Chapter 16 『アイ』
放課後の校舎は、都市の墓標みたいに背筋を伸ばして黙っていた。
窓ガラスは、夕陽を千切ってバラバラに貼り合わせたみたいに赤い。
図書館の、割れた硝子に走った放射状のヒビは、いつの間にか街の水平線にまで延長され、世界そのものへ伸びる巨大な罅に見えた。
ヒトミは、踝まで砂に沈むような気分で、黒く煤けたノートを抱えて歩いていた。
いや、ここはもう、竜胆学園の廊下ではない。
ここは、彼女の心の中。燃え跡の匂いがする、彼女の魂の図書館だ。
指の腹にこびりついた罪悪感の匂いと、ノートの燃え滓の匂いは、ほとんど区別がつかない。
ほんのさっきまで、このノートは火を食べ、灰になりかけて、そして――芽衣子の手で“なにか”へ変わりはじめていた。
(世界は更新されつつある。けれど、わたしの中身は旧式のままだ)
ページをめくる。紙は、泣いたあとみたいに波打っている。
インクの海から、彼女が書き殴った言葉の断片が、意思を持って浮かび上がり、勝手に声になった。
今日は図書館でまたユリナに馬鹿にされた。
でも本当は少し嬉しかった。
どんな言葉とて私に浴びせられた言葉だ。イコール存在を認められた気がするから。
(やめて。そこは、誰にも見せてはいけないところ――)
夜に咲く声は、
誰のものでもなく、
誰にも届かない。
詩が、炎の蝶になって舞い上がり、空中でパチンと音を立てて消える。
美しい。だけど意味がない。美しいからこそ、意味がない。
レモンの皮を剥いたら中から数字が出てきた。
たぶん神様が、計算をやめた瞬間のかけら。
1、3、5、7。全部奇数。
私も奇数。
ばらばらと数字がほどけ、砂になって落ちていく。
世界は偶然でできている。なら、わたしの孤独だって偶然の産物で、誰にも責任はない。
C8H10N4O2。カフェイン。
眠らないための毒。
でも毒を飲まなければ、私は生きていけない。
これは合法的な絶望の延命装置。
すると、その横に、見慣れない筆跡が割り込んできた。
眠らない薬=愛。
愛は切れる。だからまた注ぐ。
カフェインは、コンビニで買える愛情。
(え!わたし、こんなこと書いたっけ――?)
心の中で否定すると、ノートが、世界が、くすっと笑った気がした。
――そのとき。
「はじめまして。でも、はじめから知ってるよ。あなたのこと」
振り返る。
都市の遠景が、古いブラウン管のノイズみたいにちらつく。その前に“彼女”は立っていた。
アイ。
わたしと同じ顔。同じ髪。同じ校章。
だけど、彼女の片側の髪は宇宙の深淵を垂らし、もう片側は青白い炎をゆらめかせている。
視線が合うと、彼女は愉快そうに片方の口角だけを吊り上げた。
「私はあなたの裏側。躊躇も罪悪感も、編集で全部切り落とした、軽量版の“ヒトミ”」
「……裏側?」
「そう。あなたがノートに『私は主人公じゃない』って書いた夜、私はそれを切り裂いて踊った。あなたが優しさのつもりで笑って人を見送った朝、私はその背中を心の中で蹴飛ばした。あなたが眠れなくてカフェインを重ねた昼、私はC8H10N4O2を愛と呼んで飲み干した。……ね、わたしたち、もう自己紹介なんていらないでしょ?」
言葉が、心臓の内壁を優しく、しかし鋭くかすめる。傷口を舐めるみたいに甘いのに、塩辛くて痛い。
ヒトミは唇を噛む。
「……貴方は、自由でいいよね」
羨望と、嫉妬と、諦めが混じった声だった。
「わたしみたいに怯えなくて、震えなくて、誰かに優しくあろうとして自分を擦り減らさなくていい」
「優しさ?」
アイは、心底不思議そうに首を傾げる。
「そんなものは鎖だよ。あなたを鈍らせ、遅らせ、何もできないまま消費させる、甘い毒。私はそれを捨てた。ただそれだけ。だから軽い。だから速い。だから自由」
ふたりの間に、細く黒い一本のスレッドが張られる。
都市の向こう側からこちらへ、こちらから向こう側へ、橋みたいに。
スレッドに引かれて、ヒトミの髪から煤が零れ、アイの髪から星屑が零れる。
煤と星が混ざる場所にだけ、微細な緑炎が生まれ、すぐに消える。
わたしたちは繋がっている。繋がっているのに、混ざらない。
ページの影で、誰かが囁く。それは、ヒトミ自身が生み出した、幻聴。
芽衣子の声。「弱いままのお前に、誰かを救う資格なんてない」
ユリナの声。「あなたの言葉は空っぽ。飲み物が少しだけ残った空のペットボトルと同じ」
アヤネの声。「ノート抱えて震えてるだけの、クソ女」
「それ、本当にあの子たちの言葉?」
ヒトミは問う。
アイは肩をすくめた。
「さぁ。たぶんあなたの創作。つまり、あなたの本音」
巨大な影が立ち上がる。ビルより大きい“巨大なヒトミ”が、氷の瞳で小さなわたしを見下ろしている。
「私はお前の可能性だ。だが、お前はそれを使わなかった。だから、失格」
床が抜け、わたしの膝が折れそうになる
――その瞬間、アイがわたしのノートを覗きこみ、いたずらっぽく指を滑らせた。
「ねえ、ヒトミ。橋はどっちへ渡る?」
スレッドはまだ張られている。煤と星屑が静かに往復する。
「自由になりたいなら、こちら側へ。優しさを捨てられないなら、そっち側へ」
「そんな、単純な分岐じゃない」
「単純に見える場所へ、世界は収束していくものだよ」
都市の上空を、緑の光が一条走る。
――ζιζάνιονの影だ。
現実のほうで、芽衣子とアヤネがまだ戦っている。
わたしは、わたしの中で決着をつけなきゃ、現実には戻れない。
「ヒトミ」
アイが、少し真顔になる。
「ここでひとつだけ、編集しない言葉を残していきなよ。あなたが、心の底から本当に信じてる一行。それが、外の戦いにパッチを当てる、起動キーになる」
「……一行…」
ノートが、自動的に最終ページを差し出す。真っ白。灰の粉が降り、星屑が点在する、美しい無の空間。
ペンを握る指が震える。
わたしは白紙へ、一行を刻む。
ペン先が紙の繊維を裂き、インクが毛細血管みたいに滲んでいく。
書かれたものは、呪いであり、祈りであり、そして、宣誓だった。
『優しさクライシス、ギリギリだ。』
言葉が、黒い橋を光の奔流となって走り抜ける。
煤と星屑が一気に眩しく弾け、都市の輪郭が戻ってくる。群衆は紙に帰り、「失格」の文字は小さな蛍になって散った。
巨大なヒトミはゆっくりと崩れ、図鑑の挿絵みたいに平面へ押し花になって静止する。
アイは、わたしが書いた一行を読み、口角をほんの少しだけ上げた。
その表情は、もう一人の自分への、最大限の敬意と、共感に満ちていた。
「――それで、充分」
視界が、光に包まれて反転する。
わたしはノートを抱きしめたまま、現実へ、戦いの真っただ中へ、引き戻されていった。
(to be continued…)




