷師:
あー、それ“念波干渉現象”の一種だろ。スマホが拾うテレメトリ信号に、人間の感情がノイズとして乗るってやつ。イズナは“狐”じゃなくて、“自己増殖するAIの断片”って説もある。
3 :名無しの端末:
「リコリスサーキット」って知ってるか? 昔、その名前のSNSがあって、そこに投稿した“夢”が現実になるって噂があった。その残骸が、今もダークウェブのどこかを彷徨ってるらしい。イズナの出所はそこだとか。
5 :名無しの孤毒:
そもそも、「イズナテレキネシス」って言葉自体、誰が最初に書いたんだ? 電脳グリッチが生み出した詩が、いつの間にか自我を持った、とか言われてるけど。
6 :名無しの幻聴者:
最近、胎内放送で聞こえる声が、ずっと“Φ404”って繰り返してるんだが。あれ、関係あるか?
7 :名無しの見届け人:
さっき、軽い気持ちでやってみた。
打ち込んだ瞬間、画面のノイズが、まるで呼吸みたいにゆっくり動き出した。
イヤホンの奥で、女の声が囁いたんだ。
「見えてるんでしょ?」って。
……PCの電源、物理的に引っこ抜いたのに、まだ、聞こえる。
8 :名無しの観測者:
その声、たぶん“彼女”のだよ。
バビロン伝道師の…。
———このスレッドは、システムエラーにより削除されました———
「……見えてるんでしょ?」
チョークの、甲高い音が教室の空気を切り裂いた。
昼下がりの光が蛍光灯に混ざって、机の上を薄く照らす。
芽衣子は、弁当の包みをほどきながら、小さく息をついた。
「今日はタコさんウインナーか…。まあ、金ねえから仕方ないけど」
「見た? あのスレッド」
向かいの席で、ヒトミがノートの端を押さえたまま、顔を上げた。
「イズナテレキネシスとか、諸行無常のコードとか…あれ、また誰かの悪趣味な都市伝説でしょ?」
芽衣子は、箸を止め、ほんの一瞬だけ、沈黙した。
「……夜中に見ちゃってさ。『4X9A-77LM-13ZN-Φ404』ってやつ、打ち込んでみたら、Wi-Fiが消えた」
「またバグっただけでしょ」
ヒトミが、いたずらっぽく笑いながら言う。
「ていうか、反町さん、ウインナー冷めるよ」
芽衣子は視線を落とし、弁当の中のタコさんウインナーを、箸で転がした。
その瞬間、天井の蛍光灯が、ひときわ明るく点滅した。
いや、違う。光は点滅ではなく、“反転”した。
白が黒を、黒が白を押しのけ、空間の奥から「ザザ……」という、古いテレビのようなノイズが滲み出す。
二人は、同時に顔を上げた。
天井の蛍光管の隙間から、まるで静電気でできた人型が、ゆっくりと、ゆっくりと、現実世界に滲み出てくる。
「――ねえ」
その声は、電子のざわめきと重なり、人間のものとは思えなかった。
レイナ。
「化学って、信じてる?」
彼女の輪郭を縁取る光が、一瞬、元素記号のような文字列に変わっては消える。まるで、世界の“法則”そのものが、彼女の存在を必死に解析しようとしているかのようだった。
「私、思うんだ。化学って、神の模倣だよね。でも、魂は再現できない。だから、いずれ“神経”が宗教を追い越す。そうなったら、人は…祈る場所を失うんだよ」
芽衣子は、タコさんウインナーを口に放り込み、挑戦的に笑った。
「祈る場所が消える? 上等じゃねえか。“神様お願いします”って言葉は、結局、“自分じゃどうにもできねえ”っていう、負け犬の裏返しだろ。だから人は、祈る代わりに毒を撒く。それが――“生きてる”ってことだろ?」
レイナの唇が、かすかに笑みの形を描く。だが、その目は笑っていない。実験対象を観察する、科学者の目だった。
「……いいね。反町、あんた汚れてる。でも、汚れを知らない人間より、ずっと綺麗だよ」
「化学なんて、魂の代用品でしょ。痛みも、涙も、数値に変えれば“再現可能”だって顔をしてる。でもね、どれだけ真似したって、人間の“腐敗”だけは、決して再現できないの。だからこそ、あなたみたいな“本物のデータ”に出会えると、興奮するのよ」
ガラスの割れるような音が、教室の奥で響いた。
それは、ヒトミの声だった。
「……ねえ。都市伝説って、ただの作り話だと思ってた。でも――“信じる速度”が、光より速くなったら、それはもう、現象になるのかもしれない」
彼女は、静かに、しかし確信を持って、自らの“物語”を語り始める。
「化学が掴めないのは、震源じゃなくて、“揺らぎ”の方。……人は、誤差を恐れながら、本当は、その誤差に救われてるんじゃないかな」
ヒトミは、レイナをまっすぐに見つめて、言った。
「“誤差”って、神様が、計算をやめた瞬間にこぼれ落ちた、最後の希望のノイズなんじゃない?」
その瞬間、蛍光灯の白が、血のような赤に変わった。
ヒトミのノートが、勝手に、激しく震え始める。
まるで、その言葉が、次の章を、新たな神話を呼び起こす、禁断の呪文であったかのように。
――ノートが開く。
赤い光が走り、紙面の奥から、“狐の影”が、ゆっくりと滲み出してきた。
芽衣子「……なんだよ、このわけわからん世界観は! ポエム合戦か!? もっとこう…あるだろ、もっとシンプルで、胸に刺さるやつが! 谷川俊太郎みたいにしてくれよ…!」
それは、この場の壮大な雰囲気をぶち壊す、あまりにも人間的で、切実なツッコミだった。
レイナの電子的な気配も、ヒトミの神話的な独白も、その一言で一瞬だけ、現実世界に引き戻される。
少しの沈黙の後、芽衣子は気まずそうに咳払いをすると、まるで「俺ならこう書く」とでも言いたげに、ヒトミのノートの裏表紙に、自分のボールペンを走らせた。
ガリガリと、詩作というよりは設計図でも描くかのような、荒々しい筆致で。
芽衣子「…ほらよ」
そう言って突き出されたノートには、彼女の字で、こう書かれていた。
いきるということ
いま いきているということ
それは いきをすること
どくをはいても まだのこるいきが
あたしの いき
芽衣子「――完。…まあ、こんなもんだろ? シンプルで」
ヒトミは、その、あまりにも不器用で、しかし驚くほどに真っ直ぐな詩を読んで、思わず吹き出した。
それは、恐怖や絶望の笑いではない。心の底からおかしくて、そして、どこか愛おしくてたまらない、そんな笑いだった。
ヒトミ「……ふふっ。うん。十分、グリッチしてる。反町さんの詩も」
その言葉に、芽衣子は少しだけ照れくさそうに顔をそむける。
レイナは、そんな二人を、ただ無言で、興味深そうに観察していた。
誰も、何も返事をしない。
それでも、ヒトミのノートの震えだけは、まだ、止まらない。
まるで、二人の間に生まれた、このささやかな共鳴こそが、次なる“物語”の、本当の始まりだと告げるかのように。
(to be continued…)




