Chapter 01 『いいえ、私は…』
カラオケボックスを出ると、夜の街の空気はひんやりと肌にまとわりついた。
ネオンの光が湿ったアスファルトに滲み、どこかの店の排気口から流れてくる揚げ物の匂いが鼻をつく。
小さな雨粒が、知らないうちに制服を濡らしていた。
ざあざあと降っているはずなのに、街全体が妙に静かだった。
雨は、世界のざわめきをすべて洗い流してしまう。
ヒトミはノートを抱きしめるように胸に当て、深く息を吸い込んだ。
雨音だけが、彼女の心の奥に寄り添っていた。
ヒトミは肩から鞄を提げ直し、小さく深呼吸をする。
先ほどまで歌っていた中島みゆきの『銀の龍の背に乗って』の旋律がまだ耳の奥に残っていた。
孤独な夜に、ほんの少しだけ支えになってくれる歌。
その歌唱行為は誰に聞かせるわけでもなく、ただ自分の心を繋ぎ止めるための、切実な儀式だ。
一歩踏み出した瞬間、ふと濡れなくなった。
雨が——止んでいた。
さっきまで耳を塞いでいた雨音が急に消え、世界の色がわずかに変わる。
まるで誰かが、ヒトミのためにスイッチを切ったかのような静寂。
背筋にひやりとしたものが走る。
その直後だった。
ふと視線を上げると、
雨上がりの路地の奥に、非常階段が絡まり合うように重なっていた。
まるで建物どうしが無理矢理つながって、
どこへも続かない螺旋を形成しているように見えた。
ヒトミは一瞬、方向感覚を失う。
雨のせいではなく、世界そのものが歪んだような——
その時だった。
「……よし、帰ろう」
呟いて歩き出したその瞬間。
「ん?……あれ? ヒトミじゃん」
聞き慣れた、神経を逆撫でするような声が背後から飛んできた。
振り返ると、路地の暗がりから三人の影が現れる。
同級生のマユ、レイナ、アヤネ――同じ竜胆学園の制服を着崩した女子たち。
ヒトミは思わず足を止め、心臓が跳ねるのを感じた。
「また一人でカラオケ?」
マユが獲物を見つけた獣のように ニヤリと笑う。
「相変わらずだね〜、ヒトミさぁ、友達いない歴、更新中でしょ?」
レイナが続けて肩を揺らして笑う。
「しかも選曲、また昭和歌謡なんでしょ? あんたのロッカー、お母さんのCDしかないわけ?ウケる〜www 」
アヤネの冷たい声が重なる。
ヒトミは唇を噛んだ。
胸の奥で温めていた旋律が、一気に冷たい手で握りつぶされたような気がする。
(違う……! 私の"落下"は、誰にも邪魔させない……! こんな、他人に泥水の中に突き落とされるのとは、ワケが違う……!楽観視させてたまるか……!)
「竜胆の恥さらしって、あんたのことだよね?根性なしの根暗がw」
マユが一歩踏み出し、ヒトミの制服の襟を軽くつまむ。
「先生も放置だし、同じ学校のやつらも誰も近寄らないしさ。かわいそ〜w」
「ほんと、“根暗のヒトミ”って有名だよ?」
レイナが横から笑い、アヤネは無言でヒトミの鞄を足で小突いた。
「や、やめて……!」
必死に声を振り絞るが、三人の笑い声にかき消される。
鞄が蹴られて転がり、落ちたノートがアスファルトに散らばった。
雨上がりの路地はまだ冷たく、湿った空気が膝にまとわりつく。
ノートの紙は水を吸って重く、泥がじわりと滲んで広がった。
街灯の光が濡れた地面で反射し、どこか不自然なほど静かな世界が広がる。
ノートの中には詞を書き留めた走り書き。
レイナがそれを拾い上げ、薄笑いを浮かべながらわざとらしく大声で読み上げる。
「なになに? 『堕ちて、落ちて、墜ちて──』……ポエム? 何これ、中二病の遺書?痛すぎ〜!」
三人の嘲笑が夜の路地に響いた。
その瞬間――。
地面に落ち、泥で汚れたノートを一瞥して、少女は静かに言った。
「……それ、汚れるからやめて」
三人が同時に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の少女。
月明かりに浮かぶシルエットは、同じ制服を纏っているはずなのに異質だった。
髪が風もないのにゆっくりと揺らぎ、その周囲に緑の燐光のような光が瞬いている。
「誰……?」
マユが目を細める。
少女――芽衣子は一歩前に出ると、地面に散らばったノートを拾い上げ、ヒトミに手渡した。
その瞳は冷え切っていて、感情の温度を感じさせない。
「はぁ? なにこいつ」とマユが睨む。
芽衣子はマユではなく、怯えるヒトミを見つめたまま、こう続けた。
「その子、私が“見つけた”んだ。だから、お前たちが触っていいものじゃない」
吐き捨てるような、絶対零度の声。
「……まあ、生き急ぐ覚悟と塵になる覚悟を両方兼ね備えてるなら、止めないけど」
レイナとアヤネが思わず息を飲む。
マユだけが虚勢を張って笑った。
「はぁ? なにこいつ。イキってんじゃねーよ」
次の瞬間。
芽衣子の背後で緑の炎が静かに爆ぜた。
熱くない、ただひたすらに冷たい光が路地を照らし、三人の影が怯えるように揺れる。
「ひ……っ」
レイナの声が震えた。
アヤネは一歩後ずさり、マユの肩を掴む。
「……消えてね、今は」
謎の女の一言に、三人は顔を引きつらせたまま走り去った。
残されたのは、ヒトミと、炎を纏った謎の少女だけ。
「……あ、あの……」
ノートを抱きしめたヒトミは、震える声で言った。
「あなたは、味方……なんですか……?」
少女は初めてヒトミの目をまっすぐに見て、ふっと口の端を吊り上げた。それは、嘲笑とも微笑ともつかない、美しいが底の知れない表情だった。
「いいえ、私は…」
一拍おいて、彼女は夜の闇に溶けるように、しかしはっきりと告げた。
「――サソリよ」
「……芽衣子。そう呼んで」
――HELLO NO FUTURE.
ただ、その瞳だけが夜の闇に深く沈んでいた。
(to be continued...)




