Chapter 19 『アヤネ・ノーリリーフ』
――校庭。
緑の炎の残滓が、まだ地面を焦がしていた。ひび割れたアスファルトからは、現実とは思えない熱気が陽炎のように立ち昇っている。ジザニオンの穂先は消えたが、その禍々しい輝きの残像は、まだ網膜に焼き付いて離れない。
その前に、アヤネは膝をついていた。
両腕は痺れ、感覚がない。相棒であったはずのバットは、半ば炭のように焦げ、もはやただの鉄屑だ。
ひと振りするだけで、過去の栄光ごと砕け散ってしまいそうだった。
額から流れ落ちる汗と血が、夕陽に染まる視界をさらに赤く曇らせる。
「……まだ……負けてねぇ……」
声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
けれど、その眼光だけは、まだ死んでいなかった。
むしろ、敗北を目前にして、ぎらつくほどの執念が宿っていた。
バットを地面に突き刺し、杖のようにして、アヤネは無理やり身体を起き上がらせる。
緑の炎に焼かれた掌が震え、裂けた皮膚から血が滲んでも、決してバットだけは手放そうとはしなかった。
――ズキン、と胸の奥が痛む。
心臓ではない。もっと深い場所、記憶という名の、決して癒えることのない闇に巣食う古傷が、今になって疼き出したのだ。
「……あの頃からだ…。私が、『私』になったのは…」
夕陽の残滓が、視界を赤く染め上げる。
その赤は、彼女にとって校庭の色ではなかった。
過去の血と、罵声と、壊れた家族の記憶の色。
アヤネの意識は、緑の炎が放つ轟音に溶けるように、ゆっくりと、あの忌まわしい過去へと沈んでいった――。
アヤネの家は、静かで、そして常にうるさかった。
父は、安物の酒を煽り、獣のような怒鳴り声と共に拳を振るった。
母は、その影に隠れるように台所に立ち、何も見ない、何も聞かないふりをした。
「うるせえんだよ、クソガキが。飯食わせてもらってるだけありがたいと思え。勉強もできねえ、女のくせに生意気に外で走り回って…誰のおかげで生きてんだ? 答えてみろよ、あぁ?」
その罵声は、殴られるよりも重く、痛かった。
言葉の刃が胸に突き刺さり、抜けないまま、心の奥で血を流し続けるようだった。
殴られ、蹴られ、泣き声すら封じ込められた夜。
アヤネは、布団の中で、ただ天井の染みを睨んでいた。
(壊す。壊す。壊す。壊す。壊す。全部、壊してやる…)
(終わりだ。何もかも。ここには何もない。潰れちまえ。全部、全部、全部、全部だ!!)
その、純粋な怒りの誓いだけが、毎晩、彼女を悪夢のような眠りに落とさせた。
学校に行けば、空気はもっと冷たかった。
ほぼ、男子ばかりの混合野球部に無理やり入り込み、汗と砂にまみれる日々。
彼女にとっては、そこだけが唯一、呼吸できる場所だった。
だが、彼女にとって、そこは唯一の「聖域」だった。グラウンドにいる時間だけは、あの地獄から解放された。だから、どんな理不尽な扱いを受けても、ここにいなければならなかった。
「女にストライクゾーンはねぇんだよ、勘違いしてんじゃねえ」
「投げたって、どうせすぐ肩壊すだけだろ」
「バット振るよりタオルでも振ってろよ。マネージャーがお似合いだ」
その一言一言が、ピッチャーマウンドより高く、そして重く、彼女の心に降り積もっていった。
アヤネが全力で投げても、返ってくるのは嘲笑だけ。
フルスイングしても、ボールより先に、彼女の存在そのものが空振りした。
練習試合にすら、出してもらえない。ベンチで、ただ試合が終わるのを待つ時間だけが、虚しく積み重なっていく。
それでも、アヤネはここにいるために、「義理」を果たした。
「走れ」と言われれば、肺が張り裂けるまで走った。
「声を出せ」と言われれば、喉が潰れるまで叫んだ。
それが、この聖域に居させてもらうための、彼女が支払うべき対価だったのだ。
そして、彼女は気づいてしまった。
言葉は、嘘をつく。優しさは、裏切る。だが、暴力だけは、いつだって正直だ。
このバットの重さだけは、決して嘘をつかない。
「バットは、ただボールを打つためじゃない。何かを、ぶん殴るためにあるんだ」
試合に出られなくてもいい。誰かに認められなくてもいい。
このバットを握りしめる瞬間だけが、自分が、自分でいられる。
だからこそ、アヤネは今も、この鉄屑を離さない。血に塗れ、焦げ付き、砕けようとしても
――あの頃の、孤独な誓いと共に。
その頃、国語教師は、まるで救いの手を差し伸べるかのように、よく文庫本を薦めてきた。
「心を豊かにするために読め」
「人間の本当の生き方が書いてある」
――そう言って配られたのは、太宰や夏目の名前が並ぶ、薄っぺらい教科書という名の本たちだった。
だがアヤネには、それがただの偽善的な紙切れにしか見えなかった。
ページの向こうで「生きる意味」だの「人間の価値」だのと高尚な言葉が並んでいても、家に帰れば殴られる痛みも、部活で浴びる嘲笑も、何一つ消えはしなかった。
むしろ、苛立ちだけが募っていった。
――言葉で救える? 笑わせんな。
――この腕に残った痣の色を、どの文学が消してくれるってんだよ。
――そんなもんより、一発ぶん殴った方が、ずっと真実だろうが。
ページを閉じた瞬間、アヤネは心に決めた。
「文学を信じる奴を、殴り潰す。私はバットで生きる。言葉よりも、拳よりも、速くて強い、このバットで」
その誓いは、やがて肥大化し、「義理」という名の鎧を纏い、戦場で孤独に戦う自分を形づくっていった。
――現在。
膝をついたアヤネの耳に、まだ緑の炎の轟音が響いている。
掌は焼け、バットは崩れ落ちそうだ。
それでも彼女は、笑った。血反吐を吐くような、壮絶な笑みだった。
「……私は、文学なんざ信じねえ。けどよ……義理は、信じる」
その声は、怒鳴り声であり、同時に、泣き声にも聞こえた。
「だって、義理だけは、私を裏切らなかったからな」
「家族は、私を殴るだけだった。チームは、私を笑うだけだった。本は、何一つ守っちゃくれなかった」
「でも“義理”だけは違った。『借りたら返す』『助けられたら助ける』
――それを守った瞬間だけは、誰も私を笑わなかった。私が、私でいられたんだ」
「だから、私は義理で殴ってきた。……それだけしか、残ってねえんだよ……!」
観客の生徒たちは言葉を失い、ただ赤い夕陽に照らされた二人の姿を凝視していた。
芽衣子の揺るぎない緑の炎と、アヤネの、今にも消えそうな、しかし必死に燃える赤い瞳。
二つの火が、まだこの戦場で、消えずに燃えていた。
(to be continued…)




