Chapter 15 『補綴人間』
夕陽は、まるで巨大な恒星が墜落したかのように、血のように赤く、校庭を覆う砂塵がその光を乱反射させていた。
静寂は、もうない。
緑の炎が空気を焦がす熱と、金属と骨がぶつかり合う衝撃音だけが、この世界のすべてだった。
芽衣子が、ヒトミの盾となるように立ちはだかる。
その手には、まだ炎を上げるノート。まるで、この物語の聖遺物のように。
後方で、ヒトミは膝を抱え、震える指先で必死に涙を拭った。
彼女の胸に空いた虚無を埋める唯一の拠り所。
――そのノートが今、自らを燃やし、何かになろうとしていた。
「チッ……いい気になりやがって」
アヤネが、獣のように低く唸る。その目には、もはや侮蔑や苛立ちではない、純粋な破壊衝動が宿っていた。
「文学? 思想? そんなもん、ただの紙クズだ! 燃やして、殴って、灰にする! それで全部、終わりなんだよ!」
「……終わりじゃねえ」
芽衣子は燃えるノートを高く掲げ、その炎を自らの魂に移すかのように、一歩踏み出した。
緑の髪が炎と夕陽に照らされ、まるで神話の怪物のように、妖しく揺らめく。
「うるせえッ!」
アヤネの絶叫と共に、彼女の全身の筋肉が爆発した。砂を蹴り上げ、渾身のフルスイング。
バットの軌道が風を裂き、轟音を伴って、一直線に芽衣子の頭部を襲う。
――ガギィィィィィンッ!!
世界から、一瞬だけ音が消えた。
そして次の瞬間、鼓膜を突き破るような甲高い金属音が校庭に響き渡った。
アヤネのバットは、確かに命中した。その手には、骨を砕く感触が伝わるはずだった。
だが、芽衣子は倒れない。一歩も、引いていない。
「なっ……!?」
バットが直撃したのは、燃えるノートだった。
だが、それはもはや、ただの紙ではなかった。
ヒトミの涙と、アヤネの暴力と、芽衣子の炎に焼かれ、インクで黒ずんだページの束は、まるで竜の鱗のように硬質化し、金属バットを真正面から受け止めていたのだ。
火花が散り、衝撃で破れた紙片が、空中で閃光のように弾け飛ぶ。
その光景を見ていたヒトミの、目が見開かれる。
舞い上がった紙片には、ただの文字ではなかった。彼女が、独りで、来る日も来る日も書き続けてきた、“魂の断片”が宿っていた。
――「罪」
――「罰」
――「失格」
黒いインクの単語が、燃え盛る炎の中で宙に浮かび、爆ぜる火花と重なり合う。
まるでノートそのものが、ヒトミの絶望を血肉に変え、揺るぎない防御の鎧と化したかのようだった。
「ノートで……止めやがった……だと…?」
アヤネの顔に、初めて、理解不能なものに対する恐怖が走る。
全力の一撃を、ただの紙切れが受け止めるなど、彼女の“現実”ではありえない。
芽衣子は、炎に包まれたノートを振りかざし、獰猛に、そして美しく笑った。
「……もうこれはただの紙じゃねえ。ヒトミの言葉が、涙が、絶望が燃えて……希望に変わったんだよ」
ノートの綴じ目が、音を立てて裂けた。
炎の中から、インクが凝固したかのような、黒い鉄鎖が垂れ落ちる。
燃え尽きたページの灰が螺旋を描き、緑の炎がそれを繋ぎ止める。
次々とページが破れ、宙に舞うたび、それらは鋭い穂先の棘へと形を変えていった。
「――システムの脆弱性を発見。これより、パッチを適用する」
芽衣子の声と同時に、燃え盛るノートから、緑色の光を放つ無数のコードが奔流のように溢れ出した。それは、この世界の法則を書き換える、神のプログラム。
codePython
# Patch applied: ζιζάνιον
class HumanDefect(Exception):
pass
def update(system):
try:
raise HumanDefect("失格感覚 detected")
except HumanDefect as e:
system.install("ζιζάνιον")
system.reboot()
print("Update complete. Weapon=ζιζάνιον")
コードは、燃え散るヒトミの言葉の断片と融合し、新たな武器の設計図のように、夕暮れの空中へと刻まれていく。
やがて、一つの古代ギリシャ文字が、巨大な烙印のように浮かび上がった。
ζιζάνιον
その言葉が、世界のアップデートを告げる呪文のように響いた瞬間、ノートは完全にその姿を変えた。
燃え残りのページは、蠍の尾を思わせるしなやかな鎖へ。
インクの染みは、敵を穿つ毒々しい棘へ。
そして、硬い背表紙は、血のように赤い、鋭い穂先へ――
緑の炎に包まれた、異形の槍が、芽衣子の手に収まる。
ヒトミは、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
「……私のノートが……武器に……」
芽衣子が、完成した槍――ジザニオンを肩に担ぎ、アヤネを見据える。
「『人間失格』。ヒトミが抱えていたその絶望感こそが、この更新プログラムの起動キーだったんだよ」
ズシン、と槍の石突が地面を叩き、砂が爆ぜる。
アヤネは息を呑み、本能的に一歩、後退した。
「バカな……そんな、ただのノートが…ただの言葉が……!」
芽衣子の口角が上がる。その目は、獲物を前にした捕食者のように、爛々と輝いていた。
「ゴリラ女。てめえは言ったな、『言葉は紙クズだ』と」
彼女は、槍の穂先を、ゆっくりとアヤネに向ける。
「てめえが嘲笑ったその言葉たちが――今、てめえの理不尽な現実を貫く、希望になったんだ。……さあ、始めようか。本当の“対話”を」
ジザニオン。
読書の毒が、文学の呪いが、現実の暴力に対抗するための武器となり、補綴された人間の証として、今、ここに顕現した。
夕陽に照らされ、槍の穂先が、禍々しく、そして美しく閃いた。
ここから、真の戦いが始まる。
(to be continued…)




